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あさかぜさんは見た

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06/20

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05/26

Sun

2013

深層心理に嘘はつけない

先日泥酔してしまったのですが、先日のツイートの内容覚えてなくて、「あれ? こんなこと書いた記憶ないんだけど」と思ってしまいました。
参ったな、どうやら好きみたいだ、なんてアホみたいなことまだ考えているわけですな。

ずっと「成功法則」のようなものを読んでいて、その内容を理解できぬまま文字だけなぞっているような状況で、マーフィーの法則とかも少しだけ頭に残しておいているのですが、ここにも「深層心理に嘘はつけない」と書いてあり、そこにネガティブなものが沈んでいれば、成功を遠ざけ、必ずそのネガティブなものを引き寄せると結構繰り返し書いてあります。
それで今年はその「深層心理に自らの意志を植えつけるにはどうすればいいのか」を実践しながら考えていきたいと思っていたのですが、こういうのは一種の暗示、常日頃の思い込み、そして行動なのかなと、ちょくちょくやっております。
そしてそんな自分への気持ちが対人の時の言葉で出てくるのですから、そこで少しずつ自分の行く先が変わってくるわけですね。
例えばどこかへ行こう。
それを「面倒だ」と考えるのか、「新しいものが見れる」と好奇心を持つのかで大きく変わりますよね。
売れたものを「こんなものが」と考えるのか「これだけ売れたのだから何かあるのだろう」と探すのか。

「インセプション」という映画を最近見たのですが「シンプルな発想が成長していく」というセリフがありまして、深層心理に沈んでいる単純で簡潔な発想が根を張ってそれが自らの人生を動かしていく。
「インセプション」は深層心理に独自の解釈を入れて構造化したものでしたが、あの映画は見るたびに何かしらの発見があります。
上記の「成功法則」や「マーフィー」もそうだし、もっとシンプルで具体的なものを思い浮かべろ、ということなんですね。
その最も沈み込んだ「シンプルな発想」が発端となる。
それでは、自分は何者であるべきなのか。
何者になっていくべきなのか。
今の現状を変えていくための「シンプルな発想」なんですね。
それが沈んでいけば人生を動かしていく「シンプルな発想」へと変わっていく。
最初は「異物」として心が認識し、なかなか沈み込むことはないし、忘れてしまうことだってある。
だから最初は苦痛かもしれないけれど反復練習みたくなる。
覚えておけば、いつか行動している中ですっと心に落ち込んでくることがある。
その瞬間のために覚えておかなければいけない。
本では落雷に打たれたように一気に変わっていく様子が書かれていますが、そんな奇跡は普通は簡単に起きないだろうって思ってしまいます。

今年もあと数日で後半戦に突入しようとしております。
前半戦はボロボロでした。
泥酔しているようじゃ三流以下だろうし、ようやく心も落ち着いてきた。
目の前には山積みの資料。
あと4ヶ月ほどで自分の運命もわかってくる。
落ちるか、上がるか。
もう賽は振られた。

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05/24

Fri

2013

そろそろ前を向きなよ

何かとぐちぐちじめじめ、別れた人のことに縛られてういつまでもその人のことを考えているので言われたのですが、正直久しぶりに感じていた感情なので、今しかできないことをしておきたいのです。
というより、せっかくなのでもう一つぐらい作っておきたいのだけれど、小説でね。
時間が経てば消えてしまう感情。
そうなると、絶対出てこない言葉が出てくるわけです。
こういう感情だから出せる言葉もある。
前を向こうが横を向こうが後ろを向こうが下を向こうが上を向こうが小説家にとっては同じこと。
書けば作品になるし、書かなければ無駄に終わる。
単純に言えばこの二つしかない。
こっちはこれだけの膨大な日記を書いて記録を残しているのだから、もはや人生の切り売りに近い。
その中で「クソ野郎」だとか「ダメ男」とか判断されようが、こちらは関係ない。
やるべきことをやっていくだけ。
ちなみに今年はやはり努力次第で完全にこれからの人生二分されるよう。
人生の分かれ道ってやつですね。
そりゃよくわかります。
だってね、これだけのことが起こって決意をして、その決意でダラダラと過ごしたのなら、そりゃーもう誰も救えないし、自分だってある意味「救えないやつ」になるわけですから、半年なら半年と期間を決めて、がっつりやりこんでいかないといけないわけです。

ちなみに今日仕事で「これが君の力の限界なんだわ。だっておいしそうに見える? 食べたい! って思える? 盛り付け方も重要なんだよ。理屈だけはわかってるんだから気をつければできるって」と言われましたよ。
はっと気がつく部分がありまして、「まさに今の自分それだ!」と変なところで雷に打たれた気が致しましたよ。
そりゃーそうだ。
「今の自分魅力的に見える?」
「ちゃんとギルドが楽しく動いているように見える?」
「相手にとって魅力的な提案をしていると思える?」
ようは「それ、おいしそうに見える?」なのです。
言い換えればたくさん出てくるのですが、そうなんですよ、確かに。

ようやく醜い感情から少しずつ解放され、少しずつ冷静になり、前の感覚が少しずつ回復していっているのですが、って相当少しずつがくどい文章ですが、ようやく憎んでいた人たちの幸せを願えるようになったっていう。
ああ、三ヶ月近く経ってようやくなんですよ。
そしてこの二ヶ月、相当きつかった。
どろどろうじうじじめじめしまくり、3月は部屋の中酒臭かったし、4月は動悸が勝手に起こり酒が手放せなかったし、5月ようやく落ち着き始め、一昨日は部屋が魚臭く、あ、焼き魚食べたからだ。
そしてたぶん6月で冷静になり、7月あたりで出発、なんていうスケジュールになりそうですな。

よく「センスがない」って言われるんです。
美的センスっていうのかな。
例えば料理だったら切り方とか盛り付け方とか調理の仕方とか手順とか、同じものを使ってもやり方が違えば全然違う料理に見えるわけです。
これは人を扱う部分についても同じことが言える。
素材の力を演出できる力。
人の力を演出できる力。
そういう力をひとくくりに「手腕」とも言いますな。
私は未来を作らなきゃいけない。
未来へ続く今を演出していかないといけない。
さあ、構想は練れるんだ。
できないわけがない。
面白ければ、やりがいがあれば、人はついてくる。

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05/21

Tue

2013

「テリトリー」の中

「前にできていたのに、できないから言ってるんだよ。これでも十分の一だから」
二時間ほど、作った声劇のギルドのメンバーに説教を受けて、ぼんやりしながら聞いていた。
そう、今の私はその十分の一すらも頭に入ってきていない。
言ってくれた人は、かつてゲームで私がマスターとしてのびのびとやっていた時を知っていた人。
「時間が経つとこんなにアホになるものなの? ほんっとイライラするんだけど。もう言わないからね」

正直、今の自分は昔の自分じゃなくて、日常に捉われていて、自分のことに捉われていて、「彼女」のことに捉われていて、疲れていて頭が回っていなかった。
シナリオ作らなきゃいけない、新しい環境を作った、成果を出さないといけない。
じゃあ、何を見逃していたのか。
「人」そのものだ。
お前は人を集めたのに、無責任すぎるだろ、ということだ。
自分だけ頑張っていても、それは「人を集める意味がないよね」ということだ。

人は自分の容量の中で懸命にやっていると、とにかく自己弁護を用意しがちで、「今の自分の限界はこれだから!」と声高に「自分のテリトリー」を主張する。
つまり、自分以外の人にとって「言い訳」と判断されるような内容だ。
一生懸命やっている。
努力をしている。
これからやろうとしているのに。
自分はこうだから、しょうがないんだ。
そんなことを言葉で懸命に怒気をはらみながら主張しがちだ。
多くの人はそうなのだろう。
昔の私だって必要がなかったから、本当にいっぱいいっぱいすぎたから、今の自分は一生懸命なんだ、と主張していた。
さすがに、この年じゃあ、さすがに、「自分の限界を超える」と宣言した後じゃあ、現状維持やましてや劣化するなんて目も当てられない。
無様そのものだ。

昔は真面目に働こうなどとも思っておらず、一日を自由に使えたから余裕が持てた。
今は半分だけ社会生活をしている人にようやく近づいている。
「それさ、みんなやってることだから。みんな食うために働いて、それで時間作ってるから」
まあ、特殊な環境に自分はいて、「創作」のために非常に理想的な環境が準備されている。
ああ、自惚れてもいいぐらいだ。

今までの私は「テリトリー」を懸命に守ろうとしていた。
しかし、ようやくその「テリトリー」にこだわっていては、誰かもう一人でも抱え込もうとすると、その人を不幸にすることを理解した。
だからこそ、変わろうと決意した。
そして呼び寄せたのが、今の状況。

口頭で説教されてようやく少しだけ目が覚めつつある。
昔の感覚を少しだけ思い出しつつある。
ああ、そうだ、昔の自分は今の自分じゃなかった。
「過去から学ぶこともあるだろう」
それを認識していたのは自分だったのに、いつの間にか見失っていた。
おそろしや、おそろしや。
「捉われ」の中に落ちていく自分。
そしていつの間にか、その「捉われ落ちた場所」を「自分の限界」と思い込む自分。
おそろしや、おそろしや。

「人はその時必要な言葉しか吸収しようとしない」
自分で言った言葉だが、それすらも忘れ去っている。
これを「成長」というのか、とても怪しいが、今「テリトリー」を放棄することを試みている。
大人になると、とても人生は楽しい。

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05/13

Mon

2013

生き方は「家族観」です

小説を書いている時、素直に文章を書いていたり、他人の文章を読んでいる時に、ふと気がつくことがあるのだが、家族への考え方というのが、自然と人間関係にも影響しているような気がする。
声劇の団体を作ってその人たちとも話すことが多くなったりしたけれど、やはり両親の間に何かがあった人というのは人の中に踏み込んでいっているようで距離感があり、自分の人との付き合い方はこうだから、と自らスタイルを決めている。

以前、子供に対して「優しい虐待」をしている母親をテーマに番組が組まれていたが、その内容はともかくとして、重要な点は「自分の親からされていたことを子供にもしていた」という点だった。
自分では忘れ去った過去が無意識領域に沈んでおり、ようは自分でも気がつかないレベルで行為がなされている。

この日記では何度も繰り返しているが、私は父親に対してはよろしくない感情を抱いていて、実に15年間の歳月を経て、負の感情へある程度の決着をつけることができた。
母親は辛抱強く、愚痴などほとんど言わなかった。
父親のことを言うと「私なんてもっと酷いこと言われてる」とよく言っていた。
当然私は両親の影響を強く受けている。
この両者がいなければ、わからなかった人たちも数多く存在する。
つまり、繋がりえなかった人たちがいた、ということだ。
そして、その「繋がり」の中で人生は展開される。

どんなに会社や学校の環境などが変化しても、自然と付き合う人は絞られてくる。
私がいたところで、一言必ず多い社員はバイトの連中と仲良くしていると思っていたけれど、バイトの人たちは誰一人として一緒に飲みに行きたがらなかった。
その人間の価値観や癖が、そのまま自分の人生に跳ね返ってくる。
当然その人の「仲間」は、似たような価値観を持った人たちが集まってくる。
そして「仲間」が一人でもいると、嫌味や愚痴にたいそう拍車がかかった。

そのように、私たちは自分の価値観を認めてくれる人を傍に置きたがる。
その価値観の共有意識こそ、「安心感」「自らの存在意義の肯定」と思っているところさえある。

私はまだ若輩浅学。
その先のことは断定できない。
このことは人間が元々持っている弱さなのか、それともこの社会が抱える「家族という不安」なのか、それとも別の根本的な問題があるのか。
コミュニティーの崩壊というのもよく言われることではある。

「家族の問題」を心の中で解決できていない人は、どこかしら影を落としているし、あまりよくない発言を時折する。
愛情の存在を怖がっているし、利便性の高い関係を好む。
何が正しい形か、なんてそんなことは他人に決められることじゃない。
だからこそ、「書き尽くされた」と言われる小説だって、誰も書き止めない。

私たちは大人になれば「大人の事情」を重視するけれど、実は私たちはその「価値観」を下の世代へと受け渡していっている。
そして受け取った子供たちは、自分たちが受け持った社会の中で心を対応させていく。
心は完全制御可能なものではないし、ゆえに集団社会は完全統率されることはない。
あらゆるSF小説がディストピアで不幸な上体にあったとしても、つまり社会に住む人間が何かによって完全にコントロールされていたとしても、そこから逃れる人間がよく描かれるように、心は他人が決められるものではない。

人の人生は「家族への考え方」が強く出るというのが今のところの私の実感だ。
そしてその「考え方」と「姿勢」は、だいたいは受け継がれていく。
それを変えられるのは「強い意志」でしかない。

よく考えてみれば、自分を産んでくれた存在。
その存在を否定するのは、そのまま自分の存在を否定することになる。
それでは心にしこりが出るのは当然だろう。
いちいちそのことで心を悩まされることになる。
どれだけ腐っていたとしても、反面教師にはできる。
「ああはなりたくない」と努力することは可能だ。
そうしてほんの少し自分の心を変えていくことはできる。

人を取り囲む環境はそれほど単純なものではないし、色々な要素があって今の家庭があったりするのだから、簡単に心は変えることなどできやしないが、ほんの少しの気付きで、そしてほんの少しの勇気で、関わる誰かの気持ちが少しだけ幸せなものになるのなら、きっとそれは素敵なことなのだろうと信じている。
自分の「家族」と「自分の行動」は、ゆっくり考えてみると面白い発見がある。

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05/06

Mon

2013

みぞれだったらしい

5月に入り、雪が降った。
この時期に雪が降るのは実に21年ぶりだという。
21年前は私は中学2年生だったのかな。
ちょうどじいちゃんがバイク事故で亡くなった翌年だろうか。
初めて肉親を突然の事故で亡くした中学一年のころは、自分が悲しんでいることすらわからなくて、随分と指摘されて困ったものだった。
そうじゃないつもりでいたのに、やっぱり様子がおかしいと言われた。

あの頃と今と、どう変わっているのか、もしかしたら中学生のままなんじゃないかとか、そんなことさえ思う。
相変わらず酒に酔って人に迷惑かけるし、心は弱いし、かろうじて張り付いている理性の膜など、いとも簡単に破れてしまうし。
私小説なんて書くつもりなかったんだけど、こんな屑っぷりは、これからもあまり変わらないと思うから、恐らく書いていくんだろうな。

生きられない。
自分のような男は、世間ではまっとうに生きられない。
生きようとしてもずれていく。
だから、違う道を歩く。
遅いけれど歩いて進んでいる。

私は私の運命を直感している。
私はどうしても今の順路じゃないといけなかった。
「ああ、こいつは勘違いしている」「頭がおかしい」
きっと他人から見たらそういうレベル。
でも他人は自分の体の感覚や心などわかりもしないし、世界でたった一人自分だけが信じているに過ぎない。
世界でたった一人、自分だけが勘違いし続けてもいいじゃないか。
そして、それを現実で証明すればいい。

桜はまだ咲いていない。
北海道の桜は後一週間後です。

21年ぶりのみぞれは、冷たかったですよ。
嬉しいぐらいに。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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