忘れないうちに答えを出しておこうと思う。
もう、頭の中がほかの事に構えなくなってきているので。
つたない私の知識で、間違いが多々あるかもしれませんが説明させてもらいます。
まず芸術家としての、芸術の究極的な到達点からお話します。
伊藤若冲という日本画家がおりました。
この方の絵は鶏の絵などで有名ですが、彼の鶏には写真で移すような鶏からは到底醸しえない緊迫感が漂います。
この絵を描くために若冲は一年間鶏を見続けたようです。
そして彼の絵には人の心に突きつけてくるような鬼気が感じられるような絵を描けるようになりました。
この「一年間鶏を見続ける」という作業の中で何が行われたのか。
結論から言うと自然と自分との中庸のバランスを取ったのです。
自分を消すということも相手を消すというのも不可能。
仏教では、「色即是空、空即是色」という言葉がありますね。
形あるものはすなわち無であり、無であるものはすなわち形あるものである。
このことは現代の科学でも実証されていることであり、万物の根源たるものには境目など存在しない。
これが現在到達している世界の真実です。
芸術家における芸術行為とは「自他をなくす」ということでもあると考えています。
これは自分を感じるよりも物を感じたほうがより認識が広がる。
物を感じるよりも自然を感じたほうがより認識が広がる。
自然を感じるよりも宇宙を感じたほうがより認識が広がる。
このどこまでも拡散していくような限りない知覚の広がりの中で、より大きなものを取り込み、そして形作っていくのが究極的な到達点となります。
しかし、問題が生まれます。
行為をするのは自分です。
対象があっての自分でもあります。
その相互の力関係の中に抵抗を感じ、そしてその抵抗で削れて生まれてくるものを芸術品としなければ、成り立たない。
簡単に言えば自分勝手なことをしても伝わらないし、相手だけの姿を捉えようとしても行為者が無視されることになります。
ですから、相手と自分の知覚のバランスを取らなければ、両者の中で衝突が生まれる。
相手と自己、この右左に置かれた天秤の皿がどちらかに大きく傾いてしまう。
これでは隔たったようなものしか生まれてこない。
一流の音楽家における楽器とは、楽器ではなく「体の一部」なのだそうです。
それが脳の動きを観測することによって明らかになっています。
これはつまり楽器と自分との境目をなくすことによって、行為者が音色そのものに溶け込んでいると見ていいでしょう。
行為者が楽器を通して知覚する自然物と同化して自他がなくなり、音色が流れている空間は行為者の感性の支配するところとなります。
音色にも絵にも共通点があります。
それは自己と他者である自然物とのバランスが取れ、自らも宿っているし自然物も宿っている。
自分と自然が一体化することによって自他の協調性が取れて、なくなる。
勘違いしないで欲しいのは、両者が一挙に存在しているということです。
どちらも消え去るということではありません。
究極的に言えば物質の境目など存在していない。
しかし我々は人間であり、感性や感覚の限界がある限り、やはり限界点は存在するのです。
その限界点とはなんでしょうか。
感覚を通じて形作られる「心」です。
今まで書いてきたことは「究極的」なことです。
「~すべき」という個人の価値観は、他者に当てはまらない時があるのは、どうしてだと思いますか?
究極的なことがいかにこの世界の真実であろうと、人間にとっての一点の真理であろうと、感性や感覚の限界が人間には存在し、そして人間にとってその限界こそ、自分にとっての大事な事実であるからです。
おわかりになりましたでしょうか。
いきなり理想論や究極的なことを言うことがいかに愚かしいことであるか。
つまりこのような理想論や究極論をいきなり出すことは徹底的に「人」というものを無視しているのです。
その言葉を掲げるだけの人間には「他人」は存在しない。
「自分」しか存在していないのです。
これは本当に恥ずかしいことです。
ホームランを打てるようになる前に、やらなければならないことは山ほどあるはずです。
もしこれが「技術的な問題点」であれば他者に対しての改善点を述べることができるでしょう。
しかしこのことは「知覚における個々人の問題」なのです。
ここにまで踏み込んではいけない。
ここまで犯すことは「自分がかわいいだけの人間です」と豪語しているに等しくなってくるのです。
そこに示唆を与えることはよろしいでしょう。
しかし自分の考えでもって相手のスタンスを踏みにじるのは「対話における方法」ではありません。
それをやれば怒りを買うか、不快にさせるか、与えたものを返されるだけであって、自分の望んだ結果などどこにも存在せず、より殻に閉じこもるしかなくなってしまうのです。
本来すべての知識は人と寄り添うためにあるものです。
役に立たないものは捨てられていく。
自分を消さず、相手も消さず、どうしたら自他とのバランスが取れて、共に叡智を共有し、引き出しあうことができるのか、これはあなたがいかに自分の知識をまず出さないで自然の状態で他者を知っていくことができるのかにかかっています。
この先の日本における有能な一人となることを望みまして、このことは終わらせていただきます。
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