先日デミグラスソースの缶詰が3分の1ほどあまっていたので鶏がらスープの粉末一杯分と混ぜて冷蔵庫のタッパーに入っていた3膳分ぐらいのカラカラのご飯を入れて洋風おかゆみたいなものを作ってみた。
たまねぎを入れたらさぞおいしかったろうが、野菜はなし。
中に卵を入れてチーズとパセリをトッピング。
別に悪い味ではなかった。
卵の中にご飯を入れてもよかったけれど、なにせ思いつきで初めて作ってみたので味に自信が持てずやめた。
デミグラスソースは缶詰を使ったけれど、最初から作ったらどうなるのだろうと調べてみたら、最初から作ったら10時間ほどかかるらしい。
当然化学調味料系のものは一切なし。
すべて最初から作る本格的なものでした。
そこで「これなら缶詰買ったほうが安いし、楽だよね」と思った時気がついた。
鶏がらスープだって最初からきちんととろうとすると数時間かかる。
どうして料理のためにこれだけの時間かける必要があるのだろうとか、毎日やると面倒くさいとか、他にもやることがあるしとか、色々な面で「料理を作って生きていくということはどういうことか」を忘れがちである。
「腹がふくれればだいたいは一緒」ではないのだ。
「時間が」「労力が」と浮かんでしまうのは、きっと時間に追われていて、疲れていて、生活にも精神にも余裕がないからだろうと思ったのだ。
「金があるなら外食すればいいし」というのも個人の考え方としては少々貧しい。
たとえば前にこんにゃくの作り方を調べたけれど、実はとても労力がかかる。
本来はそのままでは食べられないものを食べられるようにするまでには時間も労力もかかるのだ。
昔から伝わっている料理の中にはこんにゃくのようにアクとりをしなければいけないものがたくさんある。
食べるまでに手間がかかるのだ。
本格的な料理でも日本食には手間隙かけて仕上げていく料理が多い。
出汁ひとつとるのにも、微妙な風味や味わいを大事にする。
それを出すには非常に時間がかかる。
精進料理だってわざわざゴマをすり鉢で潰してから食べる。
そもそも、なぜそれほど手のこんだ料理を編み出したのだろうか。
今の現代人の生活はスピードが要求される。
いかに素早く、いかに正確に、効率的にレベルの高いことをやるかを競っている。
「デミグラスソースは自分で作るよりも缶詰を買ったほうが時間も労力もお金もかからない」
という発想は誰でもする。
そこをあえて「時間や労力なんて食事から得られる豊かさに比べれば惜しいとも思わない」と考える人は少ない。
多くの人間は「過程の状態」ではなく「結果の状態」を重視しがちだからだ。
つまり「結果から手段を逆算して考える」ということだ。
そもそも仕事をすれば当然「拘束される時間」が発生する。
その間は「お金」に還元されるわけだ。
ここまでは当たり前だと思う。
通常「淡いもの」を巧みに使い分けるには相当の感性が必要になる。
料理だっていいものは味わいが奥深くなる。
つまり「淡さ」が含まれている。
そうでなくとも化学調味料に頼らない料理をしていれば少々の味付けで変化してくることはわかってくる。
感性が鈍ってくると、非常に大雑把になっても気にならなくなる。
日本人が文化を作り出す上で労力を惜しまない時間への感性も非常にゆったりしているのは自然が多かったせいなのではないかと思うのだが、時間と労力をお金というものに換算してしまう考え方は非常にせせこましい気持ちになってくる。
それも意識されず蝕まれていくのだから厄介だ。
いつの間にか時間を生きようとしているのではなく、時間に追われ管理されながら生きていっている。
その中でどうしても無意識に労力の代価を結果から逆算している。
生きるとは学びだ。
学びがある限りは向上心が出てくる。
しかし感性が足りなければ、向上心なんて沸いてこないだろうし、違いも気にならない。
極端な状態だと心が死んで五感が麻痺する。
過程が気にならなくなり、微妙な違いがわからなくなる。
愛情がなくなれば恋人の変化にも気がつかなくなることと一緒だ。
せせこましくなると時間に余裕をもって様々な向上心をもって学んでいこうとする気持ちが薄れるし、気づきも少なくなる。
食べることにも興味がなくなりカップラーメンとかレトルトで充分だし、とどこまでも怠惰になってくる。
「食」とは「体を作ること」である。
だから生きられる。
体を作っていくということは、学びも同然だ。
脳が日々新しく経験を経て変化していくのと同じように食べ物を食べて体を変化させていく。
時間があるし年も老いるから変化があるのは当たり前。
ゆえに「食」も大変重要な学びの要素だ。
そして料理を経験することによって外食の味だって変わってくる。
「この味を出すのにどれだけ苦労したか」と味わい深くなってきたりするものだ。
残念ながら、この「学び」はお金を払って易々と手に入れられるものではない。
感性のなせることだと思っている。
それを「労力が」とか「お金が」とか「時間が」と考えてしまうのは、既に貧しい発想なのではないかと気がついたのだ。
「食」は体と同時に「心を作るもの」でもある。
これを忘れてはいけない。
簡単お手軽料理も時間のない人には大事かもしれないが、ひとつの料理に魂を込めてみるのも、貧しい感性にならないためにも必要なことだ。
なぜなら、貧しい発想は豊かさを生まないから。
そして豊かさがないということは、幅広い創造性や、創造性から生まれる幅広い選択肢を生み出さないということだから。
さすがに10時間ほどもかかるデミグラスソースは時間を確保しないときついけれど、「食べるとは何か」についてよく考えさせられました。
時間に対して豊かさを持とうとする感性は常に磨いていなければさびれてしまうのだ。
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