忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/23

Sat

2024

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

03/08

Tue

2016

手羽先の旨み

※長いですよ。面倒な人は読み飛ばして。

スーパーをうろつくのがすっかり癖になってしまった。
職場で働いているみんなに食事を作るのが趣味になってしまったところがあり、趣味とはいえ実費なので六人前をどうやって節約して作ろうか、と常々考えながら食品を買う。
損をしているのに金も取らず実費で作り続ける理由の一つに「作ったことのない料理」や「上手くできない料理」の「練習の成果」として味見をしてもらおうというのがある。
ただ、食えないものを出すわけではなく、味付けはちゃんと自分の舌を信じて出している。
これは一つの実験でもあった。
つまり「自分が美味しいと思うものが他人も美味しいと思うのか」ということだ。
僕は料理を通して文章を見つめていた。
大きく違うのは文章の場合、他人が美味しいと思うものは既に誰かがやっていて、それは絶対二番三番煎じとなっていて、時間には耐えられない。
時が経てば腐ったナマモノのように捨てられてしまうということだ。
共通点はある。
旨みのエッセンスというのは料理にも文章にもあって、これを上手く掴むセンスさえあれば、味わう人は喜んでくれる。
料理の場合、もはやほとんどの「美味しいもの」は出尽くしている。
だから僕はそれを真似るだけでいい。
そこにちょっとした自分なりのアレンジを一つ二つ入れれば完全オリジナルとなる。
一流の調理人になるつもりは毛頭なく、包丁技術のきめ細やかさや、一瞬の素材の旨みを逃さぬ火のタイミングなどどうでもいい。
僕は料理の味や腕に関してはファミレスやコンビニエンスストアをはるかに凌駕して、それよりは美味しいから、このくらいのお金なら充分、の味くらいでいい。
後はそれをやってしまえば、いちいち食べに行かなくても自宅で美味しいものが食べられるという利点ができるし、交友関係が広がればパーティーもできるということも考えている。
そのくらいのささやかさでいいのだ。
ささやか、とは言いながらも、文章に関しては、いや、技術ごとに関して言うならば、最もお客に優しいのは最も自分に厳しくあることだと思っている。
チームでやるなら厳しすぎるのは問題だけれど、個人でやっている限り文章は自分に厳しくなければ、創造主としては若くとも老い出す。
料理に関しては完全に真似から入ったほうがいい。
だけど文章に関しては疑問に思うところがある。言葉は時代によって変わるので、時代に敏感なセンスが問われるからだ。
読みやすい文章と言うのは共通しているし、料理に関しても美味しさのベースとなるものはかなり共通しているところがあって、料理に関して言うならば人類はかなりやり尽くした感が強く、その先を行くのが先端科学による調理法になってくる。
スペインで食の学会があるらしいが、液体窒素による調理法はいまや、ちょこちょこ世界中でやられるようになってきた。
今度は宇宙での調理法だろうか。それともプラズマか何かを利用して……。想像は尽きない。
ちょっと脱線したが、料理について言えば、少しだけ味わい深さを引くコツがある。
それは出汁となるものを意識して、それを入れるということだ。
和食だと昆布や鰹が有名だし、他だと鶏がら、牛骨、豚骨、ブイヨン、ハーブ、家庭ですぐ使えるコンソメなど、メインの食材となるものの下に、うっすらと敷く「絶対メインの食材を美味くする隠し味」が存在する。
最近は時間短縮、手間省きなどの理由で最初から出来上がっている粉末状のものや缶のものが多いから手っ取り早くそれを使えばいいけれど、安さも購入の理由になってくる場合が多い。
例えて言うならばデミグラスソースは本格的に作ろうと思えば四時間以上は絶対にかかってくる。
正直そんな手間をかけてはいられない。
材料費も考えるならば缶を買うよりも一桁違ってくる。
そんな馬鹿らしいことは、まずほとんどの人は嫌がる。
回転率を考える飲食店でさえ嫌がる。
お客は、自分のお財布と料理の味が釣りあうかで考えるからだ。
文章はどうだろう。
僕は、売るための文章をあまり考えなくなった。
色々自信を持って送ってはみたが、なしのつぶて。
今見たら酷いものを書いていたと理解できる実力はついたけれど、鼻っ柱が折れすぎて誰かに気に入られようという気持ちはなくなった。
だけれど、誰かの記憶に強烈に残りたいという気持ちだけは残っているから自分なりに技術を高めている。当然読みやすい文章を意識するのも大事だ。
文章には答えはないとか、もっと広い範囲で芸術には答えはないのだろうかとか、それはNOだ。
絶対にNOなのだ。
その理由はただ一つ。
答えが見えないのは無知だから。
僕は職場で実費で料理を作ってみんなに食べさせている。
スーパーをうろつき、動画で見たシェフの味付けが「絶対に美味しい。作ってみたい」と思って一部を真似したかったが、ポークジンジャーだったから、ポークステーキにどうしてもお金がかかって安く仕入れることができず四度ほど豚肉の前を往復していたら、端に手羽先が半額で売られているのを見つけ、安さだけの理由で五本入りのを三パックしいれた。
正直買ってからの帰り道、手羽先なんて扱ったことはないし、どうするんだ、手羽先なんて。
と、思っていた。
軽いはずの手羽先十五本がふわっとどっかに飛んでいきそうでもあり、最悪出汁のみということも考えてはいた。
扱ったものではないものでも、今は便利だ。時代は情報化社会なのだ。
ネットで懸命に調べだす。
手羽先のレシピは何かないだろうか。
調べると手羽先餃子というものがあったのだ。
太いところの骨二本を抜いて、中に肉を詰めるというものだった。
これだったら豚肉を詰めてジンジャーソースに合うんじゃないかと考えた。
次の日フルーティー系のジンジャーソース。
りんご、たまねぎ、レモン、バター少々など。
このレモンの部分は僕は柑橘系の果物でもいいと考えていたが予算をケチってレモンにし、生姜を摩り下ろした中にシナモンを一振りだけ入れた。
ベースはしょうゆ、酒、みりんでアルコールを飛ばすために煮詰めると塩辛くなったので、抜いた手場先の骨で鶏がらスープを作り、これを煮詰まって塩辛くなったところに入れて薄めた。
このソースで手羽先餃子を煮込んでマッシュポテトに添えて出してみると大好評だった。
手がなくなると、きっと誰でも思い悩む。
それは他の策を考えるにあたって、一体何があるのかを見失うからに他ならない。
僕が料理において学んでいることは、自分の中で味の想像ができているか、ということと、自分の想像通りに味が組み立てられ、そして相手もその味を感じているかということなのだ。
それは、ことごとく文章に直結することが多い。
つまり、相手が美味しいを追求するのではなく、自分の中でちゃんと「美味いものへの感覚を見失っていないか」の勝負でもある。何もわからないかもしれないという未体験への挑戦を常に続けているかも大事だ。
この考え方は「自分の文章がちゃんと誰かの心を射抜くものか否か」にも直結している。
味で言えば北に行けば塩辛くなり、巻き卵でも関東は甘くなり関西は出汁になり、味付けでいえば、名古屋は赤味噌の文化なので甘辛くなりと、誰かの感覚に合わせようとすれば千差万別、古今東西存在しまくって、それは絶対に精神崩壊の引き金となるから、そうじゃなくて、誰かに気に入られようとするのではなくて、あくまで「自分が美味いと思うものが他人にも通じるか」の繰り返しの挑戦なのだと考えている。
文章も、芸事でもなんでもいい。
まずは自分の軸を作るのが大事で、身銭を切ってでも美味いものを知り、自分がまだやっていけると思い、本当にいいものを作りたいという熱意が消えないのなら、出せばいい。
それを褒めあいの堕落した場所に出すのではなく、見知らぬ人に常に出していく。
その見知らぬ人たちの集合体の中に、見えてくるものがある。
それこそ真実の道なのだと考えている。
手羽先のジンジャー煮込みとなってしまったものは味こそよかったものの、実際お金を取るには手間がかかりすぎて商品にはならないな、と思った。
お金が絡んでくるからには、どうしても手間に見合ったもの、を商品として出すしかない。
お客が安いものを望むからには、安くて美味しいもの、となってくる。
そこには数多くの化学調味料や、手間を省かれた既製品の組み合わせのオンパレード、安すぎる場合にはクズの寄せ集めの何か、になってくる。
こういう料理の現状を見て、いいものを作り続けることは身銭を切らぬ限りは見えてこない現状があるのだと理解できるようになる。
後日、僕はふらふらとすすきのへとさ迷っていって数ヶ月前に言った飲み屋に立ち寄った。
二度目だったが、顔は覚えていてくれていた。
たまたまいたお客が保険屋で話し方物凄く穏やかで、まるで人格者のような人が居て、僕の隣にいた女性もたいそう気に入っていたようだったけれど、僕は物凄く気にかかって落ち着かない仕草があった。
灰皿には何本かあったけれど、タバコを吸う時一本抜いて、それを箱にタンタンと何度も打ち付ける。それもかなりの大振りで打ちつけるものだから、彼がタバコを吸うたびに貧乏ゆすりを見せ付けられているようで僕の心はとても落ち着かなかった。
僕は野田元首相にも作ったことがあるという料理人のタバコの吸い方を見たことがあるけれど、その人は吸い方は絶対に一定だった。怖いほど全ての吸殻が均等に揃っている。自分のリズムを絶対に崩さない人なのだと思った。
そんなことを思いながら、お通しで出た味噌ホルモンの臭みが口の中に残ってウィスキーもワインもあったものじゃなく、いつまでも残る口の中の違和感が余計に僕をいら立たせていた。
保険屋の癖は、いつついたものなのか。
僕は若い頃だと思っている。
つい最近ついたものじゃない。
若い頃に本当に酷い目にあってきて、その苛立ちが癖となって白髪となった現在でも残っているのだと僕の中で勝手に解釈した。
つまり、保険屋の本質は、そのタバコの扱い方の癖にあると僕はつい直感した。
僕は食べ物は捨てたくない方なので必ず食べる。調理していると、食べさせる・食べる側の命、食材そのものの命、作り上げる命、様々な意味での命を意識するから、余すのは勿体無いという思いが出てくる。
だからホルモンも酒がまずくなることを知って食べたし、早く帰りたくなったけれど話が盛り上がったから、ひとまずは話を聞いていた。
文章を書いていることはマスターには伝えていたので、そのことをふられたのでちょっとしゃべってみた。
貧乏生活のことをネタにして一つ書こうと思っている、と。
僕が昔貧乏生活をしていて知ったことは、文化もへったくれもないし、他人を恨みがましく思うようになってくる、たかだか千円の世界でぎくしゃくするようになる、と話すと、保険屋は「少ない収入でも頑張って生きている家庭はあるから、そういうのを書けばいい」と言ってきた。
彼から見れば僕は若造かもしれないけれど、僕も一応は年季の入っている文章家だ。
ハッキリ言いたくなった。
「あなたのような方が居るから、僕のような存在が必要なんです」と。
まるで正しいことを言っていたとしても、憎しみを抱く人間がいる。その時僕が懸命に生きてこなかったとでも言いたいのですかね? と皮肉を言いたくなったものだし、その言葉を発した時点で話が通じない人なのだと諦めてもいた。
正しさや成功への確かな道筋を優しく説いたとしても、憎悪を抱く人間がこの世に存在するのだ、と。
僕は僕の過去を否定するには年を取りすぎた。
もはや僕の存在はニッチでいい。
誰かが書くようなことは、僕の仕事ではない。
誰もが注目して書きたがるようなことは、誰かに任せておけばいいじゃないか。
僕は売るために文章を書かなくていい。僕が本当に納得できるものを突き詰めていく。僕自身の旨みを出さなきゃいけない。
確かにある間違いのないものを完璧に貫いていれば、僕の書いたものは、たとえ多くの人に批判されようと正しいのだ。
やりたきゃてめぇがやれ。さもなければ金を用意して僕に依頼すればいいんだ。
なんてね。
人は勝手なのだ。
料理でもそう。
文章でもそう。
自分が美味いと思ったものを勧めてくる。
料理の場合、時間が短くて済む。だから技術によって合わせられる。
早くて一時間以内で美味しい不味いがわかるのに対し、文章はほとんど人生の結晶のようなものになってくる。
安易に人の美味しいまずいを受け入れたら、自分の味がおかしくなるっていうのは、この時間的な間隔でも説明できる。
そうそう。
手羽先餃子の煮込み、一番先の部分を残す人と、骨までしゃぶる人がいた。
食べる部分が少ないから、肉の詰まっているところだけが食べる部分だと思う人と、骨にまとわりついている肉にも旨さがあると思って食べる人の二手に分かれた。
僕は、あえて抜いた骨を捨てずにスープ用に取っておき、塩辛くなったジンジャーソースを薄めるためにも使った。
食べ方は人それぞれだから文句は言わない。
食べるほうは美味しいと思ってくれればいいけれど、僕は作り手、創造する側として、旨みのあるところは絶対に逃さない。
その感覚こそ作品の奥深さとなるはずなんだと料理を通じても確信しているんだから。
文章の旨みは何かって、そりゃあ、人生の旨みを知っていくってことなんじゃないですかね。
食べ残すような手羽先の一番先の骨も旨みだと知らない人は作り手にはなれないんだなと料理からも文章のことを学んでいるわけです。

拍手[0回]

PR

03/07

Mon

2016

最近夢をよく見ているようだ。
かといってそのほとんどは忘れていて、よく見るのが身の危険を感じたり、最近になって増えているのが物凄く現実味のある夢で、完全にその世界の住人になっている。
ファンタジーのようなものは最近はなく、仕事や交流など懸命にしている。
数日前は「いけない。仕事があるから起きなきゃ」と思い瞬時に目覚めたというのもある。

今日の夢は覚えていて、京にいたのか、突然他店の飲食店に派遣されたのだが、まったく仕事内容も勝手もわからず接客か何かをしていて、さらには移動の際にリーダーのような紺の作務衣を着たおじさんに「京の人はプライドが高いから、少しでも上からのような物言いはしたらいかん」と叱られていた。
夢の中で経験もしたことがないことを教えられるというのは得をしたのか損をしたのか。
よく夢の中で教えてもらうことがある気がする。
現実で体験していないことを体験したり教えてもらったりしているような気がする。

夢の中でも学習できるものなのだろうか。
記憶の整理をするために夢を見るというが、今回のことだって体験したこともなければ、こんな具体的な言葉など聞いたこともない。
不思議な事もあるものなのだなと思ったし、もしかしたら夢の中も現実の一部なのかもしれない、なんても考えると面白い。

最近ようやく誰かに追いかけられたり襲われたりする夢が減ってきたところだ。

拍手[0回]

02/17

Wed

2016

説教の意味のなさ

結論から言うと説教は自己満足でしかないのではないかと思い始めている。
というのは、長い目で人を見ていると、他人からの助言や忠告を受けて自分の考えを改めたり生活スタイルを変えていく人はほとんどおらず、自分のやりたい日常の中にどっぷりと浸かっている。
ましてや、他人が老婆心で言ったことなど、つまり当人の思考の中にまったくなかった忠告というのは自尊心を傷つけ反発心を抱かせたりすることもあるし、素直に聞いているようでも、ほぼ青天の霹靂状態なので心中穏やかではなく、また初めて聞く内容を一度聞いたからと言ってまな板に水、馬耳東風となる。
そりゃあ、聞かされている当人としては、いきなりどうしてこんなこと言われるのかという相手側のことや、自分のことを深く考察する視野の広さがないと、なかなか他人のお説教など聴けるものではないからだ。
ましてや自分は間違ったことなどしていないし、間違いかもしれないがやってみないことにはわからない、などという理屈で我が道を行かれては、それこそ説教の意味などなくなる。

そもそも。
本当にそもそもなのだが、どうして説教するんだろうって自分のことを色々考えたら、人生経験上見てきて「それはかなりの確立で失敗するぞ」という経験則からなのだけど、よく考えたら自分だってたいした生きていないし、それほど視野も広くないし、もしかしたらこの人なりの知恵で上手く切り抜けられるのかもしれないという淡い期待も持ったりするのだけど、やっぱりほとんど失敗しているし、失敗したとしても当人は自分なりに、恐らく自分の感覚なりに色々やりたいのだから、説教、もっと優しく言ったとしてアドバイスに当たるものは、最も自分を利するものではないと受け入れられないというのが自他共に観察してきた結論なのだ。

じゃあ、その自己満足、どうして満たしたがるのかということにもなるのだが、どうにもこうにも自分が充実していないと他人に説教をしたくなるという不思議な原理が働く。
とにかく忙しい人や楽しい時間を過ごしている人というのは、面白くない人とは関わらないし、関わっていこうとしない。
常に前向きで他人を楽しいものへと引き込んでいき、自分の人生と仲間たちの時間を充実させていく。
そういう人は、説教などという野暮な事はしない。
人の心の落とし所で粋にきめて来る。
本当に困っているときに、すっと助け舟を出すという風にね。
自分はよく出来ていないくせに、他人のことは気になる。
そういう気持ちの弱い人が説教をしたがるのではないか。
いろいろ自分のことを省みているが、そこらが思い当たるのだ。

人間は、欠陥があって当たり前なのだ。

人は、あまりにも当たり前すぎる理屈に対して理解する努力を放棄する。
自分の中で「わかっている」と「思い込んでいる」からだ。
でも実際「わかっている」っていうのは、「行為にできてこそ」「わかっている」、となるわけであって「その言葉を知っているからわかっている」とはならないはずなのに、現代人のあまりの多くの人はこうなっている。
ほとんど例外なく、こうなっている。
で、挙句の果てには「その言葉を知っているから」「その現象を知識としてどこかで読んだから」「人はこうあるべし」という形で「説教」が始まるという、まことに無意味な、まことに滑稽な、本人は物凄い深いことを言っているつもりで薄っぺらな、中身のあるようで経験がないばかりにまったく抜けている、どうしようもないことを言い始めてしまうという現象が起こるのではないかと考える次第なのです。

かといって経験則から話しているとしても、やっぱりあまり役に立たないのではないかと強く思うのは、人の話も聞かずに「こうすればよくなる」的な、相手無視の、心情無視の、人生無視のお話を始めちゃうから、聞かされているほうも「早く終わらせてくれねぇかな」と、ありがたい話もまったくありがたくなくなる現象が起こるわけでありまして、じっと我慢して相手と向き合うこともせず、わっといきなりやりはじめちゃうところ、やっぱり説教する側が相手の話を聞かないのですから、聞く側だって、聞くわけねぇだろってことになるわけでありんす。

以上の理由から、やっぱり説教っていうのは意味を成さないし、ただの「言ってやったぜ。俺いいこと言ったな」という自己満足にしかならず、なんか物凄いうまいこと言ったつもりでも、やっぱり「ウケたらいいな」的なスケベ心が働くので、どこかで聞いたような見聞きして、さも自分が体験してないのに体験したかのようなことも差し挟んじゃうと、もうすべてが駄目になるわけです。
人に言っていいのは、あくまで自分の経験のみであって、自分の過去の欠損や後悔を人にぶつけたって自分の人生なんてよくならないし、相手の人生もよくならないし、なんか本当に説教って役に立たないんだなと、思うんですが、またやっちゃうんだろうな、という自分もここにいます。

反省ばかりの毎日ですよ。

拍手[2回]

02/02

Tue

2016

職場のスタッフで自殺者が出る

自殺したくなったらまず電話しましょう。
http://www.lifelink.or.jp/hp/link.html


職場の人が自殺した、という。
他のお店で働いていたアルバイトの35歳前後くらいの女性が突然睡眠薬を大量に服用して亡くなり、店長もスタッフもショックを隠しきれず気がふれそうになっているのだと言う。
数日前まで元気で、自殺直前には店長にも「死にたいです」とメールが来ていたそうだ。
だけれど気が落ち込んでいることにも気がついていたが、さすがに死にはしないだろう、という安心感があり特に真剣には受け止めなかったようだ。
「死ぬくらいなら生きられるだろ」
とある50歳前後の男性社員が言っていたけれど、「それは健康だから考えられることなんですよ」と言っておいた。
市販の睡眠薬は大量服用してもなかなか死なない。以前に大量摂取して死亡したり自殺に利用される例が出てきてから成分が少なくなったのだ。
だから恐らく医者から処方された睡眠薬を大量に取っておいて、それを一気に服用したであろうことは推測がついた。
だとすると心療内科にも通っていただろう。
聞くと、そうらしい、と言った。
「自殺者が多いとは知ってるけど、まさか自分の身の回りで起きるとは思わないじゃない」
男性社員の人は瞳を潤ませながら言っていた。
すると話を聞いていた女性も「私の息子の学校の同級生も自殺しましたよ。密葬でしたから、どうして亡くなったのか一切わかりませんけれど」と話していた。
うちも、死の直前までいったことがあっただけに、うつ病などの精神疾患は所謂「気持ちの持ちよう」でどうにかなるようなものではないと知っているけれど、いまだに「気持ちの持ちようでなんとかなる」と思っている人は多い。
そして何よりも毎日のように職場で接していただけに店長も「自分に非があったのではないか」と思い悩んでいるという。
人の突然の死、自ら選ぶ「自殺」という行為には、理由がなければありえないことだと思うのが普通だろう。
だけれど遺書でも残してくれない限りは誰もその理由を知ることは出来ない。
周囲の人間は、心優しい人は「自分にもっと何かできていれば、あの人は死ななかったのではないか」と十字架を背負う。
だけれど死ぬ側にとって自分の気持ちに押し潰され精神が死のうとしている時に誰かのことなど考えられないし、絶望に浸されているのだから全ての希望は閉ざされている。
だからあらゆる説得は意味を成さなくなってしまう。
打てる手があったとしたら、本当に心の底から吐いた言葉を馬鹿にされずに真摯に受け止めてくれる存在が必要だったのだと思う。
そして生きていてもいい、誰かが存在を必要としていてくれる、そんな身近な血の通う存在があれば、もしかしたらこういう事態を回避できたかもしれない。
内閣府が発表している平成26年度の自殺者の総数は25427人。
3万越えをしている年が数年あったことを考えるとだいぶ減った方だ。
減りはしたが、50以下の人間は毎年1万人以上のペースで死んでいっている。
死者の理由のトップは「健康問題」とある。
この日本という国は履歴書に「傷」がつくと、それをマイナスポイントとして差し引く。
真面目に働いていない期間があると「この人間にはどこか欠点がある」という目で見る。
特に社会上「~しなければならない」という抑圧的な空気を共有し実行することで初めて「社会で一人前に生きられる人」とみなされる。
直接の知り合いではないし、一度も会ったことはない人だから死の理由はまったくわからない。
それでも、この事実はその人を取り囲んでいた人たちの人生観を変えることになる。
「死」という、絶対的に変えられない現実の前に、気持ちは落ちていくばかりだろう。
「自殺」というのは、それだけ重苦しい。
死にたいと思ったことは沢山あるし、きっと思春期の頃は楽に死ねる手段があったら、たぶん死んでいたかもしれない。
最後の逃げ場があったから、逃げて逃げて逃げ続けて僕は今生きている。
精神の安全な場所が見つかるまで、とにかく逃げ続けた。
安定するまで15年かかった。
その間、逆に家族がうつ病になって、命が失われる寸前までいった。
家族の場合は皆意識を改めた。
全力で助けようと努力した。
うちの場合は助かったけれど、やっぱり心の交流ができないと本当に辛いと思う。
言うなれば、僕らは会話なんてしていない。
本音で、心の底から、会話することを逆に恐れている。
それだけ本心を曝け出すにはリスクがあると肌身で感じている。
なんでだろう、と思う。
僕も大人の人と接して「誰も理解してくれない」と辛かった時期があった。
何故誰かと一緒にいるのにもかかわらず寂しい思いをしなければいけないのだろう。
自ら死ぬと「自己責任」で、誰かが殺すと「殺人」になる。
上述のように「健康問題」と言っても、恐らく過労などにより心身が崩れていったことは身をもって体験したことでもある。
「過労死」というのは、認定基準がとても厳しい。
例えば職場で受けたストレスを毎日の酒で流すとかで休む時間も満足に取れず、結局は体調を崩し職場復帰もままならず生活も困窮し結局自殺してしまうとなると、当然「過労死」ではない。
だが職場環境のストレスや労働の内容により心身が疲弊してくるというのはありうる話だし、特に心がどれだけ病んでいるか、体力がどれだけあるかなどは個々人によって違ってくるため原因が突き止めづらい。
だからすべて推論になってしまう。
当然自殺するまでには複合的な理由があって様々なことが積み重なり最終的に死ぬことしか考えられなくなるというか、死ぬことが一番楽になれる方法なのだと追い詰められるところまでくるのだから、一概にはこうだと言えないのが歯がゆい。
心が大丈夫だと思っていても、体が拒否反応を示すというのを初めて身をもって体験すると、人は精神論ではどうにもならない存在なのがよくわかるし、そして現代人は「心の安心」を求めているにも関わらず互いを監視しあっているし、精神が荒んでいるとなると他者を見下していく。
その最終的な受け皿となっている人たちが自殺者なのだとしたら、とても悲しい話だ。



自殺したくなったらまず電話しましょう。
http://www.lifelink.or.jp/hp/link.html


追伸:ちなみに、自殺についての記事を公にする時どこに連絡をすればいいのか、というのが自殺者を食い止める一手段になるといいますので、他の方はブログでこの手の記事を書く時は必ず連絡先を載せてください。

拍手[0回]

02/01

Mon

2016

睡眠は大事だよね

どうしてだろう。
世の中には短い睡眠時間でなんとかなる人がいるらしい。
ノーベル賞を取った小柴博士は一日十時間以上寝るらしいし、アインシュタインも十時間寝ていたという。
一方三時間や四時間という人もいるし、京極夏彦さんなどは三時間でよいと日刊イトイ新聞に書いてあった。
自分の場合は六時間から七時間半程度、まあだいたい六時間といったところだろう。
最近は眠っているようで眠れていない。
起きても眠く日中もぼんやりしていて、睡眠も浅く、寝つきが悪くなっている。
神経が過敏になっているのが自分でもよくわかるし、切り替えが下手なタイプなので引きずる。
眠ろうとしても、どうもぴりぴりしている。
まいったな、と思っている。
例えば体温が少し下がると眠りに誘われるというが、事前に体あたため効果もあまりきかなくなってきた。
困ったものだ。
子供のころはどうしてあんなに眠れたのだろう。
世界が変わったかのように新鮮だったのに。
ついに睡眠薬のお世話になる時がきたのかな。
ちょっと試してみようと思っている。
眠らないと抵抗力が弱っていくのが実感としてよくわかる。
そして眠らないことにはストレスも取れないし体力も回復しない。
妙な動悸もしているし、あまりいいことはない。
結構鬱っぽい症状になったりもするから睡眠時間と睡眠リズムは生きていく上でとても大事な要素だ。
やはり上記のように人によって睡眠時間はバラバラだし、三時間睡眠だと長く活動できるからお得な気もするけれど、個々人の体にあった生き方が一番よい。
最近、よく眠れる人が本当にうらやましい。
何も考えずに海なんかを眺める生活でもしてみたいものだと思っている。

そういや、ストレスや疲労が溜まってくると、穏やかだった人も本当にギスギスしだしてきて他者を責めがちな人になっていた。
それはほんの半年ほどで変わってしまう。
「あんな人だったっけ?」
しばらくぶりに会った人も首を傾げていたから、やっぱりストレスとか疲労は人を変えてしまう。
なるべくそうならないように過ごすためにも、自分も気をつけないと。

拍手[0回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]