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あさかぜさんは見た

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11/16

Sat

2013

他人のゴミと個人の宝

たまに更新されていない、あるサイトを見にいく。
もう5年もそのサイトは更新されていない。
FLASH動画が前にあったが、それもネットでは見られなくなった。
残っているのはFLASHに残された音楽プレイヤー。
唯一それだけを楽しむことができる。
たまに思い出して短いループサウンドを聞きにいく。
昔見た記憶を思い起こして、その音楽が流れたシーンを脳内で再生する。
かつてきちんとした建物だった廃墟に思いを馳せるように。
結局それは売れなかったから、後が続かなかった。
厳しい現実を前にして残った残骸のようなものが、それだけれど、運よく当時動画を見ることができた。
チャチと言えばチャチかもしれないけれど、音楽と簡単なFLASHアニメだけで表現され、台詞は一切なかった。
その手法がとても好きで、何度も繰り返して見た。
多くの人の心には響かなかったかもしれないが、自分には大きく響いて今も残っている。
他人から見て、つまらないものが自分の心に残ったり、琴線を打ったりする。
どうして、とは説明できず、ただ心が反応したまま受け止める。

人を率いる立場になって、自分のことばかり考えていたが時折他人のことも考えるようになった。
今までどれだけ独善的でいたのか、よくわかる。
いざ考えるとなるとあまり思いは巡らないが、それでも少しずつ考える。
他人から見てつまらないものを、個人は大事にしていることが多い。
だいたい頭で容易に想像できることを「理解している」と勘違いしがちだが、どうやら「理解」というのは「行動できてこそ」なのだなとしみじみわかってくる。
「行動」ということを考えると、重い言葉だし、口に出すということも重い。
多くの人はやってみないとどれだけ大変なのか、どれだけ自分の考えに穴があったのか、ということを理解できない。
いつまでも考えているだけでは、その考えに大きな欠陥を残すことになる。
当事者じゃなければ、それに挑戦している人間でなければ、まったく理解できないことだってある。
当人にとっては理解と言うよりも、条件反射に近い反応だって示すことがある。
そんな一つ一つのことを考えながら、感じながら、集まってくれた人たちに活躍の場を提供する。
シナリオは自分が作っているし、もらった台詞や音声ファイルを組み立てていくMIX作業は自分がやっているから、もし面白くなかったら全て自分のせいになる。
それでも、誰か一人の宝物になればいいなと想いを込めている。

心理学用語で「未完の円」という言葉があるそうだ。
円をしっかり描いている方と、輪郭が一部切れている方、どちらが気になるかと言ったら、ほとんどの人が切れている方が気になると答えたそうだ。
その結果から、完全なものよりも、不完全なものの方が気になるという作用らしい。
もっと言うと「完全な円の状態を知っているから」こそ気になる現象だろう。
自他を含め、一つ気に入らないものが見つかると、とことん気にならないものを広げていく。
よほどの人間ではない限り、その些細な悪意を止めることはできない。
挙句の果てには「どうしようもないやつ」という烙印を押す。
「未完の円」のように「自分の理想像からその人間を捉える」からだろう。
それぞれ何かしら癖のある人たちが団体を構成している。
逆にそれが楽しい。

私はあまり自分の趣味を他人に広めるつもりはないのだが、唯一創作という独善的かつ想像的世界だけは他人に示していかないと自分が生きている意味がなくなってしまう。
このことは他人には理解できない感情だし、やっている本人にしかわからない微妙なものもたくさんある。
そう考えると、その行為の真っ最中の人間は誰しも自分のようなものを持っているということだ。

時折、理解はしてあげたいが、失敗するから止めたいというのもある。
年を取っていくと「失敗込みでの経験」という過程を重視して人を見るため、あまり言うことがなくなってくると聞いたことがある。
それができたらよほど立派な人間なのだろうが。

自分にとってくだらなく感じることは、他人にとってもくだらないものであるとは限らない。
そんな当たり前のことさえ意識せねば常日頃忘れ去ってしまう大事なことなのだから、どれだけ「普通の配慮」には訓練が必要かと思う。
それと同じように、作品を作った時、どれだけ相手に届くかは未知数だ。
まったく届かないかもしれないし、ほんの少しだけ届くかもしれないし。
全ては自分の中から始まって、全ては相手の中で終わる。
この当たり前のことが時折怖くなる。
他人にとってただのゴミにしかならないのではないか、とか。
でも、もしかしたら・・・
誰かの宝物を作れるよう、歪な円ながら進んで行こうと思っている。
更新の止まったサイトで同じループ音楽を聞きながら。

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10/23

Wed

2013

高度になるほど細かな技術が必要になる

歌を歌うために、プロ用のマイクを購入いたしました。
誰かに頼むよりも、自分で率先して手本を見せていかないと、人ってついてこないし、本当にこいつできんのかと舐められるばかりなので、色々と挑戦しているわけなのですが、色々とがっかりすることも多くなりました。
昔、高校生の頃、それはそれは伸びやかに肺活量もよく、高音も綺麗に歌えていたのですが、今や肺活量も衰え、声は伸びがなく、昔の四分の一ほどの歌声になってしまいました。
自分で言うのもなんですが、うまいほうだと思っていました。
しかしそれはただの思い込みで、録音してみると相当下手なんだなということがわかりました。
そしてプロ用のマイクで録音すると、自分の技術のなさが完全に炙り出される形となりました。
つまりマイクが本当に細かな音まで拾うため、声量のなさと技術のなさ、声の微妙な調子、全てわかってしまうのです。
今まで、「荒いもの」でごまかしていたものが、完全に出たわけです。
もし、安いマイクのまま進んでいったら、こういうことはまったくわからなかった。
自分の文章のことにも照らし合わせても同じことが言えます。
高度になればなるほど、その当事者や同じ分野の人しかわからないような細かな技術が必要になってくる。
それを体得して表現するのが「表現者」なのだと改めてわかってきます。
こういうことは完全に実践でしか養えないし、酷いことにやらなければ衰える。
体を使う職業だったら体を大事にしなければいけないし、常に鍛えていないといけない。
自分の考えが相当甘かったということをマイクに教えられたというわけです。
やらなきゃ気がつかない。
想像の中でいたら、いつまでも夢の中でしか生きられない。
現実は苦々しく辛いものですが、欠点がわかっただけクリアできる課題もきちんと見えてくるものです。
これがわからなければ進めないものね。

まあ、プロの凄さはよくわかりました。
文章でも、声でも、やればやるほどわかってくる。

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10/18

Fri

2013

人との繋がり

私らというか、まあ私も含めて下々の者は、日々くだらない情報をネットを通じて流し合い、さも知ったかのような感じになって、別になんの実にもならない行為を繰り返していて、それをコミュニケーションと言う言葉の馴れ合いによって自分の中の何かを誤魔化しながら生きております。
現実で生きていても離れる人は離れるし、当然他人の人生は他人のものだし、拘束できようはずも決め付けようはずもない。
しかし別にそんなに話し合っていなくとも、何ヶ月かに一回久しぶりに会うような人でも、やっぱりこの人とは気が合うのだなと感じたりする。
そうしたらお互い「積もる話」がたくさんあるわけだ。
だいたい十の位が年が変化すると、内容も軽いようで重苦しくなるし、お互い話さない言葉の間や、その面構えから、なんとなく何かが読み取れてきたりする。
そういうのが「付き合い」なのだろうなと感じたりすることが多々ある。
久しぶりに出会って「この人いい面構えになったなぁ」とか思うと、苦労の片鱗が別に話してもらわなくともわかるわけだから、時間を過ごして年をとったという充実感を得られるわけです。
その上で出てくるのが「立ち振る舞い」ってやつで、ここらへんには人生で得てきた色々なものがにじみ出てきます。
とはいっても、本当に色々な繋がり方があるわけで、結構私の人との繋がり方は偏屈だったりするので、ここに書いてある内容もくだらないといえばくだらないのですが、自分はあまりやりたくないくせに、馬鹿騒ぎが気軽に出来る仲間がいるのは羨ましいなと思ったりします。
そんな雰囲気を見ているだけでいい、参加はしたくないと思っているのに、ああ、あんな不思議な結束力は羨ましいなと思いつつ、家庭を持っていない今しかあのようなことはできないなとも思いつつ、それでも落ち着いたらまた一年ごととか数年後とかに再会して同じような調子で騒げるのだろうなと思ったり。
子供の頃にはとても思いもつかず、思いもよらないことが起こってくるのが「大人になる」ってことで、それをいつまでも拒否していては自分は結構主張しているつもりでも、その主張自体が無様になってきます。
生きていれば、それ相応の苦労があるわけで、それ相応の付き合いが広がり、それ相応の立場に落ち着きます。
そうして、周囲の人脈が形作られ、人脈により環境が整ってきます。
環境があるから人脈があるかといったらそうではなく、環境は意識によって無視することも改革することもできるので、わりと意識が「環境」そのものに捉われていると、様々な事が縛られているかのように出来なくなります。
環境をぶち破ることは原理的にはとても簡単な事で、客観性と好奇心があれば外へ外へと広がっていきます。
初めて会う人にも積極的に声をかけたりとかね、一週間あっただけでも結構広がるきっかけは持てるんです。
ちょっとした勇気があるだけで、一ヶ月で相当変化します。
新しい人と出会い、新しい感性を理解しようと努めると、今度は半年で以前とは考えられなかったペースで何かが舞い込んでくるようになります。
とはいっても、きちんと失礼のないように信義を尽くすってのが前提になるわけですが。
人が人を生かすんです。
自分が生きているわけじゃない。
漢字で書くと「自分だけでは生きられないし、活きられない」というところでしょうか。
特に上に行こうすればするほど、人をよく活かさなければ活かされることもない。
だからこそ、人を殺してしまう人は、必ず見えない壁にぶつかり狭まってくる。
傷つくことも傷つけられることもたくさんある。
清廉潔白で大人になることは難しいし、たとえ自分が潔白だと思い込んでいても、人間同士合わなければやっぱり傷つくんです。
道理がわかっていないとかね、よく「幼い人」だと「それ、あんたが言うことじゃないよ」ということを臆面もなく言われたり言ったり。
他人は容赦ないしね。
我慢できずにぶちまけちゃったりとかね。
そんなこんなで欠点を持ちながら人と繋がっていくわけですね。
「百戦錬磨」って言葉があるんですけどね、これ、「百戦百勝」の意味で捉える人がたまにいるんですけどまったく違うんです。
勝負の中で磨かれていくってことなんです。
実践、つまり行動の中で磨かれていくことを言うんです。
もし、人と付き合うと傷つくこともあるからと消極的になりそうな時、この言葉を思い出すとよいでしょうね。
石は磨かれて珠になります。
人との繋がりの中で、宝石のような人間になることを目指せばよろしいかと思います。

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10/11

Fri

2013

~がないから。

よく聞く言葉だ。
「~がないから~できない」という。
なんとなく、本当にそうなのだろうか、と考える。
つまり、確かに慣習上や今までのパターンから言えばそうかもしれないが、そのセリフの中にアイディアや努力などは含まれているのだろうか。
自分もよく人に対して断定的に言うことがある。
しかしもしその言葉通りになるのなら、言った時点からは何も成長していないということを意味してる。
正直、私はそういう人間と付き合うのが嫌だ。
昔、数年前と何一つ変わらず、しかも状況が悪化している人と出会い、変な錯覚を起こした。
「自分は過去に戻ったんじゃないだろうか」と。
人は何かしら大なり小なり挑戦していれば成長していくものだ。
その場限りの何かでしのぐより、年相応の積み重ね方ができる。
すべてのことが足りなくて私たちは生まれて、そしていつの間にか大きくなって、年齢によってこなせることが出来ていないと責められてしまう。
何もなくて生まれてきたのだから、いつだって足るように成長していかなければいけない。
それがいつの間にか周囲の環境や過去に慣れ親しんでしまって「~だから」と自他共に言い始める。
そんな夢のない言い方があるだろうか。
創造力のない言い方があるだろうか。
ただ、やっちゃいけないのは、人に対して著しく不誠実な行為をすることだ。
清廉潔白で人生を終えることはできない。
だが、義理や相手の信条の通し方ぐらいはきちんと学んでいこうと思わないと、いったい何を得られるというのだろう。
私たちの人生は妥協の連続。
忍耐力の豊かさを学ぶのが「経験」というのかもしれないと最近思っている。
決め付けるのを少しだけやめることで、人を幸福にするための能力を考えることで、私たちはもがくことができる。
そのもがきのなかで、這いずり回った十センチの中で、私たちは大きな発見を得る。
そうやって成長していく。
だから「~がないから」などと言って、いつまでも行動しないのは、他者を責めるよりも前に自分の臆病さを敵としたほうがよいのだ。
私だってろくな人間じゃないが、それでも、一人でも幸せな気分に浸らせたいよ。
そういうものを見られたのなら、きっと酒がおいしくなるに決まっているからね。

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09/24

Tue

2013

使わなきゃ衰える

年を取ればなおさら。
若ければあまり気づきにくいが、若かったとしても、ものの一年ほどで衰える。
これは体力的な事に限らず、能力や技能、体に備わる様々なことに言えること。

使わなければ衰える。

今、ボイスドラマのことをやっているけれど、例えば歌。
高校生の頃は喉を開ききってのびのびと歌っていたのに、今は喉を絞りきって歌っているため、すぐに喉が痛くなる。
腹で歌わなくなったので伸びがまったくなくなったし、何よりも張りがなくなった。
今も喉が硬いまま声を出し続けているため、すぐに声がかすれてくる。

そういえば、シナリオも書くようになったけれど、思ってみれば昔の方がインスピレーションは高かった。
もっと自由に様々なことを発想できたし、もっと突拍子もないことを考え付いていた。
今はというと、「~しなければいけない」「~であるべき」「~は~だ」という考え方が染み付いていて、そんなガチガチの思考がインスピレーションをことごとく奪い去っている。
その原因には「ストレス」もあったし、自分の経験、物事が思い通りに行かないという妙な焦りや、消極的かつ否定的な考え方もあったし、とにかくイライライライライライラして、ちょっとしたことでも収まりがつかなくなったりと大変だった。

今ほんの少しずつ若かりし頃の自由な状態というのを取り戻すきっかけのようなものが見え始めている。
しかしまったく若かりし頃と逆なのは、いわゆる努力とか苦労とか、簡単な言葉で言い表わせれるけど途方もない積み重ねをしてこその「自由」なのだということが日々身に染みてきている。
それは「大人の自由」ってやつなのだと思う。
ただ、私は運がいいし、人生にとって重要な事を引き寄せられる強烈な力を持っていると信じているので、私の環境は私の大事をこなす上では幸運な環境なのかもしれない。

しかし、何かを生かしてやれる能力さえ身につけていけば、そして努めて他者のためにその能力を発揮できれば、トータルで必ずプラスになる。
たとえ批判する人がいても、傷つけてしまう人がいたとしても、その分はいつかは取り返せる。
自分の中で世界を狭めてしまうことが一番人生のリスクを高くする。

日常の中に溺れきってしまうと、自分の何が衰えているのかなんて気がつきやしない。
一生懸命仕事して、クタクタに疲れきっていて、「遊び」の自由も忘れ、ちょっと走ったらすぐに息切れ、あれ? 自分こんなんだったっけ? こんなに疲れやすかったっけ? なんて過去を思い返したり。
そんな瞬間はふとした時にやってくる。
年を取れば衰えてくるものもあるけれど、それ以上に積み重ねられるものがある。
使えば使うほど積み重なる物だって、大人だからこそある。
逆にいえば使っていないものは、まったく伸びない。
人は自分の持ち得ないことや知りえないことを様々に想像して勝手な事を言ってくる。
その時自分に問えることは「いずれ自らの行為は他人に誇れることか」だと今は思う。

真剣にやってこそ見えてくるものがある。
真剣にやって、ようやく気がつくことがある。
そんな自分にとっての新しい発見が、自らの心を豊かにしていくし、人生に潤いを与える。
だからこそ、限界だと思うもう少し先を目指して、自らを使ってみるといい。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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