人間は、長くその環境や思想に浸っていると、あたかも類似したものがそれに浸っているのではないだろうか、ということを錯覚しだす。
たとえば、人間に裏切られ続けた人は、他人の善意を信じることはできないし、人間は人間を利用するために動くものだと思い込むものだ。
そのようにして、自分の長年浸ってきた経験則と周囲の環境により、自分が強く思っていることを、他人にまで当てはめてしまう。
これは別段不思議なことではなく、誰しも大なり小なりやっていることだ。
しかし、誰しもやっているといっても、互いに大きな壁を作っているのは、この「感覚」や「環境」や「思想」や「経験」の差異であり、これにより互いの理解を困難にするだけではなく、両者が一方的に相手に対し自分の考えや思想や経験を当てはめてしまうということもやりがちだ。
文字で書くと難解そうに見えるが、意識していないだけで普通にやっている。
お宅の会社にも一人や二人、「自分のやり方は正しいんだ」と仕事のやり方を押し付けてくる上司がいるはずだ。
さて、最も衝突を起こしやすく、最も他人に理解されない行為とは、自分が長年浸ってきたものを「私はこうで~」と自分の立場として語るのではなく「お前は~だから」と自分の思想や経験を相手に重ね合わせて物事を言うことだ。
それは当然「あんたの世界じゃ正しかったかもしれないけど、こっちの世界は違うし」となる。
若者と老人の衝突だって、異文化の衝突だって、子供同士の衝突だって、似たような原理を元にして発生している。
人が最も勘違いするのは「私とあなたの感覚は一緒だ」と思い込むことだ。
そしてその大前提は往々にして間違っているにも関わらず、人が最も気がつきにくい盲点であると言っていい。
これは自分の感覚が常に主体的に存在するため、他者の感覚まで慮ることが、なかなか難しいし、大きな精神力と想像力を必要とするためだ。
感情や感覚は常に自分を元に発信されていく。
これは言葉で書かなくても誰にとっても当たり前のことだろう。
だからこそ自分から常に「出している」状態を逆転させて「引き込む」状態にすることはエネルギーの方向性が逆ゆえに難しい。
常に発信しかできない人間にいきなり「他人のことを考えろ」というのは無理な話だろう。
まったく逆の力なのだから。
よく小説やテレビなどで知ることも多いだろうが、相手側の立場に立つまでの経緯には傷を伴うことが多い。
傷ついて当事者の立場に気がつき、ようやく考え始め、理解を深めていく。
しかしその前に気がつく方法はないのだろうか。
人は自己主張が酷く強い時、必ずその思想背景に何かを持っている。
それは仲間であったり家庭環境であったり経験であったり、一言で言うならその思想を得るまでの「環境」があり「人生」があった。
そしてそのエネルギーたるや、他人と会話するために使われているのではなく「自分の理屈を証明するための証拠集め」か「自分そのものを認めて欲しい」という欲求がある。
それだけ、自分では意識していない憤りの力が、他者に対してのエネルギーとなって向けられていくのだ。
アイデンティティを否定されてきた、もしくは卑屈さを感じてきた可能性も否定できない。
つまり「コンプレックス」を潜ませている。
人は、他者に埋め込まれた情報を、自己抑制を超えて他者に対して表現することはまれではない。
アイデンティティを大事にされてこなかった人間は、他人のアイデンティティを大事にはしない。
大事にした瞬間、「自分は大事にされなかったのになぜこいつを大事にしなければならないのか」という嫉妬の意識メカニズムが働く。
このように、よくよく注意しなければ自分がされた負のエネルギーを他者に対して発散することになる。
問題はそのような「コンプレックス」を持っていた場合、「あなたは間違っている」では通用しない。
余計に反発をあおるということになる。
まず相手の過去に想像力をめぐらし、相手のアイデンティティの傷をある程度認めなければ、互いの理解は前進しない。
それは過去をほじくりだすことではなく、そっと慮る。
私は小説を書くという視点から人を見る時、「この人はどうしてこうするのだ」ではなく「何がこの人にこうさせているのだろう」ということを忘れない。
つまり主体性があり、意思があり、そしてすべては自己に集約されるのではなく、どのような力が与えられ、どんな環境で過ごし、どのような価値観がこの人間を動かしているのだろう、と考えるのだ。
酷い言い方をすればその人間を一個の独立した存在として見るのではなく、あらゆる力の集合体として見る。
そう考えると、相手の感覚を事細かに分別していくことができる。
たとえば、「40代前半」「男」「高校からの長年の平社員生活」「上司の強烈な圧力」「同僚に時折(仕事のためと称し)暴言」「家庭環境、妻に冷遇、娘2人」「趣味は特になし」「インターネット使用、入りびたり」というキーワードがあったとしたら、この男性は仕事や家庭に対する強烈なフラストレーションという力の昇華の仕方を暴力で補っていて、家庭環境がうまくいっていないということは元々の家族に何かあり、たとえばマザコンであるとか、紳士的な礼儀が同僚に対してもできないのだから当然家庭に対してもできず、娘2人からは嫌われている可能性もあるとか、それらの生活の原因を作ったのは、彼が性的に特殊な願望を持っていて女性に対して理想があるのではないかとか、会社での冷遇に対しても同僚への暴言を見ると自分の処遇は不服でありもっと上の役職が適任であると考えているとか。
可能性の話ではあるが、考えられないことではない。
これらを一言でまとめると「自分の存在が認められていない」ということになる。
男性でも他人の格言名言を使い、あたかも自分を大きく見せかけようとする人がいる。
これもやはり「自分の存在が認められていない」という「コンプレックス」をどこかで持っている。
自分の現実的な姿である小さな自分というものを肯定することに大きな不安を持っている。
それを、数多くの言葉で誤魔化しているのだ。
そして「不安」を持っているから他人との「共有」を強要してくる。
「コンプレックス」は負の感情さえ持たなければ悪いものではない。
前向きに捉えて克服していこうとすれば役に立つ。
それには自分自身の本当の大きさに、いや、本当の小ささに気がつく必要性がある。
しかしそのコンプレックスを他人にまで押し付けるとなると衝突していく。
他人が押し付けてきた場合、私たちはその人間に深く干渉する覚悟が無い限りは適当に褒めて、程よい距離を保つのがベストだろう。
つまり、相手の人生に深く干渉する覚悟がないのなら、「負のコンプレックス」とは付き合わないほうが賢明なのだ。
少しでも否定を加えればコンプレックスを助長させることになる。
他人は大きく見て、自分は小さく見る。
人間は、他者との間に絶対的な溝がある。
その溝は大きな「コンプレックス」として立ちはだかることが多々ある。
しかし、だからこそ、我々は違う能力を持つ人同士尊敬しあえるのだ。
それを自己のレベルで前向きに克服していくことにこそ、人間の希望がある。
それは「同じだ」ということではない。
「違い」を前向きに認めていくことだ。
それが「成長」という謙虚な気持ちにも繋がっていくと思うのだ。
自分の人生に対して、各々の人間が賢明であらんことを切に願う。
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