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あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

11/24

Sun

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09/12

Sun

2010

高藤カヲルさん

先日の関東地方の集中豪雨で、職場の近くが土砂災害にあい、道路が遮断されて陸の孤島になっています、と携帯から投稿していた知り合いの日記を見た。
あまり話すこともなく馴染みがだんだんと薄くなってきていた人だったし、どう声をかけてよいのかわからないから、なんとも思わないで読み流した。
友達のみんなは心配のコメントを書いていた。

後日、避難所に多くの人が支援を行ってくれたことで恐怖も膨れ上がらなくて済んだこと、コメントに励まされたこと、人のあたたかみを知って感謝したいことなどが日記に書かれていた。
これを見て、自分は人間として何か欠落している部分があるのではないのかと疑った。
東京地方の集中豪雨はネットに投稿された写真で、どの程度かわかっていたのに。
土砂災害が近くで起こってます、との報告を受ければ心配するのが当たり前なのではないか。
自分の心はどこか乾いていて、関係のない人の情報を遮断していながら過ごしている。
そして「他人事」としてでしか考えていない自分もいる。
自分の時は誰か救ってくれるのだろうか。
何かしみったれて甘ったれた気持ちがいくつも浮かんでは消えて、今の自分が人間らしい何かを、いや、潤いをなくして、感受性を干ばつの大地のように干からびさせて、何かを育てさせるような心の土壌を失っているのだと強く感じた。

版元さんから連絡を受けて「感想をください」と言われ、高藤カオル作品を通しで初めて読んだのだが、以前にも紹介されて今年の3月に亡くなっていたことがサイトに書かれていたのは知っていた。
病死なのか、事故死なのかわからない。
当然一度も会ったことがなければ、話したことすらもない。
版元さんは会ったことがあるようだった。
写真を見る限り若く、これからの人だった。
版元さんは酷く動揺していたし悔やんでいたが、自分には思い入れがないから何の感情も浮かんでこなかった。
自分の中ではその人が生きて動いている様子を見たことがないので、写真を見ても「絵」にしかならなかった。

高藤カヲルさんの漫画サイト。
http://park3.wakwak.com/~ss-saito/ori/0-orijinaru.htm

彼女の漫画作品は「首刈り」と言われる、代々忌み嫌われ呪われた存在であるとされている「処刑人」、その「首刈り」に興味を持った習俗研究の学生マリーが中心となって因習の真相が暴かれていく前編と、その数年後を描いた後編に分かれている。

「道端にある何気ない石や、日常やっている当たり前の行動にも、昔の人の願いや祈りが込められているんだなって…そう思うとこの国に残っているいろんな事がすごく素敵なの。でもきっと忘れ去られてる祈りや思いがあるはず」

最初に書かれているこの台詞に、彼女の思いのすべてが満ちているのだなと読みながら感じた。
習俗。
~ある地域やある社会で昔から伝わっている風俗や習慣。風習。ならわし。~
普通に生きていて、この言葉を意識することは皆無だろう。
実際今まで生きてきて、ほとんど耳にしたことはない。
いわゆる民俗学や宗教学、国史学なども含んでいく内容だが、これはあまりにも生活に密着しすぎていて普段意識することがまったくないからに他ならない。

たとえば、今もっている偏見や知識や生活スタイルがどのようにして自分の行動様式として身についたか意識したことはあるだろうか。
ほとんどの人間は意識することはないと思う。
この漫画は「首刈り」という題材を扱っていて、コミカルなタッチで描かれているのでまったく重苦しく暗い雰囲気はなく、テンポよく読んでいける。
軽いタッチのようで扱っている内容は軽くはなく、そこらへんのバランスはよく取れていると思った。
少しだけ途中で、その軽やかさに飽きることはあっても最後まで引っ張っていく複線の多様な張り方は将来性が高いだけに惜しいなと感じるところはあった。

全編を通して読み取れるのは、歴史や慣習の中で生きる人々が、たとえその「偽られた正義」に気がつこうとも身についた慣習には身体的拒否がまず最初に来るということ。
そして「慣習における偽り」に抗おうとした時、自分のみならず多くの人間を巻き込んで「犠牲者」としていかなければならないこと。
これは歴史の不可避であって、いくら綺麗ごとを言おうと現実は「血」で成り立っているということ。
正義を提示して、それを「立証」しても、救える人間がいないということもありうること。
一度発生した人の思い、因果は必ず何かの形で返ってくるということ。
人の思いは繋がっていくということも言える。
はたして自分の知った真実が、明らかに正義感に触れ、戦わなければならないという決断に迫られた時、自分や他人を犠牲にしてまでなお余りある何かがもたらされるのか、という一個人の問題にまで深くぶち当たっている。

高藤カヲルはそんな一人一人の思いを余さずに描いている。
そういう優しい視点に満ち溢れているのがよくわかる。
歴史や風俗がどのようにして作られるのかという仕組みや背景もよく描かれているし、漫画では描かれていないが、そこに生きた人の希望が絶望に変わらないように「救い」も書かれている。

もう彼女は死んで、続きを書くことも世界観を広げることもできない。
きっと生きていたら「死刑」と「人間らしさ」を通じて、人間の「生と死」を深く考え描いていったことだろう。
書きかけの続編を見て、そう感じた。
きっと発表された作品よりも、もっともっと深みのある漫画を書いていたに違いない。

こうして書いていると、まったく面識のない彼女を少しだけ悔やむ気持ちが沸き起こってきた。
不思議なものだ。
歴史は生きている人間のみが作っているものと勘違いしていたが、どうもそうではないらしい。
死者もまた、こうして生きている誰かに思いを伝えることができる。

「伝えること」や「戦う」ことの意義が、この漫画には込められていると強く感じている。

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08/31

Tue

2010

もう今年も後「四ヶ月」を残すところとなりまして、既に「来年こそは」と現段階で考え始めているという、時間を無駄にしていることが見え見えの私です。
一分であろうと残った時間を大事にするのが人生における「密度」と関わってきますが、怠惰な人間は一分二分と無駄に過ごしていくのですね。
その時間が人生の中で莫大になり、三十代、四十代と「差」が出てきます。
もう横に並んで欲しくないほどに。
怠惰な人間が申し上げておりますので間違いないです。

なぜかもう「今年の反省」をしたい気分に捉われていますが、まだ「四ヶ月」もあります。
本当に仕事できる人はわずか二週間にも満たない時間で国家戦略など打ち出してしまうので、いやはや「デキる人」っていうのは仕事量もハンパないですね。
うらやましい限りです。

今年はずっとツイッター活動を前半しており、これから後半は作品を販売していこうかと考えていますが、だいぶ放置していた作品が何点もあり、「売れるレベル」なのかどうか判断しながら選り分けています。
現在パブー( http://p.booklog.jp/users/asakazesan )にて作品を無料公開していますが、これらはすべて過去に書いたものです。
五年前くらいからの作品も入っているかもしれません。
自分でもだいぶ書いていたことを忘れていることがあり、掘り起こし作業もまた楽しいですな。
「ああ、こんなこと書いていたんだ」と。

「新・人間失格」については、いつ本格的にコーティングし直すか、時期や腕の上がり方など見ながら直していこうかと考えています。
いずれは色んな意味で「焼け野原」になる出版業界やこの日本国に「文化活動」がいかに人々に貢献できるのか。
本格的に力を蓄えていきたいと、九月からは活動していきます。

もうそろそろこの苦境から出てもいいだろ、充分だ。
という気持ちのほうが強くなってきていて、今までは「ああダメだ」という気持ちが多かったのが逆転しようとしています。
心理的にもよい兆候かなと。
頭の中で色々考え心理的にぐちゃぐちゃで落ち着きがなく実行に移せなかったものを具現化していこうかと考えています。
随時発表していきますので、気長に付き合っていただければ幸いです。

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08/26

Thu

2010

デビュー当時から一人だけ追っている若手の作家さんがいる。
まだまだ20代ど真ん中。将来性が高い。
そういう人が自分の中で出るのは珍しい。
今は幻冬舎アウトロー文庫などを中心にして「官能」と分類されるジャンルで書いているが、そのうちもっと来るのではないのかなと成長を楽しみにしている。
その人の日記の中で面白い文章があった。

うまく書いたつもりでも、読者の方には理解してもらえないことだってあります。

今朝、私の物書きの友達が、こんなメールを送ってきました。
「伝えたいことが伝わらない、そもそも伝えたいことには真に意味があったのかと迷うことがある」
言葉を綴って表現する者にとって、誰もがぶつかる壁だと思います。


そもそもこの問いは「作家とは何か」という問答になるだろう。
書いているからには「伝え」なければいけない。
その「伝え」がしっかりと「伝わって」いるかは書いている当人にとっては重要な問いなのかもしれない。

私はどうかと言うと「意味を持たせて伝えるのは作家」だけれど、必ずしも「読者の持ちえる意味」まで限定して書いているのなら、それを後世の人は「作品」として残すだろうか、と思っている。
時代によって言葉のニュアンスも変わるし、当然環境の違いがあれば受け取り方も違ってくる。
作者の傲慢なのではないのか、とも考えている。
ただ「今作家として自分が存在している意義や意味」を「人々」に対して問うているのなら、充分に理解できる悩みだ。
しかし、そんな悩みは「私ってどうしてこの仕事しているのか教えてよ!」と言うのと同じようにも感じる。
もし「伝えたいこと」があり、「受け取って欲しいことを作者が完全に制御」したいのなら、「論文」を書けばいい。
そうではなくて、「何故小説という手段をとるのか」という問いがここにはない。

究極的には作家が死んで作品だけは残る。
生きているからこそ持ちえる贅沢な悩みだ。たとえ伝わらずに憤死したとしても、「表現」を突き詰める作家としては、それもひとつの「伝え方」なのかもしれないとも思う。
また人間の理解力の曖昧さと能天気さと身勝手さに絶望して「そのまま地獄まで落ちればいい」と死ぬかもしれないし「人間そのものの浅ましさ」に気がついて生きる気力をなくすかもしれない。

そもそもこの問いは「言葉とは何か」にも波及する。
同じ「平和」でも「幸福」でも人々によって様々な答えが出る。
「不幸」や「悲しみ」もそうだろう。
「あなたにとって幸せとは何ですか?甘いとはなんですか?」と問うた時、様々な答えが出るのはどうしてだろう。
それを考えていない。

作家はたいてい一人だ。
複数でやってもさすがに10人を超えることはないだろう。
しかし受け手は桁が違う。
多い場合には100万以上にもなる。
たとえば一人の人間が100万もの人間の意味を限定しようとするのならそれは「政治」だ。
「小説家」は「政治家」ではない。
しかし「政治機能」も持たせたいのなら話は別だ。

結局コメント欄で読者の方に「文脈=コンテキスト」を言われ目から鱗だったようですが、私は「読者が持ちえる様々な意味」にこそ「リアリティー」というものが存在し、そしてそれこそ「文学の本質」ではないのかなと考えているのです。

「小説化がリアリティーというものを失ったらおしまいだ」と平野啓一郎のブログでは書かれているが、私もこの言葉を時として反芻している。
「リアリティー」とは、目の前に存在するすべてのことであって「自分がここにいる」ということよりも「世界が存在している」ということなのだ。
その「世界」は「自分を主体」にしては到底見えてこないものだ。

作家はたいてい一人だ。
その作家を中心にして世界は存在している。
しかし「世界に対する解釈力」というものは「自分」が強ければ強いほど鈍ってくる。
このジレンマは恐らく作家や芸術家をしていればいずれ気がつくのではないかと思う。
世界に対する感覚の鋭さというものは、「自分」であって「自分」ではない。
「世界の一部」であるという「バランス感覚」だ。
卑屈にも傲慢にもならない、そこに意思や意味もまずは介在しない、そういうフラットな状態からいやがおうにも「個」が浮き出る。
その時初めて自分が認識でき、世界の中の単なる一部である自分が世界に対して共感をしだすのだと思っている。

勝手に文章を拝借してしまったが、見つかってクレームが来たら削除することにしよう。

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08/19

Thu

2010

最近人を殺そうと思う時がある。
それは不特定多数や見知らぬ人ではなく、知っている人だ。
理由は、個人的な事情だ。
憎しみを抑え切れないことがある。
その前に、自分が死のうかと考えることもある。
どちらを選ぶにしろ、自分の人生はそこで終わる。
日本ではそれ以上は生きてはいけない。
塀の中で生きたままゆっくり死体になるのなら、いっそのこと死んだほうがましだとも思い直す。

因果応報という言葉がある。
この言葉を使うときはだいたい「悪いこと」が起こったときに使う。

「あいつが、あんな悲惨な目にあうのも、昔の悪事のせいよ。因果応報だな」

という具合にだ。

普通人は、この「因果」のことを、「自分の行動によってもたらされた様々な事柄が自分に返ってくる見えないつながり」のように考える。
ゆえに「応報」、「自らの行動の結果は自らがこうむる」と。
しかし、この「因果」は自分がまったく関わっていない場合もある。
誰かがもたらした行動の結果が理不尽にも降りかかる場合の繋がりも「因果」に含まれる。
人は見ず知らずの幸運や不幸が降りかかった時、必ず「運がいい」とか「運が悪い」と言う。
この「運」には陰陽五行説も含まれており、いわゆる簡単に言うところの「天地の理」、もっと簡単に言えば自然現象も含む意思を持たない流れ、「自然」も入っている。
それを仏教や風水や陰陽の世界は複雑化して理論体系化していった。

私たちは、自分の人生は自分自身で選択できるものだと考えている。
しかし、実際は違う。
能力を信じて信じぬいたものだけが偉業を成しえると説く人間もいるし、人間における成功哲学を打ち立てた人間も既にいる。

「人間がいかにしてすごしていけば人類が平和で人間同士が幸せに暮らせるか」

という問いには、人類は既に答えは出している。
この「資本主義社会」に対しても、既に答えを出している。

しかしそうはならない。
なぜか。

「人は思い通りに自分を律することができない」

つまり、最大の敵は他ならぬ自分自身であり、自分自身を一番思い通りにできない弱い存在だから、「勝者」と「敗者」という存在に隔てた時その差がハッキリと出るのだ。
そしてその「勝者」「敗者」の中に、悪事を働くものが数多く現れるからこそ、何者かが理不尽な事態に見舞われるのだ。
そう考えると「因果応報」とは、「行動の結果」という考え方よりも「自らに降りかかった因果へ、いかに対処できるか」の問題であるとも言える。

私が憎むべき存在を殺さないのは、私を信じていてくれる人のことを思い出してだ。
作家として大成するのを待つ人間が、まだこの世界に生きている。
その存在がなければ、私は今頃全国ニュースで報道されるくらい派手な殺し方をしているかもしれない。
または冷静になり「殺す価値がない」と寂しい気持ちになるかもしれない。
感情には未来がなく、常に今しかないのでどうなるかはわからない。

「カルマ」とは「業」と日本語で書く。
この「業」とは「因果」も含む。
「カルマ」は身に降りかかった不幸を「何らかの悪事の浄化」とも考える。降りかかった時点で、自分が既に犯した罪を何らかの形でこうむっていると勘ゲル。
また、自分が他者に対してよからぬ行動・感情を持った場合も自らの「カルマ」を抱える。
つまり、「輪廻」、巡り巡って返ってくる一連の輪になぞらえ、誰かがその「カルマ」の「罪深さ」に気がついて、「耐えて連鎖を断ち切る」ことでしか、その「カルマ」からは逃れられないと説くのが基本的なカルマからの解脱の考え方だ。

説明すると、自分が「むしゃくしゃ」している。
誰かに「当り散らす」と当り散らされた人間は家族に「暴力を振るった」。
暴力を振るわれた家族の子供は学校で「いじめ」を行った。
いじめられた子供の家族は逆に子供を「責めた」。
責められた子供は不良となり、社会に対して「悪事を働く」ようになった。
凶悪な事件が起きて社会が「ギスギス」するようになった。
ギスギスした社会がやがて「他者に対しても不信感を抱く」ようになった。
不信感の渦巻いた社会は軽率な行動をする人間を「責め」出した。
責められた人間は「むしゃくしゃ」しだした。

どうだろう。
言葉で簡潔に繋げるとこうなる。
最初と最後が繋がるのがよくわかるだろう。
人と世の中はもっと複雑だからこうはならないが、実際これに近いことをやっているのは事実だ。

前世のカルマというのもあるらしい。
占星術に長けた人に占ってもらってショックだったのは、前世から引き継いでいる「魂の傷」が現世でも再現されるらしく、実際そのようになっている。
そして、殺そうと考えている人間はそのカルマの中に存在している。
その人間によって、本当にひどく傷つけられた。
細胞分裂よりも激しいスピードで一度刺激されると憎悪が止められなく、危ない時がある。
実際、少しだけ一線を越えかけた。

よく考えてみれば、よく相手を知れば、相手もカルマを知らずにそのまま私に流している。
自分で耐え切れずに、いや、耐え切れた部分だけは守りつつ、それ以外のところで流している。

「なぜ人はカルマから逃れられないのか」

この問いに非人間的な行為によって解脱をはかろうとするものがいた。
しかし人間生活、人類すべてがそのように「解脱への行動」によって人生が成り立つわけではないし、実際成り立たない。

「カルマ」は、「因果応報」という言葉の一般的な解釈を超えて現世にのしかかってくる。
私もまた「カルマ」と戦っている。
仲良くできるかどうかは、今のところはわからない。
たとえ自分が乗り越えたからといって、誰かに「戦え」と無理強いするつもりもない。
だが最後に、ほんの少しだけ思ったことを言いたい。

もし、
誰かを殺すか、
自殺をするか、
どちらかを考えた時、
それを止められるのは、

心から親身に自分の話を最後まで聞いてくれる人だ、

と。

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08/12

Thu

2010

作品と資金 電子書籍の分野で

電子書籍は紙よりも安価で販売すべきだという意識があります。
実際は「紙」で、いくらなんだから、「紙を使わない」電子書籍は安くて当たり前だという意識なのだと思います。
この感覚は、「作品」というものにお金を払っているという感覚ではなく「物」に対して払っているという意識になります。
また日本には「チップ」という感覚がなく、「育てるための援助」という感覚が薄いこともあるのではないかと考えています。

本をたくさん読みたい人にとっては、安価で良質な作品が数多く手に入ることは、とてもよいことでしょう。
しかし大御所、つまり名前の売れた人ならば大量販売ができるので、逆に利益が増える場合がありますが、そのような方は一握りで、たいていの場合は苦しみます。
作者のみならず、作者を取り囲む環境も苦境に立たされます。

実際、本格的な小説を書こうと思った場合、資金が必要になります。
取材費と言われるもの、資料代、交通費、滞在費、交際費、書き終わるまでの生活費など、実は様々なお金がかかります。
それをやらないで書けるものは「まったくの想像」で書いたか、「何者かがすでに書いてまとめてある」ものしか手が出せなくなります。
このことが一体何を意味するかというと、「類似した作品が数多く産み出される」のみで、あとはその職業に携わっている人が文章能力を身につけて書き上げるか、文章能力のある人に現場の人が小説にしてくれと依頼するか、いずれにせよ「人間を等身大で描く小説」が少なくなることは確かです。
と、言っても、若い世代に売れている小説の多くは「人間味」への描写力を求めるよりも「お話としての奇抜な構成とわかりやすい感動」が書かれているものが売れています。

実際私も、自分に対しても、この流れに対しても「このままでよいのだろうか」「何を通すべきなのか」というジレンマを抱えながら書いています。
文芸における「市場」というのも「資本主義」ですから、会社側は多くの人がお金を出すところに、類似した作品を投入するということをやりがちです。
または売れるまで乱発するということをやっています。
ちょうどお笑い芸人が次々と現れては消えていく、あのような状態に陥っています。
これはただ「売れればよい」という考え方で、「実力を持った人間を育てたい」という意識はどこにもありません。

この電子書籍の世界は現在出版社、印刷会社が動き、電子端末を作る会社、携帯電話会社、様々な業界が動き、きな臭くなっています。
この一連の動きはかつての音楽業界の動きと一致していくのではないかとも言われています。
面白い文章を見つけたので転載させていただきます。

http://www2.plala.or.jp/wasteofpops/
Waste Of Pops 80s-90s|カバー曲・消えたバンド・ニュース
2010年8月10日の記事より引用。
着うたの安易な「曲」単位の促成プロモーション連発の結果、継続的に売上を維持できるような「スター」育成が困難な状況に陥ったとか、90年代の売上が異常だっただけにもかかわらず、そこをスタンダードにしてロクに次の収入源になりうる別事業も想定しないまま現在に至ったこととか。

この記事は音楽ファイルを違法アップした人間に裁判所が賠償金の判決を出したということで、「業界が衰退している理由はそこではないだろ」という内容です。
そのうちまた「購買層の責任にするのではないか」ということも書いておられます。
この業界の動きは現在の出版業界にも言えることです。
つまり「作り手が最大限効果的に動ける環境」よりも、「自分たちの利益をいかに確保するか」という動きなのです。
これは推測ですが、もしかしたら勘違いをしているのかもしれません。
「俺らの会社が衰退したらお前たち活動できなくなるだろ。だから俺たちの利益を確保することはお前たちの活躍の場を広げることなのだ」と。
もしそんな考えでやっているのだとしたらこの本の業界も同じ道を辿ることになるでしょう。
売れる人間だけを押し出し、某グループのように安易にどんどん曲を作り、ベスト版のような過剰な宣伝で次々と売り出す。
挙句の果てには、もっとえげつなく特典パッケージなるものも出すかもしれません。

小説というのは非常に隙間産業ではあります。
誰もやっていないようなことを自分なりにアレンジしていく。
そうして、誰もが持っていないような特色を売りにしていく。
これは非常に時間がかかる作業ですし、いつ「開花」するかも保障できないことです。
ですから、安易な方向に向きがちです。
そして特に生活に絶対必要なものでもないですし、日本人百人のうち一人が、その作品に触れていれば「凄い」と言われるような世界です。
非常にコアな世界に、多くの人がひしめき合っているという状態です。

この、電子書籍の世界も、ひとつの「道楽」「伝達媒体」として多くの人に定着することだと思います。
多くの人が日本語に触れることはとてもよいことだと考えています。
しかしその一方で、本当に実力を持った人間が埋もれるというリスクも抱えます。
毎日千近くもの作品が出てきた場合、自分と非常に合う作品と出会うことは「地球上でたった一人の運命の人」と出会うくらい困難なことになるでしょう。
才能が次々と現れ、育たずに消えていく、ということも起こるでしょう。

これからのこの世界の時代を作っていくのは、作者だけではありません。
その作者を取り囲むすべての人であることは言うまでもありません。
一体何に対してお金を払い、そして守っていきたいのか、育てていきたいのか、ということを一度でも考えていただければ、この文芸の市場も、少しは変わるのではないかと考える次第です。

そして私たち作家の活動は、電子書籍時代を迎え、もっと「本らしい面白み」から「面白みを共有するコミュニティー作り」に発展しなければならないと考えています。
ようやくそこまでの活動ができて「一人前の作家」となる時代はもう開かれています。
何を残していかなければならないのかを、我々作者、編集、それらを取り巻く人たちは考えなければいけないのではないかと思っています。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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