去年のクリスマスイブには全身にじんましんが出た。
生まれて初めてのことだったので、精密検査を受けて原因を調べたらストレス性のじんましんだと判明した。
それからわかったのだけど、極度のストレスがかかると、確かに痒くなる場所が出てくる。
谷本洋さんという伊賀焼の第一人者がいて、この人は自分の感性と桁が違うほど凄い。
作品一つ一つに自然に対する哲学観が出ているようで、まるで霧が魂が燃えて自然と一体になっているようだけど、何よりも本人が凄い。
その人に酒の席とは言え、完全に弱点を指摘され、一ヶ月凹んだ。
少なくとも自分が心から「凄い」と思う人から言われると、しかも的確すぎると、ここまで落ち込むものなのだなとしみじみ思っていた。
あれから周囲の人たちに、ことあるごとに「話題になってたよ」とか「気にしていた」とか言われていたけれど、今回札幌に来ていて会いたいような会いたくないような気持ちだった。
なんせ、あれから作品がそれほど出来ていない。
本でも一冊出していればよかったけれど、そんなんでもないし、ましてや語る言葉を、まだ持ち合わせていないのが会うことをためらわせていた。
雨が降っていたものの、気温は20度をギリギリ切ってなかったため、ちょうどよい寒さの中、ゆっくりと歩く。
結局作品は見に行ったのだけど「先生少し前に帰られました」と職員に言われ、話の弾みで「ちょっとだけ谷本さんと話したことがあってケチョンケチョンに言われちゃいまして、どうもあちらも気にしていたようなんです」なんて伝えると、「それはお会いになられた方がよろしいですね」と三越の年配男性店員独特の柔らかさで言われたものだから、迷った挙句、いつも行くバーに行けば会える事はわかっていたものの、一杯引っかけないと勇気も持てず、一軒寄り、酔っ払った勢いで会おうと思った。
賽の目のように出た目で勝負のようなことをやるのだけど、この日も「会えなかったら、それはまだ話すべき時ではないんだ」と考えていた。
結局会えなかったのだけど、腕と顔の一部が痒くなり始めていたので、かなり緊張していたのかもしれない。
正直怖いという気持ちもある。会いたい気持ちも、会わなきゃいけないという気持ちもあるけれど、今じゃないような気持ちも強くしている。
もっと、ちゃんと揃ってから会うべきなんだ、と。
今日イタリアンレストランに面接しに行ったら熱く説教をされ「それは小説ちゃんとやった方がいいよ。僕少ししか話してないし、普通はこんなに話し込んだりしないんだけどさ、なんか君はできる気がするよ。凄く感じるものがある」と言われて帰ってきた。
お互いのことを短い時間で話し合って、あちらの言ってることもよくわかったし、こちらが伝えていることも凄くよくわかってくれていたようで、ちょっと目頭がじわじわきた。
いい青空の日に、いい人に出会えた。
谷本さんは思ったことや口に出したことをちゃんと作品として表現できていた。
伊賀焼の第一人者として、世界レベルで活躍できる人。
心底凄いことだと思う。
心から尊敬できるし、彼に傷つけられたことは、天が与えてくれたものなのだと、よく思う。
その傷には必ず意味があり、己の欠陥を慢心することなく覚えておけという啓示なのだと。
9月には会えると思いますとは本人に伝えてしまったものの、やっぱりこの場に来て物凄く迷いがある。
会いたいけれど、会えない。
小説家として、読ませられるちゃんとした作品を1つでも2つでも揃えるべきなんだ。
澄み切った青空の2時間後には曇り空が空を覆っていた。
伊賀焼の会場にはこんな教訓が張ってあった。
時代や人をよく見て変化していかなければならない、ということと、これ。
心に刻んでおかなければいけない。
追伸:
結局迷いに迷って会い、色々とお話をして、片づけをお手伝いして、お土産ももらってしまいました。
マスターの粋なはからいがあったんですけどね。
「光野さんがお話あるみたいですよ」って。
その上「暇なら片付け手伝いに行けばいいじゃん」とも。
終わりよければ全てよしなのかな。片付けの日は、とてもよい晴天で、三越の屋上からいつもとは違った札幌の空を見ていたよ。
これからが勝負。
次に合う時には、来年にオペラ歌手の娘さんがコンサートで来るので、その時までにはきちんとしたものを一つ以上は揃えておきたい。
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