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あさかぜさんは見た

日記

08/29

Mon

2016

現状 これから作家として生き残るために

「仕事を辞める」と言ってから半年が経った。
すんなり辞められると思ったら、「いなくなったら俺大変になるでしょ。俺死んじゃう。俺を殺さないで」とか「自分のことしか考えないで」と言われ、渋々半年状況が改善されるのを待った。
だけれど半年経って、なお状況が悪くなるばかり。
いい加減きりがないと思い、9月半ばで辞めることにした。
色々世話になった部分もあり、自分なりに義理を通そうとは思ったけれど、結局はそれも通じず仕舞いなのかもしれない。

ある記事を読んだ。
芥川賞作家のほとんどは消えていく。
純文学では食っていけない。
だから編集者も仕事を辞めるなと言う。
出版の現状として売り上げはどんどん落ちている。

とあるツイートが引っかかる。
「『ウィガン波止場への道』で生活の苦しいものが何故必要な栄養を確保するために食料に回すのではなく紅茶やチョコの嗜好品にお金を回すのかという問いに、生活が苦しいからこそだという結論を出していた」という内容。
自分も言われたことがある。
「会社で苦労してきて帰ってきているのに、重苦しいものなんて読みたくないんだよね」
当然だ。
これから富は一部の人間の元に集まっていく。
そして中間層はなくなり数パーセントの富裕層と圧倒的な貧困層に分かれると言う。
だとしたら、余計に人々は日常を忘れる娯楽的なものや、夢を与えてくれるようなアイテムにお金を使いたがるはずだ。
小説などと言うものが「人をちゃんと見つめる」形で残るかどうか怪しい。
日本の社会はこれからますます息苦しいものになっていく。
失敗を責め立てる。
挑戦を止めようとする。
先ほども記事を読んで不安で胸が苦しくなった。
純文学は売れないから当然食えない。
芥川賞をとっても10年で賞味期限が切れて、そこからは仕事が一切なくなる。
そんな内容だった。
正直、いかにも日本人っぽい思考で、何故広がっていこうとしないのだろう。何故地球全部を見回すような見方がないんだろうって思った。
今の出版業界が日本国内に固執しているのがよくわかる。
苦しい。息苦しい。

もう日本は日本人を商売相手にするような時代じゃなくなってる。
じゃあ、もう外に出て行くしかない。
ずっとそう考えてる。
まずはお金が必要。
元手。
当面の生活費を確保するために、声も使っていこうと思ってる。
使える手段はどんな手段でも使っていく。
もう面体にこだわっていて、生き残れるはずはない。
可能性のある世界を創りたい。
可能性が見えるものを創り出したい。
自分の理想の世界を創るには、生き残らなきゃ。
自分だけではなく、より人の心が「逃避」という手段におけるものではなく、「豊か」になるように芸術を目指したい人の手助けをしたい。
世界中のクリエーターと繋がりたい。
そのためには精神と肉体を改造する必要がある。
自己暗示の方法を徹底させ、より深い祈りの極致へと自らを誘う。確実に心の中の邪悪を祓う。人を悪く思ってもいいことはないのだから。
運動を必ず行い、ちょっとやそっとじゃばてないようにする。体力なさすぎ。さぼりすぎ。
自分の書きたい世界をきちんと構築するために、本を必ず読む。頭悪すぎ。適当なことばっかり言ってても呆れられるだけ。
やることは沢山ある。
夢ってのは、現実の先にしかない。
やるしかないんだ。
じゃないと、生きてる意味すら見失うんだから。

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08/24

Wed

2016

ばあちゃん

ばあちゃんは六十近くになって水泳を始めて講師になった。
七十半ばでメニエール、それから数年でパーキンソン病を発症した。
今九十を過ぎて八十終わりから胃ろうをやって数年は経つのにまだ生きてる。
秋田出身で恐ろしいほど肌は艶々している。
そしてほとんどパーキンソン病で喋られなくなっているのに、まだコミュニケーションしようとしている。
農家の育ちだったということは親戚筋などの話からよくわかる。
庭に雑草が生えていたら目の敵のように、とにかく抜きまくっていた。
綺麗好きで、見た目にもこだわっていたことはボケる前からよくわかっていたことだった。
庭を見てもわかるように。
秋田出身のばあちゃん。
学べるところは本当に多い。
こういう生命力溢れる人が自分のばあちゃんで本当に省みるところが多い。

確か五年以上前に、庭にある西洋梨の木をシルバーなんちゃらの手伝いの人が短く切ってしまった。
そのせいで、三年以上は果実が成らない木になってしまったけれど、枝が伸び、また今年実をつけるようになった。
林檎の木は病気で幹から枯れてしまったけれど、梨は丈夫だ。
あんなに絶望的な、髪型で言うと坊主のような刈り方をされたのに、よくもそれだけ伸びたものだと感動すら覚えるものだった。

ばあちゃんが住んでいた庭には六十センチほどの草がぼうぼうと生えているのに、梨の木は立派に育っている。
他にも一メートルほどの花が咲いている。
本当に凄いや。
ばあちゃんの生き方は、絶望や希望などという、小さな考え方とはまったく別世界にいる。
だからこそ、合理的に、統計的に考えて、あなたは御仕舞いですよ、という次元とは別の場所にいるのだとわかる。

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08/21

Sun

2016

苦しみはいつでも現在進行形

自分が楽な時、それほど苦しい経験をしていない時、他人の苦しみは理解しがたい。
「終わってみればたいしたことはないさ。今だけだよ。超えてしまえば楽だから」
そのようなことを言う人もいるし、自分も余裕がある時は人に言いそうになる。
傷は克服できると言うが、ずっと心に残る人もいる。
克服できる人は、本当にバイタリティがある人で、常に新しいことに挑戦できるような人だ。
だけれど、そうじゃない人もいる。
前にも書いた気がするけれど「正しいことを実行できないのは、いつでも心の問題が横たわっているからだ」と常々思っている。
どうすればいいのか、わからないでいる人もいる。
自分は酒で流す。
その手段さえ持っていない人もいる。
貧困に陥った人が必要な栄養素を補うべく食物を買うのではなく、チョコレートなどの嗜好品を買う傾向が強まったとジョージ・オーウェルは書いていたそうだ。
「ウィガン波止場への道」だそうだが、プレミアがついていて買えない。
人は苦しくなれば苦しくなるほど、現実から目を逸らす手段を見つけようと必死になるのかもしれないことは、自分が色々な過去を思い出して歯止めがきかなくなった時、酒やゲームに走ることから、よく理解できる。
「貧しい」というのは「貝(=過去の通貨=富)」を「分かつ」の文字で出来ていて、貧乏とは「富を分かつことが乏しい状態だ」と言っていた人がいた。
友達も、財産も、能力も、魅力も、心の豊かさもないような状態の人のことを究極的にはさすけれど、ここまで追い詰められたら死ぬか犯罪起こすか、どちらかになる。
何らかの状態で心が貧しくなってしまうと、今度は他人から何かを奪っていくような発想しか生まれなくなる。
それは極度に甘えて裏切られたら他者のせいにするとか、豊かな生活をしている人間は恵まれていて貧しいものに分け与えることなどないのだから何らかの形で責めてもいいし、場合によっては自分の場所まで落として、この苦しみを味わえとさえ思う。
「苦しみ」と言っても、様々なものがある。
上記の「金」から「仕事」「人間関係」「環境」「責任」「拒否感」「無力感」「欲望」「抑圧」等、数え切れないほどあるだろう。
自分の場合は、よく思春期のことを思い出す。
そのことを想起させるような人間や事象が起こると、心が落ち着かなくなる。
現在進行形ではあっても、今起こったことではない。
例えば何年何十年と心の傷となる場合もある。
他人から見えない傷が疼く時、酒びたりになることもある。
その様子を客観的に見たら、ただの「アル中」にしか見えてこないだろう。
節約しなければいけないのに酒を飲んでいたり、時間が貴重なのにゲームばかりしていたり。
誰かと比較して、それは甘えだと言う人もいる。
でもそれを言う人は、あなたよりこんな優れた人がいますけど何故努力してそこに行き着こうとしないのですかと言うと、たぶん言い訳をしだす。
その人が特別だからとか、環境的に恵まれていたとかなんとか。
もしそんな事情を一言でも出したら、苦しみから逃れられない人と同じになる。
だって、自分が今よりさらに上に行けないのなら、そりゃドツボにはまった人間を救い出す手段なんか見つかりませんよね。見つからないからこそ現状維持の場所に甘んじているのだから。
人は人のことを理解しようなんてしない。
自分の共感できるところにしか興味を示さない。
そういう意味では薄情だ。
でも薄情な人間ばかりじゃない。
ほんの一握りだけれど、人間味溢れて情に厚く、見知らぬ他人にでも優しくできる人間がこの世界には結構多くいることを私は実体験から知っている。
だからこそ自分が体験した苦しみだけを前面に出して、人間という存在そのものを否定するような行為だけは、なるべく避けたいと思っている。
そのか細い希望が、大きな可能性を生む事だってある。
苦しみは誰に理解してもらえるものでもない。
それでも抱え切れなくて人に話したくなる時もある。
日本の社会は息苦しい。
誰もが抑圧しあう関係にある。
苦しみは常にパーソナルな事情であるからこそ否定されるものではないのに、何故誰もが話を聞く前に「世間的感覚」から人の心を握りつぶすような真似をするようになったのだろう。いつの時代も人は基本的にそのようなものなのだろうか。
苦しみはいつでも個人のプライベートな問題で、かつ現在進行形。
だからお前の心にしまっとけ、ではなく、手を差し伸べる人間的な豊かさがないと、この国は貧しさで溢れてしまうと考えている。

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08/10

Wed

2016

弱いものを見つけてどうでるかが人間力

自分はかなりの長い時間飲食の世界にいました。
この世界は、偏見でもないとは思うのですが、最近は滅多にいませんが中卒で入ったとか、高卒で調理師専門学校を出て入ったとか、所謂そこからあまり勉強もせずに自ら積極的に学も身につけず、どっぷりとその世界に朝から晩まで働き詰めでやっているという方が少なくありません。
となると、かなり世界観も狭く、技術の世界なので体育会系のピラミッド支配形式になりやすく、理不尽な暴力は上から下へと行きがちな世界だと言えます。
世間的にはワタミの件でだいぶ「飲食業界はブラック」というイメージをもたれておりますが、個人でやらずグループ企業で働いている社員さんなんかは、相当ブラックなのではないかと思っております。
仕込みも含め、プラス、店の営業時間は8時間以上のところがほとんどですし、最近では社員を1店舗につき2人つけるというのは珍しくなってきておりますので、だいたい10時間労働は当たり前、さらには随分前から激安戦争も始まり薄利多売ですので余計に大変なのではないかと思います。
となると、精神も当然疲弊してきますよね。
どこの会社でもそうなのですが、飲食業では露骨に誰かの愚痴や批判が毎日のように繰り広げられておりますし、特に聞くのが和食の業界では変な「お高いプライド意識」もあいまって、怒号、叱責、脅迫、人格否定、酷い時には暴力も「指導」という形を借りて当然のように行われていると聞きますし、私の友達もやられました(包丁の柄で殴られた、木の板で頭を殴られた等)。
トップに立てるような人物というのは人間が出来ていないと立てないものなのですが、そこに行けずに和食崩れの「和食の職人」が世の中にはゴロゴロいます。
例えばあなたの会社にもいらっしゃるかもしれません。
「過去どこどこに所属していたから自分はこれだけの実力がある」という「経歴で実力を示す」人。
経歴だけで実力がその通りだとは限らないのですが、言ってる本人は実力あると思っている。
しかし周囲が見ると「???」と疑問点が多い「肩書きだけの人」は特に、「弱いものを見つけては上からプレッシャーを与える」ことをやりがちですし、間違っている点を指摘されると逆切れします。
特にこの手の人間、上からガツガツやられてきて、ついにはトップに立てなかった人種ですので、今までの恨みつらみのようなものを下のものにやりがちです。

ことあるごとにこのフレーズは繰り返しておりますが、基本的には暴力は常に弱者に向かって水のように移動してきます。
立場であったり、欠点であったり、何か付け入る隙があると、やられるし、やりたくなるものです。
飲食のお客様でもよく見られるのですが「店員に横柄な人」も、精神的な暴力行為だと考えております。
特に若い時などはわからないことが多いのですが、立場が上がってきたり、経験的に知ってることが多くなってくると、他者の気になるところが多くなってくるものです。
自分もそうですし。でもそれって自分への鬱憤の裏返しだったりします。

必要のない批判はいらないとどこかでも書きましたが、さらに理由を見つけました。
飲食の業界見ていると、よくわかるんですが、わりとクズ野郎って一杯います。弱いやつを見つけては暴力行為に及ぶ人。
そんなやつらを批判なりしていたらきりがないわけで、この世の中にも活躍している人の中で欠点のありまくる人は数多くいるわけです。
批判すると自らも苛立ちますし、永遠に続く賽の河原の石積みのようなものです。また鬼が来て崩して積み上げての繰り返し。無駄。
世の中の悪いところを批判するのとは違って、ただの個人攻撃ですからね。たとえその人が目の前から消えても次から次へと来るわけです。
そんなことを繰り返すよりも才能あるものを育てたり、優れたものを素直に褒め称えていって、世の中に紹介していく方がずっと有益じゃないかと思います。
だいたい皆未熟なところから始まりますし、マイナーなところから育てていくのは大変ですけれど、壊していくよりかはずっといい。

弱い立場の人、欠点のある人、そのような人たちに対し決して弱いものいじめにならないように振舞う気持ち、例え上からの理不尽な暴力を受けていたとしても自分で止めようとする強い心があるかどうか。
そういうところに本当の個人の地金が見えてくるのだと思います。

人間聖人君子は不可能なので、不断の心がけとして、ということですね。



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07/31

Sun

2016

人間として存在するために大切なこと

よいテーマ、というか、生涯考えなければならないことが見つかった。
こんな風に自分に積み上げていければ、必ずよい結果が得られると信じています。
僕は「尊い」という言葉を忘れ去っている者を個人のあり方として大変疑問に思う一人です。
さもなければ言っていることと、やっていることに矛盾が出るのですから。
物事の本流にある人は行動のみに徹するため、あまり騒ぎ立てることはないのですが、情報に対するアレルギー反応を示している人はいつも外野の人たちなのだとわかりました。
諦観にも似た「達観主義」のような気持ち悪い風潮が今の日本を十二分に蝕んでいることがよくわかりました。
頭で考えすぎるあまり目の前の現実を否定する。自分の頭をリセットできない故の閉ざされた思考。
体験に固執している人も、ほぼ似たような行動パターンを示します。
互いの分野で互いに頑張っていればそれでよしとしない人たちは、ほぼ何らかの「怠惰」に塗れていることも特徴として挙げられるかもしれません。
人間わりと、それほど起用じゃないから、ほとんどの人はあれもこれもなんていう風にはならない。
だからこそ自分が正しいとか、こうしなきゃいけないとか、そんなこと押し付けられますか?

「あなたはここが優れています。私はここが優れていますから、こんなことで協力できますよね!」
そんな話、あまりここでも見えないのはどうしてですか?
他人を尊重するふりをして自分しか大事にしてないからじゃないでしょうか。
このことは僕も自身に突きつけて考えないと、忘れてしまいそうなほどです。
「人間として存在するために大切なこと」
まず自分の問題がありますが、それがある程度解決できたら、その言葉を他人のために使っていくべきだと思っています。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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