とあるツイートで書けば書くほど何も知らなくて泣きそうになるというのを見かけ、そうだよなぁとしみじみ思いました。
書きたいものはあるのに、知識が追いつかない感覚が追いつかない経験も追いつかない、何もかも足りない中で頼るものは本などになっていく。
その本を読むのでさえ、自分のような人間はちょっと気合を入れないと習慣からすぐ離れていってしまう。
結局裏返せば何かを知ったような感覚に陥っていただけで、まったく何も知らない。
恐らくこの感覚は情報化社会に生き情報を享受している人の中に自然と生まれる錯覚のようにも思えます。
小説を書くとは一体何なのか。
少なくとも人間のことを含め自然の摂理を文字上で探す行為にも思えてきます。
最初は鼻高々で自分の才能を高く買い、そして鼻っ柱を折られ優れたものに目の前で打ちのめされ自信を喪失し、そこから這いずって実力を身につけていく。
この過程はだいたい多くの芸術家が歩む道のようです。
自分はこの業界に憧れてやり始めたわけでもなく、いわば嫌悪のような状態から自らの人生上、自然とそこにいるしかなかったという状態だったのですが、多くの人は「売れてる芸能人」のようなものを夢見て入ってきているのかもしれません。
今この年になって色々考えるのは、自分より年下の人たちが増え、自分の子供のような年齢の子も立派な実力を自ら育てているところを見るわけになるのですが、この人たちに自分はどのようなものを残せるのだろうとよく考えるようになりました。
先日十年ほど通っていたバーで私の話が出たようです。
「最初に来た時より、だいぶ変わったよね」と。
二十代は自分にとって暗黒の時代でした。精神的にふっとおかしくなりそうなことは少なくなりましたが、よく覚えています。今もありますから。
家庭的な環境もあり、よく思っていました。
「滅私」
自分を殺せば、慾を失えば、これほど苦しい思いをすることはないんだ。
そして精神が死にました。今でも人が怖く、精神的圧力をかけられると思考が停止して震えます。
そのような自分が一体何を知っているというのか。
世間一般の感覚からはズレを感じますし、もはやそれでいいと思っています。
芸術家一般において言えることなのですが、表現活動をする人は何かのフラストレーションを抱えているからこそやりだすのだと思っています。
人生充実していれば何かを表現しようとは思わないはずだと思っています。
今ある環境で充分なのですから。
そうして何か心に秘めて始めていく表現活動。
いざやってみればどんな分野にせよ詳細が必要になります。
より完成度を高めるには小説の場合だと知識は必要になり自分の知らなかったものを調べなければ追いつかない。
時代物だったら当時の文化や政治や生活や技術レベルを調べないといけないし、ファンタジーでも世界観を構築するために様々なジャンルからルールを構築しなければ、ご都合主義のつまらないものに成り果ててしまいます。
自由に書けるといっても何かの制限を加えて、読み手の人間に法則性を埋め込んでいかないと物語の面白みは出てこない。
それは自由と無法の違いの分別をつけることでもあります。
書き手にも理性が求められるのは、自由と無法は絶対に違うという明確なルールを物語の中に確立しなければ自分で作り出した世界を壊すからに他ならないからです。
そして知らなかったことを調べる。
風俗に関しても生活感覚をどのようなものに合わせるのか、必ず調べなければ人間らしいものが見えてこない。
心は、環境は、道具は。
どうしてこんな調べなければいけないのでしょう。
自分でも嫌になることがありますが、ある程度書きなれて発表していくと「どこで突っ込まれるか」が段々とわかってくるようになります。
わかっているのに詰めを甘くすることになれば、それは作品創りへの怠惰さのみが滲み出ていると作った当人がわかってしまい、本当に自己嫌悪になります。
芸術の世界に入った人間が生涯背負う宿命。
「我等は永遠の未完を作り出しているのだ」ということ。
つまり生涯成長。
生涯足りないものを求め作品を作る。
自らの中に欠点を見ながら、それを埋め合わせるかのように挑戦をして新たな欠点を見つけていく。
まるで見果てぬ夢。
見果てぬ夢の中で生まれる数々の葛藤を胸に刻みながら表現者は進まなければいけない。
自らに潰されてしまうようなら、やめてしまえばいいのです。
もうこの言葉は嫌味でもなく、そうした方がいいと本当に思う。
私など今現時点で作っても作ってもろくな感想すらもらえず、何のために誰のために作っているのかもわからなくなりそうなほど。
今自分を維持させているのは吹けば消えていきそうな執念めいたものだけ。少なくとも頭の中のものだけは出しておきたいというか細い祈りだけ。
四十近くになってもろくな収入がなく、大病をすれば、そのまま死んでいく。
社会的立場も実績もない。
大言壮語だけが並びたてられ行動は伴わない。
どう見ても自分のことを人間のクズに思える。
そんな立場から小説を書くということだけは続けられている。
書くのはいいが、勉強もしてこなかったから知識が伴わない社会経験が乏しいから知恵もない。
ただ世の中を穿ったように見るだけが特徴。
小説を書いているとどうしても感じるのが、自らの人生を無視して文章を構築することは酷く難しいなと感じています。
何故なら人間は認識の中に世界があり、認識とは自らの培ったものの中でしか構築されないからです。
自らの知らぬものに対して人は気がつくことはない。
心も物質も全て人はこの原理で成り立っている。
だとしたらもう自分を出すしかない。逆に自分を壊し学んでいくしかない。相反するものを同時に出すしかない。
それでも小説は常に己というものを相手にしながら書かなきゃいけないものなんです。
そして己の未熟さに打ちのめされて、己の中に見える微かな希望にすがりつきながら書く。
指先でぶらさがるような真似を生涯続けていかないといけない。
自分には小説を書くことは自分以外の力をなんとかして指先に集中させてぶらさがっていなければ、途端に落ちてしまうもののようにも思えています。
書いても書いてもお金に結びつかない。
払ってくれるものも何かしらはぐらかされる。
人間そのものを罵倒したくなる気持ちはもうなくなりましたが、人は自分すらも思い通りにさせることができないのだと、自他ともに大言を吐く人を見てしみじみ思います。
人を書く。自然を書く。
それは人間の思い込み、心理的傾向、ここに立ち向かって自らを壊さなければ成り立たない行為なのではと思っています。
私はもっと今の自分を壊さなければいけない。
その作業はいつになれば終わるのか。
まるで見えてこないのが現時点であります。
少なくとも学びがなければ成り立たない小説を書くという作業の中で、破壊なくして構築なしと考えているからであります。
P.S.
正直ね、今でもちょっと油断すると心がぐちゃぐちゃになりそうなものをかろうじて前向きに考えて抑えているに過ぎないんだよ。
だから小説というものを書いているのかもしれないって、事あるごとに思うんだ。
[0回]