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あさかぜさんは見た

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03/05

Mon

2012

絶望と希望

ずっと家に引きこもりの生活をしていて、自分の思考回路の中であれこれぐるぐる考えていると、自分の直前の思考を拾い、さらに広げていくため、私の場合はどんどんネガティブになる。
まあ、そういう癖がついているのでしょうけれど。

そういう自分の癖がわかってくると、酒に逃げる。
ダッシュで酒飲む。
思考回路を散らす、ということを昔からやってました。

なにせ、何度も書いている通り、基本的には鬱屈したものが心の根底にあり、まだそれを浄化しきっていないので、人に対し、物事に対し、なかなか寛大になれないわけです。
そんな中、色々あれこれ物事が思い通りにならないと子供みたいにストレスがたまってくる。
それで塞ぎ込んでくる。

しかしちょっと待てよと。
昔は心理的な束縛があり、その束縛から逃れることができず、とにかく病んでおり、命すらも軽視するような考えをしていましたが、今は少しだけ前向きな考え方ができるようになっております。
例えばうまくいかないこと、物事を思い通りに飲み込めないこと、そんな自他への動きに消極的な気持ちを抱き、すぐにもうダメだ、なんて思いがちでしたが、今は「健康でやれることがあるうちは幸福なのではないか」と思うようになっています。
これが誰かの圧力を受けている。
身近な何者かに心理的な迫害を受けている。
社会情勢政治的に行動が制限されている。
勉学しようにもその環境がない。
食料水衣服など生活に最低限のものが揃わない不安がある。
などという状況があれば、とても不幸な気持ちを覚えますが、少なくとも何か挑戦できるような気持ちがあり、環境があるのなら、それはとても幸福なことなのではないかと思うわけです。

今の私には色々目標があり、死ぬまでにはノーベル文学賞をとってやろうか、という気持ちがあります。
この年数は約40年以内を目指しているわけですが、日記を書いている時点ではまだ32歳です。
成人してから12年と半年は過ぎてしまい、今ようやく心理的抑圧状態、苛立ちやストレスで半日以上も思考回路を使うという日々を過ごす状態からほとんど解放されつつあります。
色んなことを勉強したり、将来英語で小説を書けるように、その前に話せるようになろう、世界を見ようなどなど目標がたくさんできてきて、ようやく少しだけわくわくできるようになりました。
こう考えると今の自分にはやれることがたくさんあって、それに向かえるわけだから、とても幸せなはずなのです。

昔だとちょっとしたことでネガティブ回路がフル回転して、もうどうにもならなかったわけです。
今友達が塞ぎ込んでいて一年以上も部屋の中でいて死にたいと毎日思っているようですが、そういう心理状態は凄くよくわかるだけに、自分が今興福だと思っているからと言って、こうせよとは言えないのですが、少なくとも誰かに連絡ができるということは、まだまだ救いの可能性は残っているわけです。
完全に絶望的な状況ではない。

発想を変えても、思考がついていかないことがあります。
心理的な病の場合は、どうしても脳のシグナルの異常も含まれるので治療が必要ですが、まだそこまでいっていない人は「できないこと」よりも「やれそうなこと」に目を向けてみるとよいです。
そこで大事なのは完璧主義にならないこと。
周囲の野次に絶対耳を傾けないこと。
それが大事だと思いますよ。

世間の皆様は普通大学を出て就職して三十半ばときたら役職などついてくるわけですよ。
それを30過ぎてようやく歩み出している自分など世間様から見れば屑同然。
そういう自分が周囲から見ればアホのようなことを書いている。
それでも私自身は希望にあふれているわけですよ。
そして自分にはできるだろうなと薄々感じている。
あとはその努力をするだけなのです。

たまたま調子がよかったので書いてみましたよ。

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02/27

Mon

2012

人生の時間は限られている

若さってやっぱり財産なのだよな、と若い人と話しているとよく思う。
といっても、10年ぐらいの差なのだが、自分は10年間はまるまる出遅れているという気持ちが強いので、辛くとも悩みながら、それでも目標に向かっている姿を見ると、ああ、なんと素晴らしいことだろうと感慨にふけってしまう。

人間は理屈の上でわかっていることは何も分かっていない。
分かってくるのは実感として染み付いてきたときに、ようやく「こんなものなのかな」と深く感じ出す。
結局上っ面を撫でているようなものには、まだ中身はわかっていない。
情報だけ理解し、現象も理解しているようで、本当の仕組みにまでは理解が及んでいないということは情報がありふれているからこそ陥る錯覚だと思っている。
自分もまた、間違いを犯さないよりも、あえて当たって砕けろを心がけているのだけれど、理解などという言葉にはものすごく遠いところにいる。

そろそろ、死ぬまでの道筋を考え始めている。
人生の時間は限られているとは言うけれど、実際にそれを意識できている人は少ない。
私ぐらいの年だったら、まだまだ人生は続くだろうと考えているだろう。
私は自分のやっていることが失敗すれば、死あるのみなので、後がない。
たとえ食えていけたとしても、命尽きるまでにできることといったら限られてくる。
その「命尽きるまでに残していくもの」を少しずつ考えている。

例えばミュージシャンでも、30年も活動できる人は、一握りしかいない。
しかも30年といったら随分長いような気がするが、世代を越えて、ということを考えるとどうもそうではない。
あまりにも短い。
私が携わっているのは文学だが、はたして100年残っていくような作品がひとつでも残せるだろうかと考える。
一体何のために色々なものに頼りながら、意固地にここにかじりついているのだろうと、時折自問自答する。
将来成し得ることまでは断定できないし、そこに希望を抱くか絶望するかは本人の心構え次第だ。

先日NHKで人類とお金の関係を放送していた。
お金とは単純に生活していくための道具だと漠然と認識していて、お金を得るために働かなければならないと現代日本人は誰しも認識できている。
今現在、まともに生活できるほどお金を稼げない、結果を残せない自分は世間から見れば価値がない。
結果がないのだから値段がつかない。
「自由」とは何でもしていいが、すべての結果の責任は自分が負わなければいけない。
フリーランスやノマドなどといったら聞こえだけはよいが、正直言って食い合い。
いや、そもそも「個人事業主」みたいなものがなくとも、芸術家、芸に携わるものは自然と「実力の世界」に巻き込まれている。
これが微塵も理解できないのなら携わる資格がない。
そしてそもそもこれらの「芸」は「値段のないもの」であって、そこをうまく現代資本主義のシステムに乗せて金を得ている。
今お金のことを考えると今の自分には価値がないのだから、たちまち首でもくくりたい気分になるのだが、何かそんなことばかり考えていると、すっと言葉が頭の中から砂のようにこぼれ落ちて、何も組み立てられない日々が続いてしまう。

お金がないということは、ものすごい焦りがある。
自分の評価が低いという実感も持ってしまう。
悲しいまでの実力のなさというものを突きつけられているようで辛くなる。
希望を持ちつづけるには精神力が必要で、それは恐ろしいほど莫大な、まるで恋でもしているかのようなモチベーションがなければ、すぐに尽きてしまう。
やはりどこかで「見返り」がないと、萎えてしまう。

ここ最近はこんなことの繰り返しで少しずつ進んでいるのだが、言葉の世界や目の前の事実だけにこだわってしまうと未来を作っていけなくなる。
言葉の世界に携わっているだけに、その呪術めいた作用や、暗示的な作用が働いてくるのはよくわかってくる。
しかし言葉だけでは本心を覆すことはできない。
どんなに綺麗事を言おうと現実は変わらない。
汚いことを言おうと現実は変わらない。
やるべきことはわかっているのだからやればいいのにね、精神力が追いつかないのですよ。
小説書くのが楽しいと言っている人が羨ましいね。
どうしてあんなに自分のすべてをひっくり返してくるような作業が楽しいのだか。

さて、人生の時間は限られているという題名でこんなに長々と愚痴めいた日記を書くのはそもそも間違っている。
今やるべきことはXHTMLとHTML5の勉強なのですよ。
文章のことではなくウェブ構築のノウハウを得るという、随分と遠回りなのですがしょうがないもんね、やりたいことを表現するのに必要なのだから。
英語の勉強もして将来英語で小説書けないと生き残れないだろうなとも考えているし、こういうことざっとあげただけでも5年は費やしそう。
それで詩のことも、またやり直さないといけないし、書くといっぱい出てくるんだよな。
四書五経、キリストイスラムの宗教世界のこと、量子力学、心理学、脳のこととか、あーもう、ありすぎる。
三国志も改めて「陣形」のこととか学びたいし、水滸伝だってまだ読んでないし、金瓶梅、紅楼夢、西遊記とか、うおい、童話もあるし、グリム、アンデルセン、マザーグース、イソップ、シャルル・ペロー、日本の近代文学だってまだ読み尽くしているわけじゃないし、ね、やることいっぱい。

ということで、目標なんて与えられるものじゃなくて自分で見つけてこなしていかないといけないわけですわ。
死ぬまでの時間のこと考えても不思議じゃないでしょ、今あるだけでもこれだけあるのだから。
最低限のベースとして備えておかなければならないことなんですよ、これでも。

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02/23

Thu

2012

無教養さからくる差別

二十歳の知り合いがいるのだけれど、その子は短大生。
今度卒業で保育士を目指していたという。
保育士の資格を取得するには実習が必要で、二回目ぐらいの実習の時は東北の震災が起こった後だったらしい。
そこで実習を決める担当官から「あなた震災起こったとき、きちんと全員の子供の命を守るために体張って動ける?」という類のことを言われたらしい。
いや、もう少し意地の悪い質問で、私もはっきりと「できます」とは言えないような質問だった。
つまり「口では言えても実効段階になったときに100%できるとは保証できない内容」の質問。

その子は日常生活にはまったく支障がないほどの軽度の障害があるのだが、その質問に答えられず実習は弾かれたらしい。
他の先生からは「訴えてもいい」と言われたらしく、私も「完全な差別だね」と言ったのだけど、その子は別の方法で挑戦するみたい。

日本人は頑張る人間、障害を乗り越えたとか、時には障害者そのものを美談で飾るくせに、こうした意地の悪いことが行われている。
風当たりが健常者とは同じではないことは、ところどころから聞いていたけれど、実際知っている人がこのような差別的な扱いを受けると苛立ちを隠せない。
その子は十以上年上の私よりもよく考えていて頭の回転もよい。
すぐ説教したくなってべらべら余計なことを言ってしまうが「そんなことはわかっている」と言う。
たまにこちらが子供のような気持ちになって面食らう。

その子とはまったく事例が違うが、

保育士採用試験:全盲女性「受験させて」大阪市が門前払い

リンク先の記事のように全盲の保育士の例もあるし人類はヘレン・ケラーという偉大な実例も持っている。
しかしそれらのことは結局「美談」として語られるだけで、隅々にまで浸透し一般化しているわけではない。

話がちょっと変わるが、例えば健常者でも宗教観の問題は職場で対応できる姿勢があるのか。
イスラム教信者とキリスト教信者の職場での扱いは同じでよいのか。
こういうことすらも日本人は知らない。
今回のこの子の問題も、日本人のこういった無教養さからくる差別だと言っていい。
なにせ軽度の障害など、ほとんど健常者と変わらないのだから。
例えばこれが片腕片足がなくとも同じことだと思う。
きちんと試験に合格できる頭と能力と強い想いがある。
健常者と比べて「あれはできないだろう、これは支障が出るに違いない」とか、どれだけ見下せばよいのか。

ヘレン・ケラーのwikiに以下の文があった。

その一方で、彼女を快く思わない者も少なくなく、日本の重光葵の手記『巣鴨日記』(『文藝春秋』1952年8月号掲載)によると、巣鴨プリズンに収監されている元将官たちの中には、彼女のニュースが耳に入ってきた際、彼女のことを「あれは盲目を売り物にして居るんだよ!」とこき下ろしている者もいた。このことに関して重光は「彼等こそ憐れむべき心の盲者、何たる暴言ぞや。日本人為めに悲しむべし」と彼らを痛烈に批判すると同時に、見解の偏狭さを嘆いている。


差別は言葉から来るものではないと私は考えている。
「比較と哀れみから湧き上がる微かな優越感」から来るものだと考える。
自分や自分と類似したものが作り出す集団だけが世界や社会の基準ではないのだということを、その性根に叩き込むのが「教養」というやつではないのか。
外国人ホワイトカラーから見れば日本の職場は「ブラック」ばかりらしい。
わかるような気がする。
家族のことを優先できない、違法なサービス残業がある、会議が簡潔に終わらない、意思決定のプロセスが複雑、有休はお飾り、独自の職場ルールがあり法律より優先されるなどなど、守られるべきものが人によって崩されている職場など優秀な人ならば嫌がるだろう。
まだまだ「差別大国日本」なのだ。

余計なお世話なのだろうが、その子には頑張ってほしいし、私も久しぶりに連絡が来て少し励まされた。
ここは見てはいないのだが、ひとつの祈りを込めて。

その青春の全力こそ、次世代の糧になる。

応援しております。

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02/21

Tue

2012

自分で自分を褒めたいと思います

「より速く適切に学べる人」:その理由(WIRED.jp)

いわゆる「褒めれば伸びる」の具体的な研究結果として、何を褒めたらよいのかが示されています。
「賢いね」と褒めれば「賢さ」が褒められて脳が刺激され、その「賢さ」を維持させようとするので、失敗を恐れるようになるというのはなんとなくわかる。
努力を褒めることは「チャレンジすること」を褒めているのだから、チャレンジ精神が維持される。

私の場合は結構抑圧的な精神が強くて、どうやったかというと誰も褒めてくれないから自分で自分を褒めるというやり方をやっていました。
比較せずたとえ他人が一日で一キロ進もうが、自分は今日一センチ進めた、それでいいのだ。
自分としては前進した。よくやった。
と、他人から見ればくだらないことかもしれませんが、これでほんの少しずつ進んできたのです。

今までやることなすこと嫌で成果がでなくて、やろうとしたことはけなされ、あまりよい目で見られてはこなかったので、ほとんど人生に対する前身力を失っていたところから始めましたので、自分にとってはこの方法が最適ではありました。

ところで、この研究結果、いわゆる「成果主義」にも言える側面があり、今ここまで社会の風潮として萎縮してしまっているのは失敗や「金にならないかもしれない挑戦」に対してひどく厳しくなってきているからなのだとは思います。
やはり誰かのせいではなく、今日独り言でもテレビの前で、新聞読みながら、週刊誌を見て吐いた呪いの一言が、メディアが流し続けている、会社組織がトップダウンで労働者を締め付ける考え方などが、世の中の人たちからチャレンジ精神を奪いつづけているのではないかと思うことがあります。

このことは今回は蛇足として、重要な下記の部分。

固定的な姿勢をもつ人は、間違いを「ぶざまな失敗」とみなし、与えられた課題に対して自分に十分な能力がない証拠だと考える。一方、成長志向の姿勢をもつ人は、間違いを、知識を得るために必要な前段階、学びの原動力ととらえる。


企業はお金という体力の問題があるので、厳しい事情はたくさんあり、社会的なことは今回は述べませんが、少なくとも個人でできることは他人の挑戦・行動をやたらと批判することは社会的にとっての癌化を促進する可能性を高める、ということが言えると思うのです。
少なくとも私は十数年病んでましたよ。
そして批判する側にも回ることがありますが、不必要な批判、これを越えて中傷までいって心が痛まないというのは、ちょっと根が腐り始めているといってもいい。
じとっとした嫌な気分を味わうことなく「スッキリ」したというのなら、これは少し考え直した方がよいと思うのです。

大事な未来の可能性を締め付けて結局さまざまな意味で豊かさを失うのは自分であると常に覚悟するべきなのです。
自画自賛のコツは「努力と挑戦」に対して、ということですね。
モチベーションを高めるには挑戦すべきものを見つけて攻略していくことにあり、です。

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02/17

Fri

2012

そういえばバレンタインデーは歯医者だった

先週の火曜日に行ったとき「来週火曜日から空いてますけど」と言われ、「じゃあ火曜日でお願いします」と予約を取って普通に行ったら、なんとその日はバレンタインデーじゃないですか。

別に狙って行ったわけでもなく、かわいい歯科助手さんに導かれるまま「はい、火曜日でぜひ」と内心ウキウキしながら行ったわけです。
なんで「そういえば」と思い出したのか。
その日に気がついたのですよ。
チョコなんてものに縁がないからその日に気がついたんですよ!
そして縁がなかったから今更思いだしたんですよ!

やっぱり知り合いは、それとなく探りを入れてくるわけです。
「こいつはチョコなんてもらってないだろうが、一応念のため聞いておくか」という非モテ偵察を行ってくるのですよ。
「チョコ、もらいましたか?」
うるせいやい、と心の中では夕日に照らされながら河原で石ころを蹴っているわけですが、紳士なわたくしは「ええ! 歯医者で奥の仮の詰め歯ならもらいましてね! いやあ、ずいぶんと削り取られ、美女の歯科助手には歯石がたまっていますねと告白されましてね! よいバレンタインデーでしたよ! HAHAHA!」と充実した一日であったことを暴露してやると、さすがのわたくしの過密偉業スケジュールっぷりに「ああ、そうですか」と苦笑いを見せながらも恐れおののき、そそくさと目の前から退散していく姿を晒すのです。
まさに虎を前にしたウサギのように逃げ出すという具合でありまして、私は勝ち誇ったように笑みを浮かべるわけであります。
ああ、勝利し続ける男というのは罪だなと。

いつもながら歯医者にいくと死ぬほど緊張していて、水を飲む手が震えるというぐらいガチガチになっている。
「こ、このわしが、奮えておるわ……」
と心の中だけは余裕っぷりを示しているのです。
そしてその余裕っぷりは歯科助手の「奥歯の詰めものは取れやすいのでガムとかお餅とか、そういうくっつきやすいのは食べないでくださいね」という説明の時も相手をおののかせるほどに出ておりました。

「チョコは?」
「え?」
その質問を投げかけた時一瞬マスクの下の歯科助手の顔が歪むのを見逃さない。
(こいつがチョコ? もらえるのは義理か、その程度だろ、ふっ)
「チョコレートは食べていいんですか?」
なおも食い下がり必死の応戦。
弾幕の薄さに怯まず残り弾を敵前で打ち尽くします。
「え? ええ。キャラメルとか、そういうくっつきやすいものじゃなければ大丈夫ですよ」
そういう質問をしてしまったのも、歯科助手の後ろに見えるカレンダーの「14」の文字。
チョコなんてもらっていないのに。
せいぜい自分で買うぐらいなのに。
今日という日が憎けれど、決して同士を募るなどというマネはしたくなく、つい見せかけだけでも「ちょっとモテてます感」を出したかった……

ああ、その日は歯医者から出たとき世界が潤んでいたよパトラッシュ……

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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