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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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12/20

Mon

2010

茨城・JR取手駅 バス襲撃事件

「現代人」
http://p.booklog.jp/book/6538


生い立ちの情報や本人供述が少ないことから推測でしか成り立たないけれど、最近この手の「鬱憤」を持った人間が起こす事件が多いと思う。
実際には臆病で前へと出られない人間が溜めに溜めて一気に爆発させるというケースだ。
例えて言うのなら密閉された容器の中にどす黒い水を注ぎ込んでいって、最後には注ぎきれなくなり容器が壊れてしまうという状態。

「人生を、終わらせたかった」という供述などしているという。
何か、物凄く思い当たる節があり、こうして書こうと思うのだが、結局「新・人間失格」やこの「現代人」にも書いていることは「本人が認識できていない暴力性やフラストレーションの表出の仕方」だ。

私はずっとこのことを感じながら小説に書いているわけだけれど、本人以外は認めたくもないことだけれど、本人そのものの存在価値が認められない、または認められることへの本人意識と周囲認識のギャップや矛盾によって、本人の結論として無意識が「暴力を受けている(阻害されている)」というフラストレーションを溜めていくために、死にたいのではなく「消えたい」と思ったり、溜まったフラストレーションが発散されないことによって内面的な暴力性が高まってくるということはあると考えている。

かく言う私もふっと無気力になったり通行人・身内に対してひどく暴力的な衝動を持ったりすることを認識したりする。
人間は自分だけの意識ではどうにも自分の心を律しきれない。
あらゆる影響を受けながら「自分はここにいても良いのだ」という認識を確認しながら生きていっているのではないかと考えている。

その一種の「存在確認の積み上げ」がどこかかしこで崩されたり崩れていったりすると「どうして自分はここにいなければいけないのだろう」という無意識の疑問や不信がやがて意識レベルにまで表出してくる、というのが私の考え方だ。
人間は自己存在確認をしながら未来に対して希望を持っていくことで、人生というものを開けさせているのではないかと。

この手の犯罪は簡単に言うところの「認められないことへの反逆」だが、今の日本の社会ではこの手の感情は「甘え」や「本人努力が足りない」など、あらゆる意味を含めて「本人能力の欠如」を指摘するに留まる。
そして第二・第三の事件が起きても「また自分勝手で努力もしない人間が犯罪を起こした」としか認識されず、堂々巡りの状態を何度も繰り返している。
結局社会そのものが、この手の人間を無視という暴力性によって片付けているという側面がある。
だからこそ相手が「特定の誰か」ではなく「社会」という「不特定多数」なのではないかと考える。
「社会」というあるようで厳密には特定できないようなあいまいな空気に対してどうしようもなくなってしまう。

私はいつも小説を書くときに「個人の認識の範囲」を意識する。
この手の人間がどのように周囲の「世界」を見ているのか。
それは今までの経験・思想にもよるし教養の量にもよるし想像性・感性の高さにもよるし、それらのものを受け取る心の器はどれほどなのかと考える。
だからこそ個人個人が感じている「世界」というものは違うのだが、特に日本人はこの世界観が「一緒なのだ」と思い込んでいるのではないだろうか。
そして他人との世界観のずれというのを極端に恐れ、互いの世界観を隠して表面上で合わせたり、本音で交換し合うことは稀だ。
大人の社会に出れば余計にそうなると思う。

思想の上では日本人は多様性を認めているようで画一化の方向へと向かっている。
保守的なのである。

日本の年間自殺者数は未だに3万人を切らない。
そしてこの数字は「統計上」で算出される数字であり当然統計という基準から漏れている多くの人たちがいる。
実際にはこの数字よりも多いのだ。

統計だけでも出ている数字で40歳代までの自殺者は年間1万人を越えている。
単純には換算できないが、これが労働者、何らかの生産行為を行っていたとしたら、毎年働き盛りの人間をこれだけ失っていることになる。
特に日本人は「日本がダメだったら海外に行こう」とか「労働がないなら自分で作り出そう」なんていう発想はなかなか浮かばない、もしくは発想が実現しづらい社会環境があるから精神的に追い込まれる。
それも、保守的ゆえだ。
なにせ20歳から40歳までの死因の第一位が自殺という国なのだから、そろそろ自分たちの異常な状態に気がついても良いのだと思うのだが、未だに余裕が生まれない。
次は我が身かもしれないという危機感もあるのではないだろうか。
それに他人にまで悠長に手が回せるほど現代人には余裕がない。

自殺の話になったが、自殺も他人に対する傷害も同じ「暴力」だと考えている。
破壊衝動の究極的な行き着く先だ。
つまり自分も含めた「人間」という存在に対するありがたみや価値を軽んじている(重く認識するまで積み上げられていない)から、暴力的な衝動を実行段階にまで上らせてしまうのではないのか、と思うことがあるのだ。
今回は殺意を否認しているらしいので、まだフラストレーションとしては弱かったのかもしれない。

日本社会では「社会に馴染めない人間を否定」するという方法で社会に所属できる可能性のある人間を「処理」していっている。
これは現代日本の社会システムを維持させるための日本人なりの合理性なのだと思うこともある。
命すら現在の社会を維持させるための「必要経費」であり「物」なのだ。
「人材」と言う「物」である。
だからこの手の犯罪が起きても「排除」するだけで「処理済」としか片付けられない。
会社でも使えない。
社会にすら馴染めない。
使えない人材は破棄する。
それだけだ。
その手の行為を繰り返している。

何故繰り返すのか、と思うところがある。
自分なりには個人レベルでのフラストレーションの爆発に至るまでの形成過程はなんとなく見えている。
じゃあ、もっと大きなレベルで、何故個人が、社会思想が、個人を追い込むのか。

それは私の直感としてこの国の金の流れを完全に洗い出せれば浮き彫りになるのではないかと思っている。
金には常に「思念」が宿る。
どのような使われ方をされるかで、金の価値や社会が変わっていく。

最後になるが私たちができることは他人に対する思いやりを忘れないことである。
せせこましく他人に接すれば、それだけ社会が悪化するのだ。
私たちは社会で「金銭」以外にも「心の通貨」を持っていることを忘れてはいけない。

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12/19

Sun

2010

齋藤智裕「KAGEROU」騒ぎ

次々と増えていくアマゾンの酷評レビューにそろそろ完全に飽きてきたところで、いつもはスルーするこの手のミーハー騒ぎに思ったことを書こうと思う。
というのは、芸能人などほとんど興味がなかったが先日の金曜日「とくダネ」の番組内で齋藤智裕氏が小倉智昭氏のインタビューに答えていた内容に対して大きな疑問を感じると同時に「表現」ということにたいして考えさせられたからだ。

正直なところポプラ社の「書店責任販売制」という売り方ひとつ取っても、今回の大賞作品がロングランでは売れないということを見越しているのではないか、と勘ぐっても充分だし、今回本の売り方に対してひとつの短期決戦型の策略が完全に当たっていたことは否めない事実だ。
その上で本来本に興味を持っていなかった層に対しても充分知らしめただろうし、本に対して見識を持っている人たちに対しても知らしめたことになる。
両者とも思うところがあるのなら、今度は次に繋がるために行動に移すだけだ。

今回のポプラ社の受賞騒ぎに対して、少なからず私も面白くない感情は持ったものの、自分の実力のなさを棚上げして、あれこれと言うのが嫌だったので黙っていた。
しかし受賞金額の辞退などの行動を追っていっても不可解な点はある。
たとえば私が辞退するとして、内容に対してもバッシングが来るのが軽々と予想できるのであれば、私は印税で手元に残った金額の半分を後の作家育成のために寄付する。
そうすることでバッシングを行っている連中を完璧に抑え込むと同時に自分の主張の正当性を確保し、これ以上のバッシングは悪意のあるものでしかないと立証するためである。

ただ、よく作者の人生や背景をそのまま作品の評価に結び付けようとする動きがあるが、これは大変ナンセンスだと感じると同時に、分けて考えるべきだと忠告したいことでもある。
我々は物品を買うのに、その会社のことや創業者などのことを調べるのは極めてまれである。
通常その物品が良いか悪いかで判断して購入を決める。
本というのも例外ではなく、作者がどうあっても内容の良し悪し、もっと言えば作者が死んでも内容においては高く評価されるのが本当の価値であると考えている。
「価値」というものが、そのまま値段にはなっておらず、「価値」の代価が得られるようなシステムは確立されていない。
もうこの点においては滅茶苦茶な状態すらもあるほどだ。

今回あまりにも前評判が悪かったので、きちんと読んでから本の感想を書こうとも思ったが、面倒くさくなってやめた。
26歳となれば、まだまだ先は長いし今までの2倍生きたとしても52歳という、作家としては油の乗った時期に突入する。
今回のバッシングがより創作的なものに繋がるのならば、決して無駄ではなく、むしろ大きな財産となる。
こういう経験はなかなかできないものであるから、この先の自身のためにも貴重な体験だ。
絶対に生かすべきだ。

表現というものは、全身全霊を使うものと考えている。
この受賞に対して嫉妬や失望を禁じえない作家を目指す多くの諸君に対して感じるのは、それすらも創作に生かしきれないのなら、創作の現場において戦っていけるだけの才能は既に持っていないのだから、今すぐにでも諦めよ、ということだ。
それだけ自分を含めた「人間」というものを生かせなくて、何が作家になりたい、作家を目指しています、だと逆に冷ややかな気持ちを覚える。
現代日本では夢や希望が企業に食い物にされる可能性が高いのだから、自分があらゆる才能に対して貪欲でなく、現状に甘んじ生ぬるい価値観でいつまでも殻に引きこもっているだけの了見の狭さならば、食い物にされて当然だと思わなければいけない。
この悲惨な現状をぶち破るには、ぶち破れるだけの大きな才能が必要なのだ。
表現に携わるものなら、最後血の一滴すらも表現という狂気にも近い行動に生かすべきである。
それが表現だ。

ということを踏まえて、インタビューの感想なのだが、日本語に対してコンプレックスがある、小学校の時に死にたいと思ったほどの人種差別などのいじめにあった、目を潤ませながら話していた。
齋藤智裕氏の生い立ちや主観はよく伝わってきたものの、それを越えてくる「客観性」というのが見えてこなかった。
あくまで話の内容は「彼の話」であり、「彼が見てきた多くのもの」ではなく、その点で違和感を覚えたのだった。
例えば「俺は凄い」と言ったとする。
しかしその凄さは「他人が認めて」初めて「凄い」と認識される。
自分で言っているに留まっているうちは他人にとっては「主観」だとしか認められず多くの場合「独りよがり」だとしか捉えられないだろう。
作品における客観性、または自分の話す内容においての客観性をある程度出すには自分がいじめにあった、他にも自殺する人が多いと聞く、そして命のことをテーマにしようと思った、というのならば彼が調べてきた「自分以外の数多くの命に対する悲痛さ」の話、もしくはその片鱗すら感じられても良いはずだ。
それなのに彼の話は最後まで「自分の話」であって「自分以外の話を含んだ語り」は出てこなかったのだ。
言うなれば「彼の悲しみ」が「他の悲しみ」と同レベルで扱われている。
先ほどの例を戻すならば自分が凄いと思っているものが他にとっての凄いと同じレベルで扱われているのだ。
そんな思いを抱いたインタビュー内容だったし、さらに追い討ちをかけたのは「他の表現にも挑戦するし時期が来たら発表する」と彼が言ったことだった。

この発言を受けてさすがに「え?」と声を上げそうになったほどだった。
あらゆる表現方法を学び、表現とは何かを自分で模索するのは構わないし、これからもあらゆることに挑戦するのは止めるべきではないが、さすがにそれを言うには、あまりにも早すぎるし、当然「表現とは何か」も広く浅くでは見えてこようはずもないだろうし、ある程度各分野における「表現」を噛み締めず他の分野に移れば、その分野で頑張ってきた人に「この人はまた他のところに行くのではないか」と不信感を持たれてもしょうがないし、周囲の目も一気に変わる可能性だってある。
現状だってそうなのだからこれ以上逆撫でしないほうがよいに決まっているのに、なぜある程度の作品を出してからではなく、一作書いてすぐに「他の表現」の話をするのか、はなはだ疑問であった。
それも作品を書くための一つの手段として捉えているのならばよいのだが、どうにも目論見が伝わってこない。
ただ「自分がしたい」という思いが前に出すぎているのだ。

「表現」とは「誰かに伝わって」こそなのに、これでは彼の「表現」という行為が本当に独りよがりの苦しみに終わってしまう可能性すら高くなる。
それは本人にとっても不本意だしファンにとっても喜ばしくはないだろう。
本を書くというのは、確かに片手間でもできる。
しかし「表現をする」という行為は片手間ではできない。
自分の感性がどこにあるのかを探らなければいけないし、自分が持っている全てを美醜問わずさらけ出さなければいけない。
そしてようやく「自分が表現すべきもの」が見えてくる。

私も所詮自分の主観に従って述べているに過ぎないのかもしれないという迷いすらも充分にあるが「表現」は個人にとって重いものであると同時に他者にとっても同じくらい重いものであると受け止め自分なりに余さず掬い上げるのが「表現」という行為の根本にあると考えているのだ。
他の人間の命の重みを理解せずして、命の重みを自分の主観で語るのは通常は歓迎されない。
これがわからないうちは、いつまでだっても子供でしかない。
このことに関しては本当に表現に携わるものなら一生悩んでいかなければいけない。
バッシングを受けようと嫌がらせを受けようと、這いずってでも進んでいかなければ、自分の主張を曲げることと直結する。
それでは何のために「表現」を目指そうとしたのか、その意義すらも見失うことになるだろう。

これは、当然彼だけの話ではない。
すべての「表現」というものに携わりたいと思っている人たちに、よく考えて欲しいことでもある。

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12/13

Mon

2010

NHKスペシャル 「ゲーム革命」

事前に書いておくけれど、私はファミコン、PCエンジン、CDROMROM、現在PCゲーム、予定としてこの後家庭用ゲーム機器に時間があったら戻るというゲーム遍歴がある。

昨日の番組を見ながらツイッター上での発言を見ると、ゲームを中心にした発言が多かったが、当然NHKの今回の視点はそうではなかった。
ゲームを通してどうなっていくのか、という未来の可能性を含んだものだった。
ゲーム産業は現在映画をこえて金になる娯楽へと発展した。

番組を見ながら、ぼんやりと散りばめられていたものが繋がりを見せはじめている。

ツイッター、脳科学、ゲーム。

私がずっと考えていたのは、コンピューターによる人類統制プログラムの確立と可能性だった。
突拍子もなくこのことを上げるとまるで現実とは関係のないことを書いているように感じるかもしれないが、たとえばツイッターの構造について以前考えたことがある。

ツイッターは140文字でのタイムラインでなる。
そして他人の言葉をリツイートし、その言葉によってまた自分のタイムラインも変化させていく。
しかしそのほとんどは潜在的に眠っていた思想信条を掘り起こしているに過ぎない。
つまりタイムラインが重なれば重なるほど自らの「アイデンティティ」のデジタルデータが積みあがっていくわけだ。
これは「人物像の炙りだし」である。
そしてその炙りだされたアイデンティティがどのようにして他人と繋がっていくのか、どのような思想信条の変化を及ぼすのか、その可能性とアイデンティティ構築の様子をリアルタイムで観測しているといってもいい。
これが行き着くところまでいけば、情報の発信源を制御し情報による集団のある程度の制御方法が具体的な統計によって確立される。
現在でも国家レベルではその手の技術は当然あるだろうが、より緻密になっていくことは間違いない。

そのことを考えていた上で今回は「バーチャルリアリティーはどこまで人間の感覚に近づいていくか」という視点で私は見ていた。
これでも任天堂からはそれていたものの、どっぷりとゲームには浸かりきった人生を送っていたのでバーチャルリアリティーと人間の感覚の働きのようなものは肌身で感じている。

今回の番組の内容は「ゲーム」という枠に留まらず、ゲームがどのような動きを見せているかが中心的だった。
マイクロソフトが開発した立体的に人間を捉え、画面の中に人間を取り入れ動かす機械。
脳波を捉え、それをゲーム画面の中に取り入れようとするロシアの試み。
数多くのヘビーテスターたちを取り入れひたすらゲームをさせ、脳の興奮状態などから「ゲームに飽きさせない法則」を見出そうとするテスター企業。

これらの動きは「人間の偶然性」に法則を見つけようとする動きにも直結していく。
これらは本来のゲームクリエイターが描いている希望や幸せをもたらす働き、当然今回出てきたジプリとゲームの融合からできてくる、あたたかな世界観とは違ってくる。
戦争技術ともだんだん繋がってきているし、実際には軍事技術は無人化への動きがより進んでいくだろう。
様々な広がりを持ち、そして技術を貪欲に吸収していく世界各国の動きに比べ日本のゲーム産業の動きは、まだまだ「ゲーム」という枠の中で捉えている印象だったが、これから影響を受けだす可能性は十二分にある。

まず私がハリウッドにいたなら、スピルバーグと同じようにゲーム業界には大変興味を持つ。
その上でより映像がゲーム的な興奮に満ち溢れないかと様々な試みをするだろう。
統計があるなら当然統計資料も参考にしながら映像を作っていく。
ゲームで確立された技術が映画に応用されれば、当然今度はマルチチャンネル、そして最後は一般チャンネルにまでその技術が浸透してくるようになる。
バーチャルリアリティーと感覚の関係については非常に危機感を持つところがある。
人間は己の主観がどのように影響を受け構成されているか見破ることができないからだ。
自分の発言が本当に自分独自のものであると考えているなら危ない。
その人は既に「情報」というものに飲まれだしている可能性がある。

ゲームの技術がここまで来るのにたかだか一世代程度の時間しか経っていないことを考えるとこの先20年以内によりこの現実空間はバーチャルリアリティ情報に溢れ、人間の主観が構成されていくことになる。
もし自分の主観が人工物だけに構成されていたとしても、周囲の人間も同じような感覚なのだから、見破るどころか少しの疑問も持ちえないだろう。

現在ゲームのターゲット層は富裕層など、ゲームにある程度時間を費やせる人たちだ。
その子供たちも。
つまり「これからの支配層となる人間たち」がターゲットにされている。
学問や機会の均等があると甘く見ていてはいけない。
人間は自らの権力が脅かされようとする時手段を問わず行動するのだから。
さて、バーチャルリアリティが自分自身が獲得した感覚でありアイデンティティだと錯覚すれば、もはや制御は夢物語ではない段階まで来る。
これまでの人間行動の統計から大衆制御は可能になってくるだろう。

以前、オンラインゲームの世界に飛び込んでいて非常に興味深い経過を見た。
それはそのオンラインゲーム(バーチャル空間)にはまればはまるほど、現実での感覚がバーチャル空間での理屈に摩り替わっていき、考え方が現実を起点にしていたものがバーチャル空間を基点にして考え出すようになる。
本人は当然そのことに気がついておらず、相当の衝突を試みたが、結局喧嘩別れにしかならなかった。
それだけ「主観の構成」は自身は見破れない。

もしバーチャルリアリティーに制御された新しい世代が生まれだしてくると、今度は旧感覚を持った世代と衝突しだす。
この新しい世代が時代を作っていくことになるが、彼らは現実での五感感覚の代わりにバーチャルリアリティーで体験しているので頭で考えるだけの五感情報の欠落した世代になる。
この世代が金を持っていない世代や貧困層を制御しようとすれば「無感覚」と「感覚」の衝突になるのは当たり前なのだ。
まず未来にはこの衝突は避けられないということ。

バーチャルリアリティーの恩恵を受けた世代は感覚的かつ直感的に動く。
どのような豊かな知識を得ようと、五感情報が欠落しているのだから考えても枠の中で動くことはあっても、その枠から外へ出ることは難しい。
作り出された五感情報を元に動いていくからだ。
映画のように「枠からはみ出た救世主」を待ち望むには世代は時代を逆行させないほどに力を持ちすぎていて、まさに奇跡の所業になることは容易に想像できる。

これから10年後脳波を測定されつくして、ゲームそのものが人間の欲求に対応・応用できるほど柔軟性を持ったらどうなるであろうか。
その技術は一般家庭の隅々まで浸透することになる。
今まで述べたことは何もSFの話ではなくなるわけだ。

取材を受けていたゲームクリエーターが今回の番組を見て困惑していた。
自分たちが目指しているものや見ている希望はあまり強調されていなかった、と。
ジプリだって人間を不幸にしようと思って映像作品を作っているわけではない。
当然日本のクリエーターたちもそうだろう。

世界のコンテンツは、より「境界線」をなくしていく。
つまり「映画」だとか「ゲーム」だとか「芸術」とか、そういう境界線は技術の進歩により曖昧になっていくだろう。
我々はどのような技術の恩恵を受けていくのか、当然私も創作をする人間のはしくれなので、これからの技術をおおいに利用し、そしてその技術のヒントになるものも数多く産み出すかもしれない。
しかしたとえ悪用される可能性があろうと改善の手段をなくすよりはずっといい。
毒からワクチンが産み出されるように、これからの世代の理性と良識を信じてやっていかなければならないし、上記に上げられた可能性を最小限に抑えるために、知恵を尽くしていかなければならない。

これからの芸術家の仕事は人が五感情報をより曖昧にしていく未来の中で「正しい五感情報を保管し補完」するために動かなければならないとより確信した。


P.S.
これはあらゆるクリエーターへ言えることだけれど、一個人の思いなどは関係なく合理主義の考え方から見れば、何を作り上げたか、その作り上げられたものがどのように使えるかが徹底的に考えられ、初期の目的や思いとはまったく違ったもので利用される。
それが技術だ。
これは覚悟しておいたほうがいい。
アメリカや世界各国はゲームという市場を通しながら技術の実験場として発展していく。
例え限りなく善の思いを込めて作ったものであろうとそれが応用できるのであればあらゆる技術に使われる。
それが末路として悪を招く可能性もあるということだ。
これを防ぎたければとにかく自分たちの思いを伝えていくしかない。
そしてそれを囲む人たちは、小さな思いでもそれを育てていくしかないのだ。

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12/03

Fri

2010

「相手の気持ちを考えて」

日本人的な考え方なのかな。
今まで疑問にも思わなかったけれど、自分の立場が社会一般から乖離してきたり、外国に行って生活する経験があったりすると、この言葉は成り立つのだろうかと考えるようになった。

「相手の気持ちを考えて」という言葉は「言葉に対してきちんと配慮すべきである」という考え方はもちろんのことだが時として「私の気持ちを考えてください」の意味で代用される。
それはあたかも「常識的な感覚」を訴えるような言葉で「極めて個人的なこと」を訴えているにすぎない。
これだと逆も言える。
「じゃああなたは私の気持ち考えてそれ言ったの?」と。

価値観も立場も感性も違うもの同士が互いの立場や主張や環境を伝えずしてどうやって「相手の気持ちを考える」ことができるのだろうと大変疑問に思う。
これは異民族や異文化ならず、同じ日本人同士でも充分に言えることだ。

たとえばビジネスマン同士なら、その手のマナーがあるのは当然だけれど違う立場の人の感性に触れようとして、その人互いの感性の中に引き合おうとするのは当然のことなのではないのかな?
なぜ自分が生きている世界の規則や法則が他者の間にも通じると思い込んでしまうのだろう。
そしてそれが通じないと「相手の気持ちを考えない人」となるのは浅慮なのではないのか。

今の私には「相手の気持ちを考えて」というのがわからないだけなのかもしれないが、じゃあこれが最初からわかる人なんている?
それによくあることだけれど言ったすぐ傍から「それはあなたがよく考えたほうがいいことなんじゃないのかな?」という矛盾を持っている人だっている。
これは内省の力がないと気がつけないことだし、他人に言う前に自己を考察して伝わりやすいように自分の中を整理しておく必要性もある。

他人のことを例として持ち出すのは申し訳ないけれど俳優の大滝秀治さんは物事の成り立ちを説明しなければ質問事項には入っていかないらしく話が長い。
一つの番組は時間の制限があるから生放送ではとても困るのだが、人によっては他人が「え?」と思う伝え方もする。
このようなタイプの人は別に珍しくはない。
このタイプには当然他人が「ちょっと待ってください。そんなこと話されても受け止めきれない」と思うようなことも出てくるだろう。
その時に相手の環境や心情を畳み掛けられるように話されて「何言ってるんだろうこの人」と考えるのが普通なのだろうか。
それに相手が言ったからといってそれに従わなければならないということでもない。

この「受け流す技術」が足りないと、どうしていいか戸惑うのだろうか。
受け流しすぎても困るけれど。

皆さんが「相手の気持ちを考えて」という言葉を、どういう時に他人に使いますか?

ひとつ反省する点は、相手の気持ちを引き出す会話術を持っていないことが未熟なところではあるのだが。


で、どうしてこういうことに疑問を思うかと言うと「人って辛くても伝え合わなければどうしようもなくすれ違っていくもの」だとはっきりわかったからだ。
それは一番最初に訪れる「家族」という関係を見てもそうだし、そこから出て外に開けてくる関係に対しても同じことが言える。
つまり「分かり合おう」とするには「相手の気持ちを考えて」なんて悠長なことを言っている余裕なんてないというのが正直な実感。
時として沈黙は必要だけれど、常にそれをしていては大きなすれ違いを生む。
本当に「相手の気持ちを考えて」というレベルに人間が達するには、時としてやりあうことも必要なのではないのか。
そんな個人的な思いがある。

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11/25

Thu

2010

本の力 Sony Readerの発表を見て

電子書籍リーダー、端末合戦が始まっている。
今日はユーストリームを通して電子書籍ビジネスにおけるソニーの取り組みとリーダーの発表をやっていた。

内容はそれほどでもなし。
ソニーのブックストアーには2万冊の品揃え、と言っていた。
検索機能もついていて、似たような内容のが数冊同時に並べられ、類似作品を表示してくれるらしい。

正直な話、アマゾン越えられるのかなと。
発表だけ聞くと「本を読んでいる人の発想」ではなくて、やっぱり端末の性能だけがいいのかなという印象。
もちろん端末の性能がよいに越したことはないだろうけれど、端末の性能がよくても本におけるサービスの内容で負けていれば、結果を見るまでもなく惨敗すると思う。
端末の性能だけが際立っていても「書籍ビジネス」では勝てない。
これが、ゲーム、映像など、ソニーが持っているコンテンツと合体させた形ならまた違うかもしれないけれど、少なくとも「書籍ビジネス」に絞って考えるならば、本を読む人の期待を超えてくる力はまったく感じられなかった。
米国では売り切れという形が出たとアピールしていたけれど、それは米国ではきちんと作家も出版社などを通して本の力をアピールしているし、大衆もその力を直接受けて刺激を受けている。
当然コミュニティーの力も強いし、本を読む人は作り出される創作の力というのを本を通して直接感じている。
しかし日本にはそういう力がない。
アメリカで「ラストサムライ」という映画がやった後に新渡戸稲造の「武士道」が日本でもクローズアップされた。
あれは元々英文だったけれど、アメリカに行くのに日本語訳と英語の両方の文が載っている「武士道」を持って何人かに渡した。
それで本を渡すと、ある人が「サインをしてくれ」という。
「どうして?」と聞くと「アメリカでは渡した人の名前を書いたりするんだよ」と言っていたので照れくさかったがサインして渡した。
声のトーンがかなり高くなるほど喜んでいた。
本であれほど喜ぶ人を初めて見たが、アメリカにはこれぐらい本に対して喜ぶ人がいるのだ。

そもそも「本の力」ってなんだろう。
日本の電子書籍のビジネスは「本」そのものを見てはいない。
これは「コンテンツビジネス」そのものにも言えることかもしれない。
金が稼げるからそれを出すのでは、コンテンツそのものは育ってこない。
文化を育てる、技術を育てる、こういう発想が「金」という「数字の力」の次に位置している。
本来の「本の力」とは当然数字では見えないところにある。
「本の力」とは「動き出したくなる力を与えてくれる」ところにあると思う。
「世界観が変わった」「新しい知識から気づかなかったことに気づきそうだ」という静的な興奮も含めて、体の中から湧き上がるような衝動を感じるのが本当の「本の力」だと思っている。
そしてこの「本の力」を生かしきるコミュニティーの力が日本では非力すぎるのだ。

本における「売れる」を感覚の面から捉えるならば、とことん普遍的、または社会性の高いものでなければいけない。
普遍性を最初から書ける作家なんて天才と呼ばれる人しかいないし、ほとんどは失敗を繰り返しながら徐々にものになっていく。
しかし通常はそのような天才などごろごろは出てこないから、だいたい「掘り下げる」ということができなくなる。
万人受けするのを目指すあまり、本の内容を当たり障りのないないようにするしかなくなってしまう。
これは、ある側面における物事の核心に迫ることができない、ということを意味もしている。
つまり少数でも確かにある世界の事実というものには「売れるもの」を最初から目指していては消極的な目で見るしかないし、当然掘り下げることもできない。
しかし、大事なところはいつもこういう小さくとも確かにある力強い真実の中にある。

今の売れ筋の中には「本当に価値のあるもの」は残っているだろうか。
「本の力」と「金の力」はイコールではない。
しかし、金の力がないと本当に価値のある本はなかなか出来上がってこないもの事実だ。
ここら辺の事情を理解している人はかなり少ない。
小説だって娯楽小説みたく楽しめても、「きちんと書く」には綿密な取材が必要になる。
その資金や労力だって結構かかる。
そうじゃない本も、これからたくさん出てくる。
いわゆる「現場からの声」や「告白」に近い本だ。
これは部外者が取材費をかけてする外側からの目ではなく内側からの目によって見られた本だ。
電子書籍が活発化してくるにつれ、地方を訴える本、個人を訴える本、組織を訴える本、妄想を訴える本など様々な範囲における本が乱立することになる。
だから逆に「売れるものだけ」をピックアップしてお勧めしたくなる気持ちもわからないまでもないが、これから「混乱期」を迎えるからこそ、きちんとした「書き手」の存在や「編集者」が必要になってくるし、「本の力」を生かしきる新しいフィールドが必要とされるのに、一体日本の本に携わる組織は何をやっているのだと憤りを隠せない。
きちんと仕事ができる人間を育てることやコミュニティーの結合力を高めていくのも「技術の世界」には必要なことなのだ。

別にこれ、ソニーさんだけの話じゃないのだけれどね。
ただ、大手の会社の発表を見るにつれ「ああ、ここもか」と落胆してしまうのも事実なのだ。
ソニーさん、プレイステーションを出す時の勢いぐらいはないと、「本の世界」に新しい風は起こせないのではないのかな。
当時任天堂がハードとしては主流だった世界に「無謀」とも言える挑戦をした。
しかし、プレイステーションはメジャーとなった。
その「無謀さ」がなければ、この世界は衰退する一方だと思いますよ。

最後にもう一度言いたい。
本の本当の原動力とは「動き出したくなる力」があるかどうかにかかっていると思うのです。
これをさらに爆発させるようなものがなければ「革新的」とは言えない。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
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自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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