頭じゃわかってても、物凄い気になることはある。
自分は東京に行った時、物凄い違和感を感じた。
新宿なんて、人が人扱いされていない。
物扱いされている。
なんとなく、そんな冷たさを札幌で育った自分でさえ感じるほどだ。
彼らは干渉しない代わりに、自分の立場を確保する。
なるべくお互い迷惑かけないように、という配慮なのだそうだ。
東京人が言っていた。
ネットで情報がたくさん発信できるようになって、どうでもいいことばかり上澄みに溢れるようになった。
本当にネットというものを活用するには、自らが深い知識と見識を手に入れ、生涯研鑽し続けなければいけない。
さもなければ、怠惰さに流され、どうでもいい情報ばかり信じ、人に対してもわかったようなことばかり、偉そうになって言い続ける。
検索のキーワードを打つにも自らの知識がものを言うし、内容が信義かどうかも深い洞察力が要求される。
情報を発信していれば、どうでもいい情報だってある。
特に趣味なんてものがそうだ。
その人個人の気の紛らわし方や、趣味嗜好なんてものは、人それぞれで全員が一致するわけじゃない。
「あんた、それは浅いね」なーんて、思い思われるんだから。
味覚なんて、その最も代表格たるものだが、どうしてか「おいしいものは人もおいしいと感じる」だなんて錯覚を起こしている。
人の味覚は自分とは違うと感じたのは、人に料理を振舞った時によく経験したんだが、やはり「体感しているもの」は各々違っている。
ある小説でカティーサークが出てきた。
登場人物のお気に入りで、わざわざ名前を出すってことはお気に入りなんだろうが、私はあの独特の酸味が飲みなれたウィスキーとはちょっと離れていて苦手だ。
ホットミルクコーヒーに入れるにも、豆を選ばなきゃいけないし、どうせならホワイトホースあたりが無難かなと思って、冬になった今、たまには、それも飲もうかなと考えている。
札幌もナナカマドが白い冠を被ってシンデレラになり、赤く膨らんで地に落ちた。
鳥がその餌を食えば、もう、本格的な冬だ。
私たちは、あまり意識することはないが、地域性とか、まあ、環境ってのがあったりする。
そんな中で人の趣味や嗜好や思想なんてものが培われるのだが、いいもんばかりが培われるわけじゃない。
当然、「あんたちょっとそれどうなの」、なーんて気になっちゃうことだってある。
私たちの情報はだいたいは「東京発信」で、なんだか、自分たちが慣れ親しんでいる都会の基準が、どうやら社会生活を送るための基準であったり、はたまた「おいしいもの」「まずいもの」であったりもする。
そして、日常の行動基準までもに物を言う人間がたまに現れるのだが、どうせダメだとしても、代償を払うのはそいつだし、放っておけばいいのに、老婆心からならよいのだが、「自分が気に入らないから」という理由で物を言う人がいる。
「自分が気に入らないから」と「親切心」を混同している人は圧倒的に多い。
それって、どうなの、なんて思っちゃう。
人にはそれぞれ趣味があるし嗜好があるし行動哲学がある。
それがあまりにも独善過ぎたら社会に出た時、代償を払うのはその人だ。
よほどダメじゃない限り、放っておくべきが吉だと思ったりする。
だって、わかりあえないんだもの。
経験していないことを交換し合うのは、本当に難しい。
人はどこに一番エネルギーを注げるかなんて、まったく違ってくる。
私は今団体を作って20人ぐらいの人間と接しながら、少しずつ長所を引き出そうとしているけど、こういうのって、最初から何かの基準に当てはめちゃ、その人を見失うし難しいものだと思う。
最初は技術じゃない。
すべてはメンタルなんだと痛感させられる。
趣味なんてものも、その人が大好きだから続けられるわけであって、もう本当に嫌いになったら止めてる。
大好きだから技術が高まる。
これ、性格にも、まったく同じことが言える。
自分がその性格で人に接するのが本当に嫌になったら、ちょっと、変えようなんて思っちゃうのね。
自己嫌悪にはまり込む人がいるけど、もうちょっと自分がカメラに映されている、というか、実際映しちゃってみればいいんだけど、つまらないことこの上ない。
そんな視点で見れない人って、極端に言えば、その性格も自己愛に支えられて続けている。
ひとりひとりは違う。
そんな当たり前のことを、人は自らの体感的に受け入れられないことがある。
見知らぬ人にちょっと言いたくなっちゃう気持ちだって生まれる。
ホント我ら狭い井戸の中にいて、そこから大海に望むリスクなんてかけようとせずに、どうにか楽なほうへと流れようとする。
その典型的な例が言論だ。
あれは軽々しく展開できるけど、尤もらしいことを言いながら、物凄く陳腐なことを言っていることが多々ある。
賛同者を得ると、自らの言葉が、さも正しいかのように感じるかもしれないが、それは、ただ馬鹿と同調しただけかもしれない。
そんな人だって、大衆の力に支えられてしまえば、そう簡単に否定できなくなる。
実質的な権力を持っている、その人が直接関わっている、渦中のキーマン、行動と結果がダイレクトに直結する、などなど、そういう因果関係が裏付けられなければ、たいていは「蚊帳の外のやぶ蚊」程度の人間なのだけど、我らはどうにも、そんな「上辺の人」にも、とても干渉したがる。
いやいや、そんなものが気になるのは自分だけかもしれないね。
なにせ、人の趣味は人の趣味だと言っておきながら、こんな記事を書いていて、集団の意図的な言論の圧力が「社会の声」だなんて言っている人間に疑問を持っている人間だからね。
たださ、最後いきなりぶっ飛んじゃうけど、ダメなものって結構万国共通。
他の国に行った人の話聞いていると「あれ? そこ日本じゃないよね? 日本人じゃないよね?」なんて確認したくなるような親近感を得るダメっぷりを聞いたりする。
その力がどこに行くかってのは、「歴史」に委ねられるんだろうけど、古今東西、どうやらちょっと調べただけでも事情は一緒のようだ。
なんせ、紀元前から我らの上辺の主張はそう変わったりはしないのだから。
だからさ、他人を変えようとする前に、自分が変わって力を持てばいいんだ。
野心を持つ人間ならば、本当に人にものを言いたい人間ならば、人の趣味を作り出せる人間になれるのがベストなんじゃない? なーんて思うわけ。
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