忍者ブログ

あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

04/01

Fri

2011

精神の調子が良い時、素直にいろんなものが入ってくる。
悪いものも良いものも分別されず素直に入ってくるので、頭の中がぼんやりした状態で、互いにぶつかりもせず干渉しあう。
これは個人的な感覚だから説明するのは難しい。

この記事はメモ書きとして使おうと思う。
箇条書きに近いものもあるので人に読ませるものでもなのだが。

妙なイメージが見える。
最初は躍起になって動いて人を励ましていた人が、やがて関心が薄れ忘れたようになって行く姿。

人の考えは確証的なものが得られないだけに、何もかもが正しい。
ただし、決定していないどの考えにも反論は加えられるので、どれも間違っている。
つまり未来へ実証的に動いていくか、それともデータによる法則性を提示するか、になる。

希望は「バタフライエフェクト」で、つまり「蝶の羽ばたきが、地球のあちら側の台風を起こす」という理論に基づくが、その反対も言える。
たいがい「覚悟のない希望」を唱える人間ほど非常時に逃げ出すものだ。

「私は自分を貶めても平気だし、自分の底を知っているからいくらでも這い上がれるまでの期間を予測できる。でもあなたは違うみたい。必死につくろって今たっている位置を保とうとしている。あなたと私の間にはそれだけの決定的な佐がある。今のあなたには私を見抜くことができない」

世の中には自分のことを相手に出す時に歪んだ形でしか出せない人がいる。
俺もそうだよ。
思い返せば、家庭内に会話というものがあふれていたら、俺はわざわざ自分の気持ちを文字にするまでもなかった。
人一倍認められたいとか、認められないゆえの歪んだ他人への恨みとか、典型的な日本人の閉鎖的な発想が、強烈なアレルギー反応として体に染み付いている。

たいてい人は自分自身への矛盾や盲点が、そのまま他人への盲点になる。
自分のことを知らない人間は他人に自分を押し付ける。
なぜか。
それは自分の中の矛盾や盲点から起こる強烈なフラストレーションを他人で実証したいという欲求があるから。
矛盾の解消を実証によって補おうとする。常に。
自覚しているならまだかわいいが、自覚していない人間は話し合うに値しない。

そう、だから自分は友達を失う。
人の矛盾なんて暴くことはない。そっとしておけば幸せに過ごせるじゃないか。
ある意味身も蓋もない考えでは、人から賛同されないのは当然のことなのだ。
もっと認めてあげればいいのに。

よく考え、よく物事を見ている人は観点が鋭い。
年は一切関係ないということがわかった。
年配でも自分を誤魔化し続けている人はいる。

希望も絶望も同時に語る。
それは現実だろ。
希望は「実践」において重要。
だが他人に説くものでもないと思う。
希望は語るものじゃなくて見せていくものだ。
そして魅せられた人が希望を実践していく。

東京というのは情報に操られる都市なんだな。
だから希望的な情報も「価値」となる。
絶望的な情報も吸収される。
だから現実と脳内仮想を両立した一種の情報都市になっている。
資本主義社会に生きていて、毎日その社会を維持させるために働いて金を回しているのに「自粛ムード」が流行るのは、どういうことだろう。
経済学を学んだことのない私でも金は血で、血が回らなくなると体そのものの組織が死んでいく、という理屈を知っているよ。
自粛したからって何の助けにもならないばかりか、逆に個人も他人も苦しめることになる。
この矛盾を解消するために他人にも「自粛」を促すことで生まれる矛盾を解消しようとする。
きっと「働く」ということも、とても個人的なところに理由があるせいだろう。
東京人などの都市人間は「公共性」を「社会を通して」ではなく「社会を構成している私個人を通して」見ている。
その典型例が巨大組織のトップに見られるような(目立つからよく見えるのだろう)、へんちょこりんなやつなんじゃないだろうか。
「私個人」で「社会」を見ているから、不安も恐怖も簡単に伝染していく。
「システム依存」が酷くて、ひとつシステムが狂うと都市機能も、中に生きている人間そのものも混乱していく。
実際脆いとは薄々わかっていても、目の当たりにするまで信じられないのは、結局自分にとって都合の良い情報を集めて暮らせる「半仮想地域」だからなのではないのか。

いや、これからの時代現実から遮断されればいつだって「半仮想地帯」に陥る可能性がある。
きっと箱の中から箱を見るのと箱の外から箱を覗き見るのでは感覚が違うだろう。

日本はこれからよりコンパクトな地域づくりをしていかないといけなくなる。
抑制ではなく「最適化」の方向へ向かっていく。
贅肉をそぎ落として筋肉をつけるにはどうすればよいのかの都市づくりをしなければ、また同じところに戻る。
そういうのは、もう東北の人たちは望まないはずだ。
西と東で日本は大きく変わるような気がする。

英語は来年から、と思っていたけれど、もうちょっと早めなければいけなくなった。
外貨を獲得する方向にシフトしないと自分も生き残れない。
日本語ももっと叩き込まないといけない。
今年はまず当初の計画を通しながらスピードを速めないと。
文学賞狙いの文章とか。

賞金が入れば現地入りもできるから。

拍手[1回]

PR

03/28

Mon

2011

世の中、外だけ小奇麗にしている奴が人の支持を得ていた。
でも、それももうおしまいだ。
いくら外が小奇麗でも中の歪んでいる人間はボロが出る。

心根の美しい人間は飾り立てた言葉を使わないものだ。
装飾する必要がないから。
自らの卑しさや弱さを隠すために懸命に飾り立てるのは「香水」の発想と同じだ。

人生も自分も飾り立てるものじゃない。

今はそれだけ思う。
現代社会の中で、いかに装飾されたものが利益を得られるか。
それはまるで金メッキで飾ったものが一見高価そうに見えるようなトリック。

残念ながらそれは加速されると現段階では思っている。
都会化された感覚は恐怖によってより堅固な城を作るよう本能が動く。
都会ではより装飾されていくだろう。
言葉も人も装飾して恐怖から逃れようとする。
そのためのあらゆる虚飾が用意されていく。

俺は行くよ。
もっと辛いところへ。
夢を見続ける浮ついた都会人はもういい。

俺に足りなかったのは、もっと傷つくことだった。
もっと傷ついて、もっと深い悲しみを知ることだった。
すべてのゼロ地点はプラスとマイナスの狭間に。
その狭間を見極めなければ。

自分なりの千羽鶴、折ろうか。
世界一の偽善者として。
支援金や儲けが充分あれば、そのうち現地に入るよ。
なくなるからこそ、残さなければいけないものもある。

拍手[1回]

03/22

Tue

2011

言葉は無力である

震災発生から10日が経ったそう。
ずっとそわそわしてたまらない。
それは大阪の人であろうと九州の人であろうと、北から南まで同じような気持ちのようだ。
何か集中しようにも落ち着かなくて気が散る。
特に大阪や兵庫の人たちは震災を体験しただけに自らの体験を重ね合わせる以上の感情が湧き出ているよう。

こういう時に言葉というのは本当に無力だし、自分が落ち込んでいる時に励ましの言葉を受けて「何がわかる」と余計に腹立たしい気持ちを覚えたことがあるので、被災地の人たちとなれば励ましよりも現実的な対応のほうがずっとずっといいに決まっているだろう。
被災地の人たちが欲しいのは言葉だけの励ましではないし、慰めでもないし、明日の生活のための糧となるもの、明日に繋がる現実的なものが欲しいに決まっているのだから。

こういう震災を機にして、何者が口だけのやつなのかそうでないのかが、はっきりと出てくるのも興味深いところ。
口だけというのは言葉が悪いが、要するに「真剣に人の現実に向き合っているかどうか」というのがわかる、ということだ。
と、同時に文学というのは何の役に立つのだろうかと、また考え始める。

私は「文学」というのはひとつの人間の精神における「ひとつの綱」のような役割を果たさなければならないのではと考え始めている。
それは感情や精神に示唆というものを与え、ひとつの壁を超えていくためにそっと垂らす綱のようなもの。
それがなければ言葉もただの飾りでしかない。
飾りのための「消費されるだけの言葉」は、それは「文学」ではないのではないのかと思うところがある。
なぜ残すのか、なぜ書くのか、明確に説明しないまでも感じるものがなくてはいけない。
直感的に「これは残さなければならない」という強烈なインスピレーションがなければならないのではないか。
さもなければ、すべての行為は己のための慰めであり、ただの惰性でしかないからだ。
その上でなされた苦労など、自己顕示欲に貢献するものでしかない。

上辺だけの言葉を語る人間はたくさんいる。
その気もないのに言葉だけ。
実際の行動に移る時「じゃあやりましょうか」と突きつけるとダンマリ。
保身に走り、言葉は身を守るために使われる。
「情けは人のためならず」とは言うけれども、度が過ぎればただの自己憐憫の連続。
本当は自分がその言葉をかけて欲しいだけの状態に陥っていることにも気がついていない。
「勇気」は、いつも試されているのだ。

言葉だけだと確かに無力だ。
しかし、勇気のある言葉には納得できるものがある。
行動が常についてくるからだ。
だから結果がどうあれ前進はしている。
たとえ失敗して勇気が粉々に打ち砕かれようと。

震災が起こった。
東北の人たちは、私は強いと思う。
同じ雪国にすむ人間として、冬の寒さの中を淡々と過ごし雪に向かっていき耐え忍んでいく雪深い地域の生活を思うと、ただの先入観かもしれないが、辛抱強いと思っている。

これから1年後、少しだけ安定してきた頃、関東大震災の時は利権風俗など少々荒れたようだが、さて東北はいかなることになるであろう。
その時、人の精神が乱れた時、ようやく文学の出番が出てくるような気がする。

テレビなどを見ると本当に気落ちするが、なんとか落ち着けて動いていこうと思う。

拍手[2回]

03/21

Mon

2011

ツイッターから離脱してずっと様子を見ていたわけですが、やはりデマと本当の情報が入り乱れています。
自分がうっかりデマを広げないためにも便利な情報ツールの情報発信者として余計な情報を出さないためにも静観していました。

特に専門的な知識を有する情報に関しては、なかなか元ネタまで辿り着くことに時間がかかり、専門用語を調べるだけでも時間がかかる。
さらにこのようなクライシスに関しては、情報を独自解釈した人がさらに情報を作って流すという、何重にもフィルターのしかれた情報が出てきます。
今でさえ数々の情報から共通点を探して、真実めいたものを探していくしかない。

元々文学などは「思考」という相手の「言葉から受けるイメージ」を利用して言葉を展開していくものですが、精度の高い情報は「事実のみ」で構築されるべきなのです。
それを受け手が「イメージ化」して、純度の低い情報を出していく。
正直報道の立場にある人間がこれをやったらおしまいなのです。

この世の中を劇場化しているのは誰なのか、今回の震災でもはっきりとあぶり出ていると思います。
そういうやつらは「情報の発信者」ではない。
「劇の創作者」であったのです。
この「劇の創作者」が長年にわたって日本を扇動してきたわけです。
功罪ありといえども、受け手たる我々がそのことをようやく意識できるようになってきたのではないでしょうか。
そして「劇の創作者たち」は、もう情報ツールの高度化により姿を変えようとしている。

これからの情報はより高度化し、トリックが見抜けないようになってくる。
つまり、一部の高レベルの人間のみが真実を知り、その下の人間たちが信じる情報は別に構築され、心理的なロジックよりもずっと高度でより広大な「世界観」を背景にしたロジックが、これからの情報トリックとして使われてくる。
情報統制は常にプログラムが適切に判断できるようになる時代も近いかもしれないと思っています。

しかしそれを喝破する方法はあります。
より人間らしい緊密な付き合いとコミュニティーを構築していくことです。
結局は都市化によって起こる「情報への妄信」を防ぐには人が発する生身の感覚というものを大事にしていくしかないのです。

でも今回の地震で、若い人たちも奮起している様子を見て、本当にこの日本は捨てたものではないのだなと改めて思いました。
むしろ悪いものを流布させていたのは若い人ではなく年配の人間たちなのではないかという邪推すらしてしまうほどです。

私たちは生きていかなければいけない。
そして生きていくとは、分かち合うことなのではないかと私は思っている。
「最上のワインは最上の友と」
ならば、最上の友となるべく各々が奮起していけば、心底素晴らしい未来が待っている。
一週間ばかり、そわそわして落ち着かない日々をすごしていましたが、少しずつ私も立ち向かっていきます。

P.S.
震災の裏側、騒動の裏側。
どうにも議員の立法権とは衆愚政治状態における最大の腐敗要素となりえるようだ。
この日本は怖い側面を持っている。
特に中央の人たち。

拍手[1回]

03/18

Fri

2011

忘れないうちに答えを出しておこうと思う。
もう、頭の中がほかの事に構えなくなってきているので。

つたない私の知識で、間違いが多々あるかもしれませんが説明させてもらいます。

まず芸術家としての、芸術の究極的な到達点からお話します。

伊藤若冲という日本画家がおりました。
この方の絵は鶏の絵などで有名ですが、彼の鶏には写真で移すような鶏からは到底醸しえない緊迫感が漂います。
この絵を描くために若冲は一年間鶏を見続けたようです。

そして彼の絵には人の心に突きつけてくるような鬼気が感じられるような絵を描けるようになりました。

この「一年間鶏を見続ける」という作業の中で何が行われたのか。
結論から言うと自然と自分との中庸のバランスを取ったのです。
自分を消すということも相手を消すというのも不可能。
仏教では、「色即是空、空即是色」という言葉がありますね。
形あるものはすなわち無であり、無であるものはすなわち形あるものである。
このことは現代の科学でも実証されていることであり、万物の根源たるものには境目など存在しない。
これが現在到達している世界の真実です。

芸術家における芸術行為とは「自他をなくす」ということでもあると考えています。
これは自分を感じるよりも物を感じたほうがより認識が広がる。
物を感じるよりも自然を感じたほうがより認識が広がる。
自然を感じるよりも宇宙を感じたほうがより認識が広がる。

このどこまでも拡散していくような限りない知覚の広がりの中で、より大きなものを取り込み、そして形作っていくのが究極的な到達点となります。
しかし、問題が生まれます。
行為をするのは自分です。
対象があっての自分でもあります。
その相互の力関係の中に抵抗を感じ、そしてその抵抗で削れて生まれてくるものを芸術品としなければ、成り立たない。
簡単に言えば自分勝手なことをしても伝わらないし、相手だけの姿を捉えようとしても行為者が無視されることになります。
ですから、相手と自分の知覚のバランスを取らなければ、両者の中で衝突が生まれる。
相手と自己、この右左に置かれた天秤の皿がどちらかに大きく傾いてしまう。
これでは隔たったようなものしか生まれてこない。

一流の音楽家における楽器とは、楽器ではなく「体の一部」なのだそうです。
それが脳の動きを観測することによって明らかになっています。
これはつまり楽器と自分との境目をなくすことによって、行為者が音色そのものに溶け込んでいると見ていいでしょう。
行為者が楽器を通して知覚する自然物と同化して自他がなくなり、音色が流れている空間は行為者の感性の支配するところとなります。

音色にも絵にも共通点があります。
それは自己と他者である自然物とのバランスが取れ、自らも宿っているし自然物も宿っている。
自分と自然が一体化することによって自他の協調性が取れて、なくなる。

勘違いしないで欲しいのは、両者が一挙に存在しているということです。
どちらも消え去るということではありません。
究極的に言えば物質の境目など存在していない。
しかし我々は人間であり、感性や感覚の限界がある限り、やはり限界点は存在するのです。
その限界点とはなんでしょうか。
感覚を通じて形作られる「心」です。

今まで書いてきたことは「究極的」なことです。
「~すべき」という個人の価値観は、他者に当てはまらない時があるのは、どうしてだと思いますか?
究極的なことがいかにこの世界の真実であろうと、人間にとっての一点の真理であろうと、感性や感覚の限界が人間には存在し、そして人間にとってその限界こそ、自分にとっての大事な事実であるからです。

おわかりになりましたでしょうか。
いきなり理想論や究極的なことを言うことがいかに愚かしいことであるか。
つまりこのような理想論や究極論をいきなり出すことは徹底的に「人」というものを無視しているのです。
その言葉を掲げるだけの人間には「他人」は存在しない。
「自分」しか存在していないのです。
これは本当に恥ずかしいことです。
ホームランを打てるようになる前に、やらなければならないことは山ほどあるはずです。

もしこれが「技術的な問題点」であれば他者に対しての改善点を述べることができるでしょう。
しかしこのことは「知覚における個々人の問題」なのです。
ここにまで踏み込んではいけない。
ここまで犯すことは「自分がかわいいだけの人間です」と豪語しているに等しくなってくるのです。
そこに示唆を与えることはよろしいでしょう。
しかし自分の考えでもって相手のスタンスを踏みにじるのは「対話における方法」ではありません。
それをやれば怒りを買うか、不快にさせるか、与えたものを返されるだけであって、自分の望んだ結果などどこにも存在せず、より殻に閉じこもるしかなくなってしまうのです。

本来すべての知識は人と寄り添うためにあるものです。
役に立たないものは捨てられていく。
自分を消さず、相手も消さず、どうしたら自他とのバランスが取れて、共に叡智を共有し、引き出しあうことができるのか、これはあなたがいかに自分の知識をまず出さないで自然の状態で他者を知っていくことができるのかにかかっています。

この先の日本における有能な一人となることを望みまして、このことは終わらせていただきます。

拍手[1回]

フリーエリア

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

バーコード

プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

最新コメント

(07/27)
(02/23)
(03/05)
(03/02)
(01/24)
(07/29)
(01/21)
(08/16)
(04/28)
(04/20)

ブログ内検索

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

忍者アド

Copyright © あさかぜさんは見た : All rights reserved

TemplateDesign by KARMA7

忍者ブログ [PR]