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あさかぜさんは見た

日記

05/19

Thu

2011

一人十色華麗なるサクラたち

なんか、別に流行っているというわけではなく、昔からこの手の「サクラ商法」というのは、テレビショッピングをはじめ別に珍しくもなんともないのですが、ここんところは素人に「この商品の感想書いたらウン百円」というお仕事も出ていたりするので何がサクラなのかわからなくなってきていますが、今日は感想文における一人十色、サクラ感想を作って遊んでみようと思います。
他人の文章あげて遊ぶのもなんなので、自分ので。

http://p.booklog.jp/book/23898
「ゆきのひとひら、知らせる。」

まずは高評価レビューから

(普通)
・はじめてこの作者の作品を読ませていただきました。
作者が北国出身らしいこともあり、雪国の情緒が詩的な文章からよくわかります。
すらすらと読めてイメージしやすく、子供とのわだかまりを解こうとする「気付き」が自然を絡めた優しいタッチで描写されていて、読後もさわやかな感じがしました。
これからこの作者の作品ひとつひとつ丁寧に読んでみようと思います。

(感情)
・旅行で北海道のスキー場に行った時「しばれる」ぐらいの寒さを体験しました。
家族で行ったのですが子供が雪をじっと見ているので声をかけたら「雪の結晶が見える」と言って見せてくれたことを思い出しました。
大人と子供との関係と家族というものを改めて考えさせられます。
奥さんがとっても優しいのですね。
さりげない優しさにあたたかみを感じました。
寒い景色の中にほっとする人情味があってよかったです。

(ファン)
・光野朝風さんの作品を楽しみにしているものです。
いつも細かな描写から感情の些細な動きがよくわかります。
自然の冷たさと人のあたたかみ、北海道の出身だとあたりまえの景色なのだと思いますが、やっぱり住んでいないとわからないことってあるんですよね。
自然の光景や、家庭の一場面、子供のちょっとしたすね方など目に見えるようです。
また作品出来上がるのが楽しみです。

(書評風)
・叙情的な文章と自然描写から人間の揺れ動くさまを描いている。
子供を持つ父親もかつては子供だということをいつしか忘れて生きていってしまう。
子供と親との関係の視点にふと父親が気がつき内省する過程を盛り込むことで忘れていた「当たり前」に気づくあたりは作者の祈りを感じた。
詩情をふんだんに盛り込む作者の描写力に底力を感じる。


次は低評価

(普通)
・どこにでもあるよくある話かなと思った。
文章が安易で特に目新しいものはなかった。
淡々としすぎてメリハリがない感じ。
あまり楽しめませんでした。

(感情)
・なんか実感わかなかった。
美化しすぎかな。綺麗過ぎるところが好きじゃない。
なんでもかんでもいい感じに書けばよい作品になるみたいな安易なシナリオでもっと家族との関係をしっかり書いてほしかった。
雪の中で色々思っていたけど、孤独な感じがした。
一人で納得している感じ。

(アンチ)
・素人の文章読まされているのがまるわかり。
流暢には程遠く分自体に練りこみがなく、腕も上がってない。
似たような話を々使い回ししている印象で引き出しが少ない。
またこういう話?という感じ。
引き出しの少なさが見えてきた。
売れない作家の典型。

(書評風)
・短編は一文一文を大事にしなければならない。
そして一番最初の一文の引き込みで短編の魔力の引き込みは始まるが、最初が弱すぎる。
もっと推敲を重ね、散漫な文章配列の中に図太い骨を入れなければ印象に残らない話として曖昧に消えてしまう。
特に一人の父親の「家庭観」が薄く、読むものに家庭を持っている男の重荷がじんと迫ってこない。
それだけに子供との関係も、とってつけたようなさっぱりとした印象を受けてしまう。
最後の締めも弱く完成度は低い。
実力不足の感が否めなく、これから作家としてやっていくには不安な要素が多くとても他人にお勧めできない。


・・・とまあ、こんな感じでどうでしょう。
物は捉えよう、見方によっていくらでも評価は変わる。
自分で考えるだけでもこれだけの意見が出る。
褒められて嬉しくない人はいないだろうけれど、批判されて反発するのはどうだろうと思うところがある。
なぜって、他人の主観は変えられないのだから。
作品を読んで感じたことがその人の真実であって、小説は事実や現実をルポのように突きつけるものではない。
批判でも一番良心的なのはこの中間あたりかな。

たとえば、

・やや文章の練りこみが弱いものがありつつも、推敲を重ねていけばよい作品へと生まれ変わりそうだ。
情緒的な文章がうまく、周囲の環境と心情を絡めて描くことがうまい作家さんのようです。
ただ現実感がしっかりしないことには幻想との対比として浮き立ってくるものがなく、それは家庭を持つ男性と子供との対比にも言えることだ。
視点が素朴で読み飛ばしがちかもしれないが、冬の感覚がよく出ている。
次回作品に期待。

こんな風にだめなところとよいところを出してくれるのが批判として非常に良心的かな。
じゃないと感想者の趣味の相違か否かが判別できない。
それだけに分母が大きくなければ作品にとってよい意見なのかそうでないかが見えてこない。

アマゾンでは関係者が作品に高評価を与えることがあるけれど、やっぱりプロでありたいなら「いいもの」残したいっていう欲求がないといけないよね。

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05/13

Fri

2011

この年になって比較する過去の自分が増えてきて気がつく。
自転車を走らせていると次々と過ぎ行く景色に頭が追いついていない。
前は視界に映ったものを満遍なく見渡せたのが、処理能力が落ちているせいで、集中すべきポイントを絞っている。
「ああ、これはひどい」と感じると同時に、自分がどれだけ新しい刺激にさらされていないかを思い知った。
処理能力が落ちるということは、感性が鈍るということだ。
少年のように新しいものに触れて「わあ」と感動する能力が落ちてくる。
自分の思考回路についても同じことが言える。
毎日のルーティンの中で「自分の周囲はこういうもの」という観衆を通じていつの間にか思考回路まで固まり、決まってきてしまう。
結果発想の転換ができなくなる。
疑問を持たなくなる。
アホらしいことでも平気で信じるようになってくる。
行動様式が画一化される。
つまり、感受性が死に絶え平凡なものになる。
「これは当たり前のことなのだ」といつの間にか無意識で捉えだしている。
目の前のほとんどのものを「慣れ親しんだもの」として脳内が捉えている。
しかも自分の脳が衰えている。
使ってないせいだ。
使っていると思い込んでも、毎日の繰り返しが脳内を硬化させている。
創造の枠組みも狭まり個性は消え去り落ち着くところまで落ちるだろう。

運動をしていないと筋肉は衰える。
食べ物だけ食べて体重が増えぶくぶくと脂肪だけが蓄積されて体が使い物にならなくなってくる。
少し体を動かしただけで面倒になり、すぐ筋肉が痛くなり、動くのも嫌になってくる。
そういう怠惰を突っぱねて筋肉を痛めつけ、動かし、苦痛を与え、鍛える。
そうしないとしなやかな体は作られないし、正常に動かすこともできなくなる。
最近気をつけて運動するようになっているのでよくわかるんだ。
つまり、これは「頭」のことにも置き換えられる。
脳のしなやかさも使って使って使いまくって、しかも新しいものを吸収し続けることでスマートさが保たれる。

年をとっていくということが、怠惰な枠組みの中に常に納まり続けるということではいけない。
それでは創造していく意味がないではないか。

先日400枚ミステリーを先送りにすることに決めた。
とてもではないが間に合わない。
というかあるシチュエーションに遭遇して「話全体を暗号化する」というアイディアが浮かんで構想がぶっ飛んだ。
んもー!自分が楽に書いていけるという程度の話ではとてもじゃないけど、賞なんて取れないんだよね。
自分でどんどん苦痛を与えなければ作家としての進化もない。

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05/08

Sun

2011

病室の窓には北大のポプラが見える。
農業試験場の土色の四角い区画と、牛がのどかに牧草を食べる緑色の四角い区画。
ミニチュアのような北大の建物の奥には大きな筆で横一直線に引いた砂塵のような灰色の雲が、写真を右から左へ動かしていくように、速く動いている。
下の花壇には灰色の空の下、強い風になぶられるように黄色い水仙がフルフルと震えていた。
ようやく札幌では桜の開花宣言。
近くに植えられていた桜は2日前の蕾から一気に花へとなっていた。
それでも最高気温は14度。
西日本じゃ30度にもなろうとしているのに対して、北海道はゆるやかに春を感じ出している。

「手術後は歩いて病室まで帰った」
と父親は言った。
母親と二人で行くと寝ていたが、最初は寝ていた。
少々微熱があると言っていた寝顔は少し赤かったが起きたら赤みが引いてきていた。
たいしたことを話すわけでもなく、一言二言、会話をしては途切れる。
うちの家庭はいつも会話が少なく、まず「会話」で盛り上がることがない。
そんな家庭をずっと築いてきているから、別段寂しいとも思わない。
当然の光景のように受け止めている。
水がまだ飲めないので口をゆすぐ。
ベッドで横になっている父親に母親が水を飲ませて豆のような形のプラスチックのお椀に吐き出すが、肩口にこぼれる。
「へたくそだな」
と、文句を言う。
手術後一日も経過していないのに文句のひとつも言えるようなら、まだまだ長生きできるだろうと内心笑えるようになってきた。
父親が屁をして「聞いたか?」と聞く。
私は「え?もう出るもんなの?」と思っていたが、腸を切り繋いで次の日に屁が出るようなら、おそらく良好なのだろう。
帰る時に「じゃあね」と母親と2人で片手ずつ握り、私は父親の右手を握ったが「痛い痛い」と言われてしまった。
輸血用の穴が右手にはポツっと赤くあった。
それにしても、3人が一瞬とはいえ手を繋いだのは二十数年ぶりなんじゃないだろうか。
心から3人手を繋いで、繋がなくなって、そして色々あって、二十数年も経った。
うちは3人とも典型的なB型家族で、一方的に喋っては終わっていた。
何も伝え合えず、伝わらず、何もかもが崩壊する寸前までいった。
一見何一つ問題がなさそうな、誰しもがうらやむ、よい環境の家族が、今ひとつの再生を見せようとしているのではないかと感じている。

最近面白い考えに触れて「なるほど、もしかしたらそうかも」と世界の捉え方を改めている。
少し話が長くなるので省くが、「量子論」的な考え方で、「人間個人の行いえる行動はあらゆる世界線で行われているので、善と悪の考え方はもうない」という考え方。
私たちの感性では時間や人生は一本でしかないかもしれないが、すべての根源から推測するなら、人間の感性で矛盾したものでも同時に内包しているという。
具体例を出せば、私が今殺人者として刑務所にいた可能性だって、家族なんてもうとっくの昔になくて、ひと財産築いていて、テレビにも出ているとか。
もしそんな世界に自分の人生が傾いていたら、このような日記を書くことはなかった。
そしてこの日記を書くことで「バタフライエフェクト」が発生することもなかった。

また父親の手を握ってこようと思う。
今は等身大の父親が見える。
昔は心がにごっていて何も見えなかったが、今は見える。
お互い小さな人間同士なのだなと、しみじみ感じる。
だからつまらないことが大きなひずみになったり、その逆として小さなことが大きな幸福になっていくことだってある。
私が今数分でも、無言でも、父親と接していくことは、とても大きな意味があるように思えてならない。
気恥ずかしくて、一言だって言えないけれど、文字なら書ける。
「私は、あなたの息子です」と。

ツンデレオヤジめ。

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05/04

Wed

2011

5月2日から父親が入院している。
6日にガンのできた大腸を切る手術をするのだけれど、着替えを届けに行って「また来るよ」と言うと、「もう来なくていいよ」と言う。
次の日も歯磨き粉などを母親に頼まれたので届けに行くと、なんだかんだいって嬉しそうだ。

・・・その時私はとても重大な事実に気がついた。
元々不器用な人間で人におはようもありがとうもごめんなさいも滅多に言わない。
そういう生活をしてきたからそれが当然だと思っていた。
「もう来なくていいよ」と軽く言いながらも、次の日には笑みを隠しきれない。
それにいつも私をスルーして母親の写真を撮っていたが、今日は「写真撮ってやるから、そこに座ってろ」とも。
(病院の食事や自分の顔を毎日撮っているみたい)

こ、こここここれって、「ツンデレ」ってやつ?
しかも還暦過ぎた親父が「リアルツンデレ」とは。
「べ、別に嬉しいわけじゃないんだからね」みたいなことは、漫画の中だけかと思っていた。
なんという盲点。
灯台下暗しとはこのことか。

でもこういう自分の感情を素直に言えない男の人って多いのかもね。
私は泣きもすればわめきもするし、そういう無様な自分を抑えたりはしないので、自分のことを表現したら恥ずかしいという感覚は相当昔に薄れてしまった。

最近、とても不思議な感覚を持っていて、自分がひとつの可能性世界の中で確実に運命めいた道筋を辿っているのではないかと、より実感している。
妙な表現になるが、父親がガンになってくれなければ歩みよりは一生なかったかもしれないし、こうしていることの「前置き」のようなものが、ここ半年ほどで一気に起こっている。
そして現在に至っているのだけれど、やっぱりこの時期でなければいけない何かがあったのだろう。
当然、自分の状態にしても、今ここでこうしていなければいけない理由があるのだろう。
それはきっともっと未来にわかることだろうが、今は運命のような道筋を自分なりにじっくり考えて辿っていくことが、よりよい未来を導き出せることと信じている。

言葉を真に受けるわけではないけれど、否定的なことを口走るので、病気を治してもらって長生きしてもらいたい。
最後の十数年でも家族らしい絆を取り戻して、終わらせたいと考えているからだ。
きっとそれも、できることだろうと思っている。

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05/02

Mon

2011

夢とかデジャブとか

ちょっと私は覚えておくことができず集中力が散漫でどうしても目に付くところにメモしておく必要があるのです。
メモ用紙とか日記とかは絶対どこかになくしてしまうので、ネット上とか一番使うところによくメモしておくのですが、この日記も同じような機能を果たしています。
だから思いついたことを書き留めておくのです。
一度他のことに意識がそれると、今まで考えていたことをすっと忘れたりして、思い出すのが何週間後とかざらにあります。
どうしても「入り込んだ世界」のことを考えないと、思い出すこともなくなってしまうほど記憶の層が薄くなってしまうので。

ところで、夢とかデジャブとか、昔よく見ていたのですが、あれってなんなのでしょうね。
夢から覚めて、自分の部屋だと認識するまでに何秒かかかってしまうこともたまにありました。
デジャブというのは私にとっては過去の見た時点では「予知夢」なのですが、だいたい「覚えていない」というのが特徴です。
逆に言えば「意識できるほどの夢」は実現したためしがない。
だいたい事が終わって、しばらくたって「あれ?」と気がつくのですから、何も役に立たない「予知夢」です。

しかし、よく考えてみるとこれは自分がひとつの「運命」のようなものを辿っていて、緩やかにひとつの地点に近づいているのかもしれないと思うことがあります。
私が小説家になろうとするメリットの中に「自分の人生で起こったことがすべて役に立つ」というのがあります。
これは「イベント=未来の可能性」の「可能性範囲」を狭めないということがいえます。
通常の場合、多くの人間の慣習や社会の中にありますから、そこに入ろうとすればするほど「可能性範囲」が狭まります。
この「可能性範囲」を広げるには今までの慣習や人々の思い込みを打破していく途方もない労力が必要になりますから、人間一人の力では限界があります。
現代社会は多くの選択肢を持っていますが人間が選択できる可能性もまた有限であるため「可能性範囲」には気がつきません。
つまり常に「自由」とは「無法」ではなく「人間が実行可能な行動範囲内」になるわけで、当然この「人間」は「自他」のことですから、互いに干渉しあっても自由だと感じる範囲が必要になるわけです。
それ以上は圧力がかかります。
完全な自由な範囲というのはたいがい他者と関わることで常に補償範囲外にはなるのですが、私たちはいつも「可能性範囲」を予測しながら動いています。

簡単に言えば「誰しも将来の自分」を思い描きながら人生を過ごしている、ということですね。

夢やデジャブに関しては現在では記憶の整理時に起こる錯覚のような説明をされていますが、最近「可能性範囲」をより広い意味で人間が感知しているのではないのか、とも思ったりします。
特に夢を見るときは「緊張状態」の時には絶対見ません。
見ているのでしょうが、意識できるほど強くはない。
それにだいたい体験した現実に近い夢を見たりする。

昔は夢の続きを見ようとしたら見れたし、リラックスしている状態で眠ると何かを見ていた。
これって突き詰めてしまうと人間の思考や魂が何に影響されてあるのか、という取り留めのない、かつ途方もない話になってしまうのかもしれないけれど、ひとつ話の前提として「夢と現実の区別がつかなくなったら人間は発狂する」ということを考えたことがあります。
これを応用すると人間は社会の中で物理現象や社会的な制約を精神で認識しながら「妄想と現実」を区別しているわけですよね。
そして社会の力や制約が強くなればなるほど「現実」のほうに重きを置く。
するとストレスで死んだりする人が増える。
「可能性範囲」が狭まる。
夢は見れない社会になる。

どうしてこの社会で見る実現可能かもしれない夢と寝ている時に見る夢って同じ言葉なんでしょう。
もともとは寝ている夢が近代になって将来実現可能かもしれないことを望む、というような夢の意味でも使われると書いてあるけれど、昔の人は「正夢」のようなものは見なかったのかな。
万が一、寝ている夢を正確に覚えているとしたら、人間が見る夢の中には予知的なものも含まれているのではないか。
そしてその予知ができるのは、人間が現実で体験したもの以外からも影響を受けていて脳がそれを認識しているが、あえて現実を重視するために脳が破棄している情報だとしたらどうだろう。

・・・と、妄想を繰り広げたからといって私には科学的なデータがないし、解明されるのはこれからのことだろうから、ここらでやめにします。

さて、今考えているのはこのことではないから、この日記はメモ代わり。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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