前日の夏日とは打って変わり、肌寒いほどの強い風が吹きつけていた。
ススキノの温度計は15度を示しているのだから、寒いわけだと男は思った。
SNSで突然上がったメッセージに食いつき、咄嗟の飲み会に参加した男は今ビルの一室にあるスナックで社長たちに囲まれながらハイボールを飲んでいた。
会いたい人がいた。
ただそれだけの想いだった。
ネットは離れた人とも直接やりとりできるようになった。
写真も見られるし、日々の様子も発信者次第でいかようにも情報を得られる。
そんな中で酷くアナログ的なもの、原始的なもの、それを行うことにこそ価値がある。
何故なら、体温は会ってでしか感じられないからだ。
「一番奥の方が年商1億の方で隣の方が2億の方」
あえて末席を選んだ年長者がカウンターの奥に座った男たちを順に紹介していく。
三人ともだいぶ飲んでいるらしく、その場から参加した男には、他が何時から飲んでいてどれだけ酔っ払っているのかわからなかった。
特に経営者となると下の者に愚痴るわけにはいかない。自分の弱みを見せられる唯一の場所は、同列の人間が参席する場でしかありえない。
「金持ってるって行っても、本当大変だからね。俺の口座見る? 三ヶ月に一回は25日1000円の時あるから」
「だったらやめちゃえばいいのに」
スナックのママがハッキリと言う。
でもやめられない、という責任感とも意地ともつかない感覚はママにとっては恐らくどうでもよさそうに見えた。
辛かったらやめるという手段を即座に取れる、というシンプルな理屈がそこにはある気が男にはしていた。
経営的な愚痴を語り合うというよりも、人間付き合いの中で生まれる問題の方がより話されていた。
途中から参加したハットを被った中年の渋い男性が一番奥の男に「人望」などの話をしていた。
五年後、十年後を見ろと。
人望、平和、幸福など、それらの言葉は常に曖昧で個々人の価値観によって意味が左右される。
(なぁんだ。金は稼げても「粋」については考えないのか。日本人ってそういうの大好きなのに)
と、男は内心考えたが、でしゃばるような内容ではないし、目の前のスナックのママは浴衣で風情があるし、ハイボールがそろそろまわってきたわで、どうでもよくなっていた。
そもそも、男にとっては、呼ばれもせずにSNSの「この人がいるので誰でもいいから一緒に飲みませんか」の号令一つだけで駆けつけてみた身。年長者以外は初対面であるため、性格も性質もわからぬ状態であったから、余計な事を言わぬのが吉であるし、そもそも知り合いの年長者の顔を見るという当初の目的は達成されたのであるから、後は特に関係なかった。
ただ、元気な顔を見る。
それだけのことが、男にとっては大事なのだ。それ以上のことを考えるのはおこがましいし、考えもつかなかった。
こまめにグラスの水滴を拭く二十代前半のぽっちゃりとした綺麗な顔立ちの女性が、奥の億単位の年商の経営者たちに楽しく語りかける。
男の隣の経営者の前の白いテーブルには煙草のコゲがあった。
男が年長者と会うのは二度目であった。
「あいつな、ああ見えて、意外と一匹狼だぞ」
ということを事前にリサーチしていたため、先ほどからおどけているのも、もしかしたら道化の可能性も考慮しておかなければいけないなと考えながら成り行きに身を任せながらハイボールを口につけていた。
周囲の人たちは年長者の素行はいつものことであるから、いつものノリであるのだろうと思い込んでいる。
「オブラートに包めないのよ。ハッキリしか言えないの」
経営者たちの微笑を誘い、ママが遠慮なく言う。馬鹿は馬鹿。嫌なものは嫌。基準がハッキリしていた。
会話が楽しく盛り上がっていく。
それが経営者たちにとってはいつも通りの夜なのか、それとも特別な夜なのかもわからず男は各々が抱える特別な思いたちの片鱗に触れながら店を出る際、一気にハイボールを飲み干した。
日付が変わり、一人いつものバーへ寄りなおし、そして帰りにそばを食べる。
いつものバーの近くにあったが、行く時間が遅いためそば切れで食べる機会に恵まれなかったための再訪だった。
出てきたそばはニセコのそば粉を使っているという。麺が短めでややごつごつしているため歯ごたえがある。
(不器用な蕎麦だな)
二口三口と重ねるたびに、やっぱり不器用だなとしみじみ噛み締める。ツユは煮干を使っているのだろうか。カツオとは別の少し違った甘みと、舌の上のざらっとした感覚があった。
自分は大将の顔を覚えてはいたが、向こうは覚えていないようだった。
以前「ここに来る人はたいてい愚痴か、理不尽になじって帰る人が多いでしょ。ススキノだしね」としゃべっていたから、きっと日々のことは忘れるようにしているのだろう。
さもなければ、辛すぎて生きていけないだろうから。
ふらふらと夜風に吹かれ帰りながら、今度はコンビニへ寄る。
荷物を届けに来た白いワゴンが止まっていて、昭和の女性演歌歌手の歌が流れていた。
コンビニの中へ入ると、少し使い古された青い作業着に帽子をやや深めにかぶった初老の男性がすれ違いざまに外へ出るところだった。
人は生きるために何かをするという行為が、それぞれにある。
皆苦労をしている。
それぞれの苦労がある。
男の財布の中にはもう数百円しか残っていなかった。
これでまた来月まで過ごさなければいけないと考えると滅入ってくる。
男のいつもの夜だった。
ただ、何故生活も苦しくなるような行為をとるのかといえば、それは必死な「祈り」とでも言った方がいい。
つまり、今日あの年長者に会ったことにより、違う未来が開けたのではないかという、希望めいた微かな祈りだ。
自転車のように回し続けなければ倒れてしまう。
それは危機感ではなく、自らへの使命感や充実感に近いものがある。
きっと、今日出会った経営者たちにも、そんな思いがあるのではないかと考えていた。
まだ、熱帯夜に近づきながらも、冷え切った夜の出来事だった。
男は自転車のペダルをこいだ。
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