事前に書いておくけれど、私はファミコン、PCエンジン、CDROMROM、現在PCゲーム、予定としてこの後家庭用ゲーム機器に時間があったら戻るというゲーム遍歴がある。
昨日の番組を見ながらツイッター上での発言を見ると、ゲームを中心にした発言が多かったが、当然NHKの今回の視点はそうではなかった。
ゲームを通してどうなっていくのか、という未来の可能性を含んだものだった。
ゲーム産業は現在映画をこえて金になる娯楽へと発展した。
番組を見ながら、ぼんやりと散りばめられていたものが繋がりを見せはじめている。
ツイッター、脳科学、ゲーム。
私がずっと考えていたのは、コンピューターによる人類統制プログラムの確立と可能性だった。
突拍子もなくこのことを上げるとまるで現実とは関係のないことを書いているように感じるかもしれないが、たとえばツイッターの構造について以前考えたことがある。
ツイッターは140文字でのタイムラインでなる。
そして他人の言葉をリツイートし、その言葉によってまた自分のタイムラインも変化させていく。
しかしそのほとんどは潜在的に眠っていた思想信条を掘り起こしているに過ぎない。
つまりタイムラインが重なれば重なるほど自らの「アイデンティティ」のデジタルデータが積みあがっていくわけだ。
これは「人物像の炙りだし」である。
そしてその炙りだされたアイデンティティがどのようにして他人と繋がっていくのか、どのような思想信条の変化を及ぼすのか、その可能性とアイデンティティ構築の様子をリアルタイムで観測しているといってもいい。
これが行き着くところまでいけば、情報の発信源を制御し情報による集団のある程度の制御方法が具体的な統計によって確立される。
現在でも国家レベルではその手の技術は当然あるだろうが、より緻密になっていくことは間違いない。
そのことを考えていた上で今回は「バーチャルリアリティーはどこまで人間の感覚に近づいていくか」という視点で私は見ていた。
これでも任天堂からはそれていたものの、どっぷりとゲームには浸かりきった人生を送っていたのでバーチャルリアリティーと人間の感覚の働きのようなものは肌身で感じている。
今回の番組の内容は「ゲーム」という枠に留まらず、ゲームがどのような動きを見せているかが中心的だった。
マイクロソフトが開発した立体的に人間を捉え、画面の中に人間を取り入れ動かす機械。
脳波を捉え、それをゲーム画面の中に取り入れようとするロシアの試み。
数多くのヘビーテスターたちを取り入れひたすらゲームをさせ、脳の興奮状態などから「ゲームに飽きさせない法則」を見出そうとするテスター企業。
これらの動きは「人間の偶然性」に法則を見つけようとする動きにも直結していく。
これらは本来のゲームクリエイターが描いている希望や幸せをもたらす働き、当然今回出てきたジプリとゲームの融合からできてくる、あたたかな世界観とは違ってくる。
戦争技術ともだんだん繋がってきているし、実際には軍事技術は無人化への動きがより進んでいくだろう。
様々な広がりを持ち、そして技術を貪欲に吸収していく世界各国の動きに比べ日本のゲーム産業の動きは、まだまだ「ゲーム」という枠の中で捉えている印象だったが、これから影響を受けだす可能性は十二分にある。
まず私がハリウッドにいたなら、スピルバーグと同じようにゲーム業界には大変興味を持つ。
その上でより映像がゲーム的な興奮に満ち溢れないかと様々な試みをするだろう。
統計があるなら当然統計資料も参考にしながら映像を作っていく。
ゲームで確立された技術が映画に応用されれば、当然今度はマルチチャンネル、そして最後は一般チャンネルにまでその技術が浸透してくるようになる。
バーチャルリアリティーと感覚の関係については非常に危機感を持つところがある。
人間は己の主観がどのように影響を受け構成されているか見破ることができないからだ。
自分の発言が本当に自分独自のものであると考えているなら危ない。
その人は既に「情報」というものに飲まれだしている可能性がある。
ゲームの技術がここまで来るのにたかだか一世代程度の時間しか経っていないことを考えるとこの先20年以内によりこの現実空間はバーチャルリアリティ情報に溢れ、人間の主観が構成されていくことになる。
もし自分の主観が人工物だけに構成されていたとしても、周囲の人間も同じような感覚なのだから、見破るどころか少しの疑問も持ちえないだろう。
現在ゲームのターゲット層は富裕層など、ゲームにある程度時間を費やせる人たちだ。
その子供たちも。
つまり「これからの支配層となる人間たち」がターゲットにされている。
学問や機会の均等があると甘く見ていてはいけない。
人間は自らの権力が脅かされようとする時手段を問わず行動するのだから。
さて、バーチャルリアリティが自分自身が獲得した感覚でありアイデンティティだと錯覚すれば、もはや制御は夢物語ではない段階まで来る。
これまでの人間行動の統計から大衆制御は可能になってくるだろう。
以前、オンラインゲームの世界に飛び込んでいて非常に興味深い経過を見た。
それはそのオンラインゲーム(バーチャル空間)にはまればはまるほど、現実での感覚がバーチャル空間での理屈に摩り替わっていき、考え方が現実を起点にしていたものがバーチャル空間を基点にして考え出すようになる。
本人は当然そのことに気がついておらず、相当の衝突を試みたが、結局喧嘩別れにしかならなかった。
それだけ「主観の構成」は自身は見破れない。
もしバーチャルリアリティーに制御された新しい世代が生まれだしてくると、今度は旧感覚を持った世代と衝突しだす。
この新しい世代が時代を作っていくことになるが、彼らは現実での五感感覚の代わりにバーチャルリアリティーで体験しているので頭で考えるだけの五感情報の欠落した世代になる。
この世代が金を持っていない世代や貧困層を制御しようとすれば「無感覚」と「感覚」の衝突になるのは当たり前なのだ。
まず未来にはこの衝突は避けられないということ。
バーチャルリアリティーの恩恵を受けた世代は感覚的かつ直感的に動く。
どのような豊かな知識を得ようと、五感情報が欠落しているのだから考えても枠の中で動くことはあっても、その枠から外へ出ることは難しい。
作り出された五感情報を元に動いていくからだ。
映画のように「枠からはみ出た救世主」を待ち望むには世代は時代を逆行させないほどに力を持ちすぎていて、まさに奇跡の所業になることは容易に想像できる。
これから10年後脳波を測定されつくして、ゲームそのものが人間の欲求に対応・応用できるほど柔軟性を持ったらどうなるであろうか。
その技術は一般家庭の隅々まで浸透することになる。
今まで述べたことは何もSFの話ではなくなるわけだ。
取材を受けていたゲームクリエーターが今回の番組を見て困惑していた。
自分たちが目指しているものや見ている希望はあまり強調されていなかった、と。
ジプリだって人間を不幸にしようと思って映像作品を作っているわけではない。
当然日本のクリエーターたちもそうだろう。
世界のコンテンツは、より「境界線」をなくしていく。
つまり「映画」だとか「ゲーム」だとか「芸術」とか、そういう境界線は技術の進歩により曖昧になっていくだろう。
我々はどのような技術の恩恵を受けていくのか、当然私も創作をする人間のはしくれなので、これからの技術をおおいに利用し、そしてその技術のヒントになるものも数多く産み出すかもしれない。
しかしたとえ悪用される可能性があろうと改善の手段をなくすよりはずっといい。
毒からワクチンが産み出されるように、これからの世代の理性と良識を信じてやっていかなければならないし、上記に上げられた可能性を最小限に抑えるために、知恵を尽くしていかなければならない。
これからの芸術家の仕事は人が五感情報をより曖昧にしていく未来の中で「正しい五感情報を保管し補完」するために動かなければならないとより確信した。
P.S.
これはあらゆるクリエーターへ言えることだけれど、一個人の思いなどは関係なく合理主義の考え方から見れば、何を作り上げたか、その作り上げられたものがどのように使えるかが徹底的に考えられ、初期の目的や思いとはまったく違ったもので利用される。
それが技術だ。
これは覚悟しておいたほうがいい。
アメリカや世界各国はゲームという市場を通しながら技術の実験場として発展していく。
例え限りなく善の思いを込めて作ったものであろうとそれが応用できるのであればあらゆる技術に使われる。
それが末路として悪を招く可能性もあるということだ。
これを防ぎたければとにかく自分たちの思いを伝えていくしかない。
そしてそれを囲む人たちは、小さな思いでもそれを育てていくしかないのだ。
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