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あさかぜさんは見た

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06/20

Fri

2025

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03/25

Sun

2012

「流されちゃいけないよ」

自分で意識しているものの、言われると改めて思う部分があり、自分でルールを決めるということは、なんと眉唾なものであろうと気持ちのぶれを、弱さを思うのである。
人から言われると「ああそうだ。その通り」と自分の精神を補強するあたり、本当に弱いものだなとつくづく感じるのである。

こうありたい。
自分で理想の自分を思い描き、その通りになろうとする。
しかし酒の力で、気持ちの弱さで、いくらでも考えが、行動が、ふにゃふにゃと曲がりくねり、最後には自分がほとんど望まなかったところまで来て、なぜか周囲に合わせて、これでよかれと思っていたつもりが、自分が一番我慢して鬱憤をためていたという、ひどく目も当てられない状況があったりする。

「何度このようなことを繰り返せばよいのか」
自分は日記を書いて、このように記録しているので、何度同じことでこいつは愚痴を書いているのだろう、ああやれやれと、見るも無残な記録がこんこんと綴られているのだが、なんとも人間の精神の強さや人間力は、いやいや、人間などという大それたくくりではなく、己れはなんとも牛歩で、かつ何度も叩き直さなければ、どうしようもなく成長しない人間なのだなと感じるのである。

結局曲げたところで、損をしなければいけないのは自分で、不満を抱いているのだから、それは自分に対して正しいことをしていないということだ。

「流されちゃいけないよ」

よく考えてみると非常に難しい言葉で、自分が何に流されているのか把握しなければ見えてこないし、当然進むべきものと、流されているものの見極めをきちんとできなければ、まったく意味をなさない言葉になってくる。

自分の気持ちを大事にする。
自分のやりたいことを血眼になってやる。
やるべきことをきちんとしているつもりでも、どこかに流されているところがあれば、それはダメになる。
自分は何に影響されて生きているのか。
それをきちんと自分で見つめられる人間はほとんどいない。
その必要性すら感じていない人がほとんどだ。

流されているのか、掴みとろうとしているのか、この境目をきちんと把握できずに流されているのに掴み取ろうと錯覚している人間は多い。
もしかしたら、人類の活動そのものが、こんな境目のない錯角の勢いでどうにかなっているのかもしれない。
ただ、そうだとしても、個人の問題として、やはり流されるということに、自分の弱さをいちいち垣間見るという嫌な感触を抱くのである。

もし、40年後、これを読んだら、自分はどう思うのかな。
できることなら今すぐ教えてほしいくらいだ。

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03/23

Fri

2012

思考がめちゃくちゃ

先日ツイッターで日本の労働環境はおかしい。
家族よりも会社を優先させなきゃいけない風潮は既に体質として狂ってる。
そういう話を読んで、思い出したことがあった。

何年か前にじいちゃんの死に目にあったのだが、その時派遣でコールセンターに勤めていた。
シフトはしっかりと組み込まれていて、一度決められると誰かに代わってもらうことでしか融通がきかない。
そういう事情はわかっていながらも、医師の「ご臨終です」の言葉を病室で聞いて、すぐに電話。
その時「祖父の葬式で明日休ませてください」と伝えると「代わりの人いますか?」と開口一番言われた。
「お悔やみ申し上げます」の一言すらも、その電話では出てこなかった。
世間知らずの自分でさえ驚いた。
普通は言われないものなのか、身内の死亡すら「通常の休暇願いと同じ扱い」なのか。

そのツイッターの中でも「よく役者とか身内が死んでも舞台をやるけど、褒められたものじゃない」と言っていた。
そりゃそうだよね。
身内の死は一度きり。
ましてやきちんと葬儀にすら出ないとか、通常の神経じゃないし人間性が欠如している。
そんな「お客様中心主義」のために人間性を犠牲にしなければいけないのは、つくづく間違っている。

でもそんな強迫観念を与えているのも「消費者」だったりする。
もちろん「数字」を厳密に計算して求める経営者などにも言える。
どんな生産者であろうとも消費者にまわるものだけれど、一度消費者の立場にまわると、「払ったお金以上の対価を得ようとする人」が多い。
つまり通常意識はしていないが、その分「相手から利益を奪っている」ということに気がつかない。
そのことが巡り巡って自分たちの生活に響いてくる。
その時には「自分の行動が積み重なって今の状態になっている」とは思いも寄らないものだ。

最近どうにも苛立っている。
思考がめちゃくちゃで定まらない。
久しぶりに昔のことを思い出して、酔った勢いでメチャクチャにぶちまけてきて、支離滅裂な話を繰り替えした。
思考力がぶつぶつと切れて、何を話そうとしたのかも忘れる。
本当にひどい状態だった。
そういう状態で人と話そうとすることもひどいし、話しながら「まだ自分の中では完全に消化しきっていないものがたくさんあるのだな」と感じた。
何を見つめていけばいいのかもわからなくなりそうだ。
とにかく自己嫌悪。
今日は心の中で必死に謝っている。

そうやってぶちまけて、ようやく落ち着いてくる。
ムラムラと苛立ちが湧き上がってくる中で、落ち着かせようとする。
何か変というか、抜けきらない膿のようなものがあるのだな。
自分が一度でも突き抜けられれば、決着がつくような数々の問題。
愚痴っている場合じゃないのはわかっているけれど、人は気持ちにどこまでも揺さぶられる。
いや、自分が脆弱な精神を持っているだけの話なのかもしれない。

追記:
そうだ。
「自分は苦労しているから」という話を持ち出して、人に対して「こうしろ」というのは、いくらなんでも横暴な話で、そういうことをしてはいけないし、きちんと相手に配慮していくというのは、押し付けることではなく、うながすことなのだ。
つい自分の価値観から、「〜しなければならない」という論調で相手と話をしていた。
そういう癖は直さないといけないし、逆に「〜しないから、こいつはこう」なんて見方も止めなければいけない。
そうじゃなければ押し付けがましすぎるし、当然そのような押し付けがましい話に他人は価値を感じないのだ。
こういうのは普通の対話のみならず話作りの時にも大事になってくる。

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03/21

Wed

2012

ゲームでも同じ競走の社会

競争という言葉から思い浮かぶのは、よく「走る」ことが思い浮かぶ。
でも社会はあらゆる場所で競争しているといっていいし、知らぬ間に飲み込まれて世の中はまわっている。
それはゲームの社会でも同じだ。
単純に自負心や利己心や射幸心を満たすために動いていてわかりやすい。
その中で余裕のある分だけ他人へ施しをしようとしたり、余裕のある分商売をしようとして、自分が儲けようとする。
思えばゲームは人間が決めたルールにのっとってやるものだが、ルールにのっとってやるプレイ自体には制限がない。
何をしてもいい。
だからたかがゲームといえども露骨に性格が出る。
例えばランキングにのる人間の100位と101位の違い。
トップ3などになると、次元が違ったりするが、少々競争原理が働いていて、かつ100位までは、ある資格が与えられ、それ以下は与えられない、という条件の場合、この100位と101位の人間の違いはなんだろう。

思えば自分は競争や誰かに比べられるのが大嫌いで、そのプレッシャーであたふたする状態からなるべく解放されたいと思ってきた。
実際、田舎暮らしのような、のんびりした生活の方が体質に合っているのかもしれない。
ただ自分は芸の道を選んでいるわけだし、当然「他人と自分は違う」と主張したところで、比較されながら価値が決まっていくのは言うまでもない。
トップの競争集団から振り落とされる人間はどんな心理でいるのか。
少なくとも自分は「これで大丈夫だろう」という勝手な安心をして、自分へ妥協を与えていた。
上に行けば行くほど、犠牲にしなければいけないものが多くなり、脱落すれば資格を失うのだから、実力の世界は厳しい。

人生は妥協が損を与える。
完璧などというものは存在しないし、完璧という幻影に怯える必要もないが、「妥協の技」は本当に百戦錬磨の老練ができることで、つまり場数を踏んで修羅場をくぐり、自分が入り込んでいる領域の原則を知り尽くし、そして自分の能力を遺憾なく発揮できる人間にだけ、初めて力の程よく抜けた行動ができるわけであって、若いうちから、体力のあるうちから「これでいいや」だなんて力を入れないでいると、逆に力をいれるべきところも見失うということだ。
だから古人は「かわいい子には旅をさせろ」と言った。
冒険させてやらなきゃ、世の中の渡り方だってわからないじゃないか。
どこで力を入れて、どこで休まなきゃいけないのか、その術がわからないじゃないか。
きっと、こんな意味で言葉を残したのだろうと思う。

中途半端に力を入れて頑張ると、損をするものだけが大きくなる。
だからこそ負けつづけ、負け癖がつき、行動が消極的になる。
一度この癖がつくと這い上がるのは難しい。
100位以上は価値があり、自分が109位だったら、どれだけ100位に近くても価値は認められない。
本の少しの差。
水泳だって指一本の差、競馬なら鼻差など、本の少しの差でも「実力の差」となり「トップ」と「トップではないもの」に振り分けられる。
残酷な話だ。

芸をやるからには、そういう残酷さの中にいる。
人の世を渡るには不条理さの中で栄光を掴み取らなければいけない。
2位では価値はとことん薄れ、もしかしたら2位への妥協が見事に人生の転落を呼び込むかもしれない。
価値をとことん薄めさせるかもしれない。
自分のベストを更新しつづけ、自己記録を塗り替える。
誰も評価してくれなくとも見逃せない前身をつかまえつづけなければいけない。
たとえ無価値だと言われようと、しがみつくべき客観を大事にしなければ自分を見失う。

ひとつ面白い言葉を覚えている。
「博打って自分で決めたルールを曲げ出すと、とことん負け出すんですよ。だから、最初に決めたルールをどれだけ貫き通すかが大事です。そのルールの中で転落したり上がったりする」
ご存知の方もいらっしゃると思うが「アカギ」や「カイジ」の作者福本信行氏だ。
「人生なんて不条理なのに、いつまでも不条理さを受け入れようとしない。だからダメになる」
うろ覚えだが、インタビューでこんなことを言っていた。

どうしても自分の場合、自分のペースが崩れ出すとミスが多くなる。
これは性質として避けられなくて、今までほとんどこれで失敗してきた。

自分のペースをどれだけ安定的に保てるのか。
ルールの中で、どう実力を発揮するのか。
きっと、その力の入れ方を、私はまだまったく知らない。
いや、その前に原理を理解していないのだな。

わかってますわかってます。
負け癖がにじみ出ている文章だってことも。
だから書いて認識しているのです。

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03/11

Sun

2012

去年の今ごろ

確かバスの中にいた。
温泉地に向かう途中で、久しぶりの温泉を楽しみにしていた。
震災を知ったのは、夜につけたテレビだったように思う。
携帯電話のメール機能などがほとんど使えず、辛うじて電話が通じた。
北海道内だが心配になった母親が電話をしてきた。
無事であることを伝えると安心したようだった。

テレビをずっと見ていて何かができるわけではなかった。
ひとまずは温泉地に来たのだからゆっくりとリラックスして楽しもうと思った。
できることをする。
楽しみにしていたのだから、楽しむべきだと考えた。
もし身内がいたら、友達がいたら心境は少し違っていたのかもしれないけれど、それでも人には各々の日常と囲まれている環境がある。
地球規模で見ると人間には不条理さがつきまとう。

一年経って何か進めたかというと、どうにも居心地が悪い。
誰かのために何かしなければならない前に、自分のことをしなければいけない。
その自分のことすらまともになっていない。
動けやしない。
そして自分のことができたら、今度は支援してくれた人にお返ししなければいけない。
順番があり、その最初のやつさえこなしていない。

進まなければ、という思いが随分空回りしているようにも感じるけれど、それでも苛立ったり焦ったりしてはいけない。
そうして、進んでいかなければいけない。
思いだけ、ぽかんと浮かんでいるような気持ちだ。

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03/06

Tue

2012

テストが怖い

いいアイディアが浮かんで、また懲りずに送ろうと思うのだけれどね、新人賞。
でも今回のは「意味を解体した小説」なので、文章というよりも詩の羅列。
それが小説になるのか、という疑問はあるけれど、試してみるのも悪くないと思っている。
ただ、審査員のハイコンテクストなコメントを見ると、反吐が出てきそうなほど気持ち悪くなる。
どうして作家とは、人に対する具体的なコメントを示さなければならないところで、他人に非常にわかりにくい表現を使うのだろうかと、いつも疑問に思う。
だから私は理路整然とした文芸評論家が審査員になるのならまだしも、オタクを極めた「作家」なる存在が審査員の半数以上を占めて他人の審査をするのは、本当に愚かなことだと思っているし、実際半分近くの作家のコメントが非常に分かりにくく、一般人に理解しがたく、独善的で、お前の文章の発表の場でもないのに厚顔無恥な「論評」をツラツラと書き連ね、他人を煙にまくような幕引きで終わらせる、あの滑稽さとくだらなさが大嫌いなのである。
ああいうハイコンテクストで否定されても、やたら自分の心の中が散らかされた感がするだけで、何の足しにもならんといつも感じるのである。

思えば、こういうのは答えのないテストのようなもので、そういえば、私はテストが大嫌いだった。
元々、メンタル攻撃に対するバリアはもう使い尽くしたようなところがあり、諸肌さらしているようなものなので、やわらか戦車なのである。
豆腐の角に頭ぶつけて負傷するレベルなのです。
そして、否定されることが、死ぬほど恐ろしいということに、改めて気がついた。
私の心の底には「認めてほしい」という気持ちが強く、つまりは自尊心が否定されてきた分、それをどこかで強烈に補おうと飢えているのだと思う。
だから、頑張ったものを否定される衝撃を味わうよりも、最初から頑張らないことで、あえて「悲惨な結果になって当たり前。言われた通りの人間だ」と自分を納得させる方が安心できた。
このような心理作用を「ゴーレム効果」と言うらしい。
反発心を持って、何クソと頑張れる人も中にはいるが、私は「お前はダメなやつだ」と言われれば、なんとなくそんなような気がしてきて「ああ、お前の言う通りになってやるよ」と意固地になってダメなところに走るようなタイプだった、というか今もそうなのかもしれない。

それで、そんな状態でどんどん追い込まれて、逃げ場のようなものがなくなってくると、今度はもう進むしかないなと開き直り、今は少しずつ精神的な安定も取り戻して一歩ずつ踏み出しているところだ。
きっと将来この手の日記を見れば「ああ、こいつなんてくだらないことを書いているのだろう」と思うのだろうが、その気持ちこそ大事であって、やっぱりもしそう思ってしまうなら、この日記も文章も今しか書けないものとして記録しておこうと思うのだ。

淡々と何事もなく人生を過ごせている人にとってコンプレックスを強烈に抱えている人の気持ちはわからない。
それこそ白髪が増えるぐらい具合が悪くなるくらい悩んでいるものなのである。
そうしたコンプレックスが私には強くあり、何かと比べられて卑下されるのが、もうトラウマレベルで嫌なのだ。
もし大きなものをつかもうとしたとき、当然この手のコンプレックスは克服していかなければいけない。
昨日までダメだったのなら、今日少しでもよくならなければならない。
そうしなければ同じ器の中、同じ部屋の中でぐるぐる回っているのと同じことだ。
人間が人間らしくあるのは考える葦、現代風に言うなら常にアップデートされるソフトウェアだからだ。
昨日の自分よりも少しだけよくなっていく。
そんな風にして人生は自分を克服していくものだ。

さて、3月にやることは決まったけれど、動悸が止まらない。
コンプレックスってこういう自分が意識してない勝手な作用が体に出てくるので怖い。
しかし克服しなければならないものなのだ。
頑張るかな。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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