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あさかぜさんは見た

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10/11

Fri

2013

~がないから。

よく聞く言葉だ。
「~がないから~できない」という。
なんとなく、本当にそうなのだろうか、と考える。
つまり、確かに慣習上や今までのパターンから言えばそうかもしれないが、そのセリフの中にアイディアや努力などは含まれているのだろうか。
自分もよく人に対して断定的に言うことがある。
しかしもしその言葉通りになるのなら、言った時点からは何も成長していないということを意味してる。
正直、私はそういう人間と付き合うのが嫌だ。
昔、数年前と何一つ変わらず、しかも状況が悪化している人と出会い、変な錯覚を起こした。
「自分は過去に戻ったんじゃないだろうか」と。
人は何かしら大なり小なり挑戦していれば成長していくものだ。
その場限りの何かでしのぐより、年相応の積み重ね方ができる。
すべてのことが足りなくて私たちは生まれて、そしていつの間にか大きくなって、年齢によってこなせることが出来ていないと責められてしまう。
何もなくて生まれてきたのだから、いつだって足るように成長していかなければいけない。
それがいつの間にか周囲の環境や過去に慣れ親しんでしまって「~だから」と自他共に言い始める。
そんな夢のない言い方があるだろうか。
創造力のない言い方があるだろうか。
ただ、やっちゃいけないのは、人に対して著しく不誠実な行為をすることだ。
清廉潔白で人生を終えることはできない。
だが、義理や相手の信条の通し方ぐらいはきちんと学んでいこうと思わないと、いったい何を得られるというのだろう。
私たちの人生は妥協の連続。
忍耐力の豊かさを学ぶのが「経験」というのかもしれないと最近思っている。
決め付けるのを少しだけやめることで、人を幸福にするための能力を考えることで、私たちはもがくことができる。
そのもがきのなかで、這いずり回った十センチの中で、私たちは大きな発見を得る。
そうやって成長していく。
だから「~がないから」などと言って、いつまでも行動しないのは、他者を責めるよりも前に自分の臆病さを敵としたほうがよいのだ。
私だってろくな人間じゃないが、それでも、一人でも幸せな気分に浸らせたいよ。
そういうものを見られたのなら、きっと酒がおいしくなるに決まっているからね。

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09/24

Tue

2013

使わなきゃ衰える

年を取ればなおさら。
若ければあまり気づきにくいが、若かったとしても、ものの一年ほどで衰える。
これは体力的な事に限らず、能力や技能、体に備わる様々なことに言えること。

使わなければ衰える。

今、ボイスドラマのことをやっているけれど、例えば歌。
高校生の頃は喉を開ききってのびのびと歌っていたのに、今は喉を絞りきって歌っているため、すぐに喉が痛くなる。
腹で歌わなくなったので伸びがまったくなくなったし、何よりも張りがなくなった。
今も喉が硬いまま声を出し続けているため、すぐに声がかすれてくる。

そういえば、シナリオも書くようになったけれど、思ってみれば昔の方がインスピレーションは高かった。
もっと自由に様々なことを発想できたし、もっと突拍子もないことを考え付いていた。
今はというと、「~しなければいけない」「~であるべき」「~は~だ」という考え方が染み付いていて、そんなガチガチの思考がインスピレーションをことごとく奪い去っている。
その原因には「ストレス」もあったし、自分の経験、物事が思い通りに行かないという妙な焦りや、消極的かつ否定的な考え方もあったし、とにかくイライライライライライラして、ちょっとしたことでも収まりがつかなくなったりと大変だった。

今ほんの少しずつ若かりし頃の自由な状態というのを取り戻すきっかけのようなものが見え始めている。
しかしまったく若かりし頃と逆なのは、いわゆる努力とか苦労とか、簡単な言葉で言い表わせれるけど途方もない積み重ねをしてこその「自由」なのだということが日々身に染みてきている。
それは「大人の自由」ってやつなのだと思う。
ただ、私は運がいいし、人生にとって重要な事を引き寄せられる強烈な力を持っていると信じているので、私の環境は私の大事をこなす上では幸運な環境なのかもしれない。

しかし、何かを生かしてやれる能力さえ身につけていけば、そして努めて他者のためにその能力を発揮できれば、トータルで必ずプラスになる。
たとえ批判する人がいても、傷つけてしまう人がいたとしても、その分はいつかは取り返せる。
自分の中で世界を狭めてしまうことが一番人生のリスクを高くする。

日常の中に溺れきってしまうと、自分の何が衰えているのかなんて気がつきやしない。
一生懸命仕事して、クタクタに疲れきっていて、「遊び」の自由も忘れ、ちょっと走ったらすぐに息切れ、あれ? 自分こんなんだったっけ? こんなに疲れやすかったっけ? なんて過去を思い返したり。
そんな瞬間はふとした時にやってくる。
年を取れば衰えてくるものもあるけれど、それ以上に積み重ねられるものがある。
使えば使うほど積み重なる物だって、大人だからこそある。
逆にいえば使っていないものは、まったく伸びない。
人は自分の持ち得ないことや知りえないことを様々に想像して勝手な事を言ってくる。
その時自分に問えることは「いずれ自らの行為は他人に誇れることか」だと今は思う。

真剣にやってこそ見えてくるものがある。
真剣にやって、ようやく気がつくことがある。
そんな自分にとっての新しい発見が、自らの心を豊かにしていくし、人生に潤いを与える。
だからこそ、限界だと思うもう少し先を目指して、自らを使ってみるといい。

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09/19

Thu

2013

今回初めて長編ボイスドラマを製作しているのですが、特に自分がシナリオ書いたものだとよくわかってくることがあります。
今回指示したのはキャラクターの性格よりも、場面の説明でした。

今みんなで映像見てます。
流れる映像の指摘をしているのでセリフは早めに。
仕事の部分のセリフとそうじゃない部分のセリフのメリハリがないです。
ここ、もっと茶化すような言い方の方がいいですね。
このセリフ、声張り上げてしまったら相手になすりつけることになりませんか?
みんな沈んでいるので、その空気を感じて欲しい。

なんて指示していると、ふと気がつくことがありました。
小説もそうなのですが、何を一生懸命やっているかって、相手の気持ちを懸命に考えること、だったんですね。
そして誰かに伝える「伝達」の部分で初めて「技術」が必要になる。
その前の「心の中の作業」というものがしっかりできていないと、つまりイメージングがハッキリ出来ていないといくらでもぶれてくる。
迷って結局ダメになっていく。
どこか、今まで「自分がやる」という意識が強かった。
自分がやっているんだ、とか、自分の技術がうんぬん、とか、自分が作ったものがうんぬん、とか。
でも、今回人に指示をしたことによって自分で得るものが大きかった。
「自分がやる」というのは心の中の段階をきちんとしてからじゃないといけない。
誰かの気持ちを懸命に考えて、それを自分の中に落とし込んで技術で伝達するのも芸事の一種。
で、この「人の気持ち」がわからなければぶれるに決まってる。
よく考えれば仕事の基本って、だいたいこの「人の気持ち」ってやつに集約されていて、「よい仕事」ってだいたい「人の心を捉える」ことだったりする。
自分がこのレベルで物事を再現したいからって、それが通ることはまずないし、その前にそれができるなら自らが一級品じゃないといけない。
自分が一級品だからと言って、相手のレベルがそこまでかといったらそうじゃないし、感性だって考え方だって、経験だって違う。
その「差」というものをきちんと見つめながら、一緒に作り上げていくという楽しさと、互いに足りないもの、長所を持ち寄り、短所を指摘しあいながら、徐々にレベルアップしていくという楽しさを学びました。
今まで意識しなかった「創作」における、「他者の意識」が混じった時に出てくる、新しい領域を体験しましたよ。
それは自分だけの意識じゃない混ざり合いで生まれてくる、「総合力における創作」でした。
自分の意思を通すのは簡単。
自分の想像通りにやっていくのもある程度できる。
でも、自分が思ってもみなかったところで、面白くしていくのは、自分自分しているよりも、他人の気持ちや考え方に寄り添いながら、進めていくことが必要なのだなと感じました。

自分も弱い。
意志がすぐ曲がる。
精神もすぐヘナヘナになる。
でも、これは本当に楽しい。
苦しんででもやるべき場所なのだなと、ようやく人を巻き込んだ創作の領域で、苦しみと同じような楽しさを見つけることが出来ましたよ。

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08/06

Tue

2013

勝てない心

心理学の用語の中にはピグマリオン効果、ゴーレム効果という言葉がある。
前者は相手に期待し、大いに褒めたり君はできると葉っぱをかけていくことによって、その通りの効果を徐々に得られ、後者はまったく逆で蔑みなどを加えていくことによって、その言葉の通りの人間になっていくという意味だ。
例えば後者の場合、長年何者かの暗示や周囲の否定的な言葉、自身の日常的な思い込み、深層心理などにより、メンタルブロックが強固になっていく。
メンタルブロックというのは、行動を起こす時ムクムクと湧き上がるネガティブな心理の壁のことで、これは表層上の意識や言葉に関わらず無意識が大きく関わる。
例えばそれは「勝つ」という場面において如実に関わってくる。
「勝つ」と言う言葉ではわかり辛いが、勝負所とか、優劣がつく場面において、必ず「劣」側に入ってしまうということ。
でも、負けてどこかほっとしたり当然だと思ったり、やりもしないのに大きな妄想をしたり、疑いの心もここに含まれたり、トラウマもある。
やらなければいけない場面で、何かと理由をつけてできずじまいだったり、一歩踏み出さなければいけない場面において臆病になったり、失敗するイメージや失敗したらどうしようということばかり考えてしまったり。

人間とにかくいろいろな事があるから、いいところはどんどん伸ばしていかないといけない。
怒られたり否定されるばかりじゃ何をしてよいか、まったくわからなくなってしまうもの。
しかも残念なことにほとんどの場合、悪い印象だけが強く残って、どうして怒られたのかとか、何故否定されるのかとか、そこまで考えはいかない。
否定ばかりされていると失敗のイメージばかり浮かんだり、失敗したら怒られるという萎縮した気持ちしか出てこず、のびのびと何かをすることは出来なくなる。
心理が硬直化すれば体も硬直化し、行動は限定されてくる。
そしてグチグチと他人のせいにばかりして、自分で積極的に行動を起こして何かを学び取ることが乏しくなる。

先日二回目の仕事先の人たちで麻雀を打った。
私はネット麻雀しかしていないなかった。
初回はタイミングを逃し役を考えるので手牌ばかり見て、捨て牌をあまり見ることができず、余っている牌さえもよくわからなかった。
一回目は大負け。
「負けないために勉強することも大事」
仕事先の上司に言われ、多少は役を学びなおしたが、先日の二回目二連続トップの後、頭がぼんやりしてきて三連続ビリだった。
なにせ徹夜麻雀なので、朦朧とした中でやり続けるといった具合だった。
麻雀のわからない人にはさっぱりだが、ようはそこも「勝負の場」だ。
如実に性格が出る。
心理が出る。
若い人が一人いたが、やっぱり勝てないと苛々していたが、慣れている人だから、最後には勝ち進んでいた。
一方私は運が相当向いていたにも関わらず、運を生かす技術が乏しかった。
慣れない勝ちに震えた。胃が痛くなってしまった。
正直そんな自分に腹が立った。情けないことだと思った。
負けが身に染み付いていて、それでいいのだと、どこかで思っていたに違いない。

学校に通っていると、すべてはテスト形式で、決まった物事をこなせれば優れていると判断されるが、年を取って大人になるにつれて徐々にそういうテスト形式の決まった物事からは大きくそれて、「どれだけ知恵があるか」で能力は判断される。
社会はほとんどが決まった物事で出来上がっているので、そこをきちんと守りつつ、というのがだいたいの前提になるのだが。

決まった物事であろうと、そうではなかろうと、メンタルブロックは大きく関わってくる。
前者は自分にとって困難であればあるほど働くし、後者はリスクが高ければ高いほど働く。
どれだけ頭がよくても「責任を負わない」人間は相手にされないし、そういう意味で卑怯な立場から人に物事を言う人間にはよい仲間など出来ない。
せいぜい「卑怯な仲間内」しかできない。
そしてその「仲間内」同士で「メンタルブロックの呪縛」を掛け合う。
癒しあっているようで、相互に慰めあいつつ、見せ掛けの優しさで傷の舐めあいをし、あまり突拍子もない高みにいかないように、相互監視をしあう。
もしくは誰かがいい思いをしたらぶら下がろうと思ったり、自分の不幸をやたら自慢して、人から慰みを貰おうとする。
自分で自分の人生をなんとかしようとしないうちは、学び取ることも物凄く少ない。
わかりやすく言えば、人はリスク中で物事を学ぶのだ。
そこで勝つことを学ぶのではなく、きっと、負けないための技術を学ぶのだ。
どうやったって運が悪い時、巡り会わせで何かと厳しい立場に立たされたりすることもある。
そういう時に被害を最小限に食い止める方法をリスクから学び取らなければいけない。
そして最後に重要なのは「自分は勝つべくして勝つのだ」と自信を持っていなければいけない。
それが「棚から牡丹餅」の心理ではなく、しっかりとした裏づけがあってこその自信でなければいけない。

自分ひとりで物事が成り立つことなど皆無だ。
人などに頼っていないと思い込めるのは、現在の社会システムが個人にそう思わせているに過ぎない。
だからと言って、人に甘えすぎると大変な事になる。
何故なら、その「過ぎた甘え」もイコール「搾取」と同じ構造になるからだ。
それを回避するには与えていかなければいけない。
もらった分くらいは返さないと、どこかで利子をつけて返さなければいけなくなる。
しかもそれが人生のほぼ人生の最終局面だったら最悪の老後を迎えてしまうのだから。

「虎穴にはいらずんば虎子を得ず」
このことわざは、誰もが知っていながら、誰もがその意味を考えようとしない典型的なものだ。
局所的な勝敗で人生に優劣をつけてはいけないにしろ、せめて他人に何かを与えられる人間に育てるようになれれば、その恩恵はきっとくる。


追記:
「深夜から早朝まで麻雀やって疲れました」とある人に言うと、「もうそんなことやめな。その時間他の事に回したほうが、もっと有意義だよ」と言われた。
今時お姉ちゃんのいるお店に入ったとしても、高いだけで、あちらさんの話を聞かされるだけ。
なんと無意味な時間か。
消費をしているだけで何も生産しない。
それこそ「無為」なのだな、と感じた。
時間を湯水のごとく流しているだけだ、と。

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08/02

Fri

2013

「自分の殻にこもるな」と言われるけれど

よく目上の人が言う言葉で、年下の人が言うということは滅多にない。
自分よりも年齢が上の人の場合、自分の殻に閉じこもるうんぬんというよりも、「こいつはダメな大人だ」と判断するのがほとんどだからだ。
で、年下の人にこの言葉を使う場合、「なんで自分でダメだと思っていることを繰り返さなくちゃいけないのか」というのは最も余計な親切心で、低いところは「自分が気に入らないことをやっている。お前は早く俺の気分を害さないようにしろ」というところまで幅広く使われる。

親切な場合において考えるなら、だいたいこの言葉を使われるのはせいぜい20代までだろう。
30を超えてしまうと、「あんたまだそんな大人なんだね」という、表面上はにっこりとされながれも、「しょうがねぇやつだな」と心の中で思われる残念な関係しか紡げなくなる。その言葉さえ使われなくなるっていう。
そうなると同類同士でしか話が通じ合わなくなるという状態を生み出す。
つまり、世界観は広がらず、同じことの繰り返しの中で、グチは言うが改善はされず、問題提起はするが自分でリスクは負わず、私は一生懸命生きているし仕事もしているという自負心の中でアイデンティティの崩壊を防ぐという最も消極的な心持ちの中に落ち着かざるを得ない人生に身を任せることになる。
そして、そんな自分の状態に対し周囲と比較し、自分よりも下の人間を眺め、まだあいつよりかはましだと思いつつ、居酒屋では「あいつはこういういいところがあるけど、でもね・・・」と二の句を告げるときには自分よりも劣っている点をあげつらい、その日の鬱憤をぶちまけて、次の日の仕事に望むという、「流し作業」がアフターファイブの慣習になってしまうという、まことに残念な日々に対して、まったく何の疑問も持たなくなるほど不自然さを許容してしまう精神になるという恐ろしさを抱えることになる。

どんな人間も、自分が苦労してきて、ある程度通してきたものは認めて欲しいものだ。
年上が年下の人間に対し「自分の殻に閉じこもるな」という言葉の中には、自分が生きてきた人生の中で、ひとまずお前のような状態のやつで生き残れた奴は少ないという警句が差し挟まれている。
まあ、長い目で見てこそ、の言葉なのだが。
だからと言ってその言葉が全て正しいわけではなく、まったく間違っているわけではないところが恐ろしいところだ。
若い人なんて短期で見てるから、そんなロングランで物事をみる人間なんてそうそういるわけじゃない。
だから判別うんぬんよりも前に、目の前の目新しい経験に食いつくのは当たり前のことだ。

だが、よく考えてみよう。
まず私に限ってだが20代前半の頃は「自分の殻に閉じこもるな」と言われたとしても何のことかわからなかった。
自分は一生懸命生きているし、精一杯やっているし、悩みまくってるし、殻に閉じこもるとかそんなこと考えられる余裕なんてねぇんだよ、どうして自分のことわかってくれないだ、お前ら、俺の苦しみがわかるかと、声高らかに言いたかった。
そして自分が年をとって、その状態から抜け出すと、似たような状態の人を見て「自分の殻に閉じこもっているんじゃない」という内容のことを伝えている。
これは何としたことか。
もしかしたら優越感を抱きたいだけなのではないかと思うほどだ。
しかしどうやら自分だけかと思ったら、結構この手の「説教」をしたくなる人間は多いようだ。

私たちは切羽詰っている時ほど、他人のことを考えているようで自分のことしか考えていない。
適切かつ相手のためになるようなアドバイスをしていると思い込んでいるのは自分だけだったりすることは結構ある。
そんな時は、たいてい相手の事を無視している。
かと言って相手が自分のことを考えてくれているかといったら、ほぼNOに近い。
投げっぱなしのやり合いで終わってしまうことがほとんどだ。
それなのに何故「自分の殻にこもるな」なんて言葉が出てくるのか。
もしかしたら愚痴を言いつつ、自分を嘆きつつも、実はその場所が大好きなのかもしれないのに。
そして、余裕がある人間ほど、相手が「必要」だと思ったタイミングを完全に見極める。恐ろしいほどに。

人の基本的な姿勢とは、必要ではないものは必要ではない。
つまり、「殻」とは「障害」や「限界」や「能力」や「個性」のことを意味する。
「閉じこもるな」と言われたとき、何のことかわからないってことは、自分の限界を超えなければいけない必要性などまったく感じていないし、超えたところで何に生かせるのか、まったくわかっていないのだ。
だから受け入れられないし、理解できないのだもの。
必要性、という意味では、その方向性には興味をまったくそそられない、ということも言える。
私たちは必要としているものしか必要としていない。
正直言って、若い人から言えば余計なお世話だし、目上や年取った人から言えばお前のこと心配しているんだよということを前面に押し付けたいわけだ。

でもね、皮肉な事ながら、ようやく経験を積み重ねて、あの時のアドバイスが正しいことだったのか間違っていたことなのかが判別できるようになる。
悲しいことながら、ほとんどの場合他人から悟らされるのではなく、自分でつかみ取って気がつくしかない。
だからこそ、この言葉の意味が理解できない人間っていうのは、正直言っていつまでも幼稚だということが言える。
何故なら「年相応に見られるものね、人間って」ってやつだからですよ。
それを自分でも気がつかないといけない。

時間は待ってくれないし他人は厳しい。
でも自分のペースで我武者羅に積み上げていくしかない。
そういうところで他人を強く意識して自分の実直な部分を崩してしまってはいけない。
しかし最もやってはいけないのは、自分の不誠実さを肯定して他人を責めることだ。
後は、人の事情をよく考えられる人間になれれば、きっと、その先に見えてくるものがあって、「自分の殻」ってものが「過去のもの」として眺められるようになるんだと思いますよ。ええ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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