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あさかぜさんは見た

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12/13

Mon

2010

NHKスペシャル 「ゲーム革命」

事前に書いておくけれど、私はファミコン、PCエンジン、CDROMROM、現在PCゲーム、予定としてこの後家庭用ゲーム機器に時間があったら戻るというゲーム遍歴がある。

昨日の番組を見ながらツイッター上での発言を見ると、ゲームを中心にした発言が多かったが、当然NHKの今回の視点はそうではなかった。
ゲームを通してどうなっていくのか、という未来の可能性を含んだものだった。
ゲーム産業は現在映画をこえて金になる娯楽へと発展した。

番組を見ながら、ぼんやりと散りばめられていたものが繋がりを見せはじめている。

ツイッター、脳科学、ゲーム。

私がずっと考えていたのは、コンピューターによる人類統制プログラムの確立と可能性だった。
突拍子もなくこのことを上げるとまるで現実とは関係のないことを書いているように感じるかもしれないが、たとえばツイッターの構造について以前考えたことがある。

ツイッターは140文字でのタイムラインでなる。
そして他人の言葉をリツイートし、その言葉によってまた自分のタイムラインも変化させていく。
しかしそのほとんどは潜在的に眠っていた思想信条を掘り起こしているに過ぎない。
つまりタイムラインが重なれば重なるほど自らの「アイデンティティ」のデジタルデータが積みあがっていくわけだ。
これは「人物像の炙りだし」である。
そしてその炙りだされたアイデンティティがどのようにして他人と繋がっていくのか、どのような思想信条の変化を及ぼすのか、その可能性とアイデンティティ構築の様子をリアルタイムで観測しているといってもいい。
これが行き着くところまでいけば、情報の発信源を制御し情報による集団のある程度の制御方法が具体的な統計によって確立される。
現在でも国家レベルではその手の技術は当然あるだろうが、より緻密になっていくことは間違いない。

そのことを考えていた上で今回は「バーチャルリアリティーはどこまで人間の感覚に近づいていくか」という視点で私は見ていた。
これでも任天堂からはそれていたものの、どっぷりとゲームには浸かりきった人生を送っていたのでバーチャルリアリティーと人間の感覚の働きのようなものは肌身で感じている。

今回の番組の内容は「ゲーム」という枠に留まらず、ゲームがどのような動きを見せているかが中心的だった。
マイクロソフトが開発した立体的に人間を捉え、画面の中に人間を取り入れ動かす機械。
脳波を捉え、それをゲーム画面の中に取り入れようとするロシアの試み。
数多くのヘビーテスターたちを取り入れひたすらゲームをさせ、脳の興奮状態などから「ゲームに飽きさせない法則」を見出そうとするテスター企業。

これらの動きは「人間の偶然性」に法則を見つけようとする動きにも直結していく。
これらは本来のゲームクリエイターが描いている希望や幸せをもたらす働き、当然今回出てきたジプリとゲームの融合からできてくる、あたたかな世界観とは違ってくる。
戦争技術ともだんだん繋がってきているし、実際には軍事技術は無人化への動きがより進んでいくだろう。
様々な広がりを持ち、そして技術を貪欲に吸収していく世界各国の動きに比べ日本のゲーム産業の動きは、まだまだ「ゲーム」という枠の中で捉えている印象だったが、これから影響を受けだす可能性は十二分にある。

まず私がハリウッドにいたなら、スピルバーグと同じようにゲーム業界には大変興味を持つ。
その上でより映像がゲーム的な興奮に満ち溢れないかと様々な試みをするだろう。
統計があるなら当然統計資料も参考にしながら映像を作っていく。
ゲームで確立された技術が映画に応用されれば、当然今度はマルチチャンネル、そして最後は一般チャンネルにまでその技術が浸透してくるようになる。
バーチャルリアリティーと感覚の関係については非常に危機感を持つところがある。
人間は己の主観がどのように影響を受け構成されているか見破ることができないからだ。
自分の発言が本当に自分独自のものであると考えているなら危ない。
その人は既に「情報」というものに飲まれだしている可能性がある。

ゲームの技術がここまで来るのにたかだか一世代程度の時間しか経っていないことを考えるとこの先20年以内によりこの現実空間はバーチャルリアリティ情報に溢れ、人間の主観が構成されていくことになる。
もし自分の主観が人工物だけに構成されていたとしても、周囲の人間も同じような感覚なのだから、見破るどころか少しの疑問も持ちえないだろう。

現在ゲームのターゲット層は富裕層など、ゲームにある程度時間を費やせる人たちだ。
その子供たちも。
つまり「これからの支配層となる人間たち」がターゲットにされている。
学問や機会の均等があると甘く見ていてはいけない。
人間は自らの権力が脅かされようとする時手段を問わず行動するのだから。
さて、バーチャルリアリティが自分自身が獲得した感覚でありアイデンティティだと錯覚すれば、もはや制御は夢物語ではない段階まで来る。
これまでの人間行動の統計から大衆制御は可能になってくるだろう。

以前、オンラインゲームの世界に飛び込んでいて非常に興味深い経過を見た。
それはそのオンラインゲーム(バーチャル空間)にはまればはまるほど、現実での感覚がバーチャル空間での理屈に摩り替わっていき、考え方が現実を起点にしていたものがバーチャル空間を基点にして考え出すようになる。
本人は当然そのことに気がついておらず、相当の衝突を試みたが、結局喧嘩別れにしかならなかった。
それだけ「主観の構成」は自身は見破れない。

もしバーチャルリアリティーに制御された新しい世代が生まれだしてくると、今度は旧感覚を持った世代と衝突しだす。
この新しい世代が時代を作っていくことになるが、彼らは現実での五感感覚の代わりにバーチャルリアリティーで体験しているので頭で考えるだけの五感情報の欠落した世代になる。
この世代が金を持っていない世代や貧困層を制御しようとすれば「無感覚」と「感覚」の衝突になるのは当たり前なのだ。
まず未来にはこの衝突は避けられないということ。

バーチャルリアリティーの恩恵を受けた世代は感覚的かつ直感的に動く。
どのような豊かな知識を得ようと、五感情報が欠落しているのだから考えても枠の中で動くことはあっても、その枠から外へ出ることは難しい。
作り出された五感情報を元に動いていくからだ。
映画のように「枠からはみ出た救世主」を待ち望むには世代は時代を逆行させないほどに力を持ちすぎていて、まさに奇跡の所業になることは容易に想像できる。

これから10年後脳波を測定されつくして、ゲームそのものが人間の欲求に対応・応用できるほど柔軟性を持ったらどうなるであろうか。
その技術は一般家庭の隅々まで浸透することになる。
今まで述べたことは何もSFの話ではなくなるわけだ。

取材を受けていたゲームクリエーターが今回の番組を見て困惑していた。
自分たちが目指しているものや見ている希望はあまり強調されていなかった、と。
ジプリだって人間を不幸にしようと思って映像作品を作っているわけではない。
当然日本のクリエーターたちもそうだろう。

世界のコンテンツは、より「境界線」をなくしていく。
つまり「映画」だとか「ゲーム」だとか「芸術」とか、そういう境界線は技術の進歩により曖昧になっていくだろう。
我々はどのような技術の恩恵を受けていくのか、当然私も創作をする人間のはしくれなので、これからの技術をおおいに利用し、そしてその技術のヒントになるものも数多く産み出すかもしれない。
しかしたとえ悪用される可能性があろうと改善の手段をなくすよりはずっといい。
毒からワクチンが産み出されるように、これからの世代の理性と良識を信じてやっていかなければならないし、上記に上げられた可能性を最小限に抑えるために、知恵を尽くしていかなければならない。

これからの芸術家の仕事は人が五感情報をより曖昧にしていく未来の中で「正しい五感情報を保管し補完」するために動かなければならないとより確信した。


P.S.
これはあらゆるクリエーターへ言えることだけれど、一個人の思いなどは関係なく合理主義の考え方から見れば、何を作り上げたか、その作り上げられたものがどのように使えるかが徹底的に考えられ、初期の目的や思いとはまったく違ったもので利用される。
それが技術だ。
これは覚悟しておいたほうがいい。
アメリカや世界各国はゲームという市場を通しながら技術の実験場として発展していく。
例え限りなく善の思いを込めて作ったものであろうとそれが応用できるのであればあらゆる技術に使われる。
それが末路として悪を招く可能性もあるということだ。
これを防ぎたければとにかく自分たちの思いを伝えていくしかない。
そしてそれを囲む人たちは、小さな思いでもそれを育てていくしかないのだ。

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12/03

Fri

2010

「相手の気持ちを考えて」

日本人的な考え方なのかな。
今まで疑問にも思わなかったけれど、自分の立場が社会一般から乖離してきたり、外国に行って生活する経験があったりすると、この言葉は成り立つのだろうかと考えるようになった。

「相手の気持ちを考えて」という言葉は「言葉に対してきちんと配慮すべきである」という考え方はもちろんのことだが時として「私の気持ちを考えてください」の意味で代用される。
それはあたかも「常識的な感覚」を訴えるような言葉で「極めて個人的なこと」を訴えているにすぎない。
これだと逆も言える。
「じゃああなたは私の気持ち考えてそれ言ったの?」と。

価値観も立場も感性も違うもの同士が互いの立場や主張や環境を伝えずしてどうやって「相手の気持ちを考える」ことができるのだろうと大変疑問に思う。
これは異民族や異文化ならず、同じ日本人同士でも充分に言えることだ。

たとえばビジネスマン同士なら、その手のマナーがあるのは当然だけれど違う立場の人の感性に触れようとして、その人互いの感性の中に引き合おうとするのは当然のことなのではないのかな?
なぜ自分が生きている世界の規則や法則が他者の間にも通じると思い込んでしまうのだろう。
そしてそれが通じないと「相手の気持ちを考えない人」となるのは浅慮なのではないのか。

今の私には「相手の気持ちを考えて」というのがわからないだけなのかもしれないが、じゃあこれが最初からわかる人なんている?
それによくあることだけれど言ったすぐ傍から「それはあなたがよく考えたほうがいいことなんじゃないのかな?」という矛盾を持っている人だっている。
これは内省の力がないと気がつけないことだし、他人に言う前に自己を考察して伝わりやすいように自分の中を整理しておく必要性もある。

他人のことを例として持ち出すのは申し訳ないけれど俳優の大滝秀治さんは物事の成り立ちを説明しなければ質問事項には入っていかないらしく話が長い。
一つの番組は時間の制限があるから生放送ではとても困るのだが、人によっては他人が「え?」と思う伝え方もする。
このようなタイプの人は別に珍しくはない。
このタイプには当然他人が「ちょっと待ってください。そんなこと話されても受け止めきれない」と思うようなことも出てくるだろう。
その時に相手の環境や心情を畳み掛けられるように話されて「何言ってるんだろうこの人」と考えるのが普通なのだろうか。
それに相手が言ったからといってそれに従わなければならないということでもない。

この「受け流す技術」が足りないと、どうしていいか戸惑うのだろうか。
受け流しすぎても困るけれど。

皆さんが「相手の気持ちを考えて」という言葉を、どういう時に他人に使いますか?

ひとつ反省する点は、相手の気持ちを引き出す会話術を持っていないことが未熟なところではあるのだが。


で、どうしてこういうことに疑問を思うかと言うと「人って辛くても伝え合わなければどうしようもなくすれ違っていくもの」だとはっきりわかったからだ。
それは一番最初に訪れる「家族」という関係を見てもそうだし、そこから出て外に開けてくる関係に対しても同じことが言える。
つまり「分かり合おう」とするには「相手の気持ちを考えて」なんて悠長なことを言っている余裕なんてないというのが正直な実感。
時として沈黙は必要だけれど、常にそれをしていては大きなすれ違いを生む。
本当に「相手の気持ちを考えて」というレベルに人間が達するには、時としてやりあうことも必要なのではないのか。
そんな個人的な思いがある。

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11/25

Thu

2010

本の力 Sony Readerの発表を見て

電子書籍リーダー、端末合戦が始まっている。
今日はユーストリームを通して電子書籍ビジネスにおけるソニーの取り組みとリーダーの発表をやっていた。

内容はそれほどでもなし。
ソニーのブックストアーには2万冊の品揃え、と言っていた。
検索機能もついていて、似たような内容のが数冊同時に並べられ、類似作品を表示してくれるらしい。

正直な話、アマゾン越えられるのかなと。
発表だけ聞くと「本を読んでいる人の発想」ではなくて、やっぱり端末の性能だけがいいのかなという印象。
もちろん端末の性能がよいに越したことはないだろうけれど、端末の性能がよくても本におけるサービスの内容で負けていれば、結果を見るまでもなく惨敗すると思う。
端末の性能だけが際立っていても「書籍ビジネス」では勝てない。
これが、ゲーム、映像など、ソニーが持っているコンテンツと合体させた形ならまた違うかもしれないけれど、少なくとも「書籍ビジネス」に絞って考えるならば、本を読む人の期待を超えてくる力はまったく感じられなかった。
米国では売り切れという形が出たとアピールしていたけれど、それは米国ではきちんと作家も出版社などを通して本の力をアピールしているし、大衆もその力を直接受けて刺激を受けている。
当然コミュニティーの力も強いし、本を読む人は作り出される創作の力というのを本を通して直接感じている。
しかし日本にはそういう力がない。
アメリカで「ラストサムライ」という映画がやった後に新渡戸稲造の「武士道」が日本でもクローズアップされた。
あれは元々英文だったけれど、アメリカに行くのに日本語訳と英語の両方の文が載っている「武士道」を持って何人かに渡した。
それで本を渡すと、ある人が「サインをしてくれ」という。
「どうして?」と聞くと「アメリカでは渡した人の名前を書いたりするんだよ」と言っていたので照れくさかったがサインして渡した。
声のトーンがかなり高くなるほど喜んでいた。
本であれほど喜ぶ人を初めて見たが、アメリカにはこれぐらい本に対して喜ぶ人がいるのだ。

そもそも「本の力」ってなんだろう。
日本の電子書籍のビジネスは「本」そのものを見てはいない。
これは「コンテンツビジネス」そのものにも言えることかもしれない。
金が稼げるからそれを出すのでは、コンテンツそのものは育ってこない。
文化を育てる、技術を育てる、こういう発想が「金」という「数字の力」の次に位置している。
本来の「本の力」とは当然数字では見えないところにある。
「本の力」とは「動き出したくなる力を与えてくれる」ところにあると思う。
「世界観が変わった」「新しい知識から気づかなかったことに気づきそうだ」という静的な興奮も含めて、体の中から湧き上がるような衝動を感じるのが本当の「本の力」だと思っている。
そしてこの「本の力」を生かしきるコミュニティーの力が日本では非力すぎるのだ。

本における「売れる」を感覚の面から捉えるならば、とことん普遍的、または社会性の高いものでなければいけない。
普遍性を最初から書ける作家なんて天才と呼ばれる人しかいないし、ほとんどは失敗を繰り返しながら徐々にものになっていく。
しかし通常はそのような天才などごろごろは出てこないから、だいたい「掘り下げる」ということができなくなる。
万人受けするのを目指すあまり、本の内容を当たり障りのないないようにするしかなくなってしまう。
これは、ある側面における物事の核心に迫ることができない、ということを意味もしている。
つまり少数でも確かにある世界の事実というものには「売れるもの」を最初から目指していては消極的な目で見るしかないし、当然掘り下げることもできない。
しかし、大事なところはいつもこういう小さくとも確かにある力強い真実の中にある。

今の売れ筋の中には「本当に価値のあるもの」は残っているだろうか。
「本の力」と「金の力」はイコールではない。
しかし、金の力がないと本当に価値のある本はなかなか出来上がってこないもの事実だ。
ここら辺の事情を理解している人はかなり少ない。
小説だって娯楽小説みたく楽しめても、「きちんと書く」には綿密な取材が必要になる。
その資金や労力だって結構かかる。
そうじゃない本も、これからたくさん出てくる。
いわゆる「現場からの声」や「告白」に近い本だ。
これは部外者が取材費をかけてする外側からの目ではなく内側からの目によって見られた本だ。
電子書籍が活発化してくるにつれ、地方を訴える本、個人を訴える本、組織を訴える本、妄想を訴える本など様々な範囲における本が乱立することになる。
だから逆に「売れるものだけ」をピックアップしてお勧めしたくなる気持ちもわからないまでもないが、これから「混乱期」を迎えるからこそ、きちんとした「書き手」の存在や「編集者」が必要になってくるし、「本の力」を生かしきる新しいフィールドが必要とされるのに、一体日本の本に携わる組織は何をやっているのだと憤りを隠せない。
きちんと仕事ができる人間を育てることやコミュニティーの結合力を高めていくのも「技術の世界」には必要なことなのだ。

別にこれ、ソニーさんだけの話じゃないのだけれどね。
ただ、大手の会社の発表を見るにつれ「ああ、ここもか」と落胆してしまうのも事実なのだ。
ソニーさん、プレイステーションを出す時の勢いぐらいはないと、「本の世界」に新しい風は起こせないのではないのかな。
当時任天堂がハードとしては主流だった世界に「無謀」とも言える挑戦をした。
しかし、プレイステーションはメジャーとなった。
その「無謀さ」がなければ、この世界は衰退する一方だと思いますよ。

最後にもう一度言いたい。
本の本当の原動力とは「動き出したくなる力」があるかどうかにかかっていると思うのです。
これをさらに爆発させるようなものがなければ「革新的」とは言えない。

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10/17

Sun

2010

まず〔まづ〕【▽先ず】

[副]

1 はじめに。最初に。「―下ごしらえをして、その後料理する」

2 とりあえず。ともかく。何はともあれ。「これで―一安心だ」「―一休みしよう」

3 ある程度の確信をもって判断や見通しを述べるときに用いる。おおよそ。多分。「この調子だと―大丈夫だろう」「―助かるまい」

4 (下に否定的な表現を伴って)どうにも。いかにも。


Yahoo辞書から引っ張ってきました。
まず、という意味ですね。

ツイッターを使っていて結構引っかかることがある。
それは人々がどのように言葉を拾って解釈しているか、ということだ。

以前に、

民俗学ではまず文献を読むなというのが基本原則らしい。なるほど、作家も似たようなものだな。本当に小説を書きたいなら小説は読むな。人とひたすら接し、人々の気持ちを一つ一つ知っていけ。これが本物の作家の大原則。…となったら生存している作家の中で残るのは誰だろう。

というツイートをしたら、

民俗学ではまず文献を読むなというのが基本原則らしい。

という意味が強く残ったのか、これを拾われ「文献を読まずにできる学問なんてあるの??」という文面が飛んできた。
あえて拾わなかったけれど、その他の人たちも「文献を読むな」という部分だけ強調して意味を拾ってきている。
しかも前線で活動している学者さんや研究者さんがやっていたのでさらに驚いたわけです。

これは自分が書いた文章そのものが悪いのですが、正確には「文献に頼るな」というのが正しい文面。
「頼るな」と「まず読むな」では、相当意味合いが違うし伝わる状況も天と地ほどの違いがあるけれど、それでも「まず」が入っていることで「まったく読まない」ということとはイコールにはならない可能性は多分に残している。
…と、私は思っていたのだけれど、読んだ人はどう思うだろう。

まず、という言葉を意味もなく飾りのように使っていますか?
それとも3の意味合いで使うことがほとんどでしょうか。
同じ言葉でも前後の言葉から意味が違ってくるのが文章の不思議な感覚的魅力ですが私たちって自分の感覚に合うような言葉を選んで多用しているところがある。

文章家だからなるべく正確な文面を探し出すことを第一としなければならないし、特にこの場合は本に書いてあることだから自己解釈で捻じ曲げては論外だが、ひとつ気がついたことは「人は弱い言葉を添えても、強い言葉に引っ張られて頭の中に残すのだな」と思ったものだった。
私は小説家だから、人の中で起こる「言葉を捉えるときのあいまいな意味の揺れ」を探って書く。
文章は書いているけれど、小説家は「感覚を与える」ことを第一とするので、論文における正確な意味合いの文章を作る技術とはまったく違う。

以前にもよくこの言葉の解釈で「?」と思ったことがあった。
それはその人が、たとえば「まず」の意味を3の意味でしか捉えてなくて、相手に向かって「違います」と堂々と言っていたことだ。
実際に調べれば3以外の意味があり、相手側が書いてある文面で間違ってはいないのに、その人は3の意味しか知らないから相手に向かって皮肉交じりのことを言う。

こういうことが短い文章上の中で多発している。
その上で争いになることも少なくはない。
言葉の解釈の中で起こる個々人の多様なぶれというのは、当然起こり得るものだが、現代人気質とでもいうのだろうか、相手の言葉の意味や価値観を強制しようとする行為はネットを問わず現実空間でも多々起こっている。

どうしてだろう。

明らかに訓練ができていないということもあるが、言葉の中に多様な感覚や意味のブレがあるということの気構えができていないのではないだろうか。
この「気構え」というのは「興味の範囲」が著しく個人の中で完結しているということだ。
だから他人が持っている感覚に興味がわかない。
気がついても入り込めない。
と、ここまで来ると訓練ができてないということに戻るのだろうが。

個人は感覚の中で生きている。
言葉を持つ前の出発点は感覚である。
それが集団を形成するひとつの鍵になっても、集団としての特性を現すには隔たりすぎている。
しかしその集合感覚こそ、集団であることは間違いない。
先ほどのツイートの内容は結局言葉というのは、感覚を基点としているからこそ、人の感覚を知り、そこから文章なりを編み出していかないといけないということだ。
私は民俗学のことなど知らなかったが、小説家のこのような感覚から照らし合わせれば、民俗学というのも同じように文字から探り当てるのではなく、人の息吹を体の中に叩き込まなければいけないのだ、というのはよくわかる。

だからこそ小説家も他人の感覚をどんどん吸収した上で、他者の著作なりを改めて読んで、より多様な感覚でもって体に叩き込まなければならない。
それでこそ、小説が息をし始めるものだと思っている。

言葉というのは大事だ。
今の若い世代はどんどんボキャブラリーを失って感覚的に伝えるようになってきているが、言葉は感覚を表現するのにまず役立つ。
現在の国語の試験のように答えが決まっているわけではなくて、「まず」のように色々な意味を含んでいる。
感覚だけがあって、言葉にできないと、誰かに気持ちを伝えるときに言葉以外の行為になってしまう。
まず言葉は自分の感覚を解釈するために使用される。
その上で伝えられるわけだ。

もっと高度になると他人の感覚を解釈するために使われる。
技術的なことやシステム的なことを言葉にするとどうしても「説明」が多用されることになるから、言葉の意味も他者との中で限定していき、その意味のブレが極めて小さいのが好ましい。
この説明の技術と、日常会話の技術、つまり言葉の使い方は違う。
説明は意味のぶれを狭めるのに対して、日常会話や対話というものは意味のぶれを楽しむところがある。
この意味のぶれを受け入れて、違った形でやりとりするのが他人と交流する上でとても大事なことだ。

しかしその「交流の前提」すらも成り立たなかったら少々困ることだろう。
先ほどの例のように「まず」がAさんにとっては1の意味、Bさんにとって3の意味で押し通し譲らない会話が永遠と続けば喧嘩になることは当たり前なのである。
大げさな例に見えるかもしれないが、実は大げさではなく結構やっていることなのです。
最近「無縁社会」の座談会に出席したけれど「無縁」の意味や内容や感覚でさえ一致していない。
現在はみんなばらばらになって、手探りで見えるものを追っている状態。

言葉には「文字」と「口頭」があるが、どちらにも感覚を根底としている。
言葉を解釈することは感覚を解釈することでもある。
その中にある本人だけが抱えている微妙な感覚は言葉にできないことがほとんどだ。
言葉を解釈する上で一番大事なのは「自分がその言葉について知っている意味とは違う可能性もある」ということを、きちんと頭の片隅にでも置いているのかということでもあると考えている。

自分の中で意味を限定すると、人は数多くのものを見失いがちなのである。


元ネタ

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09/20

Mon

2010

http://poemoon.seesaa.net/

今度詩の電子書籍を発売しようかと考えているのですが、それと同時に朗読も再会しようかと思いまして、一年と数ヶ月ぶりに!再開しました。
電子書籍では音声データを入れるとでかくなるとのことで、中の詩はすべてこちらのサイトで朗読して、写真付きの点が電子書籍版のおまけということになりますな。

それにしてもやりかけのものがたくさんありすぎて、しかも自分の声って恥ずかしいものですな。
耳で聞いている声とは全然違うけれど、聞きなれたら最初の驚きもなくなってくるというものです。

朗読となるとまた表現方法が違ってきて、下手っぴこの上ないですが、精進していきたいと考えております。
難しいよね、朗読って。
また声の表現ともなると、ちょっとしたイントネーションで感じが違ってくるから不思議なもの。
下手でもやっていれば、新しい発見もありそうなので、こういうの好きな方はどうぞ寝る前当たりにお楽しみください。

続けていれば、また新しい道も開くかもしれないしね!

ちなみに「おいしいところを持っていく悪役」がやりたいです!(爆)

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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