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あさかぜさんは見た

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11/24

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01/23

Sun

2011

小説におけるライブ感覚の必要性

http://www.publickey1.jp/blog/11/web_4.html
Webブラウザでの日本語縦書き表示、順調に進行中。年内には実装の見通し


これまでの電子書籍の動きというのは、ようやく紙と対等な条件をそろえるというところだった。
それで、敷居が低くなればなるほど、そこに参入してくる人たちがどんどん多くなってきて、混乱状態に陥る。

さて今年は初めから意気込みが何か違ってきていて、3日坊主だったのが衰えない。
というか、今年こそは今年こそはで過ぎ去ってきた時間にもう耐えられない。
今までのままじゃダメなら数倍に進化するしかないという意気込みなのです。

ということで、余計なことをしゃべりましたが、たぶんこれからの小説の世界は「小説家」が独占していた「リアリティ」というやつを、素人の現場で働いている人間たちが圧倒していくと思うのです。
いわゆるその職について長年やっている人しかわからない、というような内容を素人さんがバンバン書いていく。
その上占拠されるジャンルは詩、ファンタジー、私小説、取材に基づかない小説などなど、文才のちょっとある普通の人が誰でも書けるものが次々と量産され、今出版している小説家のほとんどが死に絶えることになるでしょう。
その上でますます「隙間産業」となる、この分野で生き残っていくにはどうすればよいのかというと、常に「誰かを巻き込んで参加させられる吸引力」を持った人間のみがこの世界で成功していく。
つまり、題名の「ライブ感覚」を生んだ人が、これから生き残れる素質を持っている人間なのですね。

それで、通常の人はだいたい作って感想もらっておしまい。
次に書いてまた同じことやっておしまい。
インプットとアウトプットの繰り返し。
しかしこれでは「芸」にならないし、「芸術」にも程遠い。
あらゆる「作品」と呼ばれるもの、特に優れていれば優れているほど「コンテキスト(文脈)」が多様に生成されていくものですが、この文脈をライブ感覚で作れるものが次の時代のキーワードになりますな。

これにはひとつの理由があります。
今現在の出版事業は音楽業界の歴史を追従しているとの見方があり、私も同じ失敗を繰り返していく可能性を多分に含んでいると考えています。
しかし「音楽」とちょっと違うのは、元々「音楽」は「形のないもの」であることを考えないと、見誤ると思うのです。
つまり、音楽はyoutubeも加え、無料で流れ出て体感する人が増えた。
その分元々形のなかった音楽がCDなどの目に見える物質を離れ、体感型へと戻っていった。
これは音楽CDなどの売り上げが格段に落ち、ダウンロード販売も成果が伸び悩んでいるのに対して、ライブの収益は格段に上がっている。
これは皮肉な形ではありますが、電子化によって音楽が元の形に戻ったという見方をしてもよいのではないかと思うのです。
そして、本もまた、私がかかわるのは小説などの文芸の世界ですが、この文芸の世界も、電子化によって元の状態に戻っていく感じがしています。

そこで考えなければならないのは、本ってなんだろう、いやいや、そもそも言葉って何かな?
そんな超基本を通り越して、当たり前すぎて誰も考えなかったことを、もう一度再考する必要性が出てくる。
言語を使って行われる、我々の思考や、直感的な行動。
元々、言葉とは「伝えるための道具」です。
自分ひとりで行動して誰とも出会わず意思疎通を図る必要性もないのならば「言葉」は必要なかった。
しかし伝える必要性があった。
高度な思考や社会を組み立てていくために言語が必要だった。
我々が言葉を他人に発する時は「自分の考えていることを伝えるため」です。
しかし文字だけで考えるとどうしても見えてこない。
よく考えてほしいのは、私たちは目の前の人の情報や自分が感じていることをすべて言語化しているでしょうか。
してません。
言葉が持っている意味そのものの裏側にはいろいろな表情や仕草や雰囲気、気温や湿度や天気や場所もすべて含まれて、ようやくひとつの言葉になっている。
それが「言葉本来の姿」なのではないかと思うのです。
ならば、言葉も電子化が進むことによって、この「本来の姿」に音楽と同様に戻っていく。

さて、困りました。
私たち本を書く人、特に小説なんて書いちゃうのだから、人とのコミュニケーションがうまくできない場合も多々あります。
だって、人とそつなく付き合えて世渡りができるのなら、わざわざ「小説・文芸」などという表現手段に頼らなくてもいいのです。
それくらいよわっちいし、内弁慶なのが小説家だったりするわけですね。
しかし、言語は限定的かつ感覚的だからこそ、逆にそれをパズルのように組み合わせて伝えることが楽しかったりする。
その限定的な感覚で楽しんでいるのが小説だったりしますが、作品に大事なのは「文脈」です。
つまり読者の「解釈力」を引き出してあげるのが「作品」として優れていると私は考えるのですね。
じゃあそういう多様な「ああ!」っていう感覚を与えていくにはどうすればよいのかっていうと、やっぱり本を通じての交流しかないと考えるのです。
電子書籍参入の人の多さにより、より「無感覚な小説」が増殖してきます。
本を通じての交流は、この無感覚な小説への唯一の対抗手段となるべきものだと思います。
ウェブでの見せ方もあるでしょう。
直接本屋などでしゃべる機会も設けなければならないだろうし、特にこれからはあらゆるコンテンツがその境界線をなくし、技術とともに融合と分離を繰り返しながら新しい何かを創造していきます。
クリエイティブな世界は、コンテンツの融合により加速度を増し、新しい時代に通じないものを物凄い早いスピードで食い散らかしながら増殖していくでしょう。
だからこそ、その世界に精通している人が大事だと思えるものを保存しておかないと、技術によりズタズタに分断されるのです。
本屋もきちんと「本って何だろう」「本のよさって?」ということを考えて、本を作る人間を巻き込んで本を買ってくれる人たちにドキドキや「ああ!」を伝えなければいけない時代になってきている。
いや、必然的にライブ的な感覚を取り入れざるを得ないという方向性になるでしょう。
だから我々も乗り遅れてはいけない。
今からしっかりと「本におけるライブ感覚って何?」ってことを考えて、読者が「ありがとう。よかった」と言ってくれるような本の面白みを想像していくべき時代になったのです。
ということで、言ってる本人やらなかったらしょうがないので、今年はちょっとずつやっていこうと思いますよ。
これからの作家は作家を中心としたひとつのチーム的な発想をしないと、他人を巻き込んでいくことなど到底不可能です。

ここからは蛇足ですが、コンテキストを含んだ連想型検索エンジン、どこまで進んでいるのか未確認ですが、感想など、読者が生成するコンテキストを集めて検索結果へと単語で表示したり、単語そのものが連動していく単語を類推して表示した結果に生まれる、単語(例:恋愛)+単語(例:幸福→幸福とは←悲しみ)での検索結果(例:=悲恋の小説 /読者感想まで連動させたらさらに繋がりが広がりリストアップできる)などが出てくると電子世界ならではの広がりを見せてくると思うと同時に、逆にダメなものも、このシステム応用できれば排除できますよ。
読者のコンテキストを検索エンジンにどう表示させることができるかがポイントですね。


追記:そう考えるとアマゾンって検索システムのアイディアほしがるはず。どこと組むんだろ。

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01/22

Sat

2011

忘れていたこと 考えていたことの吐露

多くの人間と衝突を避け、その人たちに気に入られるにはどうすればよいのかと考えるあまり、小さなものに成り下がりつつあった。
私はよくそのことを円にたとえて考える。
個人は見ている範囲がある。
その見ている範囲や感性や常識的感覚を円でくくるとしたら、個々人の集合たる集団がくくっている円の重なっている部分、たとえば百人いてその百人の円がかぶさっている部分は相当狭い。
気に入られるとは、その円の重なった一点を突く行為に等しいが、私の感性そのものまでそこに合わせる必要性などまったくなかった。

様々な中傷や罵倒や否定があるだろう。
私はどうにもその手の人間に出くわすことが多い。
高校生あたりの日記を見つけたが、相当棘があってナイフに触れるみたいで落ち着かない。
直感的に気に触るし、腹が立つ人種。何も知らないくせに知ったような口ぶりで生意気。
自虐的でありながらもその逆の攻撃的なものも皮肉交じりに加えているから手に負えない子供だ。
自分の子供が自分だったら相当困っただろうな。
今は少し中和したつもりでいるが、本当にいやな子供だった。

先日「菊と刀」という本を読もうとして、失敗した。
というのは、私には深いトラウマがあって、典型的な日本人の悪い特性に出会うと、頭の中で様々な類似体験がフラッシュバック、脳内再生されて憎しみが湧き出る。
それは「人を殺してもいい」と衝動的に思うほどの強い劣等感と憎しみだ。
この呪いにも似た己の特性は長い時間を掛けて取り払っていかないといけないが、今は無理だ。
もう少し、いや、だいぶ成長して、今の自分を「幼かった」と思えるほどの大きな器を持たなければならない。
逆にこの本を読んで現代人と重ね合わせられるということは、日本人は精神的にはまったく成長していない側面があったと指摘できるかもしれないが。
ほらね、こういうところが、もう根付いているいやらしいアイデンティティー。

しかし、これもひとつの私の星が背負う宿命だったのかもしれない。
生まれるべくして生まれ、その命運をたどっている。
世界にはそういう人種がいる。
今なら傲慢に聞こえる。
今なら誰もが私を否定する。
当たり前だし、何よりも正しい感覚だろうが、自分の人生を振り返って、すべて必要だったように思えてならない。
あらゆる傷も、劣等感も、今は拭い去れないトラウマもフラッシュバックも、全部。

私は北海道民としてやっておかなければならないと考えていることがある。
ニッカウィスキー竹鶴さんのことと、北炭。
この二つは運命ならば必ずなせる。
もしなせなかったら、私は歴史上の役者ではなかったということだ。

次に作家として手が届くのならば、神戸新聞の力を借りて、阪神大震災、そしてそれを元にこれから起こる関東大震災のハザードシュミレーション、竹鶴さんのことが書けたならば、プリンセス・ミチコ。

ご無礼なことを承知で書かせていただくが、主人公になりえる人間は彼女しかありえないと小説家として思う。
現在の陛下は美智子様の存在抜きにはありえないだろうと考えるからだ。
これは小説家としての視点として、主人公となるべき人間は、何者が何が
突き動かしているのか、ということなのです。
陛下を表現するには誰を主人公にすれば、そして一般庶民に一番直接的に響く表現方法は何かを見据えるとすれば、美智子様以外にはありえない。
そして美智子様を私などの人間が理解するには、陛下、皇后を上回る教養が必要になる。
あらゆる人たちの協力が必要になるだろう。

私は妄想家です。
自分の打ちたてた妄想を純粋に追従する人間です。
私の深層心理には埋め尽くされた罵倒がたくさん沈んでいて、それをどうしようもなく処理できないおろかな人間だけれども、命ひとつかけて、軽い命かもしれないが、この命ひとつかけて、自分の感情や感性に純粋にしたがっている。

きっと私は最低の愚か者か、その逆かの二つに一つしかない。
これらのことを考えていても、私の実力が及ばないばかりに砕け散るかもしれない。
しかし、こういうのが本当の人生ってやつでしょう。
命ひとつかけて、だめだったら、何も叶わないでしょう。
保険掛けて、こっちがだめだったら、元に戻るというのは、作家として、命かけて、人生かけて、滅んでいった人たちや、成功した人たちを書くことなんて到底無理でしょう。
書くことは片手間でできても、「表現」は片手間ではできない。
自分の言葉ですが、こればかりは深く確信していることです。

不幸なのは親だ。
普通の一般社会へ馴染んでいき、生活の不安を一切抱えない、人生を歩んでいってほしいときっと望んでいたに違いない。
あらゆることが重なって、ここにいるけれど、親の気持ちだけを純粋に考えるならば、心底親不幸者だと思う。
そのことだけは一言だけ、一言だけ謝りたい。
その後は、もう振り向かない。
あらゆるものを犠牲にしてでも突き進む。

これが表現者の覚悟であり、懺悔でもある。

私はもう、引かない。

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01/06

Thu

2011

仲村颯悟(りゅうご)監督



朝のテレビ番組で偶然見たけれど現在14歳だそうだ。
今は年齢で驚きを売りにしているけれど、この方は本当にカメラワークの天才かも。
普通の明るい変哲のない畑を「ホラーっぽく撮ってください」と言われて撮った映像に鳥肌が立った。
カメラワークだけでホラーにした才能は凄いの一言に尽きる。
カメラだけでここまで訴えてくる感性は、これから確実に大物になると思わせるに充分だった。

日本の映画界に革命を起こし、世界に名を轟かせるのも時間の問題。
青年になるまでに6年もあるのだから、今よりもいっそう腕を上げてくるに違いない。
日本はこういう才能を無駄にしちゃいけないし、育てないといけないのですよね。
カンヌかベネチアかベルリンかわかりませんが、いずれ海外でのグランプリを取って帰ってくるのを心待ちにしています。

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01/06

Thu

2011

見えた!やるべきことが!

遅まきながらあけましておめでとうございます。
新年始まって初めてのブログ。
また新たな年になり、うまく眠れない日々が続いていました。
おみくじも今年を暗示し、あらゆる占いも言っていることが重なっております。
道ははっきりと示されているだけにもう5日も経ってしまったことにあたふたしてしまいます。
睡眠が深くなく、浅いようで起きていても強烈な眠気のようなだるさにずっと悩まされていたし、眠ってもすぐに目が覚めてしまうような状態でした。
今年は「まずは肩書きを作って仕事をしやすくする」という作家として最も大事な世間上のスタートラインに立つという目標を中心にしながら邁進するつもりですが、心の中でどうしてももんもんとするものがあり、あれやこれやと、振り切れぬ悩みの霧をまとっておりました。

そこで先ほど偶然にも、

http://blog.livedoor.jp/ftakahiro/
京都を遊ぶ社長のblog

2010年10月25日の「一点突破の重要性」という日記を読んで、「あっ!」とわかった。

以前受賞のデビューからずっと追っていた作家さんを見ていて、商業誌や新聞紙にもどんどん進出していて躍進しているのに、文章はどんどんのっぺりとした当たり障りのないものになっていっていた。
受賞時にあった刺々しいものがまったくなくなってきているのを感じて、心底がっかりしていた。
自分もあれやこれやと他人に気を使うあまり、迷って、自分が持っている長所にまで疑問を持ち出し、進むにも恐ろしく躊躇があった。

そこで上記の日記を読んで思った。
「満遍なく受けようとしたら自滅する」と。
結局自分が見ていた作家のように「別にその作家じゃなくても他の人も似たようなのができるじゃん」というところに落ち込んでしまっては存在意義を失う。
作家なんだもの、最初からおかしくてちょうどいいんだ。
自分の長所は何か、それをとことん伸ばして誰よりも尖ってやることが一番大事なんだ。
そうすることで、ようやく存在するだけの価値が生まれる。

今現在足りないと思っていて、身につかなくてやきもきしていることがたくさんあり、焦りもハンパない。
自分の理想としているレベルと、現在のレベルのギャップに、ひどい空回り感を隠しきれない。
見えているのに道のりが長すぎる。
あれもこれも重なってしまって身動きができないほど頭が硬直しているのがよくわかる。
そういう自分から脱却したいと意味もなく足掻いて集中力を欠いている。

萎縮するのではなく、どんどん尖らなければならない。
萎縮していったらもはや後は残されていない。
作家としての存在価値を失うだけだ。
その尖ったものを中心にしてあらゆるものを吸収していけばいい。

想像だけだといくらでも人間の妄想って肥大していくものなんですね。
自分はここまでできるとか、物理的、能力的、現実での限界をどんどん無視して肥大し、現実とのギャップがわからなくなる。
経験がないというのはこれだけ酷い状態を生み出す。
頭だけで考えるというのは、人間をダメにしやすい。
他人の限界もわからなくなるし「当然こうだろ」みたいな、頭ごなしの考えしかできなくなる。
そういうのは作家としてもう現実感がないし、文章にも成長が見られなくなる。

あらゆる行動というのは「選択肢を可能な限り広げる」ためにあるべきであって、退路を断つためにあるわけじゃない。
だからこそ、自分にしかできないことを探し、誰でもできるようなことはまず二の次にしないといけない。
まずはここからやろう。
「何を守りたいか」ではなく「何を育てたいか」が一番大事なのだ。

ということで、今年一年よろしくお願いします。

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12/28

Tue

2010

去年から今年にかけて色々見てきた中で、人間はどのようにして自分自身の整合性というものを保っているのだろうとふと疑問が浮かんだ。
オンラインゲームの世界の中に飛び込んだり、恋愛関係における人の繋がり方を見ていたり、バーチャルリアリティーとリアル(現実:バーチャルリアリティー空間では現実世界でのことを「リアル」と呼んで分ける)の中で違和感を持つこともあった。

人の「悩み」とは何か。
成長しているようでしていない人間の特徴は記憶の整合性に重点を置いているように思う。
これは「記憶の安定性」を保つために、新しいことや変化があったとしてもそこに適応して成長するよりも「自分自身の居場所を確保」するために記憶上に存在する過去の自分に執着して世界を自分の望む状況に変えようとする。
これは「変えている」というよりも「自分の望む状況を集めている」と言った方が正しい。
だから批判をしていても批判した内容は他者に即してではなくあくまで自分を中心としての力点のほうが強い。
自分では変化させたように感じるだろうが自分の過去の容認なので個人としては変化していないし、同じトラブルを繰り返したりする。
これは過去の記憶の連続線上に存在していて極めて直線的な記憶(変化していない個人)の中で自分の安定性を確保する作業だ。

人は、どうやら自分の記憶の整合性を保つため時間の中で連続している記憶を確認するたびに、自分の世界を維持しているらしい。
これは「記憶の関連付け」にも繋がる。
思想信条があって、ひとつのオブジェを見る・感じることで思い起こされる過去の記憶の連鎖によってアイデンティティーを保っているのではないのだろうかということだ。
だから同じ物を目の前にしても感じ方が違う。

井上陽水という歌手がいるが、その人は毎年のようにツアーで休むことなくライブをしていた。
しかしある日ホテルで目覚めた時、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなり、これではいけないと感じ、ライブを控えるようになったという。
今考えると面白い示唆のようにも感じてくる。
この話の中では場所による記憶が毎日変わっている。
目覚める風景が似通っていても、目覚めている場所は違っているので、類似した風景を見た時に、過去の記憶と関連付けようとしても違ったものが引き出され、混乱する。
昨日の記憶を思い起こそうとして四日前の記憶が引き出され、自分の現在の居場所を記憶の中で喪失するということだ。

ハリーポッターの主役のダニエル・ラドクリフも役にのめりこみすぎるあまり自分が何者だかわからなくなった時期があったという。
思春期の時期とかぶったので余計に「個の整合性」が保てず混乱したように思う。
連続した記憶のアイデンティティーの中にハリーポッターという別の人格の記憶が入り込むことによって、ダニエル・ラドクリフという人間本来の記憶の連続性が保ちづらくなっていたということだ。

またバーチャルリアリティーの世界の中で長く時間を過ごしている人は、少しずつ力点がバーチャルに置かれ、リアルと理屈が摩り替えられていくということに何の違和感も持たないという現象が起こり、少々驚いたこともあった。
力点の置かれる過去の記憶がリアルよりもバーチャル側に置かれることによって整合性が摩り替わっていくということだ。
これはバーチャル世界のみならずリアルの世界でも常に情報が与えられ続け個人の感覚の中で整合性が取れれば、その世界への力点が強まっていく。

「記憶に錯覚を起こす」

この世界はほとんど嘘で成り立っている。
もしそう言われたとしても誰も信じないだろう。
たとえばバーチャル世界しか知らない人間が「現実」があるのだと言っても信じない。
なぜならば人は世界の真実の基準の書き換えを自分の記憶の整合性を保つために行い難いためだ。
これはもう「マトリクス」という映画の中で既にやっているが。

話の一つの考え方として時間上に存在している連続した記憶を板状に考えると、この板状の記憶が少しでも組み替えられることがあったら混乱して人は世界における自分と世界そのものの整合性を保てなくなるだろう。

人は望む世界を心の中に抱いている。
苦痛を経験して得るものがそれ以上に大きくなければ望む世界の中には苦痛は存在しないし、現実が何かを見つめることはできないし理解することも不可能だろう。
常に代価の大きいものに力点を置いていく。
この代価への欲求が個への執着を促がし、いずれは堕落を引き起こす要因にもなっているのは皮肉だが、良い方に考えるならば「希望」も個人を離れた世界への代価の中に存在している。

成長しない人間は悩んでも結局安定した自分に戻っていく。
変化するために悩んでいるのではなく、変化しないために悩んでいるのだ。
つまり記憶の安定性の維持や自分という主体の望んでいる状況を集めるための努力をしているといっていい。
記憶の安定性は極めて限定された空間における錯覚の中にしか存在しないから生み出すのではなく、あるものを集めるしかなくなる。

この逆が変化のための悩みであって、想像上にのみ存在している。
他者とのよりよい関係は数多くの経験から得られる豊かな想像力の中で培われるものと言っても過言ではない。
さらにその未来ともなればなおさらだろう。
新しい変化を望む時、人は必ず自分というものから離れないと見えてこない。
自分ひとりで成り立つ力などあり得ないという現実感の元に先を見なければ最後は成功しないからだ。

両者の記憶の関連付けは、オブジェによってなされるのではないだろうか。
それは自分が考えている整合性を何かを見る・感じることによって常に維持させている。
時としてオブジェのために変化するのではなく、整合性のためにオブジェを集めるということにも摩り替わったりする。

世界は人々の消極・積極的記憶の混在によって維持されている。
新しい変化を周囲に望もうとする時、安定を望む意識が反発するだろうし、安定だけを維持させようとすると、変化への意識が反抗心をもって衝突していくだろう。
人の悩みはこの中に凝縮されているように感じるのだ。

人類の社会にとって有益なのは変化しないことだ。
しかし生物・遺伝子にとって有益なのは変化(適応)していくことだ。
人は生まれた時から矛盾を抱えている。
宇宙を含めた現実は常に変化している。
記憶を持ち、社会を作ろうと考えたからこそ、整合性を保つために世界を限定し、記憶の連続性を維持させる必要性があった。
だから昨日の記憶を覆される存在に疑いを持ち、整合性を保てない違和感のある存在を無意識に排除しようと試みている。
過去に危機しか持たないのであれば、良いにしろ悪いにしろ変化を望むだろう。

これが根に近い、生物本来の姿であるように感じている。
今は、もしこの記憶が遺伝子にも影響を与えるとしたら、などとちらと思ったりしている。
今回はここらで止めておこうと思う。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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