心理学の用語の中にはピグマリオン効果、ゴーレム効果という言葉がある。
前者は相手に期待し、大いに褒めたり君はできると葉っぱをかけていくことによって、その通りの効果を徐々に得られ、後者はまったく逆で蔑みなどを加えていくことによって、その言葉の通りの人間になっていくという意味だ。
例えば後者の場合、長年何者かの暗示や周囲の否定的な言葉、自身の日常的な思い込み、深層心理などにより、メンタルブロックが強固になっていく。
メンタルブロックというのは、行動を起こす時ムクムクと湧き上がるネガティブな心理の壁のことで、これは表層上の意識や言葉に関わらず無意識が大きく関わる。
例えばそれは「勝つ」という場面において如実に関わってくる。
「勝つ」と言う言葉ではわかり辛いが、勝負所とか、優劣がつく場面において、必ず「劣」側に入ってしまうということ。
でも、負けてどこかほっとしたり当然だと思ったり、やりもしないのに大きな妄想をしたり、疑いの心もここに含まれたり、トラウマもある。
やらなければいけない場面で、何かと理由をつけてできずじまいだったり、一歩踏み出さなければいけない場面において臆病になったり、失敗するイメージや失敗したらどうしようということばかり考えてしまったり。
人間とにかくいろいろな事があるから、いいところはどんどん伸ばしていかないといけない。
怒られたり否定されるばかりじゃ何をしてよいか、まったくわからなくなってしまうもの。
しかも残念なことにほとんどの場合、悪い印象だけが強く残って、どうして怒られたのかとか、何故否定されるのかとか、そこまで考えはいかない。
否定ばかりされていると失敗のイメージばかり浮かんだり、失敗したら怒られるという萎縮した気持ちしか出てこず、のびのびと何かをすることは出来なくなる。
心理が硬直化すれば体も硬直化し、行動は限定されてくる。
そしてグチグチと他人のせいにばかりして、自分で積極的に行動を起こして何かを学び取ることが乏しくなる。
先日二回目の仕事先の人たちで麻雀を打った。
私はネット麻雀しかしていないなかった。
初回はタイミングを逃し役を考えるので手牌ばかり見て、捨て牌をあまり見ることができず、余っている牌さえもよくわからなかった。
一回目は大負け。
「負けないために勉強することも大事」
仕事先の上司に言われ、多少は役を学びなおしたが、先日の二回目二連続トップの後、頭がぼんやりしてきて三連続ビリだった。
なにせ徹夜麻雀なので、朦朧とした中でやり続けるといった具合だった。
麻雀のわからない人にはさっぱりだが、ようはそこも「勝負の場」だ。
如実に性格が出る。
心理が出る。
若い人が一人いたが、やっぱり勝てないと苛々していたが、慣れている人だから、最後には勝ち進んでいた。
一方私は運が相当向いていたにも関わらず、運を生かす技術が乏しかった。
慣れない勝ちに震えた。胃が痛くなってしまった。
正直そんな自分に腹が立った。情けないことだと思った。
負けが身に染み付いていて、それでいいのだと、どこかで思っていたに違いない。
学校に通っていると、すべてはテスト形式で、決まった物事をこなせれば優れていると判断されるが、年を取って大人になるにつれて徐々にそういうテスト形式の決まった物事からは大きくそれて、「どれだけ知恵があるか」で能力は判断される。
社会はほとんどが決まった物事で出来上がっているので、そこをきちんと守りつつ、というのがだいたいの前提になるのだが。
決まった物事であろうと、そうではなかろうと、メンタルブロックは大きく関わってくる。
前者は自分にとって困難であればあるほど働くし、後者はリスクが高ければ高いほど働く。
どれだけ頭がよくても「責任を負わない」人間は相手にされないし、そういう意味で卑怯な立場から人に物事を言う人間にはよい仲間など出来ない。
せいぜい「卑怯な仲間内」しかできない。
そしてその「仲間内」同士で「メンタルブロックの呪縛」を掛け合う。
癒しあっているようで、相互に慰めあいつつ、見せ掛けの優しさで傷の舐めあいをし、あまり突拍子もない高みにいかないように、相互監視をしあう。
もしくは誰かがいい思いをしたらぶら下がろうと思ったり、自分の不幸をやたら自慢して、人から慰みを貰おうとする。
自分で自分の人生をなんとかしようとしないうちは、学び取ることも物凄く少ない。
わかりやすく言えば、人はリスク中で物事を学ぶのだ。
そこで勝つことを学ぶのではなく、きっと、負けないための技術を学ぶのだ。
どうやったって運が悪い時、巡り会わせで何かと厳しい立場に立たされたりすることもある。
そういう時に被害を最小限に食い止める方法をリスクから学び取らなければいけない。
そして最後に重要なのは「自分は勝つべくして勝つのだ」と自信を持っていなければいけない。
それが「棚から牡丹餅」の心理ではなく、しっかりとした裏づけがあってこその自信でなければいけない。
自分ひとりで物事が成り立つことなど皆無だ。
人などに頼っていないと思い込めるのは、現在の社会システムが個人にそう思わせているに過ぎない。
だからと言って、人に甘えすぎると大変な事になる。
何故なら、その「過ぎた甘え」もイコール「搾取」と同じ構造になるからだ。
それを回避するには与えていかなければいけない。
もらった分くらいは返さないと、どこかで利子をつけて返さなければいけなくなる。
しかもそれが人生のほぼ人生の最終局面だったら最悪の老後を迎えてしまうのだから。
「虎穴にはいらずんば虎子を得ず」
このことわざは、誰もが知っていながら、誰もがその意味を考えようとしない典型的なものだ。
局所的な勝敗で人生に優劣をつけてはいけないにしろ、せめて他人に何かを与えられる人間に育てるようになれれば、その恩恵はきっとくる。
追記:
「深夜から早朝まで麻雀やって疲れました」とある人に言うと、「もうそんなことやめな。その時間他の事に回したほうが、もっと有意義だよ」と言われた。
今時お姉ちゃんのいるお店に入ったとしても、高いだけで、あちらさんの話を聞かされるだけ。
なんと無意味な時間か。
消費をしているだけで何も生産しない。
それこそ「無為」なのだな、と感じた。
時間を湯水のごとく流しているだけだ、と。
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