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あさかぜさんは見た

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06/18

Wed

2025

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02/26

Sun

2017

国語辞典における「恋」と「愛」から表現の世界を考える

特に「恋」の説明の「満たされない気持ち」ってところが、とても腑に落ちました。
そして「恋」に執着すると「恋着」になるというんですね。
恋着=[名](スル)深く恋い慕うこと。また、物事に深く執着すること。「金銭に恋着する」(デジタル大辞泉)

なんだ辞典に書いてあったじゃないか、と今長年思っていたことが解決されたような気がします。
恋は勝手に始めて勝手に押し付けるもの。
永遠に満たされることはないし、満たされないことで恨みに思うことだってある。
じゃあなんで愛が憎しみに変わるのか。
愛には恋と同じようにエゴが付きまとい、恋とは違って愛はエゴとの戦いにもなりそうです。
恋は一種の執着心のようなものであり、勝手に捉われてしまうようなものであり。
自分もこの「恋」というやつには散々苦しめられてきましたよ。
それで恋することを自分の感情の中から一切排除しようと決意したわけなのですが。
恋という感情に似た執着心に関しては様々なところで応用して見るようになりました。
特に表現の世界では承認欲求が満たされない人間が、何かの拍子に反射的に人を逆恨みしているのがどれだけいるのか。
「愛」がないから、そういうことになるんだと考えていました。
じゃあ例えば「お前の作品には愛がない」なんて言われたら物凄く抽象的に感じるし、15年前に言われたら確実に逆恨みしていたタイプの人間でしたから、「愛」を知るには相当苦労しないといけないのだなと今常々感じているところです。
苦労を感じる時点で愛じゃない、なんて言われそうですが、「愛は楽に知ることができない」というのが現時点での持論ですから、この先変わるかもしれません。
少なくとも人間ですから腹の立つこともあれば嫌になることもあるし文句を並べ立て酒でもなければ我慢できないなんて事態も出てくるでしょう。
それでも向き合い続ける。誰よりも懸命に。
少なくとも、ずっといい気分で向き合えるなんてこと絶対ないと思ってるので「愛は忍耐だし苦労だし覚悟でもある」って考えているわけです。
その過程がどれだけ大変なことかは、通った人しかわからないし、通った人同士でしか分かち合えない。
「恋」は「落ちる」って表現があるけれど、「愛」には「落ちる」という表現がない。
表現の世界に入っていくのは、多分最初「恋」に似た感情ですよね。非常に多い。
憧れのものがあって、ああいう風になりたい。自分を認めて欲しい。
夢を見るように影響されてストンとやりたい動機が生まれたりする。
でもだいたいは「こんなに苦労するとは思わなかった」とか「苦労の物理的・年齢的限界」を感じて出て行くわけです。
なんせお金なんて、よほどの天才(もしくはマーケティングの天才)じゃないと最初は手に入らないのですから。
修行でもないけど長く続けていくには基礎力が必要になるし、やっぱり多少なりとも好きの源泉を自分が携わっている対象の中に見出していかないと表現など絶対マンネリ化して誰にも相手にされないものになってしまう。
時間は流れ時代は変わっているのに自分だけが未熟なままなんだから。
愛情って言われるものは、やっぱり相手のこと、対象のことをいつも考えているし、どうすればいいのか心が壊れそうなほど考えている状態になって、やってみて、ようやく人が気がついてくれるというレベルなのだと思っております。
「恋」はエゴがあっても邪魔にはならないけれど、「愛」を貫くにはエゴは邪魔になる。
ただ「表現世界の愛」なんて他者から見れば究極のエゴイズムだろうし、サイコパスの気がないとやりきれないところもある気がします。
人間に万人を愛することは不可能だからこそ、表現の世界に身を殉ずることを選ぶといったところでしょうか。
その愛はとても歪で狂ったものにしか見えない。
他人が不快に思うような愛など存在しないって思う人もいるかもしれませんが、私はよく悪役を愛する女性が出てくるお話などがありまして、それを見て「愛って色々あるものだな」と学んだ記憶があります。
そういう観点では愛って、何が最もそれを華々しく咲かせることができるのかを行動し続けること、なのかもしれませんね。

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02/22

Wed

2017

わかさぎ釣り

時折行っている居酒屋の店主と親しくなり、わかさぎ釣りに誘われたものですから、行ってまいりました。
わかさぎ釣りも初めてですが、私、釣りそのものをしたことがなく釣り初体験でもありました。
遠くまで出るのかなと思ったら意外に近場にわかさぎを釣るスポットがありまして、茨戸川なのですが、札幌中心部から一時間も経たずに行けるので遠征せずとも手軽に行けるのはびっくりしました。
メンバーは居酒屋の店主と居酒屋常連3人と私で5名。
ドキッ! 男だらけのワカサギ釣り大会!
ってことで気温マイナス10度、急に100m先さえも見えなくなる雪に見舞われながら、8時半ごろ到着。
業者さんが河の上にテントを張っていて、そこを予約して中に入って釣るという形なんですね。
道具は「釣りバカ」と言われる常連さんの1人が5人分全て用意してくれていて、餌も釣り針も竿も撒餌も網もたまに氷の淵に針が引っかかった時に外す専用の長い棒も全部あって、初心者講習を受けながらわかさぎ釣りをするという絶好の条件でした。
外は猛吹雪でビニールテントが激しくバタバタを音を立てておりましたが、結構頑丈で風も入ってこないし、外から中に入ったら眼鏡が曇るくらいあたたかく、普通にダウンで黙って座ってても平気。
天上についた水蒸気が凍って風で揺れるたびに雪のように降ってくる状況の中、釣り糸をたらして釣り上げておりました。
最初針が服に引っかかったり、餌の蛆虫のことを「サシ」っていうみたいなんですけど、サシをハサミで半分にして5つついている針につけていくのを「かわいそう」と思ったりしましたが、少しずつ慣れてきて、情けなど一切なくなっていく気持ちの変化を体験しましたよ。
中にはチーズ(味?)なんてのがあったりして、確かにチーズの匂いがしました。
釣竿を垂らして定期的に上へ引っ張るようにして揺らすといいらしく、恐らく餌が生きているように魚に見せかけるためにするのでしょうが、この揺らす行為が上手くできないと魚の食いつきが悪くなったりして、名人の見よう見まねで頑張りました。
午前中は勢いよく連れたのですが、午後になると途端に渋くなり、ほとんど釣れなくなりました。
と言っても、午前中には結構沢山釣っており、最終的には1kg以上は獲っていたと思います。
棒の間に引っかけてバケツに落とすのですが針ごと落ちるのに注意して皆入れました。
「ほんと、釣れない時はあれだけ頑張っても20匹とかありますからね」
と言っていたので、釣れた方なのでは、と思っております。
午後2時ごろにはお店について、その場で天ぷらに。
その他、なす、行者にんにく、まいたけ、常連が持ち寄ったものなどをいただきました。
野郎が集まって釣ってきた魚をつまみに昼から酒を飲み明かす。
何か妙な高揚感がありました。
特に自分で釣った魚をその場で調理して食べるという最高の贅沢が、いつにも増していい気分にさせたのだと思います。
テレビを見て言いたい放題の中高年の姿を見て、「ザ・居酒屋」といいますか、世の中のサラリーマンの姿を見ながら、ふとネット言論と重なったりして。
閉鎖的な空間だから言いたい放題できるけれど、普段はそんな変なこと言わない人たち。
こういう場所で息抜きしながら働いているんだろうなぁと感じると同時に、なにせ今回は一緒に沢山のわかさぎを釣り合った同士のようなものですから、遠めで見るのとは少し違った感覚になり、
「大事なのは本人が知っているものが真実であるかよりも、本人が大事に思っていることを見つめるべきなのだ」
と感じたのでした。
そりゃあ人間ですから多少苦痛に感じるような言い草もあったりするのですが、小説家ってもっと人間を可能な限り平坦な目で見つめることをしないと、本来の人間の姿を書くには程遠くなるなとその時痛感したものです。
それと同時に本音の飛び交う空間の中にいて、人の言うことなんて「居酒屋談議」と同じなのだから、それほど真に受ける必要はないし必要なものがあるのなら取り入れればいいだけの話なんだとも思いました。
人間、皆偏見の塊。
むしろそれが人間。
その偏見の中にこそ人生があったり・・・というか、ほとんど話の合うことなんてテレビのことなので、マスメディア情報が中心になるのですが。
そんな虚実と自分の人生という実があいまって個性を作り上げている。
接待とかよくしてたって人は酔ってても気配りが細かかったし、青森出身の人は口は悪いんだけど方言という以上にウィットがあって全然嫌な感じはしなかったですし、釣り名人は人当たりがよく純粋に釣りが好きで釣りが好きな人も好きみたいな感じでしたから楽しかった。
特によく感じたのは、皆大人になると若者だときつく言ってしまいそうなものを、よくユーモアを織り交ぜて喋るということ。
一歩言葉の使い方を間違えればひんしゅくものの内容も、ユーモアのある言葉の選び方で切り抜け話し合うという空間には自分のレベルの低さをひしひしと感じたものでした。
それって相当色んな差し迫った場を経験してないと、角を丸くしていくことは難しい。
一日中充実した時間でした。
ちなみにお店の中は少し肌寒く、ぐいぐいとお酒を飲んでも酔っ払わなかったのが家に帰るとあったかかったので一気に血管が開き酔いが洪水のように攻めてくるのを体験しました。
気温差には注意ですね。
わかさぎ臭みもなく大変美味しかったのですが、これが沼だと臭みが出るそう。
面白いものです。
流れの中にいたほうが臭みが出ないのは人間も一緒だなと。

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02/09

Thu

2017

地金と取り繕いのギャップ

人間関係には「距離感」というやつが必要だけれど、長い時間一緒に居ると当然地金が出てくる。
それはどんな関係だろうと同じだろうけど「え?」となりがちなのは、当然素が見えてきた時で、疲れてきた時や油断してしまった時などは特に取り繕えないため日常のちょっとした癖が出てくる。
それはある日友達を案内していた時色々案内し歩き疲れ、食べ物もたらふく食べて遅い電車でようやく帰ろうか、といった時待合室のベンチで休んだ。
高校生らしき女の子から、おばさんおじさん、あんちゃんまで六人ほどいた。
足も棒になっており痺れが来ているため電車の時刻になり立ち上がった時、いつも悪ふざけで言っていた言葉が出た。
「よっこらセックス」
友達もハッと気がつき「お、お前・・・やっちまったな」という顔をしている。
しんと静まり返った待合室に響く違和感のある言葉。
全員携帯を覗いていたけれど間違いなく、狭い部屋の隅々まで聞こえたはずだ。
私としては、もう知らぬ、と気にせず出たが、その時
「何故躾や日常の仕草やマナーが誰も見ていない所で大事であるか」
を痛感した一瞬だった。
出るんだよ。
もう体も脳も疲れ切った時、ふっと出てしまうのが日常の行為なのだよ。
そして一人では出ないはずであろう「よっこらセックス」が、ついそいつと一緒に居たことで出てしまったのだよ。
怖いものですね。
日常の仕草って。

地金と取り繕いはギャップがない方がいい。
家の中でも常々意識して自らの行為を正していくと、いざという時見た目も美しくなる。
例えば先日宝くじ売り場でスクラッチくじを買っていたおじいさんが居て、何度も高額当選をしたと言っていた。
そして当たったお金はすぐ孫のためやらなにやらで使ってしまうのがいいのだという。
常にニコニコしていて「お金は天下の回りものだから」とケロッとして言う。
当たるコツは「いつも来たって当たるもんじゃない。この日だっていう直感的に当たりそうな日に来ると当たりやすいんだ」ということらしい。
確かに運がありそうなので自分も追加で買ってみると普段当たらないような確立でくじが当たった。
運のある人の近くに居ると運が巡ってくると聞いたことがあるけれど、その通りなのかなと実感した瞬間だった。
それよりも、そのおじいさんを見ていてハッキリとわかったことがある。
私には、そのおじいさんの中に「お金を受け入れる器があるのだ」と思った。
それはお金に対してなんらマイナスの感情(恨み憎しみ偏見など)を持っておらず、常に幸せなものであり、かつ自分にも流れてくるものなのだと信じきっている垢抜けた気持ちがあるということ。
その垢抜けたお金への感覚が地金なんだなと感じたのだった。
色々な人を見ていてお金が集まりそうな人は笑顔がとても素敵だった。
人間多少裏表はあるけれど、少なくともお金に対して負の感情を少しでも抱く人にはお金とは縁がなくなる。
それは最良の友に対して不審の念を抱いたり、欠点ありきとは言えど長所は見ずに失態ばかり見つめて離れられるという人間に似ているかもしれない。
つまりは裏で友の文句を言うような輩には本当の友などできないのだ。

だからね、取り繕ってようやく幅広く対人が成り立つとか何かが成り立つ程度なら、結局全てを失う運命にあるんだよ。
年取っていけば尚更顕著になる。

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02/02

Thu

2017

どうにも、過去の栄光にすがるのは怠惰そのものらしい。
つまり現状何も新しいものを作り出そうとしてないから。
新しいものを作ろうとしていたら過去になんかすがる暇がない。

恋は利己的なものなのだろうか。
自分もそうだったし他者もそうみたいだし。
利己的だから好きが裏切られると相手をよく思えなくなる。
嫌いなものが見えた時「百年の恋も冷める」なんて言い方があるように、やはり自他共に押し付けがましいものなのだろうか。
恋は怖い。
いつ気持ちが変わるかわからない。
脆い関係性。
信用できないものになったし、すっかりトラウマになった。
いつ嫌われ離れられるか爆弾抱えるような気持ちになる。

自分を低く見積もると今は謙遜ではなく相手に見下される隙を与えるようだ。
謙虚は美徳ではなくなった。
かといって出しゃばると傲慢と言われたり出る杭は打たれたりする。
SNSで充実した投稿をすると嫉妬する人間が多いらしい。
つまり自分以外の人間が楽しそうにしているのを見ることは半数近くの人はよく思わない。
ましてや自分よりも生活レベルが上だと思ってしまったら、もう気持ちは止まらない。

アカギで「そんなええかっこしいの麻雀じゃ相手にプレッシャーをかけることはできん」ってあったけれど、これ作品創りにも言えるかもしれない。
ええかっこしいじゃ、埋もれるだけ。

この三週間ずっと忘れる作業を繰り返していた。
固定されたものを崩して、またやり直して。
歌詞は大変。
やり方を変えないと。

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02/02

Thu

2017

不満とお金と社会と

マスゴミ、と言う。

アメリカではもはやニュースはほとんどの人は信じていないようだ。
出資者がおり、政治的な立場を明確にし、あからさまに擁護や非難を繰り返す姿勢にアメリカ国民も、あの報道局はあちらさんの立場だからね、と冷めた目で見ているらしい。

日本でマスゴミなんて言うのは、特に各メディアの株主比率に見えたり、どうやらうっすら臭う大陸・半島系のメンバーによる出資・構成なのではないかと思われる番組作りの数々に様々な想像力を働かせて、あれこれと言っているのだろうけれど、私はものを作っているから、不満をいつまでも並べ立てている人たちをとても不思議に思える。

例えば沖縄にいる市民活動家の人たちは、アルバイトに近い状態。
これって何者かがお金を払っているってこと。所謂「投資」だ。
自分だって生活困窮し出したら、もしかしたらやるかもしれないしね。
それって「政治思想」のためじゃない。ただ「生活する」ためだけにやる。

日本人はお金の使い方に関して「消費」のことしか考えないのがほとんどだ。
だからあらゆるものに対して「消費者」としての立場でしか物を言わないし、その性格がべったりと身に染み付きすぎている。
文句はあってもお金を出さない。
金を出し惜しみするくせに高度なサービスを期待する。
「投資」の概念がまったくない。「お金で何かを育てる」ということ。

例えば韓国。アメリカ。
炎上系のニュースを垂れ流している人たちにインタビューをすると政治思想などまったくどうでもよくて、日本で言うならばこの前捕まったヤマト運輸にチェーンソーを持って殴りこみかけて捕まったユーチューバーと同じ心理のようだ。
つまり「アクセス数を稼げばお金になる」ということ。
だから国民感情が煽られることや例えそれで社会的混乱を巻き起こすことになっても「自分の懐が潤う」から逆に「嬉しい」わけだ。
それで生活ができるんだもの。
こうして無料のものや個人でやるものにはチェック機能が働かないために危険が多くなっていく。有料のものでさえそうなのに、何故無料のものが信じられるのか。

私たちはお金を使うことに関して「消費者」としての立場から考えを変えようとしない。
だから受け取るものを「商品として金を払えるほど価値あるものか」でしか考えようとしない。
気に入らないものがあったり欠点があったりすると「商品として不良品」と見なすため、途端にお金を払いたくなくなる。
じゃあそんなに不満があるのなら、自分たちで出資して新しいものを作ったり支援したりしないのだろうか。
政治家に不満があるのなら地域で寺小屋のようなものを作って優秀な人材を育てようなどと思わないのだろうか。
嫌だなと思っても、それではせっせと今も不満を抱く対象は育っているし、きっと今後不満は解消されないままで進んでいく。
日頃から思っているのは「どうやったら市民が参画していく社会が作れるか」ということ。
自分の場合だと作品を作っているから、コンテンツにお金を払ってもらうにも大変だし、消費者の立場を参加も含めての投資者にしていくのも大変な事だ。
何故って消費者を投資者にするにはお金に対する概念や価値観を180度転換させるってことだから、よほどのことがない限り変わらない。
逆に言えばよほど意識しないと消費するだけの考えから、何かを育てようという考え方にはならない。

育てようとしなければ何も育たない。
破壊をすることはとても簡単な事で破壊など一日で済むのに育てるには何ヶ月も時によって何年もかかってしまう。
誹謗中傷暴言。これらは破壊行為だ。
狭い世界観から大きな視野に立っていくには、利己的な欲求よりも公共性を自らの中に育てなければいけない。
ひとまずお金を払った人でも何かをされたら深く感謝するところから始めましょうか。
「金払ってるんだから当然」なんて考えを忘れ去るために。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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