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あさかぜさんは見た

日記

12/02

Tue

2014

人の性格は変わらないと、優秀な年下が言った。
いつ頃からか、記憶があるうちでも20年ぐらい自分の性格と付き合っているはずだ。
心の弱さとコンプレックスと、そして理由のない不安だ。
だが、昔と違うのは行為における消極性を誘発するものではなくなってきた。
昔と同じなのは、何もかも捨てて独りになりたくなることだろうか。

人はなりたい自分になれると、どこかの本で書いてある。
自分のような人間にはちょっとすんなりはいかない。
そう言うと、言い訳だと言われた。
既に自分を決め付けて、やらない自分への言い訳を用意していると。
できる人から見れば、そうなんだろうな。

20代は何もできなかった。
これは本当に自分でどうしようもない状況に囲まれて、そして対処の方法を知らなかった。
ただ、何か大事が起こった時、そこから先、それを背負って生きていける自信がなかった。
なるべく小さく、波風が立たないように。

30代になってからは障害が取り除かれた。
運よくなのか、うまくまとまった。
だから今起こっていることの全ての結果は自分の責任だ。
やらないことに対しての言葉も言い訳だし、時間を無駄に使っているのも自分の責任だ。
何もかも起こっていることは、自分の選び取ったことだ。

人は意思の生き物だが、それ以上に行為の生き物だ。
それも、最も原始的な欲求を根底にしながら行為していく生き物だ。
だから思考は、ただの己への自己暗示でしかない。
すべての結果は行為の延長線上だ。

自分も勘違いしていたが、思考のみでは人生は何も動かせない。
行為でのみ評価される。
そして、優秀な人間は知識や知恵を、きちんと行為においてきちんと利用しているかの成果を見る。
知識に依存し知恵はなく、結果に言い訳し行為を省みず、やらないための理由を既に用意し壁を突破せぬ輩を彼らは嫌悪する。
能力がないとすぐに決断する。

人は己を常に観測してる。
そのほとんどは意識を観測している。
心というものが自分だと思って行動しているが、他者から見ればそれはただの思い込みでしかない。
行為でのみ、他者は見る。
心だけではどうにもならぬ。
言ってもわからないと見られたのなら、見捨てられて当然なんだ。

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11/07

Fri

2014

「役者ってのは相手を食おうとするから自分の間でやろうとする」と言っていた人がいた。
それをぶった切るのが「編集」なのだそうだ。
例えば小説はスタンドアローンかもしれない。
役者も突き詰めれば、それが個性となって部品として組み込まれる。
部品として組み込まれたとき、原石からカッティングが行われる。
その絶妙なカッティングが行われたものを「宝石」と我々は言っている。
カッティングにはルールがある。
そこで独自性を発揮されても、何故か変になってしまう。
宝石の場合は光の法則にしたがっている。
だからルールがある。

さて、芸術という言葉がある。
よくわからない言葉だが、やはりどの業界にもルールがあって、それを破ろうとする人守ろうとする人が必ずいる。
芸なら自分もやっている自覚があるが、さて、「術」とは何だ。
国語辞書によると「目的を遂げるための手段。方法。てだて」になり、ウィキペディアによると、『会意形声。「行」+音符「朮‎」。「朮」はもちあわを意味する語であり、「ねばる」「へばりつく」の意を有する。ある道(行)にへばりついて取得したわざ』となるらしい。
別にこの2つの単純な意味合いから導き出すわけでもないけれど、確かに粘りついて何かしらの目的を達成した芸は、一つの「術」として形成されるわけだ。
それを先人は一生懸命やってきた。
我々もそうだ。

私は最近声優のようなマネをし始め、そしてある程度素人ながら思いっきりがついてくると、相手を飲み込もうとするような、妙な意識が生まれてくることに気がついた。
ナルシシズムの一種なのだろうが、自分を通して相手を見ようとする意識が自分には強い。
これが我が強ければ「お前よりも俺の方が優れているんだぞ」という牽制を常に与えたいという目的が先にたつだろう。
自分は今文章の他に演技というものをかじり始めて、一体人間の本性はどこにあるんだろうと探り出している。

自分がやろうとしている全てのことは何かしらの原石にはなるかもしれないが、だがカッティング作業までできているとは言えない。
自分の技術が高まれば、それがそのまま世に受け入れられるというのは、まずあり得ない。
ようは編集する人がいて、「芸」にこだわり続ける両者の人間がいてこそ出来ることなのだが、世の中に技術が優れていても教えることがド下手な人間がいるように、価値ある原石を生み出せる能力と、その原石をカッティングできる能力は別々であるからこそ、どちらか一方しか持っていない人がいる。
しかし不思議な事に「出来るなら教えられるでしょ」というのが一般的な見方だ。

残念ながらよほどの才能がない限り、やればやるほど「芸」にはルールがあるってことがうっすらわかってくる。
そして、最初から「芸術」にこだわる人間がいるけれど、本当のクリエーターなら、この「芸術」から逃れたいという意識が働く。
ようは「先駆者」にならんとする意気込みや、自らの結果に対する自負のようなものだ。
クリエーターの葛藤は常に矛盾の中にある。世界の一部を切り取らんとする己と、常に広がり続ける世界そのものの二律背反の中でもがき続ける。
逆に言えば、だからこそいい。
そのもがきの中で目的を見出そうとする。
達成すべきものがあるからこそ、そのために「芸」を磨こうとする。
所詮今を生きている我々はそれでいいのだと思う。
逆に言えば目的を持たぬ「芸」ほど、まとまりがなく依存性が高く、依存性が高いからこそ創造性がない。
人付き合いでも依存性が高くなるとダメになるのと同じように、自分の頭で生産性をなくしたらおしまいだ。

さて、私は何を言いたいかっていうと、「術」を考えるなら「芸」を磨かなければいけないということと、「術」というルールがあるのにも関わらず、「芸」の中にもルールがあって、この中に入る人は葛藤し続ける運命を背負うってことだ。さらに広大に広がる「自然」というものへの畏怖が常にあるから二重苦三重苦なのだ。
「芸」を持つからには目的を持たなければいけない。それも、現実的な目的で想像可能な目的だ。それがなければ、よほど「自然」という「ルール」に従っていない限りは滅びる。
面白い世界で、考えれば考えるほど八方塞のようにも感じる。
そう感じるからこそ、針のような穴に、世界の真理のような光明を見出すのも芸に携わる人なのだと思う。

さて、各々方、いかがお考えか。

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10/07

Tue

2014

理想の自分に成る

この言葉を聞くたびに見るたびに、なんだこれって思う。
色々眠れない日々を過ごしていた。
どうしていくべきか、どうするべきか。
他者評価はどうだっていい。
たぶん、自分で思っているよりも自分は醜くて心が弱い。
生きることは生易しいことではない。
特に自分のようなネガティブな精神が染み付いている人間には、なかなかきついものがある。
そんな中で慰めを与えてくれるのは自分よりも心の弱いやつらだった。
馬鹿にしていたが、でもある一件があって、クリエーターとしての己のプライドが問われている。
正直、暇だったからそういうことができたのだと悟った。
そして目上の人たちと付き合うごとに、己の浅さがよくわかってきた。
今はとにかく強引にでも、他者から何を言われようとも、自分の条件を整えるべきだ。
その手段はもはや、違法ではない限り何でもやってやる。

どうしてこういう気持ちにならなかったのか。
まだ面体とかくだらないプライドとかあったんだろうな。
本当に本当につまらないつまらない小さな小さな己による己のためだけの誰にもわからない小さなことにこだわっていた。
こういうことを口走るごとに、誰かさんの顔を思い浮かべるのも嫌だ。

もういい。
もういい。
何もかもがもういい。
だから、何でもやってやる。

生きることはなんとかなっても、生きぬく事は簡単な事ではない。
私は生き抜かなきゃいけない。
自分の携わっている世界で、絶対に。

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09/28

Sun

2014

自分の物事への姿勢の浅はかさにとても恥ずかしくなることが多くなり、きちんと調べるべきなのにとあらゆることに対して思う。
何かを言えばきっときちんと調べていないことは、きっと上の人たちはよくわかっているのだ。
そしてそんな浅はかさを見抜いた上で離れるなり寛大に付き合ってくれるなりしてくれている。
知ったことをすぐに使いたがり、知識を披露するのは、とても恥ずかしいことなのだと知った。
その知識の浅さは出せばすぐにわかられてしまう。
ジョージ・カーリンの言葉の中にこんな言葉があった。

たくさんの学位を持っても 
センスはなく
知識は増えたが 
決断することは少ない

http://feely.jp/9763/

とてもいい言葉なので全文読んで欲しいけれど、知識にはセンスが必要だし、ただ知っていればいいということではなく、ただ出せばいいというものでもない。
ちゃんと出すタイミングや、その知識が指し示す方向性などを吟味して使うべきなのに、身にもついていない知識を披露し、知ったような素振りで語ることの恥ずかしさというものを身にしみて痛感することが多くなった。
正直色々なものがキツイ。
これからは少しずつきちんとできるよう心がけようと思う。

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08/26

Tue

2014

帯広行ったり彫刻家と出会ったり

ここ一週間ぐらいのことを。
22日から1泊帯広におりました。
23日にやるばんえい競馬ってやつを見に行こうと、ふと思い立ちまして、22日の夜は知人に教えてもらった豚丼屋に並びまして、食べました。
あまり並んでまで食べようと思うタイプなのではないのですが、せっかくなのだから地元民が知る豚丼おすすめスポットで堪能して来ました。
その後ホテルの中で3時間ほどメンバーのお悩み相談。
自分も家族のことで相当精神を病んでいたことがありましたが、外国と言えど似たような事情があって、当時の自分の気持ちを思い出しながら話しを聞くだけでも楽になるだろうなと思いチャットでやりとりしておりました。
なんやかんや香港台湾カナダと広がっているので、今度はヨーロッパ圏のメンバーが欲しい・・・これは蛇足でしたが。
夜は屋台村が帯広にあり北海道はここが元祖。
狭い区画に10店ぐらいの店舗があるのですが、中のスペースは8人ぐらい座れればよい方。
密着した感じがより親近感を抱かせ話も弾みます。
その道路挟んで向かい側にもプレハブのような装いの小さな店が並んだ場所がありました。
屋台村では、あまり混んでいない店で大きなゆり根を食べながら色々と地元のことを聞きました。
十勝という場所はもうブランドになっているからTPPなんぞなんのその。
逆に売り込めるじゃんって話でしたよ。
道路挟んだ場所でも一店入ったのですが、美人に中から微笑まれ、ちょいと負けまして入ったのですが、そこで酔っ払ったお客がいて、高校野球部の監督の話になった時知人なのか「俺そいつ知っているよ。あいつ大っ嫌いなんだ」と話す人がいて、その嫌いな相手の友人が偶然にも真ん中に挟まれる形となり、お客同士一人挟んで3人で談笑していたのですが、さすがに挟まれた人はよい思いをせず、苦笑するあまりでしたが、でもそのおかげでと言ってはなんですが、自分とも話す形となり、ほんの少しの時間でしたが苦笑していた方と会話することができました。
消防署の署長さんなんですって。
また帯広は六花亭というお菓子屋さんの本店がある場所。
その社長さんの名前が出てくるぐらいだから、ああ、どんなところにどんなご縁があるかわからないなとしみじみ思いました。

次の日、前日の雨とは打って変わって晴れ晴れとした天気で、ばんえい競馬を見に。
隣接している十勝村という場所で高橋涼子さんというシンガーソングライターさんと出会いました。
ビラを配っている人に「一曲だけでも聴いていってください」と言われ、そこまで必死になっているのに一曲も聞かないで行くのは、なんだかな、と思い聴いていたら結構綺麗な歌声。
最近いい歌い手さんを自分の作ったコンテンツで使わせてもらえないかなと交渉することがあるのですが、狙い目は会社の所属じゃなくてフリーで立ち回っているっていう人で、ちょうどそのような匂いがしたのもあり、最後まで聞き、CDを一枚買い、話を聞くと次の日に札幌でやるから来てくれとのこと。
ミニライブ風景も見に行けば少しは違った感覚が手に入れられるかもしれないと予定に入れ、ばんえい競馬では人生初めての競馬をやり、3レース全部おじゃん。
結構しっかりとした馬選んだつもりなのですが、馬は見かけによらず、最初小さな山、直線、大きな山、と重い重りを引いて乗り越えていくレースなのですが、その直線で止まっちゃう馬がいる。
賭け事すると変な気持ちが生まれるもので、誰かに金をかけて思いを託しちゃうと「お前なんでそこで止まってしまうんじゃい」って恨みがましい気持ちが芽生えるっていうか、外野にいて、たぶん賭ける金がでかくて、しかも懐に余裕がなくて、せせこましい生活を送っている人間ほど、無理強いをするというか、自分以外の人の気持ちを理解しないというか、そもそも己の立場を超えて理解しようとする考えが浮かばないのではないのかなと、自分の妙な気持ちを考えてみて思いました。
純粋に馬に頑張れっていうんじゃなくて、自分が儲けるために馬に頑張れっていう気持ちが大きくなっていきそうな怖さが、何か自分を後ろめたい気持ちにさせちゃうんです。
純粋に馬を応援できる人は素晴らしいなとも思います。
ですがね、さすがに競馬場ほどではないにしろ、やっぱりどこかしら見た目からうさんくさそうな人はちらほらいる。ギャンブルやる人の中には金銭における勝った負けたで興奮する人の方が断然多いのだろうなと感じました。
ばんえいはスピードがない。
早足で歩いて追いつく程度のレース。
一レース1分半少々。
そういう、競馬で抱くようなイメージとはまったく違う、力強く大地を踏みしめていくレースなので、もう少し別の切り口が必要なのではないかと感じさせた。
その後十勝村で無かん水麺を使用した牛乳ラーメン塩味を食し、卵麺と小麦麺の中間のような硬さで甘みのある新しい食感の麺に感動し、そして駅でチーズケーキのような味わいのソフトクリームを食べて札幌に帰りました。

翌日高橋涼子さんのミニライブで綺麗な歌声を堪能し、そのライブ会場で昨日ばんえい競馬の会場にいたニュージャージーから来たという人を見かけ少し話し、マスターとも少し話しこみ、すすきのへ。
最近出入りしている面白いコミュニティのバーへ行ったのですけれど、衝撃的な出会いをしました。
谷本洋さんという陶芸家の方で、さらに自分にとって幸運なのは質問者が偶然にも同席してくれて色々聞いてくれたっていうのがよかった。
自分も感性を失わずに生きてこようと思ってきたけれど、彼の感覚に比べれば浅すぎて己に噴飯するほど。
芸術家としてはサラブレッドですが、それでもよほど苦労なされたのだということは経歴からも話からもわかり、表現が明瞭。
冗長なところは一切なく、素直な質問者もいるので、意地悪な質問もしたかったけれど、答えを聞いていて何が返ってくるのかうっすらと見えて、そして人間の器としても芸術家の感性としても、まず桁が違うってことを感じさせてくれて、本当に逃げ出したい気分にもなった一日でした。
映画でアマデウスってやつがありましたけれど、モーツァルトに嫉妬するサリエリの気持ちが正直また一つわかりました。
いや、本当に、ごめんなさい、自分性格悪いものですぐ批判癖が出てくるのですが、この方はもう素晴らしい。
本当によい出会いをさせていただいたとともに、このようなことを書くのもおこがましく、またわかりきったことですが、未熟さを再認識したと同時に、自分が何を失いかけてきて、そして荒みかけているのかもよくわかりました。
私はこの方といっぱいお話したいけれど、私は口を開くよりも前に、作品をどんどん作ることの方が先なのではないかと思わされました。
さすがにモノをちゃんと作っているだけの人で、ちょっとした話にも惑わされない。きちんとその人を見ようとする。その腰の落ち着け方一つでさえ、今の自分には到底及ばない。つまり、モノづくりの一人としては、手ぬるすぎるところにいるのだということ。
だから会いたいけれど、今は話すことが何もない。
そういう人でした。

今日もまた同じ場所でお会いすることができたのですが、彼が帰った後、彼が持って来て下さってマスターにプレゼントした器でマスターのはからいで特別に飲ませていただいたのですが、最初日本酒、最後にはラム酒を注いでみました。
深い茶褐色のような、なんとも言えない色合いなのですが、中に貝殻の図があり、そこから太陽のフレアのように一回転半外の淵に向かって渦を巻いている。
乾いている時には砂のように大変味気がなく、かといって、見るものに無意味さを与えるものではないかのような、若干歪で趣のあり、手のぬくもりが入っている器だったのだけれど、手の平に納まりそうなその器は濡らすと非常に官能的で、舌を伸ばしたくなるようなほど艶めいていて、水面に浮かぶ光は器の中で乱反射していくつも浮かぶようだった。
特に琥珀色の液体を入れたとき、中にまるで土星のような迫力が浮かんだ。
「こいつは地球を越えたね」
とマスターが言ったが、まるで燃え盛る炎を見るようだった。
器の表面にまでバシバシと火花を散らし、偶発的なように見えて計算的な炎の踊りを間近で見た。
そいつを大事に飲み、そして家に帰ってきた。

その方は優しい人だった。
わざわざこんな野良犬の遠吠えにも振り向いてくれるような人なのだから。
いつか、この方と強烈なインスピレーションを交換し合えるよう、己の中にある「刃」を「血」を、もっともっと純なものへと近づけなければいけないなと勉強させていただいた。
そして高橋涼子さん。
小さな規模ではあるけれど、ちゃんとファンがついていて、そして小さな規模だけれどちゃんとやっていける。
それを見させてもらった。
これから団体を動かしていくのに、人数につきどれだけの規模を作らなければいけないのか指標ができた。
色々と勉強させていただくことが多く、収穫の多い一週間だった。
彼女が居なければ谷本さんに出会うこともなかった。
そういう偶然の連鎖が、言うなれば幸運の連鎖が、今の自分を少しずつ作り上げている。

ありがとうございます。


※後で追記。
先日またちょっとした縁でばんえいの騎手に兄貴がいるという方と話したのですけれど、「どうして馬は途中で止まるのか」「騎手はどうして後ろに引っ張るのか」という理由が判明しました。
まずペース配分しないと馬の心臓がやばくなるということと、後ろに引っ張ってペースを保つ。
そして同時に後ろに引っ張らなければ前のめりに倒れることがあるということ。
ようは馬の体を壊さないようにとの配慮も入っているのだそう。
そこがわからなければ普通の競馬に慣れている人は苛々するよね、と言っていました。
そういうのちゃんとわかっていれば、もう少し見方も変わったんだけどね。
普通の競馬と違うならばちゃんと違いを説明しないと面白みがわかりませんね。
ということで、その騎手の嫁さんがやっている店が屋台村のすぐ近くにあるということが判明したので、またちょっと尋ねる理由ができました。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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