http://blog.freeex.jp/archives/51303573.html日刊SPA!「現代のオトナが捨てるべきこと 『ネット、トレード、自分探し』」インタビュー・ノーカット版
自分のことを棚にあげて抜け抜けと言えないのですが、作者の立場として凄く悩むのが懸命にひねった表現がまったく通じず、わかりやすく噛み砕いた表現がうけるというのは、ちょっと悲しいというか、ひどく衝撃的なものがあります。
その度に自分が悪いのだ、表現を変えなければとは思って改良するのですが、得るものがだんだん少なくなってくる。
調べなくても書けてくるから、本当の読書が遠くなっていく。
そのうち自分が「どこにでもいる奴」に完全に成り下がってしまうのではないか。
そこからどのように出ようかともがいているのに、沈みかかる。
周囲を見て安心して、そのレベルで甘んじる。
私は夢を見ているつもりはなくて、10年後20年後への組み立てがハッキリと見えたのは、この芸事の分野だったので、それを信じきっているだけなのです。
もしダメだったら自分への人生の見立てが誤っていたということですから、潔く死にます。
少しでも先行きが見えなかったら止めていたでしょうね。
自分はあまり優れているとは思っていないのですが、これからの人はもっと視野が狭くなるのでしょうか。
いささか寂しさを感じる「背が低くなる」という表現ではありますが、逆に言えばそれだけ環境が整備されているということでもあります。
自分探しなど私はくだらないと考えていて、目が外に向かっていて内省もできない人間に「自己」など出来上がるのか。
そもそも何かの中で練磨されてこそ「自己」ができてくるのに、「これは本当の自分じゃない」と考えるのは相当危険で地に足がついた考え方じゃない。
今この年齢になり、ようやく「大人になるって何だろう」と考え始めているのですが、私は創るのが好きだから、最後の瞬間まで何か創っていたいと考えています。
その創作の中で少しでも他者に誇れるものがあれば、生きてきたかいがあるというもの。
私自身は文章は本当に生物だと思っていて、愚かでも幼くとも、その年齢にしか絶対書けないものがあって、その時期を逃すと一生書けないと考えているものですから、とにかく恐れず表現しています。
例えて言うなら今の村上龍に「限りなく透明に近いブルー」は絶対書けないと思うのです。
幼くとも、足りなくとも、その時期では完成しているものがある。
歪な美しさ、というやつです。
それこそ大事な財産となるのではないでしょうか。
財産があるってことは、他者にも何らかのアプローチができるということを意味しています。
何一つ財力がない人間は他者から奪うことばかり考えるのですね。
もしくは優劣を嫌うので平坦な状態を好み、他者が抜け駆けしないか監視するようになります。
この二つの状態は進歩を妨げるし、集団の力を奪いとことん弱体化させます。
他人に文句を言えるうちは、まだ自分で何もしていない証拠。
実践してよく内省し、ノウハウを積み上げている人間は思慮の面で非常に慎重で注意深く、相手の話を聴く余裕があります。
私もいつの間にか子供ではなくなってしまい、かと言って大人とも言えないほど未熟で幼稚です。
私はどんな大人になりたいかと言ったら「胆力があって粋な奴」が理想です。
「粋」とは「一撃で人を落とせるような行為をしてしまう凄みと晴れやかさ」だと考えています。
色々と痛い話でしたが、今更道を変えられるほど軽く考えてはいなかったので、最後までこの道を通したいと思っていますよ。
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