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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

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05/24

Tue

2011

自分でも意識していたことだけれど「作品にインディーズっぽいコアな感じがする。メジャーじゃない。万人受けするんじゃなくて、なんていうのか暗い影が潜んでいる」と言われた。
明るい話を書こうとすると苦しみとか悲しみを入れたくなる。
なんというか、人生希望ばかり唱えていたら大変な目にあう。
というか、自分が人から叩かれることが多く、大人のスタートラインで思いっきりコケた感じなので、自分の青春に対する投影として作品ができているのかもしれない。
素直にリアリティを描こうとすると、良いことばかりを書けない。
どうしても「この世はいい人ばかり」と言われたら、言った人を鼻で笑いたくなるという、なんともひん曲がった精神が出来上がってしまった。
だからやたらと人にいいことばかり言う人を信用できないし、人間いつ心変わりするのかと最初から構えている。
要するに信じていないのだ。
人間の行動の一貫性というやつを。

当然この世界に完璧なものなどなく、誰しも長所と短所を同時に持ち合わせて生きている。
よく著名人に多くの人は、あたかも完璧に近いかのような能力を思い浮かべる。
有名になればなるほど「あの人は自分よりもはるかに優れているのだ」と思い込む。
それってどうしてなのかなと考えたけれど、現代社会は、特に会社人は「システム」の中で生きている。
システムをつくりそのシステムを利用することで面倒な、人によってバラバラになる価値基準を簡略化して処理しやすくしている。
つまり合理性のメリットとしてスピードを求め、その代償としてあらゆる複雑な、かつ個別で評価が分かれる面倒さを排除している。
よって統一化しようとするのも合理性のひとつであり、隙間を埋めようとするのも合理性の補助機能として生きている。
それらは長所をより持ち寄って生きているが、単体では生き残れないという性質を持つ。
これは人間と同じだ。
どんな有能な人間でも、一人では短所が目立ちすぎて生き残れない。
現代人はシステムの中で常に評価されて生きているから、自分より有名だったり稼ぎがあったりすると「自分より有能だ」とか、能力が劣っていると「なぜあんなやつが自分より稼いでいるのだ」と嫉妬する。
つまりシステムによってテストの順番のように「努力の成果によって評価され報われるはずだ」とどこかで思い込んでいる。
しかしまったくそうではない。
思い通りにはいかないし、思い通りにいかない故に人間は理不尽さを持ち合わせている。
理不尽さの正体は生活の中で慣れきってきたシステムをどこかで信じきっているせいではないのかと思っている。

人間は長所が優れていれば優れているほど、同時に短所を持ち合わせると考えている。
それは人間社会において長所が無限に増殖せず、増殖した分だけ短所を作り出しているのだという隠れたデメリットを、常にメリットを強調することで隠しているように、ひとつのごまかしやまやかしの中で常に自分を納得させているだけなのだという考えが根底にあるからだ。
よって、人間は希望だけを抱いて生きてはいけない。
よって、人間の希望だけを説く作品を書く事に違和感を持つ。
よって、己の欠点は人間の希望を信じきることができないということだ。
よって、作品に影を落とすことになる。

こう書くと自分は、ただ自分が救われたいために小説を書いているのではないかという、小さな、本当に小さな真実にぶち当たることになる。
そうではないと思い込みたいふしはあるが、実際ただ自分のためだけに書いているのかもしれない。
自己満足のために。

もうそれでいいとも思い出している。
高尚なことを言ったとしても、もしこの先祭り上げられることがあったとしても、自分は常に自分に打ちのめされていくに違いない。
自分の小ささに。
そしてその小ささを誰かに押し付けながら生きていく。

先日偶然名を残した作家や芸術家が絵を用いて「美を語る」という映像を見つけた。
その時フランシス・ベーコンの絵に最も共感を得た。
こういうところも「影」なのだろうが、気がついたことは技術はもちろん大事だ。
それよりももっと大事な根底は「発想」そのものだということを忘れていた。
技術を用い、誰かを意識しすぎることで、「発想」そのものが貧困になり、媚びていくようになる。
これではいけない。
技術はあくまで「発想」を乗せて走らせていくための手段でしかない。
それがいつのまにか、技工そのものが優れていれば、それは素晴らしい作品なのだと評価されるようになる。
だが、技術があっても「発想」がなければどうしようもない。
宝の持ち腐れになる。
結局、基本となる「自分」を通して作品を作っていくしかない。

そうやって自分のスタイルを作りながらあたかもそれが普遍的であると信じて生きていくのだろうな。

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05/22

Sun

2011

国滅びて山河あり

日本の家計金融資産は総額1400兆円あるとテレビで言っていた。
現在の借金は1000兆円ほどあるという。
国民の資産がまだあるから、この国は潰れないのだと言った。
じゃあ逆に言えば、借金総額が1400兆円を越えていけば国家破綻のカウントダウンが始まるということなのだろうか。
いずれにせよ、あって得をするものでもないものが歯止めがかからず増え続けているということは、それがどこかで大きく弾けてしまうのではないだろうかと考えている。

日本国の場合、どこか他国に敗れるわけではない。
だから「国敗れて、山河あり」ではなく、ただ滅びた後に、名残が残るのではないか、そうはならなくとも、そこまで追い込まれる可能性は充分あるのではないか。
これは自分自身への戒めとして覚えておこうと思う。
滅ぼすのは誰でもないこの国のすべての人たちだ。
10年だろうか、20年持つだろうか。
私がちょうどおじいさんにさしかかろうという時、この国はいかなることになるのか。
もう他国は日本の寿命を計算しているのではないだろうか。

どんな道をたどろうと、日本国家の今ある国家枠を排除するという方向性は変わらないだろう。
いろいろな意味でボーダーレスになる。
そうしなきゃ生き残れない。
これからは日本人という基盤をもって、地球人としての意識で、どう国家枠を超えて活躍できるのかを考えていかないといけない。


国破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火 三月に連なり
家書抵万金 家書 万金に抵る
白頭掻更短 白頭掻けば更に短く
渾欲不勝簪 渾て簪に勝えざらんと欲す


どこかで「国家は永遠だ」と無意識に思い込んでいる。
昨日までの生活が明日も続くはずだという前提で毎日を生きている。
何かその思い込みを打ち砕かれていくような気持ちになっている。
いつから人のことよりも数字のことを優先させるようになったのだろう。
いつから隣の苦しみの声よりも甘言に心浮き立つようになったのだろう。
自分の懐に札束入れられれば目の前の人間に大きな石を落とし「私は直接手を下していない」と平然とした顔で言える神経はどうやったら養えるのだろう。
俗物に権力を握らせると末端まで腐敗する。
そんな国にはなってはいけなかったのに。
これからでも少しは取り戻せるのだろうか。

力をつけなくては。
何が起こってもいいように。

願わくば、こんな戯言がただの狂人の妄想で済みますように。

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05/21

Sat

2011

父親が退院してきた。
経過も良好。ステージも放置していたには重くなく、抗がん剤も使用しなくてよいとのことだ。
入院して余計に元気になったと言えるほど元気になった。
退院する間近母親が「せっかく朝掃除とかできてよかったのに。もうちょっと入院していたら?」と言っていた。
これが重かったら皮肉など言っていられるような状態ではなかった。
ましてや余命など告げられていたら、家族の雰囲気は一気に変わっていた。
その点は不幸中の幸いだ。
皮肉めいたセリフを交わして笑い合えるのだから、むしろ関係は前よりもよくなっている。
あたたかな雰囲気を感じる。
家に帰ってきた父親。
話しかけてくるなんて滅多になかったが、話しかけてきた。
これだけでもうちは「ああ、変わってきた」と感じるほどなのだ。

ガン細胞は栄養を吸いながら無制限に増えていくという。
前と打って変わってよくなってきた家庭の環境に、心にもまたガンというものは存在するのではないかと強く感じている。
人に対するよくない感情は日々各々の心の強さによって排除されている。
しかしいったんバランスを崩し負の感情が多くなってくると、知らず知らずの間に無尽蔵に増えていく。
そしてその負の感情は心のエネルギーを吸い続け、人に対して攻撃的になる。
自分の気に入らないものを無遠慮に攻撃するようになる。
もしくは自分さえよければよいと他者を慮ることなく利己的になってくる。
人は傷つきながら他人との距離をとっていく。
そんな経験は誰しもしていくことだろうと思う。

筑紫哲也の最後の多事争論を文字おこししたくなったのも、まず政治や国家というものを考える前に、家族という単位が最初にあって、次に個人、集団、組織、社会、国家、という順に膨れ上がってくると考えたからだ。
私は今「家族」という単位を心の中で修復しようとしている。
一番最初の単位を「家族」としたのは、やはり誰もが一番最初は赤子から育ってきて、その「家族」が血が繋がっていようとなかろうと、「家族」ではなくとも「育ててくれるもの」が存在するからだ。
それがあって初めて「個人」が存在しえる。
これは人間の一生において言えることだと思っている。
常に何者かの影響や恩恵を受けながら人間は育っている。
それが「システム」や「考え方」によって分離できる状態にあり、錯覚しているだけなのだ。
いつだって「自分は一人でやっていける」という傲慢を抱えがちだし、そつなくこなせる自分とできない他者、あるいは逆の嫉妬という感情もあり他者をよく思わなくなる状態に陥ることは、いくらだって考えられる。

思えば、長い時間がかかったように感じる。
どこの家族でも大なり小なり問題を抱えている。
いつだって問題は思っているよりもシンプルで、「戦い方」が問われている。
自分は、避けて避けて避けて避けて遠回りして遠回りして遠回りして、最後にちょっとだけ戦ってようやくここまで来たように思う。
戦い続けることだけが戦いではないから、戦うことだけが正義だとは言わない。
だが人生の中では、どうしても立ち向かわなければならないものがある。
逃げようのない現実と向き合わなければいけない時がある。

そこから逃げてしまっては、家族も、個人も、組織も、国家も、滅びていくと思う。
ガンは小さなうちは気がつかない。
大きくなってから体の不調や痛みに気がつきだす。
精密機器のようにガンを発見し根絶せよというのは人間には無理でも、戦うべき時に戦い、守るべきものを守り、我々家族や、個人や、組織や国家などが、いかにあれば健全さを保てるのか、目先の問題に惑わされず、人の目をしっかりと見て考えようじゃないか。
心に巣食ったガンに負けることなきよう。
さもなければ、失って取り返しのつかないものが出てくるかもしれない。
私は今、何度かの喪失の危機を越えて、改めて思っていることだ。

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05/19

Thu

2011

放射性セシウムの拡散範囲

ニュースを見て「こんなところまでなぜセシウムが」という報道をしているけれど、どうしてそんな言い方するのかわからない。
テレビのニュースばかり見ていると確実に騙されるね。
少なくとも海外メディアは飛散の範囲を報道していたし、私は震災4日後ぐらいのドイツメディアのシミュレーターで見たけれど、北は青森、北海道帯広、根室から、南は名古屋までしっかり放射性物質が飛散している可能性を示していた。
風の強さによっては日本全土にかかっているといっても過言ではない状況だろう。
なんだか見るのもくだらなくなってテレビ消してしまったけれど、これから注意しなければならないのは内部被曝。

今回の場合には、いわゆる内部被ばくをしないように注意することは、必要だと思うんです。これは皆さん同じです。大人も子供も、特に子供さんは注意した方が良いだろうと。ですから、それは何をするかというと、内部被ばくの場合に、体の中に放射性物質を取り込む経路は3つございます。1つがこの大気がかなり汚染されたときに、息をしますから、そうするとその息をしたものが鼻とか口から入って、それが気管を通して、肺に入ります。粘膜とか、そういうところからやっぱり、放射性物質が取り込まれて、血液の中に入る。もう1つが一番ご存知の通り、経口的、口からですね、これが、食物とかミルクとか、水とか、その他色んなものがあると思いますが、この3つの経路がありますから、ですから、内部被ばくを防ぐためには、この3つの経路を何とかして皆さん方、入れないようにしてください。

大気の汚染がひどくなったようなときには、外に出るときには、マスクをしてもらう。マスクの場合には、その下に、濡れたガーゼか何かを入れたほうが良いだろう。

雨とか、今は雪はないですけれど、そういう場合は上から落ちてきますから、(放射性物質は)空中に浮遊している。下に落ちてきますから、それを浴びないようにして欲しい。それには傘を差す。それから濡れてしまった場合には、頭を洗うとか帽子をかぶるとか、そういう形で持って経皮的な摂取を防ぐ。

NHK「かぶん」ブログ:NHK | 取材エピソード | チェルノブイリ医師の思い・菅谷医師の講演全文掲載です(抜粋)

神戸は震災から10年かかって街を気付き上げた。
東北は20年。
福島となると放射性物質の問題を引きずってそれ以上かかることになる。
セシウム137の半減期は30年。
その間ずっと農作物などからセシウムなどの放射性物質を気にしながら過ごしていかなければならない。
福島周辺はもしかしたら40年近くかかるかもしれない。

東電の補償は甲状腺がん、白血病などのガン化を検査する医療機関を福島県人に無償で提供するところまでやって完璧なんじゃないのかな。
このまま黙っていても作物からセシウムが検出されれば放射能汚染地域がはっきりわかってくる。
そして低線量による長期被曝。
これは5年後10年後の問題になってくるから今は実感がわかないかもしれないけれど、国が将来補償しない可能性もある。
これはIAEAが低線量による放射能被曝の被害は断定するまでのデータとしては不足なのか認めていない。
これはよほど総出をあげて福島県人や原発周辺の住民が組織化して長期にわたって押していかないと動くものも動かないだろう。
健康状態が悪化してからでは裁判を起こして長期にわたって耐えるのも難しくなってくる。
将来起こりうる可能性に対しての賠償は難しいとでも言いようものなら放射性物質の値を突き出すだけでもいいんじゃないかな。
これだけでも充分な被害。

電気料金の値上げだって他の国なら国会の前でデモが起こるレベル。
正直大人しすぎることに気持ちの悪さすら覚えている。
どうして怒らないのかな。
黙っていたって状況は徐々に悪化するだけなのに。
そして、次々と情報が隠されていくだけなのに。

P.S.
って書いた次の日にこの記事。
雨水から微量セシウム(読売新聞)
府は19日、府立公衆衛生研究所(大阪市東成区)で4月1日からの1か月間に採取した雨水やちりなどの降下物から、ごく微量の放射性セシウム134と同137を検出したと発表した。

これで西日本の人も「原発関係ない」なんて空気も吹っ飛ぶね。

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05/19

Thu

2011

一人十色華麗なるサクラたち

なんか、別に流行っているというわけではなく、昔からこの手の「サクラ商法」というのは、テレビショッピングをはじめ別に珍しくもなんともないのですが、ここんところは素人に「この商品の感想書いたらウン百円」というお仕事も出ていたりするので何がサクラなのかわからなくなってきていますが、今日は感想文における一人十色、サクラ感想を作って遊んでみようと思います。
他人の文章あげて遊ぶのもなんなので、自分ので。

http://p.booklog.jp/book/23898
「ゆきのひとひら、知らせる。」

まずは高評価レビューから

(普通)
・はじめてこの作者の作品を読ませていただきました。
作者が北国出身らしいこともあり、雪国の情緒が詩的な文章からよくわかります。
すらすらと読めてイメージしやすく、子供とのわだかまりを解こうとする「気付き」が自然を絡めた優しいタッチで描写されていて、読後もさわやかな感じがしました。
これからこの作者の作品ひとつひとつ丁寧に読んでみようと思います。

(感情)
・旅行で北海道のスキー場に行った時「しばれる」ぐらいの寒さを体験しました。
家族で行ったのですが子供が雪をじっと見ているので声をかけたら「雪の結晶が見える」と言って見せてくれたことを思い出しました。
大人と子供との関係と家族というものを改めて考えさせられます。
奥さんがとっても優しいのですね。
さりげない優しさにあたたかみを感じました。
寒い景色の中にほっとする人情味があってよかったです。

(ファン)
・光野朝風さんの作品を楽しみにしているものです。
いつも細かな描写から感情の些細な動きがよくわかります。
自然の冷たさと人のあたたかみ、北海道の出身だとあたりまえの景色なのだと思いますが、やっぱり住んでいないとわからないことってあるんですよね。
自然の光景や、家庭の一場面、子供のちょっとしたすね方など目に見えるようです。
また作品出来上がるのが楽しみです。

(書評風)
・叙情的な文章と自然描写から人間の揺れ動くさまを描いている。
子供を持つ父親もかつては子供だということをいつしか忘れて生きていってしまう。
子供と親との関係の視点にふと父親が気がつき内省する過程を盛り込むことで忘れていた「当たり前」に気づくあたりは作者の祈りを感じた。
詩情をふんだんに盛り込む作者の描写力に底力を感じる。


次は低評価

(普通)
・どこにでもあるよくある話かなと思った。
文章が安易で特に目新しいものはなかった。
淡々としすぎてメリハリがない感じ。
あまり楽しめませんでした。

(感情)
・なんか実感わかなかった。
美化しすぎかな。綺麗過ぎるところが好きじゃない。
なんでもかんでもいい感じに書けばよい作品になるみたいな安易なシナリオでもっと家族との関係をしっかり書いてほしかった。
雪の中で色々思っていたけど、孤独な感じがした。
一人で納得している感じ。

(アンチ)
・素人の文章読まされているのがまるわかり。
流暢には程遠く分自体に練りこみがなく、腕も上がってない。
似たような話を々使い回ししている印象で引き出しが少ない。
またこういう話?という感じ。
引き出しの少なさが見えてきた。
売れない作家の典型。

(書評風)
・短編は一文一文を大事にしなければならない。
そして一番最初の一文の引き込みで短編の魔力の引き込みは始まるが、最初が弱すぎる。
もっと推敲を重ね、散漫な文章配列の中に図太い骨を入れなければ印象に残らない話として曖昧に消えてしまう。
特に一人の父親の「家庭観」が薄く、読むものに家庭を持っている男の重荷がじんと迫ってこない。
それだけに子供との関係も、とってつけたようなさっぱりとした印象を受けてしまう。
最後の締めも弱く完成度は低い。
実力不足の感が否めなく、これから作家としてやっていくには不安な要素が多くとても他人にお勧めできない。


・・・とまあ、こんな感じでどうでしょう。
物は捉えよう、見方によっていくらでも評価は変わる。
自分で考えるだけでもこれだけの意見が出る。
褒められて嬉しくない人はいないだろうけれど、批判されて反発するのはどうだろうと思うところがある。
なぜって、他人の主観は変えられないのだから。
作品を読んで感じたことがその人の真実であって、小説は事実や現実をルポのように突きつけるものではない。
批判でも一番良心的なのはこの中間あたりかな。

たとえば、

・やや文章の練りこみが弱いものがありつつも、推敲を重ねていけばよい作品へと生まれ変わりそうだ。
情緒的な文章がうまく、周囲の環境と心情を絡めて描くことがうまい作家さんのようです。
ただ現実感がしっかりしないことには幻想との対比として浮き立ってくるものがなく、それは家庭を持つ男性と子供との対比にも言えることだ。
視点が素朴で読み飛ばしがちかもしれないが、冬の感覚がよく出ている。
次回作品に期待。

こんな風にだめなところとよいところを出してくれるのが批判として非常に良心的かな。
じゃないと感想者の趣味の相違か否かが判別できない。
それだけに分母が大きくなければ作品にとってよい意見なのかそうでないかが見えてこない。

アマゾンでは関係者が作品に高評価を与えることがあるけれど、やっぱりプロでありたいなら「いいもの」残したいっていう欲求がないといけないよね。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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