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あさかぜさんは見た

日記

02/01

Mon

2016

睡眠は大事だよね

どうしてだろう。
世の中には短い睡眠時間でなんとかなる人がいるらしい。
ノーベル賞を取った小柴博士は一日十時間以上寝るらしいし、アインシュタインも十時間寝ていたという。
一方三時間や四時間という人もいるし、京極夏彦さんなどは三時間でよいと日刊イトイ新聞に書いてあった。
自分の場合は六時間から七時間半程度、まあだいたい六時間といったところだろう。
最近は眠っているようで眠れていない。
起きても眠く日中もぼんやりしていて、睡眠も浅く、寝つきが悪くなっている。
神経が過敏になっているのが自分でもよくわかるし、切り替えが下手なタイプなので引きずる。
眠ろうとしても、どうもぴりぴりしている。
まいったな、と思っている。
例えば体温が少し下がると眠りに誘われるというが、事前に体あたため効果もあまりきかなくなってきた。
困ったものだ。
子供のころはどうしてあんなに眠れたのだろう。
世界が変わったかのように新鮮だったのに。
ついに睡眠薬のお世話になる時がきたのかな。
ちょっと試してみようと思っている。
眠らないと抵抗力が弱っていくのが実感としてよくわかる。
そして眠らないことにはストレスも取れないし体力も回復しない。
妙な動悸もしているし、あまりいいことはない。
結構鬱っぽい症状になったりもするから睡眠時間と睡眠リズムは生きていく上でとても大事な要素だ。
やはり上記のように人によって睡眠時間はバラバラだし、三時間睡眠だと長く活動できるからお得な気もするけれど、個々人の体にあった生き方が一番よい。
最近、よく眠れる人が本当にうらやましい。
何も考えずに海なんかを眺める生活でもしてみたいものだと思っている。

そういや、ストレスや疲労が溜まってくると、穏やかだった人も本当にギスギスしだしてきて他者を責めがちな人になっていた。
それはほんの半年ほどで変わってしまう。
「あんな人だったっけ?」
しばらくぶりに会った人も首を傾げていたから、やっぱりストレスとか疲労は人を変えてしまう。
なるべくそうならないように過ごすためにも、自分も気をつけないと。

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01/26

Tue

2016

底辺の生活

仕事やめて文章一本でやろうと思ってます。
今年の目標というか、達成しなければいけないことなんだけれども、それ言ったら結構「大丈夫か?」みたいな目で見られる。
でもね、先ほどエンゲル係数上がっているというニュースもあったけど、どん底には変わりない。
社会の底辺にいる人間にとって、いつでもどうにでもなる労働力でいることは、これから先この社会で生きることに、さすがに危機感を覚えるのです。
どうせこのままいっても、消極的に人生が終わっていく。
たぶん餓死か病死か。
じゃあ積極的に生きるか死ぬか決めた方がいいじゃないですか。
先月から一ヶ月風邪を引きまして、今もまだ咳が取れない。
今までかかった治療費が二万。
これだけで生活がやばくなるレベル。
体を使って稼いでも、疲れて体調を崩してお金が飛ぶ。
本末転倒じゃないですか。
抜け出せなければ死ぬだけ。
単純明快すぎる理屈。
この先底辺にとっては危ない社会が待っている。
そして中流でいられるのも、あと少し。
だからもう時間がないのですよ。
気がつくのが遅いって?
まあまあ。ここはここなりに意識が何処に向かって日々を過ごさなければいけないのかがわかりましたよ。
金ですよ。
金。
つまり「どうやって生活していくか」です。
そのことしか考えられなくなったら文化的な生活も勉強も何もかもないわけです。
不安でそわそわして、毎日落ち着かなくて、疲れきっていて、残り少ないお金でお酒など煽って今日一日忘れるのが精一杯になるわけです。
そういう生活をする人間が、本当に「社会を構成する一員」になれますかね?
考えることも失って、ただの道具ですよ。
そんな人間が「命の価値」など見出すと思います? NOだと思いますね。
まあ、そんなことを学びましたね。
色々ありますが、とりあえずここらへんで。

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01/25

Mon

2016

描写が変わった

五年以上もの前の作品を手直ししていると、あらまあ、よくもこんなスカスカで・・・と、いちいち過去の自分に説教しながら手直しできる。
だいたい1.5倍くらいに膨らませることができるというか、いや、もっとね、ここをこうしたら情景豊かになるじゃんか・・・とやっていくと、それくらいの文量になってくるってわけで、視点がより細かくなってきたし、物を見る目が少し変わったような気がする。
昔「社会に出て色んな経験して」というおばあちゃんたちのお説教に物凄いイライラしていて、自分のことを認めてくれない、みたいな、そんな、勘違いした、今よりももっと痛々しい子だったの・・・悲しいね。うぅぅ・・・。
そして昔は意地悪なことが描けないでいたけど、今ならいくらでも描けるようになってきましたよ。
と、なると心も相当意地汚くなってきているというか、あいつを貶めてやるにはどうすればいいのかなんて邪悪なことも考えることがあったということなんだよね。
大人になるとは汚れていくことなのか。
色々な人と接していて「大人の対応」みたいなのをやられるんだけど、物凄い皮肉たっぷりだったり、逆に子供が大人の対応しようとして「慇懃無礼」になっていたりとか、あからさまに敵意を向けられたりとか、丁寧なふりしてさりげない意地悪をされたりとか、どうにもそういう経験をしてくると手口が少しずつ身にしみてきて、こうすればいいのかと学ぶわけですよね。
それで実際自分でも意地悪な事物凄いやっていたりとか、心汚かったりとかね。
風景に対する感覚も少しずつ変わってきていて、人って実はこういうこと感じているんだっていうのが、年を取るごとに変わってきていて、例えば街の中で「人工的な音を排除したらどうなるだろう」って考えて歩いたり、人間は人間の脳や感覚があるから今の世界があるわけだから、イルカとか他の動物だったらどうなるんだろう、とか。
感覚を変えるというよりも考え方を変えて改めて接しているってところなのでしょうか。
そうすると世の中が、接している世界が少しずつ違って見えてきて、特にこれから本腰入れて、全てのお仕事を捨てて文章一本でやろうと思っているわけなのですが、頭の中も別世界に少しずつトリップしてきていて、なんかいい感じに人間離れできそうです。
小説って、特に言葉のバランスゲームみたいなものだと思っていて、小さな石ころを積み上げて強固な塔を作るような作業だと考えているんです。
積み上げ方間違えるとちょっとしたことで壊れてしまうし、やっぱりそびえ立ってないと迫力がない。
だからしっかりと高く積み上げるためにも技術や感覚や視点が必要で、汚いものも綺麗なものも同じくらい知っていないとバランスが取れないんじゃないかとかね。
そのバランス感覚が汚いものを知ることによって、上手く取れるようになったのかも。
40歳手前にしてようやく一念発起。
全ての退路を断って、三月より始めていきます。
作品が表に出てくるのは夏ぐらいになるかと思いますが、待っててね。

※今年は骨を折るとかありませんよーにっ!(願

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01/07

Thu

2016

他の人は褒められて伸びているらしい

何か物事を目指すきっかけとなることに、誰かに「褒められた」とか「感謝された」とか「大いに頼られた」とかがよくあるエピソードとしてあげられる。
自分なんぞは、それは知らない人のエピソードであり、本やテレビの世界であったから、結局どこかで編集されていて美談に仕立てているのだろう、という思いがあってすんなりは受け付けていなかった。
何故なら、自分自身今の文章を書くという行為は好きだから始まったわけでもなく、褒められたからでもない。
ただ、自分がこれをしていないと心が壊れそうになったから始まったものだし、今でも自分の生命に対する最後の価値観を見出せるものとして続けている。
書いていないと落ち着かないのだ。
話を戻すが、最近様々な人と繋がっていくにつれ、一生懸命やって「また来てください。本当によかったです」と代理で出て受け持った人たちに感動されてこの道目指そうとか、小さな頃に先生に大いに褒められてクラス中の注目の的になり、その道を目指そうと決心したとか、そんな話をちらほら直接聞くようになると「あれ? やっぱり人って褒められて伸びるものなのか」と、自分とは真逆な、いやむしろ自分こそ信じられないような正反対方向から来ているのだと自覚せざるを得ない状態になっております。
っていうか、この年でようやくわかったの!? という驚きもあるのですが、本当に自分は負の力を原動力に進んでいるも同然で、だいたいケチョンケチョンに言われてきたし、この道をやるってこと自体も白い目で見られたりしてきたし、いいことあまりなかったなぁって振り返っても思います。
何度もやめようと思ったし、でも続けているのは先に書いた理由が大きい。
自分で自分の命に対する価値を完全に失ってしまう。
後は馬鹿にした人たちに対して出世して、じとっとした目で見つめてやろうと、まあその程度の理由です。
子供の頃は才能は無限大に広がっていきますから、どの分野で花開くかは大人にとってまったくわからないことです。
ですから子供に対してあれやこれやと大人の狭い見識で物事を言うことの馬鹿らしさっていうのをどこかで感じていないと、せっかくの才能の芽を摘んでしまうことにもなりかねない。
まず子供が一番最初に対峙する理不尽さって大人だと思うので、ここはじっくりと向き合わないと安易に物事を否定してしまうと一生の傷にもなりかねない。
子供って繊細ですからね。
ほとんどの人が褒められて伸びるエピソードを大事にしているし、本当にそういうエピソードを直接多数の人から聞くと、やっぱり人は基本褒めた方が断然いいに決まっている。
それでも私は態度は改めないっていうね。
何度も何度も書いておりますが、芸の道は命一つ使うってくらいじゃないとよほど才能のある人以外は人を不幸にしますからね。
基本は自分を取り囲む全てのものには自分が持っていない何かが存在するので、そういう細かなことに感動できる心の余裕というか豊かさを保っていると、本当に人生は素敵になっていきますし、まず悪いものに囲まれることがなくなってきます。
なかなか人を育てるということはできないのですが、少なくとも何かに常に感動できるような純粋な心を保てるようにはしたいですよね。
心が荒むとろくなこと考え出さないし、他者に攻撃的になったり、常にうじうじしたりするので。

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12/31

Thu

2015

世界は広い

世界には様々な可能性が溢れている。
まるでこの日本だけを見ると、周囲のせせこましい意見や価値観を聞いていると、住んでいる世界はなんと狭く息苦しく、そして生き辛い世界なのだろうと思ってしまう。
だけれどそんなことはないんだよ。
狭く息苦しく生き辛いのならば、その世界とは違った世界がまた外に溢れている。
絶望的な状況であろうと、人は人のために生きていけるし、人は人への希望を微かでも見せることが出来る。

例えばその希望を見せてくれた時、すぐに叶わないからと喚き散らさないことだ。
玩具を買ってくれないとすねる子供であるよりも、忍耐強い大人であれ。
何度打たれようと罵られようと、人の心へ真っ直ぐに心を傾けられる紳士淑女であれ。
大志とは、その忍耐強さと、そこで培われる思慮深さにこそ宿される。
そして大志こそ、人のためにあらんとする力強い魂こそ、人類の最高の創造物となって後世のために残されていくのだ。

花や星に人は例えられるが、人の命とは、人生を賭してでも何かを成し遂げようとする魂は、常に何者かの光となり、美しさとして映るだろう。
人は薄汚く、そして何者も無責任で調子がいい。
そうやって言葉を適度に適当に交わしながらも、無償の力を発揮しようとするものがいる。
この手の輩だけは、どんな力にも屈しないような強い魂を持つに相応しい人間だ。
人の弱さをよく知り、誰かのために膝を屈して話をすることのできる人間だ。

もっとよく知り、よく学び、よく目を開いていくんだ。
世界は広い。世界はあまりにも両極端のものを含んでいる。世界は無情で温情がある。
どちらに組するかは、何を訴えるかではないんだ。
何を創造していったかで見られる。
見て、認識して、生きているであろう、その「世界」に従順であってはならないのだ。
人は歪む。人は欲する。人は相反する。
だから「世界」は歪んでいくのだ。
だとしたら闘っていかなければいけない。
旗をふれ。自らの道を歩み、誇りを持ち、他人を尊ぶんだ。

世界は広く、美しく、そして光り輝いている。
例え闇が多く本当の空が見えなかったとしても、見えるではないか。
多くの闘っている魂が。
その魂への共感こそ、人を人たらしめる証なんだ。
だからこそ、人は人のために闘いたくなるんだ。
そんな世界こそ、美しい創造物で溢れかえるのだと信じている。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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