電子書籍は紙よりも安価で販売すべきだという意識があります。
実際は「紙」で、いくらなんだから、「紙を使わない」電子書籍は安くて当たり前だという意識なのだと思います。
この感覚は、「作品」というものにお金を払っているという感覚ではなく「物」に対して払っているという意識になります。
また日本には「チップ」という感覚がなく、「育てるための援助」という感覚が薄いこともあるのではないかと考えています。
本をたくさん読みたい人にとっては、安価で良質な作品が数多く手に入ることは、とてもよいことでしょう。
しかし大御所、つまり名前の売れた人ならば大量販売ができるので、逆に利益が増える場合がありますが、そのような方は一握りで、たいていの場合は苦しみます。
作者のみならず、作者を取り囲む環境も苦境に立たされます。
実際、本格的な小説を書こうと思った場合、資金が必要になります。
取材費と言われるもの、資料代、交通費、滞在費、交際費、書き終わるまでの生活費など、実は様々なお金がかかります。
それをやらないで書けるものは「まったくの想像」で書いたか、「何者かがすでに書いてまとめてある」ものしか手が出せなくなります。
このことが一体何を意味するかというと、「類似した作品が数多く産み出される」のみで、あとはその職業に携わっている人が文章能力を身につけて書き上げるか、文章能力のある人に現場の人が小説にしてくれと依頼するか、いずれにせよ「人間を等身大で描く小説」が少なくなることは確かです。
と、言っても、若い世代に売れている小説の多くは「人間味」への描写力を求めるよりも「お話としての奇抜な構成とわかりやすい感動」が書かれているものが売れています。
実際私も、自分に対しても、この流れに対しても「このままでよいのだろうか」「何を通すべきなのか」というジレンマを抱えながら書いています。
文芸における「市場」というのも「資本主義」ですから、会社側は多くの人がお金を出すところに、類似した作品を投入するということをやりがちです。
または売れるまで乱発するということをやっています。
ちょうどお笑い芸人が次々と現れては消えていく、あのような状態に陥っています。
これはただ「売れればよい」という考え方で、「実力を持った人間を育てたい」という意識はどこにもありません。
この電子書籍の世界は現在出版社、印刷会社が動き、電子端末を作る会社、携帯電話会社、様々な業界が動き、きな臭くなっています。
この一連の動きはかつての音楽業界の動きと一致していくのではないかとも言われています。
面白い文章を見つけたので転載させていただきます。
http://www2.plala.or.jp/wasteofpops/
Waste Of Pops 80s-90s|カバー曲・消えたバンド・ニュース
2010年8月10日の記事より引用。
着うたの安易な「曲」単位の促成プロモーション連発の結果、継続的に売上を維持できるような「スター」育成が困難な状況に陥ったとか、90年代の売上が異常だっただけにもかかわらず、そこをスタンダードにしてロクに次の収入源になりうる別事業も想定しないまま現在に至ったこととか。この記事は音楽ファイルを違法アップした人間に裁判所が賠償金の判決を出したということで、「業界が衰退している理由はそこではないだろ」という内容です。
そのうちまた「購買層の責任にするのではないか」ということも書いておられます。
この業界の動きは現在の出版業界にも言えることです。
つまり「作り手が最大限効果的に動ける環境」よりも、「自分たちの利益をいかに確保するか」という動きなのです。
これは推測ですが、もしかしたら勘違いをしているのかもしれません。
「俺らの会社が衰退したらお前たち活動できなくなるだろ。だから俺たちの利益を確保することはお前たちの活躍の場を広げることなのだ」と。
もしそんな考えでやっているのだとしたらこの本の業界も同じ道を辿ることになるでしょう。
売れる人間だけを押し出し、某グループのように安易にどんどん曲を作り、ベスト版のような過剰な宣伝で次々と売り出す。
挙句の果てには、もっとえげつなく特典パッケージなるものも出すかもしれません。
小説というのは非常に隙間産業ではあります。
誰もやっていないようなことを自分なりにアレンジしていく。
そうして、誰もが持っていないような特色を売りにしていく。
これは非常に時間がかかる作業ですし、いつ「開花」するかも保障できないことです。
ですから、安易な方向に向きがちです。
そして特に生活に絶対必要なものでもないですし、日本人百人のうち一人が、その作品に触れていれば「凄い」と言われるような世界です。
非常にコアな世界に、多くの人がひしめき合っているという状態です。
この、電子書籍の世界も、ひとつの「道楽」「伝達媒体」として多くの人に定着することだと思います。
多くの人が日本語に触れることはとてもよいことだと考えています。
しかしその一方で、本当に実力を持った人間が埋もれるというリスクも抱えます。
毎日千近くもの作品が出てきた場合、自分と非常に合う作品と出会うことは「地球上でたった一人の運命の人」と出会うくらい困難なことになるでしょう。
才能が次々と現れ、育たずに消えていく、ということも起こるでしょう。
これからのこの世界の時代を作っていくのは、作者だけではありません。
その作者を取り囲むすべての人であることは言うまでもありません。
一体何に対してお金を払い、そして守っていきたいのか、育てていきたいのか、ということを一度でも考えていただければ、この文芸の市場も、少しは変わるのではないかと考える次第です。
そして私たち作家の活動は、電子書籍時代を迎え、もっと「本らしい面白み」から「面白みを共有するコミュニティー作り」に発展しなければならないと考えています。
ようやくそこまでの活動ができて「一人前の作家」となる時代はもう開かれています。
何を残していかなければならないのかを、我々作者、編集、それらを取り巻く人たちは考えなければいけないのではないかと思っています。
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