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あさかぜさんは見た

日記

07/05

Thu

2018

夢幻のごとくなり

ろく ゆ [2] 【六喩】
〘仏〙 この世のはかないことにたとえられる六種のもの。「金剛経」では夢・幻・泡・影・露・電。「維摩経」では幻・電・夢・炎・水中月・鏡中像。りくゆ。
===========

よい言葉だ。
私のような人間が必死に何かを作り上げようとする今そのものにふさわしい言葉だ。
「苦労は結果と比例しない」
他の人に言った言葉だけれど、それよりも、この六喩の方が今の私にとってはしっくりくるし、その次元もある程度悟っているつもりだ。
だが、許せぬのは、ここに足を生半可に突っ込み、周囲を巻き込み、命を懸けずに諦めた者だ。
幻を追うならば、命一つを天秤に懸ける。
まことに、ふざけた、理に適わぬ生き方だ。

==========
にょろやくにょでん 【如露亦如電】
『金剛経』に出る語で、この世のものはすべて露や電光のようにはかないものという意味。この後に応作如是観(応に是の如き観を作すべし、で、このように物事を見ていきなさいということ)の語が続く。→ 六喩
==========

未来を安易に予測し、だからこうなるから諦める等と、そのような心持の輩は、もはや何をも成し遂げられない。
命一つ懸ける結果としては何も変化がないという理不尽な最後を招くこともほとんどだが、それでも諦めるより余程美しい。
誰からも忘れられたとしても、俺はやるぞ。

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07/03

Tue

2018

北広島と中山久蔵

中山久蔵。この方は北海道米作りの祖とされている。
クラーク博士の
「Boys,be ambitious.(少年よ大志を抱け)」
だけれど、この言葉の後には、
「like this old man.(この老人のように)」
という言葉が残っている。
この最後の言葉には諸説あり、かなり喧々囂々とするだろうが、北広島では島松駅逓で中山老人のことを言って去っていったという説がある。このフレーズはクラーク博士自身のことを言ったとされる説が広々といきわたっている。
こちらに移ってきて市役所のところに中山久蔵の歴史編纂書があるのを手に取り、去年は余暇が取れず保留にしていたが今年編著者の市議会議員の家に行き本が余っていたら売って欲しいと電撃訪問したら、ちょうど余っていて譲ってくれた。
「いやぁ、小説書いてくれる人がいないかなと思っていたんですよ」
中山久蔵の、その本が出来たのは2013年だから5年は経つ。
しかしまあ、5年もありながら誰も書いていないとなると、この題材に挑戦し、かつ書き上げられる能力を持った人間がいないのだろうなと直感した。
短い小説を書けても長編、中編となると、書き方や文章の組み方が違ってくるので、短い文章ばかり書いている人は書けない。
もう、どう考えても私しかできない案件だろうと自覚したので、しっかり書き上げないとなと思った。
何故なら、島松駅逓所の案内人たちも、かなり高齢なのもあり、かつあと2年で改修工事の年月になるということも踏まえて、タイミングを外すとろくな結果にならないと考えたからだ。
もう残された時間は少ない。
これさえ書き上げれば、北広島に移ってきたかいがあったということになる。

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06/30

Sat

2018

魂の澄んだ人たち

子供のように澄んだ目をした人がいる。
僕は心がもう歪んでいて、どうしようもなく狂ってしまった。
それを経験的に直しているだけで、油断すると素が出る。
そんな自分が心が洗われるような気持になるのが、澄んだ目をした人と一緒にいることだ。
そういう人はちょっと嫌がることが多いのだけれど、つまりは住む水の色が違うから、あちら様は違和感を感じることが多々あるのだろうけれど、それでも僕は年単位でもよいから定期的に会いたいなと思っている人がいる。
まるで世の中の悪いことなんて知らないんじゃないかって思うほど素直な魂を持っている人たちだ。
実際は酸いも甘いも知る人だからこそだとはわかっていても、相対している時はいつも素敵な人だ。
例えば、面白いことがあって、突然メッセージで自作の小説を送ってきた人がいて、その他には何もない。
小説を読んで欲しいのか、でも何をして欲しいのかわからないから、ひとまず、こうやったら面白くなりますよと、全力の手直しをして文面をまるまる渡した。
自分が小説の才能がないと言いたいのか、でもそれはやりようで、ネタがあれば面白くなりますよと反抗したつもりだった。
絵も面白いし絵本書きませんかって言ったら僕が芥川賞取ったらなんて言うものだから、もうその人に絵本を書かせるために芥川賞欲しいくらいになった。
動物を一生懸命診ている先生がいる。
言葉を持たない動物の気持ちに毎日寄り添っているせいなのか、美しいぐらい真っ直ぐな、まるでイチローがホームベースへのレーザービームを投げるくらい気持ちのいい瞳をしている先生がいる。
僕はこの人の目を見ているだけで学ぶものが凄く多い。こういう人はあまりいなかった。
後は会ったことがないけれど、きっとこの人の瞳は僕の学ぶべきものが多いのだろうなと思える人がいる。
プロではないのだろうけれど、写真を撮っていて、精力的に挑戦を重ねている。
写真を見ていると感覚的に実験的に自分の感覚を試している様子が見て取れる。
「旅の途中」
だけれど道に迷っているわけではない。
今度手術をなさるようだが、生き残っていたら僕はこの方とお話をしに南の端と言えるようなところまで行くつもりだ。
「人の世の理を知りながらも、自然体で抗う人」
それは本人は意識していなくとも、その精神がなければ挑戦なんてしないはずだし、自分が本当に上手くできる領域を狭い範囲で守り続けるはずだ。
貴方たちが嫌っていても、物凄く大好きな人たちで、僕はこういう純粋で真っ直ぐな魂の人たちと言葉を少しでも交わしたいなと思っているわけでありまして、それには僕が頑張らなければ会えないわけなのであります。

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06/28

Thu

2018

Civilization5から学んだこと

シヴィライゼーションというゲームがありまして、その5なのですが、このゲームの中にシミュレーションゲームながら珍しい勝利条件が二つあり、通常は戦争のゲームなので武力で勝つことが前提条件のゲームに「科学的勝利」と「文化的勝利」があります。
特に私が目が覚めたのが「文化的勝利」でして、これは「絵画」「小説」「音楽」の三つを主に集めて文化度を上げて他国への文化的影響力を高めていくということなのです。
つまりは「戦争」を扱っているシミュレーションゲームにおいて、この要素を入れてきたところで自分もハッキリと感じるものがありまして、例えば中国の方でフランスの方でロシアの方でアニメやゲームのコスプレをする方がおりまして、その方たちは確実に発信元の日本を恨まないわけであります。
ゲームの中には宗教的な影響力もあったりするのですが、ようは「武力に頼らない他国侵略」というのは、かなり昔から試みられていることでありまして、僕はゲームをやりながら学んだことではありますが、やはり注意深く周囲を見ると、よくゲームに「文化的勝利」として設定したなと、驚くばかりと同時に想像力の豊かさを見て取れるわけです。
日本では絵本はアニメは子供のもの等というバカげたことを言う人間がおりますが、その子供向けのものを考えているのは大の大人なのであります。
そういう子供への夢や希望を想像できない多くの人は子供を持っていなかったり、子供を持つことの想像力を持っていない大人だったりするのです。ないがしろにしていたりとかね。
そしてもっと言うと、理屈で未来を想像して身近にいる子供を相手にしていなかったりするわけであります。
こういうあからさまな環境に囲まれている夢のない大人が他者の創造性を阻害する最もたる要因となっており、意外にも臆病さを持ち合わせておきながらも他者をいたずらに刺激したりする大人であったりするわけなのですね。
世界の戦争は武力だけではないのだということをゲームで学んだ私ではありますが、シヴィライゼーション(Civilization)は文明という意味ではありますが、文化の積み重ねこそ文明であるということを本当のインテリはしっかりとゲームにして示しているわけです。
文化の多様性こそ豊かな文明を築く礎になり、そして文化の強さこそ平時には武力を凌駕する他国への影響力となるわけでなのですな。
なので、私は懸命に何かを創造している人間に対して馬鹿にするような内容を発信した人間は、金輪際相手にしないように致します。
私、売れてなくとも小説という文化を築いている身分なので。

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06/14

Thu

2018

疑心暗鬼の種は摘み取るべし

一度「疑心暗鬼の種」を自分の中に植え付けてしまうと、努力して自ら摘み取らない限り、それは育ち続けてしまう。
よく中国の戦国物や、日本でも毛利元就の大河ドラマ等で疑心暗鬼の計は見たけれど、古今東西、人間の疑心を利用して滅ぼしていく例は後を絶たない。
だが、わりと現代にいたっては「疑心暗鬼」は「自滅の一手」しか残らない。
ただ、人間を信用するということは、全面的に無防備になることと同一視する人がたまにいるが、そうではない。
出来る限りの守りは固めておく。
これは当たり前のことなのだ。
僕は事前に「目の前の人が悪意を起こしても、そうできない環境を整えておく」のも「優しさ」だと考えている。
疑うことは失礼と考える人も中にはいるようだが、僕はつま先から頭の先まで善で成り立っている人間なんていないと思っている。
誰だって弱い。表現していないだけで。
僕はその人間の弱さを小説に書いたりする。自分でも堂々と出す。
こういう人間がいて当たり前なんだと体現している。
人を疑っている時、その疑心のほとんどは自らの体験からきている。
裏切られた経験のない人間は、その情報すら取り入れていない人間は、人を疑うことを知らないからだ。
つまり、他者に対する疑念は自らの底に沈んでいる人間への恐怖心を表出したに過ぎない。
もっと言えば「疑念」は「自己像」とも言っていい。
何故、この種を摘み取っていかなければいけないのか。
人に対する見方というのは養われていく。
使えば使うほどスキルアップしていくというわけだ。
何もスキルアップはプラスの面だけで伸びていくわけではない。
マイナスの面でも伸びていく。
人を悪く見る。
このスキルは使えば使うほど上達していって、悪い面から人を見るようになるし、疑念は使えば使うほど人を信用できなくなる。
マイナスのスキルを上げれば上げるほど、人生長い目で見ると、自ら培ったマイナスを引き寄せていく。
不思議とその手の仲間も増えていく。
仲間の輪が不安で強化され、その結束から心がよりマイナス面で強化される。
プラスに転化することが難しくなってくる。
人の心とは不思議なのだ。
見ていないつもりでも、無意識が反応する。
どんなに知識があろうと今まで見てきた人間では例外がなかった。
だから起こりもしていないことに不安や疑念を起こすことに、最も自分が警戒しなければいけない。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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