忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/24

Sun

2024

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

12/17

Tue

2013

「それは生きるために必要なの?」

私たちは文明社会の中に生きていて、生きるために必要なことのほとんどは文明を維持するために仕事をして対価を稼ぐというのがほとんどすべての人に当てはまると思う。
ホワイトやブルーと言われ区別される人たちだが、ちょっとその分類では区別しにくい文化活動に属して仕事をしている人たちがいる。
目に見えない技術や成果というものが文化の中に含まれることが多いが、通常知識がなければ、この目に見えないことを日常生活の中でどれだけ享受しているのか理解しがたい。
私は目に見えづらい価値を作っている人間の立場なので、「それは生きるために必要なことなのですか?」と問われれば「今直接稼ぐために必要ではないと仰るのなら、今使っている調味料や加工食品などはすべて目に見えない技術や文化の結晶なので、今すぐ破棄なされることをお勧めします。なぜ私がこういわなければならないのか理解できなければご自分であなたが特に享受している国の文化活動の歴史をお調べください」と申し上げるでしょう。
我々の生活の中に深く浸透しすぎて気がつかない文化と言うものはたくさんあり、それは当初同じように「何故生きるのにそのようなものが必要なのか」と当時もその人を見て思っただろう。
文化と言うのは民族の結晶たるものであり、文化を失う恐ろしさと、文化を説明できない屈辱を日本人は日常生活していて味わうことなどないし、特にそんな歴史もなかったのだから、そのような日常使用しているものを根こそぎ無視した発言もできる。
さて、文化として成り立っているものは結果として残ったものであるから、当然現在進行形で残るか残らないかもわからないような代物に対しては、理解しがたいというよりも、まったく発想として追いつけないだろう。
何故そんな無駄な事をするのか。
成果すらも上がらないものに価値などあるのか。
ほとんど全ての人は結果として出来上がったもののみを価値として、その途中過程で培われてきたものなど一切無視する。
だからこそ、嫌味の一つも言いたくなる。
これは問題の差し替えではなく、文化というものが一度途切れてしまった時、それを復活させるのは非常に困難だということを一度として考えないし、数多くの継承の中で優れたもののみが生き残っていくという、自然界でも当然起こっていることが文化活動の中でもまったく同じように機能していることを知らない。
だが、優れたものが生き残るにしても、極端に言えば誰もそれをやらなければ残りもしないし、優れたアイディアが他のアイディアを刺激して、思いもよらないところで間接的な相互関係を築いていることは、アイディア職にいないものには想像しにくい。
それは発想が貧困などというのではなく、触れたことも考えたことも一度もないのだからわからないのだ。
以前、ある短歌がどれだけ優れているかということを有名大学大学院卒の子に説明したことがあるが、まったく響いていないようだった。
わからない人にはわからないし、興味を持っていなければただの言葉程度にしかならない。
だが私は決して人間活動は生きるためのみに集中しているのではなくて、他者から見れば多くの無駄だと思えるようなものを楽しみとして享受しており、そして自分の趣味として他者には理解しがたいものを愛でている。
それをひっくるめて文化活動と言う。
しかし上述したが結果が出ていない途中のものに関しては当然批判の対称になる。
そんな厳しい現実は受け入れていかなければいけないし、それに耐え切れないほどの精神や情熱ならば止めればいい。
だが私は少しでもアピールしたい。
菌類も含め、私たちの文化は目に見えないものを日常生活の中に取り込んでいる。
あたかも無駄だと思われてきたものへの挑戦と偶然の産物が生き残り、多様で豊かなな文化を形成していく種となる。
もし文明の奴隷となり、趣味も何もなく「生」のみの機能性だけを追求したいのなら言うだけ言えばいい。
それはロボットと何が違うのかと逆に問いたい。

拍手[2回]

PR

12/03

Tue

2013

人の趣味なんてそう簡単に否定できるもんじゃない

頭じゃわかってても、物凄い気になることはある。
自分は東京に行った時、物凄い違和感を感じた。
新宿なんて、人が人扱いされていない。
物扱いされている。
なんとなく、そんな冷たさを札幌で育った自分でさえ感じるほどだ。
彼らは干渉しない代わりに、自分の立場を確保する。
なるべくお互い迷惑かけないように、という配慮なのだそうだ。
東京人が言っていた。

ネットで情報がたくさん発信できるようになって、どうでもいいことばかり上澄みに溢れるようになった。
本当にネットというものを活用するには、自らが深い知識と見識を手に入れ、生涯研鑽し続けなければいけない。
さもなければ、怠惰さに流され、どうでもいい情報ばかり信じ、人に対してもわかったようなことばかり、偉そうになって言い続ける。
検索のキーワードを打つにも自らの知識がものを言うし、内容が信義かどうかも深い洞察力が要求される。

情報を発信していれば、どうでもいい情報だってある。
特に趣味なんてものがそうだ。
その人個人の気の紛らわし方や、趣味嗜好なんてものは、人それぞれで全員が一致するわけじゃない。
「あんた、それは浅いね」なーんて、思い思われるんだから。
味覚なんて、その最も代表格たるものだが、どうしてか「おいしいものは人もおいしいと感じる」だなんて錯覚を起こしている。
人の味覚は自分とは違うと感じたのは、人に料理を振舞った時によく経験したんだが、やはり「体感しているもの」は各々違っている。

ある小説でカティーサークが出てきた。
登場人物のお気に入りで、わざわざ名前を出すってことはお気に入りなんだろうが、私はあの独特の酸味が飲みなれたウィスキーとはちょっと離れていて苦手だ。
ホットミルクコーヒーに入れるにも、豆を選ばなきゃいけないし、どうせならホワイトホースあたりが無難かなと思って、冬になった今、たまには、それも飲もうかなと考えている。

札幌もナナカマドが白い冠を被ってシンデレラになり、赤く膨らんで地に落ちた。
鳥がその餌を食えば、もう、本格的な冬だ。
私たちは、あまり意識することはないが、地域性とか、まあ、環境ってのがあったりする。
そんな中で人の趣味や嗜好や思想なんてものが培われるのだが、いいもんばかりが培われるわけじゃない。
当然、「あんたちょっとそれどうなの」、なーんて気になっちゃうことだってある。
私たちの情報はだいたいは「東京発信」で、なんだか、自分たちが慣れ親しんでいる都会の基準が、どうやら社会生活を送るための基準であったり、はたまた「おいしいもの」「まずいもの」であったりもする。
そして、日常の行動基準までもに物を言う人間がたまに現れるのだが、どうせダメだとしても、代償を払うのはそいつだし、放っておけばいいのに、老婆心からならよいのだが、「自分が気に入らないから」という理由で物を言う人がいる。
「自分が気に入らないから」と「親切心」を混同している人は圧倒的に多い。
それって、どうなの、なんて思っちゃう。
人にはそれぞれ趣味があるし嗜好があるし行動哲学がある。
それがあまりにも独善過ぎたら社会に出た時、代償を払うのはその人だ。
よほどダメじゃない限り、放っておくべきが吉だと思ったりする。
だって、わかりあえないんだもの。
経験していないことを交換し合うのは、本当に難しい。
人はどこに一番エネルギーを注げるかなんて、まったく違ってくる。
私は今団体を作って20人ぐらいの人間と接しながら、少しずつ長所を引き出そうとしているけど、こういうのって、最初から何かの基準に当てはめちゃ、その人を見失うし難しいものだと思う。
最初は技術じゃない。
すべてはメンタルなんだと痛感させられる。
趣味なんてものも、その人が大好きだから続けられるわけであって、もう本当に嫌いになったら止めてる。
大好きだから技術が高まる。
これ、性格にも、まったく同じことが言える。
自分がその性格で人に接するのが本当に嫌になったら、ちょっと、変えようなんて思っちゃうのね。
自己嫌悪にはまり込む人がいるけど、もうちょっと自分がカメラに映されている、というか、実際映しちゃってみればいいんだけど、つまらないことこの上ない。
そんな視点で見れない人って、極端に言えば、その性格も自己愛に支えられて続けている。

ひとりひとりは違う。

そんな当たり前のことを、人は自らの体感的に受け入れられないことがある。
見知らぬ人にちょっと言いたくなっちゃう気持ちだって生まれる。
ホント我ら狭い井戸の中にいて、そこから大海に望むリスクなんてかけようとせずに、どうにか楽なほうへと流れようとする。
その典型的な例が言論だ。
あれは軽々しく展開できるけど、尤もらしいことを言いながら、物凄く陳腐なことを言っていることが多々ある。
賛同者を得ると、自らの言葉が、さも正しいかのように感じるかもしれないが、それは、ただ馬鹿と同調しただけかもしれない。
そんな人だって、大衆の力に支えられてしまえば、そう簡単に否定できなくなる。

実質的な権力を持っている、その人が直接関わっている、渦中のキーマン、行動と結果がダイレクトに直結する、などなど、そういう因果関係が裏付けられなければ、たいていは「蚊帳の外のやぶ蚊」程度の人間なのだけど、我らはどうにも、そんな「上辺の人」にも、とても干渉したがる。
いやいや、そんなものが気になるのは自分だけかもしれないね。
なにせ、人の趣味は人の趣味だと言っておきながら、こんな記事を書いていて、集団の意図的な言論の圧力が「社会の声」だなんて言っている人間に疑問を持っている人間だからね。

たださ、最後いきなりぶっ飛んじゃうけど、ダメなものって結構万国共通。
他の国に行った人の話聞いていると「あれ? そこ日本じゃないよね? 日本人じゃないよね?」なんて確認したくなるような親近感を得るダメっぷりを聞いたりする。
その力がどこに行くかってのは、「歴史」に委ねられるんだろうけど、古今東西、どうやらちょっと調べただけでも事情は一緒のようだ。
なんせ、紀元前から我らの上辺の主張はそう変わったりはしないのだから。
だからさ、他人を変えようとする前に、自分が変わって力を持てばいいんだ。
野心を持つ人間ならば、本当に人にものを言いたい人間ならば、人の趣味を作り出せる人間になれるのがベストなんじゃない? なーんて思うわけ。

拍手[2回]

11/16

Sat

2013

他人のゴミと個人の宝

たまに更新されていない、あるサイトを見にいく。
もう5年もそのサイトは更新されていない。
FLASH動画が前にあったが、それもネットでは見られなくなった。
残っているのはFLASHに残された音楽プレイヤー。
唯一それだけを楽しむことができる。
たまに思い出して短いループサウンドを聞きにいく。
昔見た記憶を思い起こして、その音楽が流れたシーンを脳内で再生する。
かつてきちんとした建物だった廃墟に思いを馳せるように。
結局それは売れなかったから、後が続かなかった。
厳しい現実を前にして残った残骸のようなものが、それだけれど、運よく当時動画を見ることができた。
チャチと言えばチャチかもしれないけれど、音楽と簡単なFLASHアニメだけで表現され、台詞は一切なかった。
その手法がとても好きで、何度も繰り返して見た。
多くの人の心には響かなかったかもしれないが、自分には大きく響いて今も残っている。
他人から見て、つまらないものが自分の心に残ったり、琴線を打ったりする。
どうして、とは説明できず、ただ心が反応したまま受け止める。

人を率いる立場になって、自分のことばかり考えていたが時折他人のことも考えるようになった。
今までどれだけ独善的でいたのか、よくわかる。
いざ考えるとなるとあまり思いは巡らないが、それでも少しずつ考える。
他人から見てつまらないものを、個人は大事にしていることが多い。
だいたい頭で容易に想像できることを「理解している」と勘違いしがちだが、どうやら「理解」というのは「行動できてこそ」なのだなとしみじみわかってくる。
「行動」ということを考えると、重い言葉だし、口に出すということも重い。
多くの人はやってみないとどれだけ大変なのか、どれだけ自分の考えに穴があったのか、ということを理解できない。
いつまでも考えているだけでは、その考えに大きな欠陥を残すことになる。
当事者じゃなければ、それに挑戦している人間でなければ、まったく理解できないことだってある。
当人にとっては理解と言うよりも、条件反射に近い反応だって示すことがある。
そんな一つ一つのことを考えながら、感じながら、集まってくれた人たちに活躍の場を提供する。
シナリオは自分が作っているし、もらった台詞や音声ファイルを組み立てていくMIX作業は自分がやっているから、もし面白くなかったら全て自分のせいになる。
それでも、誰か一人の宝物になればいいなと想いを込めている。

心理学用語で「未完の円」という言葉があるそうだ。
円をしっかり描いている方と、輪郭が一部切れている方、どちらが気になるかと言ったら、ほとんどの人が切れている方が気になると答えたそうだ。
その結果から、完全なものよりも、不完全なものの方が気になるという作用らしい。
もっと言うと「完全な円の状態を知っているから」こそ気になる現象だろう。
自他を含め、一つ気に入らないものが見つかると、とことん気にならないものを広げていく。
よほどの人間ではない限り、その些細な悪意を止めることはできない。
挙句の果てには「どうしようもないやつ」という烙印を押す。
「未完の円」のように「自分の理想像からその人間を捉える」からだろう。
それぞれ何かしら癖のある人たちが団体を構成している。
逆にそれが楽しい。

私はあまり自分の趣味を他人に広めるつもりはないのだが、唯一創作という独善的かつ想像的世界だけは他人に示していかないと自分が生きている意味がなくなってしまう。
このことは他人には理解できない感情だし、やっている本人にしかわからない微妙なものもたくさんある。
そう考えると、その行為の真っ最中の人間は誰しも自分のようなものを持っているということだ。

時折、理解はしてあげたいが、失敗するから止めたいというのもある。
年を取っていくと「失敗込みでの経験」という過程を重視して人を見るため、あまり言うことがなくなってくると聞いたことがある。
それができたらよほど立派な人間なのだろうが。

自分にとってくだらなく感じることは、他人にとってもくだらないものであるとは限らない。
そんな当たり前のことさえ意識せねば常日頃忘れ去ってしまう大事なことなのだから、どれだけ「普通の配慮」には訓練が必要かと思う。
それと同じように、作品を作った時、どれだけ相手に届くかは未知数だ。
まったく届かないかもしれないし、ほんの少しだけ届くかもしれないし。
全ては自分の中から始まって、全ては相手の中で終わる。
この当たり前のことが時折怖くなる。
他人にとってただのゴミにしかならないのではないか、とか。
でも、もしかしたら・・・
誰かの宝物を作れるよう、歪な円ながら進んで行こうと思っている。
更新の止まったサイトで同じループ音楽を聞きながら。

拍手[1回]

10/23

Wed

2013

高度になるほど細かな技術が必要になる

歌を歌うために、プロ用のマイクを購入いたしました。
誰かに頼むよりも、自分で率先して手本を見せていかないと、人ってついてこないし、本当にこいつできんのかと舐められるばかりなので、色々と挑戦しているわけなのですが、色々とがっかりすることも多くなりました。
昔、高校生の頃、それはそれは伸びやかに肺活量もよく、高音も綺麗に歌えていたのですが、今や肺活量も衰え、声は伸びがなく、昔の四分の一ほどの歌声になってしまいました。
自分で言うのもなんですが、うまいほうだと思っていました。
しかしそれはただの思い込みで、録音してみると相当下手なんだなということがわかりました。
そしてプロ用のマイクで録音すると、自分の技術のなさが完全に炙り出される形となりました。
つまりマイクが本当に細かな音まで拾うため、声量のなさと技術のなさ、声の微妙な調子、全てわかってしまうのです。
今まで、「荒いもの」でごまかしていたものが、完全に出たわけです。
もし、安いマイクのまま進んでいったら、こういうことはまったくわからなかった。
自分の文章のことにも照らし合わせても同じことが言えます。
高度になればなるほど、その当事者や同じ分野の人しかわからないような細かな技術が必要になってくる。
それを体得して表現するのが「表現者」なのだと改めてわかってきます。
こういうことは完全に実践でしか養えないし、酷いことにやらなければ衰える。
体を使う職業だったら体を大事にしなければいけないし、常に鍛えていないといけない。
自分の考えが相当甘かったということをマイクに教えられたというわけです。
やらなきゃ気がつかない。
想像の中でいたら、いつまでも夢の中でしか生きられない。
現実は苦々しく辛いものですが、欠点がわかっただけクリアできる課題もきちんと見えてくるものです。
これがわからなければ進めないものね。

まあ、プロの凄さはよくわかりました。
文章でも、声でも、やればやるほどわかってくる。

拍手[1回]

10/18

Fri

2013

人との繋がり

私らというか、まあ私も含めて下々の者は、日々くだらない情報をネットを通じて流し合い、さも知ったかのような感じになって、別になんの実にもならない行為を繰り返していて、それをコミュニケーションと言う言葉の馴れ合いによって自分の中の何かを誤魔化しながら生きております。
現実で生きていても離れる人は離れるし、当然他人の人生は他人のものだし、拘束できようはずも決め付けようはずもない。
しかし別にそんなに話し合っていなくとも、何ヶ月かに一回久しぶりに会うような人でも、やっぱりこの人とは気が合うのだなと感じたりする。
そうしたらお互い「積もる話」がたくさんあるわけだ。
だいたい十の位が年が変化すると、内容も軽いようで重苦しくなるし、お互い話さない言葉の間や、その面構えから、なんとなく何かが読み取れてきたりする。
そういうのが「付き合い」なのだろうなと感じたりすることが多々ある。
久しぶりに出会って「この人いい面構えになったなぁ」とか思うと、苦労の片鱗が別に話してもらわなくともわかるわけだから、時間を過ごして年をとったという充実感を得られるわけです。
その上で出てくるのが「立ち振る舞い」ってやつで、ここらへんには人生で得てきた色々なものがにじみ出てきます。
とはいっても、本当に色々な繋がり方があるわけで、結構私の人との繋がり方は偏屈だったりするので、ここに書いてある内容もくだらないといえばくだらないのですが、自分はあまりやりたくないくせに、馬鹿騒ぎが気軽に出来る仲間がいるのは羨ましいなと思ったりします。
そんな雰囲気を見ているだけでいい、参加はしたくないと思っているのに、ああ、あんな不思議な結束力は羨ましいなと思いつつ、家庭を持っていない今しかあのようなことはできないなとも思いつつ、それでも落ち着いたらまた一年ごととか数年後とかに再会して同じような調子で騒げるのだろうなと思ったり。
子供の頃にはとても思いもつかず、思いもよらないことが起こってくるのが「大人になる」ってことで、それをいつまでも拒否していては自分は結構主張しているつもりでも、その主張自体が無様になってきます。
生きていれば、それ相応の苦労があるわけで、それ相応の付き合いが広がり、それ相応の立場に落ち着きます。
そうして、周囲の人脈が形作られ、人脈により環境が整ってきます。
環境があるから人脈があるかといったらそうではなく、環境は意識によって無視することも改革することもできるので、わりと意識が「環境」そのものに捉われていると、様々な事が縛られているかのように出来なくなります。
環境をぶち破ることは原理的にはとても簡単な事で、客観性と好奇心があれば外へ外へと広がっていきます。
初めて会う人にも積極的に声をかけたりとかね、一週間あっただけでも結構広がるきっかけは持てるんです。
ちょっとした勇気があるだけで、一ヶ月で相当変化します。
新しい人と出会い、新しい感性を理解しようと努めると、今度は半年で以前とは考えられなかったペースで何かが舞い込んでくるようになります。
とはいっても、きちんと失礼のないように信義を尽くすってのが前提になるわけですが。
人が人を生かすんです。
自分が生きているわけじゃない。
漢字で書くと「自分だけでは生きられないし、活きられない」というところでしょうか。
特に上に行こうすればするほど、人をよく活かさなければ活かされることもない。
だからこそ、人を殺してしまう人は、必ず見えない壁にぶつかり狭まってくる。
傷つくことも傷つけられることもたくさんある。
清廉潔白で大人になることは難しいし、たとえ自分が潔白だと思い込んでいても、人間同士合わなければやっぱり傷つくんです。
道理がわかっていないとかね、よく「幼い人」だと「それ、あんたが言うことじゃないよ」ということを臆面もなく言われたり言ったり。
他人は容赦ないしね。
我慢できずにぶちまけちゃったりとかね。
そんなこんなで欠点を持ちながら人と繋がっていくわけですね。
「百戦錬磨」って言葉があるんですけどね、これ、「百戦百勝」の意味で捉える人がたまにいるんですけどまったく違うんです。
勝負の中で磨かれていくってことなんです。
実践、つまり行動の中で磨かれていくことを言うんです。
もし、人と付き合うと傷つくこともあるからと消極的になりそうな時、この言葉を思い出すとよいでしょうね。
石は磨かれて珠になります。
人との繋がりの中で、宝石のような人間になることを目指せばよろしいかと思います。

拍手[1回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]