年上の世代の中で若者の現状を見て「絶望的」と表現する人がいるが、今起こっているそれをこちらからご紹介させていただいたらいよいよ死にたくなるだろう。
もし死にたくならないのなら、心の底から何かを心配していたり気にかけたりはしていない。
全ては自己満足の類だと解釈する。
自殺するか、変えるかしたくなるのが本当の気持ちの落とし所なのだけれど、いたずらに魂をさ迷わせているのなら、命の使いどころを知らぬ人生をやたらと歩んでおられるだけに、あまり相手をするに至らぬ。
今「ゆとり世代」を超えて「さとり世代」だと誰だかが名付けたが、いつの時代だって馬鹿も阿呆も一緒だったではないか。
何を今更いけしゃあしゃあと少しばかり知恵のついたおっさんやおばんが若者を断罪する必要があるのだろう。紀元前から続いていたことを今もまだ続けているということは、本当に一般人は糞ほども学びはしないということなのだろう。
いつだって子供は自分たちが作り上げた社会によって育った「努力の結晶」なのであって、それを批判するということは、自分たちの社会への向き合い方そのものを否定するのだということに気がついておらぬ。
僕は年上とも年下とも接することのできるようになって気がついたが、どうしようもないクズってのは年上にも充分いるし、だからといって年下がその数に勝るってことはない。
これは何故かっていうと、年下だと「まだ知らないからねぇ、教えてやるぞコノヤロウ」って気持ちになるけど年上だと「もうどうしようもないもんね」って気持ちにさせられるし、例えば僕はだいたい大人しいけれど、大人しくしてると遠慮なくやってくるやつがいる。
「こいつはサンドバッグにしていいんだ」と無意識にも臭いを嗅ぎとるんだろう。
よくわかるよ。
暴力は常に弱いやつに向けられるっていうのは、人生の中で実証済みなので。
例えば紳士ぶっているようなやつでも、弱いものには驕り、強いものには口を紡ぐというやつがいた。挙句の果てには都合によって昨日までにはなかったかのように態度をコロっと変える人。
この手の輩は結構多く、こいつだけが例外なわけではない。自分だって長い時間の中で考え方やスタイルを180度変えることもたまにはあるが、人を批判するためだけに言葉を並べ立てる人間の中で、人生の一貫性があったやつを見たことがない。
特にこのような輩は自分の知っているものだけを堂々とひけらかし、相手が何も知らぬということにつけこんで、常に上から畳み掛けてくる。
でも、その手は何も知らぬ若者には通じるが、ある程度知っている人間には影では馬鹿にされているということに気がつかない。
どんな人間にも欠点はあるが、許せる欠点と許せない欠点があって、さらに同じ欠点でも人によって許されたり許されなかったりするのは何故だと思う?
きちんと背負っている部分で言っているか否かなんだと思う。
ただ、それだけだろうさ。
身分不相応のことは、他人からは醜く見えるものなんだよ。
当然年上はその観点で年下を見るし、年下は「なんでこいつ、きちんとできてもいないのにこんなに偉そうなんだ?」という目で見る。
人は万能じゃないから教えられることにも限りがある。
だから年配は視野の狭さを常に自覚して自らを戒めるべきだし、若者は常に素直であるべきだ。
素直であるということは、何でも無条件に受け入れるということではなく、よく聞きよく考えよく吟味しよく調べるということだ。
これを怠れば成長は止まる。
知ったようなことを繰り返し繰り返し機械の様に喋るだけの愚か者になる。
10代の人間は自分が不幸な原因は親や環境のせいだとわかったなら親の価値観を自分の中で壊すか否かを迫られる。
20代の人間は自分が不幸な原因は年上のせいにしても許される。
30代の人間は自分が不幸ならば社会を変える勇気を持たなくてはならない。
40代の人間は自分が不幸ならば人生の努力を怠ってきたのだと反省しなくてはならない。
50代の人間は自分が不幸ならば自らの人生の価値観の半分は捨てて新しい人生に挑まなければいけない。
60代の人間は自分が不幸ならば親友を作るべく手を突いてでも人から学ばなければならない。
人生のどこを出発地点にするのか、そんなもの、他人の価値観なぞどうでもいいから、自分ができると思った時を起点にして成長すればいい。さもなければ、何もかも止まってしまって、結局は弱いものに対して暴力をふるうことになる。
それは年齢関係なく醜いことだ。
そういう醜さを若い頃に押し付けられて、また大人になったからといって年下の世代にやることはないのだ。
優れた人間は年齢関係なくいる。
年下でも尊敬できる人間が僕にも少なからず出来てきた。
しかし不思議な事に年上の一部の人間たちは、どうやら自分の足で若者を見に行かずに、情報だけで若者を捉え絶望しているらしい。
老人諸君には申し訳ないが、いつでも止めを刺してあげるから、墓に入る準備はしっかりとしておけばいい。
だがそうではなく別のものを見たいのなら、若い世代の素晴らしさをいつでも語りましょう。
その言葉を受け入れられる余裕があればの話ですが。
ただ与えられたことを盲信し、社会は終わったというのなら、自らを変えるべきだし視点をきちんと生身の人間へと開けさせるべきだ。
情報に踊らされる前に。
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