また主人格の他に人格を持っていた人間と出会った。
まだ三人しか出会ったことがないが、共通していることがある。
やはり、人生の中どこかで見聞きしたか、自らの中に作りこんだ想像上の人物(こんな人間になれたら楽なのに等)、主を補う形で反対のものが出てくる。
主人格が性格上できないことを他の人格で補う形だろうか。
それ以上の人格になると抑えつけている感情によって形成される人格が違い、分裂した人格をまとめるマスター人格が形成される。
マスターとなっている人格は他の分裂した人格たちと会話をすることができるが、その他の人格たちはやり取りすることができないことが多い。
もちろんこのことは主人格は知らない。
そして親となる存在からの物理的ないし精神的虐待からの大きなトラウマを抱えているということ。
トラウマ、ようは精神的抑圧やショックが大きく、かつ多ければ多いほど人格は増えていくということ。
マスターは他の人格の様子を知っているから突然現れても、どこにいるかわかるが、他のものは主人格の記憶から大きく断裂されていることが多いため、どこにいるのか把握していないことがあること。
主人格との記憶の断裂の深さはトラウマと精神的抑圧の程度に比例しているということ。
分裂か、もしくは演技か、というのは以前海外の死刑囚が取り調べの際に「どの人格が出ても当人が必ずやる癖が出る」ことで見抜いた例がある。
つまり分裂した人格は癖も言動も趣味も違うし、主人格と重なるところは少ない。
主人格は運転が上手いのに、分裂した人間は下手なことは珍しいことではない。
私の対処法としては催眠をかけていく手もあったけれど、まず当人の話をじっくりと聞くことだった。
今まで精神の底に沈んでおり、昇華されずに存在していたという事実は、それだけ主人格が何かに対して精神的な抑圧を感じさせられているか、しているか、だからだ。
精神の形成は突然されていくわけではない。
特に小さな子供は性格はあるが、考え方や価値観の移行が起こりやすく、また芯となる精神の背骨のようなものはあっても周囲の肉付けまでは完ぺきではない。
例えて言うなら外皮が柔らかく、多様な価値観を知らないので、信じてきてかき集めた精神の大事なものに衝撃を受けると、そのまま卵のように壊れてしまうということだろうか。
私の知っている三人の人たちの親は皆外面はとてもいいのだが、家族間になると豹変することが多かった。
多くは「親の気に入らないことをしたため、何かの過剰な罰を与える」という名目で暴力や精神的な攻撃をする。
あとは家庭環境の複雑さや性的な虐待も含まれる。
私たちは人を見る時、自然と相手を「こういう人物だ」と決めつけ、自らの価値観を中心にして相手の評価をする。
人間がバイアスをかけること(色眼鏡)は人間の心の性質上避けられない。
だが「人格」とはなんだろう。
分裂した人格たちは用がなくなれば消えていく。
主人格が精神的に抑圧されるものがなく、自由に自分を表現できれば、分裂した彼ら彼女らに頼ることはないのだ。
私たちだって極めて曖昧なものにしがみついている。
記憶と経験という曖昧な価値基準を軸にして人格を形成しようとしている。
生まれた時から不思議と癖がある。
恐らく生まれ持った癖のようなものを土台にして、そこから骨組みが出来上がっていくのだろう。
あとは、環境と人。
育ての親の影響は強く、大人になっても自制心が働かず、独善的で、価値基準が感情的で行動もフラストレーションにまかせたまま突発的に行われる、そんな親が多い。
そしてその親の親も「躾」と称するなどして似たようなことをしている場合が多い。
ほぼすべて、「箱庭」のような状態の中で子供は精神的な抑圧状態を受ける。
もし誰か気が付き助ける人や親戚付き合い近所付き合いが活発ならば「箱庭」は崩れ去っているはずなのだから。
ようは人格の形成とは大きな流れの中にあるとも言える。
便利になってくると、より細分化されたコミュニティが形成されてくる。
大人になると趣味で繋がることが多いだろうが、子供の頃は「似たような環境」「感情」等「同調」によって繋がることが多い。
コミュニティは成熟してくると排他性が強まる性質がある。
つまり便利になればなるほど細分化され成熟したコミュニティに新規の人間が入りづらくなるという性質が強まるため、排他性の性質を常に崩し続けなければ、細分化したものが、どんどん孤立していくことになる。
言うなれば「身内同士」だけで物事は成り立ち、他者の介入をしづらくし、価値観の閉塞化を招く。
人格の分裂を防ぐものは、今まで環境や人によって植え付けられた「価値観の閉塞」を崩し、ただじっくりと話を受け入れて彼らの心の奥底まで掘り下げていくことが重要になる。
昇華を促すのだ。
その際、一切否定語を使わないということ、相手の価値観に疑問を持たないということ、精神の深いレベルまで入った時、自らの独善的な価値観を相手に植え付けないことが絶対条件になる。
そのためには接する人間が広い見識を持つために様々なものを、ひとつの価値として存在していることを認めていかないといけない。
普通に暮らしていて多重人格の人間に出会うことは少ないだろうけれど、もし誰かが「人が違ったようになっている」「その間の記憶が抜け落ちている」の2点が揃ったら、無理に接することなく、やんわりと専門医に任せることを強くお勧めする。
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