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あさかぜさんは見た

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11/23

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2024

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10/23

Fri

2015

ゲームのように繰り返す

多くのお店ではバイトを雇っている。
正社員で埋め尽くすと、まず赤字になるからだ。
だけれどバイトは「責任感がない」とよく言われる。
だからすぐやめるのだ、と。
バイトでいるほうも、正社員ほど拘束されないし、責任という名の重い仕事を割り振られることが少ない分精神的に気楽でいられる。
だが雇うほうとしてはバイトが入るたびに教え込まなければいけないため、段々仕事に慣れてくると自分の感覚で「どうしてこんなことも覚えないんだ。一度教えたことは覚えろよ」くらいの感覚がムクムクと湧き出てくる。
ようは個人を個人として見るのではなく、段々と組織の部品として見出しているからそうなってくるのだ。
この時点で精神は既に荒んでいる。
だが雇っている側はどれだけ自分の精神が荒み個人を無視し始めているのか気がつかない。

とある店の店長が言った。
「バイトがすぐやめるんだよ。せっかく教えたのにさ、これじゃあ払ったコストに見合わないよ。責任感がないから今の若い子はすぐやめる。社会に出たら、あれじゃあやっていけないよ。まるでゲームやってるみたいだよ。人やめました。ゲームオーバー。また最初から。コンティニューはなし」
もはや八つ当たりである。
正しそうに見えるこの言葉が何故「八つ当たり」なのか。
「何故職場に人が残らないのか」は全て「トップの組織作り」の中に含まれるからで、一見「責任感がない」ような人間だって、色々考えていることはある。
その心情を知ることもなく、一方的に「責任感がない」は、「職務放棄」に他ならないし、もはや画一的に人をくくり、物事を断定しているのなら「思考が麻痺」してきているのと同じになる。

だが、ちょっと引いて見てみよう。
これらの発言をする人間は恐らく「自分の中での正解」があるから他人にそれを押し付けるのだろう。
その道から少しでも外れると間違いであるとなる思考に「ゲーム性」を見るのだ。
僕はその店長の言葉がとても気になっていた。
「まるでゲームみたい」
最初からやり直し。
また最初からやり直し。
この思考回路の中に酷く束縛感を覚えるし、つまり自分の中である種のルールを見つけることによって、あたかもそれが正しいかのように情報を集めだす「確証バイアス」が働き出す決定打でもあるし、もっと言うならば個人には個人のルールがあって、そのルールの統一性のようなものを経験によって得られると、個人は他人を断罪し始めるという不思議な心理が生まれるということに、ある種の恐怖を覚えるのだ。
それはある種の間違いを犯しながら人類というものを前進させてきた。

「人間が歴史を学んで分かることは、人間は歴史から何も学ばないということだけだ」
というヘーゲルの言葉は、人類の情報はあまりにも膨大で、そして人類の情報から学んでも、今の職場にはまったく役に立たないという諦観から来るのではないか、という気持ちさえ感じる。
この気持ちの根っこは「金が稼げないだろ」に集約される。
責任感がないというのも、結局はそれじゃあ社会人になっても職を失って生活が出来なくなる、生活が出来ないということは金が稼げない、ということになるし、ほとんどすべての心配事は「それでどうやって生活していくの?」という基本事項に沿って物事が肉付けられていくということだ。
もしこの発想で人間というものを捉えているのならば、それこそ思考が束縛されている。
人間は必ずしも思った通りにはなっていないし、思った通りになっていない、ちょっと社会上から外れているような輩に対し嫌悪感を抱くのは「人は自分と同じように苦労して欲しい」という呪いの投射でしかない。

人は同じことを繰り返す。
特に自身で解決できなかった過ちは、過ちを過ちと思っていないものは、何度でも繰り返す。
反省の気持ちはあったとしても、やはり以前のようなやり方が少しでもうまくいくと、「これは上手くいくのではないか」というギャンブルにはまるジャンキーのようになっていく。
ここでの過ちの定義は「創造の破壊」とする。
新しいものを何一つ生み出さず、他人への攻撃に力を置いているような事象だ。
多くの人は何か起こった時に何かを責め出す。
それはいつも自分以外の何かだ。
自分には罪がないと、何故か他のものを責めている時は思い込むのだ。

これら書いてきたことは、まるで個人で設定したゲームのように繰り返されている。
自分の中で法則性を見つける。
それを無意識にも実行しだす。
上手くいかないのはやり方が間違っているからだ、とどこかで思う。
やり方を変えて同じ道を進んでみる。
やはり失敗する。
少しでも上手くいくと、自分が失敗してきたのは他人が悪かったからだ、と思い込む。
自分が正しいと思っていることを実行できる人間がいるじゃないか。
だったら実行できない人間は、明らかにおかしい。
そんな考えに至ってしまう、このゲーム性。
そのほとんどの人間が「道そのものを変える選択」をしないのだ。

人類はゲームをしているのか。
それとも、ゲームを仕掛けているやつが常に存在するから、その下にいるものはルールはこれしかないと思い込んでしまうのだろうか。
さあ、何が正しい。
少なくとも「制約を与えるもの」ではないことは確かだ。

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10/21

Wed

2015

SNSは完全に社会実験場

フェースブックには「いいね」というボタンがある。
その「いいね」がいかに無力かがよくわかった。
例えば「仕事を探しています。~という条件です」に対し、「いいね」は100件近く。
具体的な話は何一つなし。
私は実際に知人に問い合わせてみて、完全合致は難しいがこのような求人があると持ってきたのに対し、他そのような具体的内容は0件。
なんだそれ。
あまりにも虚しすぎる。
あまりにもどうでもよすぎる。
何もかも薄っぺらい。
私はネット上に10年近く、ほぼ朝から晩までいる時期があったけど、SNSの誕生とその利便さは、この「どうでもいい感じでありながらも、薄っぺらなやりとり」を助長させている元凶となっている。
友達らしき存在。
知人のような親しくもない他人。
いつ会ったかも覚えてないくらい「友達」が増えて、日々増える「友達の行動」は興味のない「記号」のようになっていく。
皆忙しいのですよね。
予定は仕事で埋まっていて、他の事をやる余裕もないくらい毎日を懸命に生きていらっしゃるから、せめて「助けてあげたいんだけどできないから、気持ちだけでも伝えたい」というための「いいね」なんですよね。
想いが安易な手段に頼りがちだから、何もかもが薄っぺらく見えてしまうのか。
それは自分の心が荒んでいるせいなのか、それとも本当に周囲は安易なのか。
目の前にボタンがあったらぽちっと押してしまいたくなるタイプなのか。
善意っていうのは、重いですよ。その押しつけも、やり遂げるのも。

まあ、それよりも、いかに「民衆」というものが動くのか、話題に対しての行動する人間のパーセンテージはしっかりと算出されているはず。
そろそろああいうSNSサイトも長いので、仕掛けられたプログラムで様々なデータを得ているだろうし、自分がああいうサイトのオーナーだったら今度は国相手に商売しだす。
つまりはロシアのようなラプラスの魔のようなプログラムを多数仕掛けて、ある一定の条件で起こりうる可能性を全てデータ化して売る。
これだけでも年間100兆近いビジネスになるんじゃないのかなと思ってる。
全世界の国を相手に商売すればいいんだから。

さて、そのように「データ」に支配される人種というのは、つまりは社会というものが民衆というものが完全コントロール下にあるということを実証することになる。
頭でっかちの、何も実体験で学んでいない、知識だけはあるような高学歴の輩。
ここらへんを先導役として、しっかりと社会に対しシビリアンコントロールの情報を流していく。
自分で調べたつもりが誰かの受け売り、誰かの価値観の二番煎じ、それ以下の真相すらも人間すらも無視した知ったような「学び」すらも入っていない、どうでもいい情報を掴まされながらの「意見」「考え」となっていく。

あまりにも虚しいではないか。
どうなっていくのだろう。
いや、思った通りになっていく。
社会は絶望的ではないにしろ、人間らしさを根本からすっぱ抜いた、枯れていくばかりの知識の集まりとして、常に何者かに栄養を与えられながら自力では生きられぬ状態へと傾いていくのだろう。
ここから新しい幸せは出来上がるのだろうか。
未来の幸せや繋がりはどうなっていくのか。
もう観察する前に色々自分でやってしまうだろうけどさ。

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10/20

Tue

2015

人の美しさ

私は小学生のころ映画で「AKIRA」を見て衝撃を受け、そしてコミックを読み人生が変わった。あの作品に出会ってから「人間の本質は暴力である」という定義を未だに変えていない。
この暴力の使い方こそ、その人間の本質、その人間の命そのものを表わしているのだという見方をしている。
つまり暴力という、少しでも力の使い方を間違えれば、いくらでも虚無に返っていく人間そのものの力は、常に使い方を考えなければいけないのです。
ただこの力を垂れ流しにし、その力が何を指し示すのかも考えないような輩は、あまり語っても楽しくないのです。
人と接し、人を愛し、自分の脆さを知っている人間ほど、別にこのことを意識せずとも自然と恐れが身についていて行動している。
その姿が美しいと思うし、その振舞いの中には必ず笑顔がある。
つまり「素的」なんです。
言葉で書くととても野暮ったく見える。
素的の語源も曖昧だ。
だから私は、その人間が使う言葉で人を見る。
「粋」なのか、どうか。
自らの暴力性を巧みに操っている人間かどうか、だ。
その試行錯誤の片鱗が垣間見える時、生き方の美しさを知ることになる。

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10/19

Mon

2015

やりたいことをやればいいは本当に無責任か

そもそも何故「責任」と言う言葉が出てくるのかよくわからないし、「責任」を押し付けるのなら、「何故細部にわたるまできちんと質問してこず、独自のやり方で勝手に言葉を一つだけ取り上げて全て鵜呑みにしたのか」という馬鹿さ加減が見て取れるのだが、例えば私が言ったとする。そして「責任も取れないくせに勝手なこと言うな」と言い寄られたら「ならば君は私の奴隷になる覚悟があるのかい?」と問う。
つまりこういうことだ。
「君は私の奴隷のような存在であり、私の言葉に忠実であり、かつ行動力があり、できなかったことへの叱責を受け、それももしかしたら耐えられぬほどの多くの苦悩を乗り越えられるのが私が責任を持つ条件」
それなら私は責任を持つし、例えば才能がなければ「やめな」とだけ言う。
でもね、やりたいことはやるだけやったほうがいいと思う。
それもさぼらず懸命にやることが条件。
そうすれば「本当に自分に向いているのか向いていないのか」がハッキリする。やればやるほどそれがよくわかる。
自分は出来るという自惚れだけでは、どうにもならない世界というのが数多く存在するのだ。
そしてそれを知るべきだし、大人は子供を安易に否定するべきではないし、安易に夢を与えるべきでもないと思ってる。
例えば自分のような芸の世界に生きるというのなら、下手をすれば何十人と巻き込んで不幸にしていく可能性もあるわけだ。
それを乗り越えていけしゃあしゃあと生きていけるような図太さや、やり遂げるという人生を賭けたものがあればいいんだ。
多くの人間は「編集された他人の一部分」を見て、勝手に夢を抱く。
夢なんて、私から言わせてみれば抱かない方がずっと健全だと思ってる。
大人になればなるほどそうだ。
ただ、目標は大いに抱けばいいと思う。それが大きなものであればあるほど困難が付きまとうが、小さな目標の先にそれがあるわけだから、細かく分類できれば問題ない。
生涯でこれをやりたい。おおいに結構。
「夢」と何が違うかって? 目標は現実だから常に苦労していかなきゃいかんのです。
言い訳を一つでもしたら、目標は遠くなるだけなのです。
他人を責めない。起こったことは全て自分のせいにする。今ある環境は自分が作り上げているのだと知る。人の力を信じて協力してもらえるような自分作りに励む。そして毎日必ず勉強する。恵まれている時ほど人に良く接し謙虚になり、苦しい時ほど人に優しく、常に何かを与えられるよう自らに厳しくあれ。
こういうのが大きな目標を掴むための条件なのですよ。
私、こう見えても、もうほとんど否定されるところがないんじゃないかというくらい、色んな人から否定されてきました。
5年くらいは死んだほうがいい、お前は人生詰んだぐらいのことは言われると思い、その分死ぬ気でやってみるといい。
するとあら不思議、色んなものが見えてきます。
人は社会を生きるために様々なものを気にしているわけです。
まず第一は血縁親族、その次に親友知人、その次に会社や社会生活上関わっている上下関係のある人たちや知り合った人たち。
これらの人たちの「勝手な言い分」をとても気にしているのです。法的拘束力なんて何一つないのにね。病むほど言われたら悩みます。
たいていは蔑むような言い方ってので相場が決まっているからね。
でもね、私から言わせてみれば、そんなの気にするくらいならやめたら?って思う。
いつも通り誰かの言い分にしたがって共通の愚痴が通じる仲間たちと酒でも飲み交わして日々を過ごし、解雇にならないよう無難に会社勤めや仕事をしていれば、とても人生幸せだと思うのですよ。
だって、それは社会上外れた事をしなければ誰も不幸にしない生き方だと思うし、リスクも会社が負担してくれるところが多いし、倒産ってのも最近数多くあるみたいですが、別にその会社潰れたからってよほど無能じゃなければ次の就職先なんて見つかるわけですから、誰かが与えられてくれる仕事をしっかりこなすというのが、そして体力のある会社にいるってことが、何よりもの安心なのではないでしょうか。
ハッキリ言ってどこに居ても苦労なんてのはある。それは当たり前のことだし、それなりの対価はきちんと払っているのだから、どこで覚悟を決めるかっていう話。自分の命なんだもの。自分の人生自分で決めればいい。それを「他人がどうだから」と言うのは大人としてちょっと情けない。
やりたいことをやる。
それは「自分の人生自分で納得する生き方をしていく」って覚悟なんだ。
甘っちょろいこと鵜呑みにするほど頭の中が子供なのなら、何も行動しない方がいい。誰かの言葉に頼りがちだけど、そればかり気にしている人は何も出来ない。
だってリスクが背負い得ない人なんだもの。
そういう人は勇気なんて持たないで、指示してくれる人の下で一生懸命やるのが一番幸せだと思う。
あれが幸せ、これが不幸、ということではない。
やっぱりこれも向き不向きがある。
「やりたいことをやればいい」は無責任とかそういうことではなく、「向き不向きを自分で選べ」ってことなんですよ。
それを知ることが、知って守っていくことが、生きる幸せなんだと。
人の指示に従うということも消極的ながら「決断の一種」ですからな。
つまりは「何も決めないという決断」だから、結局従うことになっていったのなら、それを「認めている」のだから。

でもね、「旅」をすると、「発見」がありますよ。
「遊び」を大事にして生きてください。
心の豊かさだけは、どこかでちゃんと保っていられるようにね。

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09/29

Tue

2015

私の親の世代によくあるけど

年上の世代の中で若者の現状を見て「絶望的」と表現する人がいるが、今起こっているそれをこちらからご紹介させていただいたらいよいよ死にたくなるだろう。
もし死にたくならないのなら、心の底から何かを心配していたり気にかけたりはしていない。
全ては自己満足の類だと解釈する。
自殺するか、変えるかしたくなるのが本当の気持ちの落とし所なのだけれど、いたずらに魂をさ迷わせているのなら、命の使いどころを知らぬ人生をやたらと歩んでおられるだけに、あまり相手をするに至らぬ。

今「ゆとり世代」を超えて「さとり世代」だと誰だかが名付けたが、いつの時代だって馬鹿も阿呆も一緒だったではないか。
何を今更いけしゃあしゃあと少しばかり知恵のついたおっさんやおばんが若者を断罪する必要があるのだろう。紀元前から続いていたことを今もまだ続けているということは、本当に一般人は糞ほども学びはしないということなのだろう。
いつだって子供は自分たちが作り上げた社会によって育った「努力の結晶」なのであって、それを批判するということは、自分たちの社会への向き合い方そのものを否定するのだということに気がついておらぬ。

僕は年上とも年下とも接することのできるようになって気がついたが、どうしようもないクズってのは年上にも充分いるし、だからといって年下がその数に勝るってことはない。
これは何故かっていうと、年下だと「まだ知らないからねぇ、教えてやるぞコノヤロウ」って気持ちになるけど年上だと「もうどうしようもないもんね」って気持ちにさせられるし、例えば僕はだいたい大人しいけれど、大人しくしてると遠慮なくやってくるやつがいる。
「こいつはサンドバッグにしていいんだ」と無意識にも臭いを嗅ぎとるんだろう。
よくわかるよ。
暴力は常に弱いやつに向けられるっていうのは、人生の中で実証済みなので。
例えば紳士ぶっているようなやつでも、弱いものには驕り、強いものには口を紡ぐというやつがいた。挙句の果てには都合によって昨日までにはなかったかのように態度をコロっと変える人。
この手の輩は結構多く、こいつだけが例外なわけではない。自分だって長い時間の中で考え方やスタイルを180度変えることもたまにはあるが、人を批判するためだけに言葉を並べ立てる人間の中で、人生の一貫性があったやつを見たことがない。
特にこのような輩は自分の知っているものだけを堂々とひけらかし、相手が何も知らぬということにつけこんで、常に上から畳み掛けてくる。
でも、その手は何も知らぬ若者には通じるが、ある程度知っている人間には影では馬鹿にされているということに気がつかない。
どんな人間にも欠点はあるが、許せる欠点と許せない欠点があって、さらに同じ欠点でも人によって許されたり許されなかったりするのは何故だと思う?

きちんと背負っている部分で言っているか否かなんだと思う。
ただ、それだけだろうさ。
身分不相応のことは、他人からは醜く見えるものなんだよ。

当然年上はその観点で年下を見るし、年下は「なんでこいつ、きちんとできてもいないのにこんなに偉そうなんだ?」という目で見る。
人は万能じゃないから教えられることにも限りがある。
だから年配は視野の狭さを常に自覚して自らを戒めるべきだし、若者は常に素直であるべきだ。
素直であるということは、何でも無条件に受け入れるということではなく、よく聞きよく考えよく吟味しよく調べるということだ。
これを怠れば成長は止まる。
知ったようなことを繰り返し繰り返し機械の様に喋るだけの愚か者になる。

10代の人間は自分が不幸な原因は親や環境のせいだとわかったなら親の価値観を自分の中で壊すか否かを迫られる。
20代の人間は自分が不幸な原因は年上のせいにしても許される。
30代の人間は自分が不幸ならば社会を変える勇気を持たなくてはならない。
40代の人間は自分が不幸ならば人生の努力を怠ってきたのだと反省しなくてはならない。
50代の人間は自分が不幸ならば自らの人生の価値観の半分は捨てて新しい人生に挑まなければいけない。
60代の人間は自分が不幸ならば親友を作るべく手を突いてでも人から学ばなければならない。

人生のどこを出発地点にするのか、そんなもの、他人の価値観なぞどうでもいいから、自分ができると思った時を起点にして成長すればいい。さもなければ、何もかも止まってしまって、結局は弱いものに対して暴力をふるうことになる。
それは年齢関係なく醜いことだ。
そういう醜さを若い頃に押し付けられて、また大人になったからといって年下の世代にやることはないのだ。
優れた人間は年齢関係なくいる。
年下でも尊敬できる人間が僕にも少なからず出来てきた。
しかし不思議な事に年上の一部の人間たちは、どうやら自分の足で若者を見に行かずに、情報だけで若者を捉え絶望しているらしい。
老人諸君には申し訳ないが、いつでも止めを刺してあげるから、墓に入る準備はしっかりとしておけばいい。
だがそうではなく別のものを見たいのなら、若い世代の素晴らしさをいつでも語りましょう。
その言葉を受け入れられる余裕があればの話ですが。
ただ与えられたことを盲信し、社会は終わったというのなら、自らを変えるべきだし視点をきちんと生身の人間へと開けさせるべきだ。
情報に踊らされる前に。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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