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あさかぜさんは見た

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07/26

Mon

2010

自己思考破壊の快楽

http://www.ebook2forum.com/2010/06/mechanical-or-logical-approach/
機械思考と論理思考:ゲシュタルト崩壊を超えて : EBook2.0 Forum
ゲシュタルト=人間の精神は部分や要素の集合ではなく、全体性や構造こそ重要視されるべきとすること
ゲシュタルト崩壊=全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt: ドイツ語で形態)から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象
Wikipedhiaより

これは面白い記事。
電子書籍分野におけるシステムの捉え方の話だが、ピックアップしていくと特にこの分野に興味がなくても学ぶべきものがある。

>それはオープンスタンダードとオープンソースによって実装における複雑性をいとも簡単に乗り越えることができるからだ。ただしこれらを効果的に使うには抽象化能力に優れた個人を必要とする。

意外にもこの抽象化能力の高さってやつが後のアイディアの精度、作品における完成度にも関わってくる。
一つの基点から抽象化していくも、抽象化されたものから基点へとたどり着くのもプロセスはどちらでもよいけれど、アイディアを発展させていく上でも、ビックバンのような抽象化能力は求められる。

つまりどういうことかっていうと、アイディアって「思いつき」なわけでしょう。
お話を書くって結構「思いつきの連続」で、さらに求められるのは「発想力の柔軟さ」なのである。
そうじゃなきゃ最初からガチガチで行き詰ってしまう。

例えば自分の彫刻作品を作るのに、最初から出来上がったものが目の前にあったら、作りようがない。
せいぜい壊れないように磨いて、その状態を保たせるしか方法は残っていないわけだよね。

「感動したいよな」という人が目の前にいて、あなたは石しか持ってない。
それをそのまま投げつけてしまったりするのは「思考停止状態」に他ならないし、ちょっとイカレテル。
泣かせることはできるかもしれないけど、それは「感動」じゃない。
それとも石を振りかざして「感動しろよ」と脅しちゃう?
でも我々って日常でそれに近いことを気がつかずにやっていたりする。

抽象化するっていうのは、自分が持っている「石」を「石ではないのだ」と捉えるところから始まる。
そうじゃなければ別の用途が思いつかない。
目の前にあるもの、持っていた思考、そういうものを「再加工」するには「思い込み」では狭められる。
結果的に最後に出来上がるものは、抽象さというものをとことん削っていった具体的なものになるが、それは「結果」「結論」だ。
それってしかも「絶対」ではなく「ある一つの現象」だ。

ほとんどの人ってここから発想を広げることができないし、あいまいな状態から一つの現象を導き出し、統計的に結論付けていく、という両方の視点は持っていない。

>抽象化能力は論理思考、数量化思考とイコールだが、米国は偉大な人材を生み、育て、受け容れて存分に活躍できる場を提供することで最大のソフトウェア産業とWebビジネスを築いた。日本は逆に、学校教育で抽象化能力を退化させ、この「異能」者を隔離して実社会での権力を与えなかった。

この部分は非常に鋭い私的なのではないかなと考える。
日本では権力を与えないどころか、「穴埋め式」に特化してしまった。
社会のシステムも人々の思考のあり方も、ほとんど多くの人は「与えられた答えのマスに決められた答えを書く」という「穴埋め式」の行動様式となってしまった。
結果社会を構成する部品は数多く生まれたが、社会を牽引する才能は生まれづらくなっている。

「金槌しか持たない人間には、万事が釘のように見えてくる」

現在の日本人の特質はこの言葉に集約されるのではないのかなと考えたりする。
私たちってなかなか自分がこだわっている発想や気持ちを捨て去ることができないし、何かにとても執着しがちだ。

「現状把握」「現状認識」はとても大事だし、今の行動を決める上では重要な材料になるが、現実を認識する能力だけでは非常に危うい。
だからこそ「抽象化能力」が求められるのだけれど、これって「俺ロケットとかに頼らないで宇宙に移動してみたい」って言ってみるのと一緒。
たいていの日本人って馬鹿にするんじゃないのかな?
今は無理でも自分たちが死んだ後に実現されるかもしれない。
しかもその技術のきっかけになる発想って、この人が作り出してしまうかもしれない。
そういう「現実的な可能性」のことにすら想像が及ばなくなってしまったというのは自分たちで首を絞めあっているのと同じ行為だということに気がつかない。

IT化が進み、ネット環境が整うということは「思考が常に世界から試され挑戦の場に置かれる」ということだ。
ここから乖離するには非常に閉鎖的な独善性に特化するしかない。

>出版社にとってのコンテンツの価値最大化は、つねに読者を開拓することでしか実現しない

これは作者にとっても言えること。
読者に媚び続ける発言や作品作りは論外だが、どうやったら効果的に発信して、かつネットワークを構築できるのか。
その上で出来上がった空間に読者が参加してくる。
これが次世代の「作品作り」になってくるのではないかと考えている。
これは「本」というものが進化するのではなく、基点に戻ろうとする抽象化作業だ。
その上で「時代」というものとどう共存していけるのかを考えなければいけない。

私たちは日本語を扱っている。
そしてその豊かな言語性によって思考や精神を重ねている。
「日本語」という可能性から生まれる様々な未来について、「日本語を通して共有する」という作業がなければ、言語というものは、その可能性を失ってしまう。
そんな危機感を持ちながら、ひとつ動画を見ながら思ったわけです。
「ドルアーガーの塔」や「ゼビウス」というゲームを作った遠藤雅伸さんという人が話していたことですが、

「(昔ファミコンやってた人が再度やって)面白いなっていうのは本当に面白いのではなく、自分の思い出に対しての価値観が変わってないだけ。ファミコン廃れた世代にも面白いって言われたら本物だけど大抵そんなことはない。ゲームにおける普遍性というのはこれから考えられることだけど、でもどうやらトレードオフ(ハイリスクハイリターンなど、ある一方を犠牲にして対価を得ること)は重要らしい」

ゲームのことだから本作りとは少し事情が違うけれど、ゲームとは違ってまだ「普遍性」というものは「本」にはある。
特に「文学」とか。
それでもこれからは「本作り」やそのアプローチの方法において「内容」は変化していくであろうことは容易にわかる。
でも私たちって基本的に「文化」というものに望んでいるものって、自分たちの生活をより精神的に高めるための共有感覚なのではないのかな。
個人がたった一人でいい思いして便利になってなんでもできて、それでも孤独が消え去ることがないという違和感を持ち始めているわけでしょ?
そういう「孤独になるかもしれない」「何か寂しい」という予感に強烈な不安感を感じているわけだ。
それって我々が精神的な価値感覚による「文化」というものを失いつつあるからじゃないのかな。

他者を受け入れるということは常に変化にさらされる。
そんな人とのつながりの中で自分がいい方に変えられる快感っていうのは、なかなか感じることができなくなってきているのは、私たちが思考・精神ともども「孤立化」してきているからじゃないんだろうか。
守り続けなければいけないものもある。
しかし変化し続けなければいけないものもある。
その両者のバランスを失い、基点をなくしつつあるのが今の状態なのかもしれないと思ったりする。

私は文章を書いているから、たいそうなことは考えられないが、まずは本というものを考えるなら、「中身を伝える」パッケージの重要性もあるけど、本の中身の面白みっていうのは構成の技巧とかストーリーの面白さとかに目がいきがちだけど本当は読んだ後に「なんか今までの自分とは違う」っていう変化と感じた人間味。それを「他人と共有できるかもしれないっていう期待感」にあるんじゃないのかな、と考えている。

私たちは本をなどを通じて互いの考え方の違いを楽しむ豊かな「教養」を育てることに非常に無頓着である。
もっと自分が心地よく破壊されることの快楽というものを考えていってもいいと、望んでいる。

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06/14

Mon

2010

※プリミティブ (primitive)とは、「原始的」「素朴な」「幼稚な」という意味。

cobaというアコーディオン奏者がいる。
この人の名前は知らなくても、CMなどで音楽が多用されているのでテレビを見ている人なら一度はどこかで聞いていることと思う。
アコーディオンそのものは1822年ベルリンのフリードリッヒ・ブッシュマンに開発されたというのだから、まだ楽器としては200年もたっていないということになる。
cobaはアコーディオンの魅力を「胸に直接響く」「恋人を抱くように」と表現している。
当時マイナーだったアコーディオンの知名度を上げるために、二者択一の周囲の押し付けの人生にも反発しイタリアに渡ったがすべてが衝撃的だったという。
日本でもイタリア人のイメージと言えば自由奔放な感じがするが、イタリアの文化自体が良くも悪くも「プリミティブ」であるとcobaは表現している。
つまり欲望に忠実に、人生は一度きりだから楽しもう、やりたいことをやろう。
それだけだといさかいが起きるはずなのに、どうしてなのだろうと観察してみると他者をリスペクト(尊敬)しているという。
だからうまく社会が循環している。
ただ、欲望に従っている分、それなりの悪い意味でのハプニングもイタリアではたくさん起きるから、全員を善人だと思っていたら痛い目にあうわけだけど。

cobaの音楽を聴いていると、アコーディオンという楽器だからというわけでもなく、非常に自然で人間的な哀愁が感じられることがある。
それは彼がイタリアで見てきたものと、日本人としての感覚が混ざり合い、うまく人間の喜怒哀楽を表現した音楽性に現れているのだと思っている。
イタリアにはまだいったことがないが、よく経済的にも比較されることがある。
例えばGDPははるかに日本よりも悪いのに自殺率が低いのはなぜか、など。
こういう視点にも日本人の悪さが露骨に出ているから嫌悪感を覚えるが、芸術関係に携わると、今の現代日本人の生活観の中に芸術を楽しもうという開かれた気持ちが非常に小さいということがわかる。
その理由は諸説紛々だし話せば長くなるので割愛するが、一言でいうならば芸術を楽しむにも精神的な余裕が必要であり、その精神的な余裕を現代日本人は持ち合わせづらい、ということだ。
これは実際に携わると肌身でわかる。やる側としては「いいわけ」に過ぎないので、そんな人にも届くようなものを作っていくのがプロ根性なわけだけれど。
ただ、表現者として言わせていただくならば人間として精神的に自立するということは他者を認めるというところにあるのではないだろうか。
その付き合い方はまた個々人別々としても。

こうしたインターネット空間でも様々な人たちと交流し、互いに持っていたプランが現実化することはよくある話になってきて、非常に便利だが不愉快に思うことも多々ある。
特にこのような場所においては言葉の価値はほとんど低く、言葉そのものに価値を持たせるには背景に多大な努力を必要とするが、人はおかしなもので「よくお前が言える」というようなことを言っても、その人間にそれらしい環境があれば周囲は信じてしまうという不思議な作用がある。
しかしそういうものはそれこそ「プリミティブ」なものであって、その人間が創りだした一種の事実ではあるのだから、責めたり恨んだりする前によく観察してみると面白いことが多々見つかる。
ひとつは他人を通して自分自身の醜さをはっきりと垣間見ているということと、その「プリミティブ」さ、愚かさこそ人間活動の本質なのではないかということだ。
自分すらも結局は「プリミティブ」なものの上に「大人を装って」いるにすぎないのだから、互いの「プリミティブ」さが完全に合致するということはまずない。
だからこそ喜怒哀楽があるのだとも感じる。
現代日本ではサービスが細分化されてきていて、自分と直接的にマッチングする商品と出会える。
だから逆に自分の趣味や好みのフィールドを極限化できるというメリットもあるが、それゆえに逆にデメリットにもなる。
安定し、反復した日常を送る中で、いつの間にか自らが他者を拒絶するような環境を作り出している。

かつて白洲次郎という人間が「日本人にはプリンシプルがない」と言った。
プリンシプルとは「原理、原則、根本、主義、信条」などと訳されるが日本語訳が難しいと言われる。
私なりに解釈をすれば「自己を確立するための骨格がない」というところだろうか。
確かに「プリミティブ」なものであふれ、それを大事にできる個々人の環境は非常に整えられてきているが、はたしてそれを認め合うだけの「自己」が我々にはしっかり備わっているのだろうかと、私自身も日々自問自答する日々だ。
自分の「プリミティブ」さが肥大化する環境は他者が懸命に作り上げている現代社会のサービスにおいて、「己」のみを追求するというのは滑稽ではないか。
そこを現代日本人は大きく勘違いをしていると考えるのだ。

しかしこのことを言葉で言えば角が立つ。
なぜ過不足なく暮らしているのに、余計に疲れるような精神作業をしなくてはいけないのか、と反発を買う。
そんな「プリミティブ」な感情にこそ、「プリミティブな楽器」とアコーディオンを言った奏者cobaの音楽やお近くの美術館などに足を運んで、ちょっとした美術芸術に触れてみることをお勧めしたいわけだ。




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06/13

Sun

2010

小惑星探査機「はやぶさ」 13日深夜帰還

<完結編>探査機はやぶさにおける、日本技術者の変態力
※コメントが邪魔な方は右下の吹き出しアイコンをクリック。


とりあえず、動画でおさらい。
あとで記事書きます。
日本はちゃんと科学技術にお金かければ、まだまだすごいものがあるんだぞ、と。

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06/12

Sat

2010

バーチャル空間でのスタンドアローン

※とあるゲームをずっとやってきての感想。

※スタンドアローン (stand-alone) とは、他の機器に依存せず独立で動作する環境の事。直訳では「孤立」を意味する。

いくつか、気がついたことがある。
バーチャル空間とは、現実空間とは感覚がまったく違うということ。
そして現実を背景にバーチャル空間でスタンスを保っていたはずが、いつの間にかバーチャル空間の中で現実感覚が切り離され、独立して存在し、中で新たに生成されたものが、現実空間へ逆輸入されるように、現実感覚へと摩り替わっていくこと。
距離を置いてみて、ようやくわかったことがある。

バーチャル空間は、現実感覚から切り離された一種異常な空間であるということ。
中で生成された価値観が、勢力を持ち、さも当然のごとく振舞われるということ。
そしてこの中の出来事は最後まで「スタンドアローン」でしかないということ。

今回はバーチャル空間と現実との話しをしようと思う。
下記の話は、私の考え方こそ「古臭い」考え方になっていくことは間違いないであろう。
しかし、この先どこかで気がつき、再燃してくるであろう問題であるとも思っている。
それは私が老人になるか、もしかしたら死んだ後かもしれない。

新聞記事に、最近若い世代の間で「シェアハウス」なるものが流行っているという。
アメリカなどでは別にルームシェア型のスタイルは珍しくはないだろうが、新聞記事にはこの手のシェアハウスが流行りだしてきているのは、人と距離をおきたい、しかし孤立はしたくない精神的なニーズがあっているため流行りだしてきているのではないか、との文面があった。

例えば、我々が組織に属している場合、その組織を率いる人間にはそれ相応の責任が伴う。
個人の利益を図っては罰せられるし、部下を持っていれば組織を不注意に不利益にさらすと、部下の生活や人生そのものがかかってくるため、責任を感じる。
そして組織に属する構成員も組織に無闇に不利益をこうむらせることは当然法で罰せられるし、会社に対して損害を与えるであろう行為を立て続けに行えば会社そのものが危うくなるために会社から解雇を言い渡されるであろう。その解雇は直接自分の生活に降りかかるために当然責任を感じて自分の不利益にならないように動くであろう。
これが当然の責任感であり社会性だ。
そして健全な社会性とは現実空間の中で常に練磨されるゆえに、一方通行ではなく相互対話、相互感覚の交換を常に試みている。
だから常に練磨されるし、練磨されるゆえに生産性も出てくる。
じゃなければ独善的な世界でしか成り立ちえない。これこそ「スタンドアローン」だ。

言葉で書くと当たり前に見えるようなものでも、バーチャル空間ではこの「社会性」がないし、現実の生活あってこそバーチャル空間があるのだから、当然優先順位は「自分の人生」になる。「自分の人生=現実」を優先してこそのバーチャル空間だ。
この力点がバーチャル空間になってしまえば「自分の人生=バーチャル空間」のような錯覚を受けるが、バーチャルはあくまでバーチャル(仮想、虚像)であり、現実空間が崩壊してしまってはバーチャル空間はありえない。
この理屈がわからない人はすでに危ない。
そしてこの理屈がわからない人は「現実空間で経験している五感情報が足りない」か精神的なバランスを欠いている。

しかし、先にも書いたようにシェアハウスが流行る背景を探り、今の若者、例えば東京のような超人口密集地帯で育ち、自然がなく人工物に囲まれ、ほぼそれが人生のすべてを構成していたり、あれほど人々が密集していても孤独感すら感じ、個別の一人一人が「他人同士」でしかないとしたら、社会で働くことは多大なストレスがあり、人との摩擦に疲れる背景もあったとしたら、最後の保険として自分の都合の良い距離感で人と繋がっていようとするのは当然の感情のようにも思える。
過度に密集した人口地帯に成り立った都会こそ、現代社会での「虚飾」そのものなのだから。

味覚の世界でさえ異常さに疑問を抱かない。
つまり、野菜の味や素材の味が均一化されていたり、チェーン店において地域が違っても店名が同じなら同じ名前のメニューを頼めば同じ味の食べ物が出てくるということだ。
庶民の味は均一の味を再現して大量生産をし、コストを下げている。
これは天候の力があったとしても非常に人工的な作業によって操作されて作られる。
化学調味料なども多用されお惣菜、食卓に至るまで多用されている。
しかし、より自然のものに近づけば近づくほど、目の飛び出るような値段を出して食べるか、現地生産したものを直接生産者などから取り寄せないといけない。
このように皮肉な事実さえも現実世界にあるほどだ。

話を元に戻すと、このバーチャル空間には「社会性」が存在しない、と言った。
いつまでもそこにしがみつく必要がないし、ある意味「リセット」ができるからだ。
目の前にリアルタイムで変わる人間の表情や細かな動きがあるわけでもない。声のトーンさえも知らない。
社会性のあるものは絶対にリセットできないし、理不尽なものが続いたとしても向き合い続けなければいけない。
そしてこのバーチャル空間での個別の一人一人は「孤独」を背景にしている人が多い。
私が接してきてその人たちの人生の背景を探るに、「孤独」が強く感じられることが多かった。
このバーチャル空間での個別の一人一人は「スタンドアローン」であって、「社会性」がない代わりに「感情的な利益」で結びつき、そして「感情的利益」ゆえに、ついたり離れたりを繰り返しているのだと感じた。
「感情的利益」とは「個人各々の感情的共通項」によって増幅を見せる「享楽感情」のことを言う。
「感情的な利益」が合致し組織ができて、あたかも「共有」している感覚があるが、我々は五感情報を交換しない限りは「個別の一人一人」にしか過ぎない。
思いも寄らない、しかしどこかで期待していた反応が得られるという刺激によって自分の中の「孤独感」を埋められるし、その孤独はもしかしたら現実世界での「敗北感」「羞恥心」「悔恨」「悲痛」が混じっているかもしれない。
「社会性」がない「組織」は、ただの「我々は一緒なのだ」という錯覚を作っているに過ぎない。
つまり現実世界のように「生産性」がないし、馴れ合いでしかない。
だからどこまでいっても「バーチャル」でしかない。
ゆえに「錯覚」や「虚飾」がどこまでもまかり通るし、集団においてどれだけおかしなことをされていても感情的に秩序が保たれていれば一応の正義は保たれる。逆にその秩序を乱すものこそ悪となる。それさえも「閉鎖的」ゆえに成り立っていることなのだと気がつかない。
もっと言えば嘘をついていても別に干渉しあわなければそれで済む話だし、美談を展開して面体を保っていればその通りに見えてくるし、現実世界で交わりあえなくても好きだということをほのめかし節度を守り続ければそれなりに好意的に見えてくる。

「ゲームだから楽しめればいい」
「辛かったらやめればいい」
「ゲームでそこまで考えることない」

上記のような言葉が出るのは当然ここは「虚像」や「システム」の一種なのだからということがわかりきっているからではないのか。
本当に社会性があり、現実性があり、その上での責任があるというのなら、もっと多くのものが生み出されているし、一年でもがんばれば多くの人を巻き込んで、その人たちの人生を変えていける。
だが、ここではできない。
それが、バーチャルでの限界だし、あくまで「虚像」なのだ。
当然そうなると「楽しんだもの勝ち」の理屈が正しくなるのは当然のことだ。独善的でも楽しめればいい。極端になればそれで成り立てば、それでいいのだ。
バーチャル空間に重きを置いて、ここで心の癒しができるから、よい思い出がたくさんできるから、現実でがんばれるのだということを力説する人もいたが、逆に私は先ほどの話を戻して、それでは現実が壊れたらそれでもゲームができるのかと問いたい。
常に基点としているのはバーチャル空間ではなくて、現実空間だということを忘れてはいけないし、錯覚してもいけない。
バーチャルはその名の通り「錯覚」「仮想」させる場所であることを忘れてはいけない。
つまりバーチャルとは「現実と類似した感情的想起」を促すことによって「脳情報に現実と同じ刺激を与える」場所なのだ。
それは現実ではない。なぜなら匂いも肌の感覚もない世界だから。
だから私は「五感情報が不足している」空間だと言う。
都市社会における閉鎖的情報操作や環境でさえ「虚飾」に満ち溢れ、ほぼ信用できるものは少なくなってきている社会が現実である今、広く感覚を得ている人ではない限り、このことを理解させるのは難しい。
わからない人には、ただ「日本から一度出て暮らしてみなさい」もしくは「田舎で暮らしてみなさい」としか言いようがない。

すべての人間がというわけではないが、このバーチャル空間にのめりこみ、長く過ごしている人の中では社会性の欠如が徐々に見られていく人もいた。特殊な例ではあったが、己の精神世界、感情想起のスパイラルに陥っていき、ついには大きな精神的な壁を構築していった。どのような人生の背景を持っていらっしゃるかは伺ったことがないので量りかねるところがあるが、推測するに徐々に身体が持っている五感情報よりもバーチャル空間で培われた精神活動のほうが大きくなっていったものと現時点では仮定している。
といっても、精神はより経験の多い身体情報を頼りに「外部情報を決定」していくものだから、その人の人生においては「どのような過去を過ごしてきたか」が文字通り「人生のすべて」であり「個人の価値基準」であるため、例えここで私が危ういですよ、間違いを犯すかもしれませんよ、と言っても通じないだろう。

そして未来はより人工的なものに五感がすべて浸されていくために、私の考えは「古臭い」ものに成り下がり、いずれ「人工物で囲まれて出来上がった価値観」こそ、「社会性を内包した常識感覚」になっていくであろう。
小さな仮想空間が見事にそのモデルを形成していったと思っている。私はそれをつぶさに見た。
だがそんな仮想や虚像に近い現実世界があったとしても、そこで成り立った個別の一人一人は、五感情報を交換し、共有する訓練ができていないために、よりコミュニケーション不全となり、新しいコミュニケーション方法の中で「スタンドアローン」となる可能性は否定できない。孤立から来る孤独を埋めるために、薄っぺらい人間関係の中で成り立つ瞬間を楽しんでいる。常に繋がりやすく切れやすいという諸刃の剣のような人間関係だということを理解しつつ。
「記憶」はどうやっても「脳内の一情報」になるために、バーチャルであろうと現実であろうと脳の刺激においては類似したものが流れる。ゆえにバーチャル空間は脳さえも錯覚するように作られている。
このような錯覚を起こさせる空間では「感情的利益」で結びついているため、真実や正義よりも、集団としての感情的秩序を保ったほうが利益が出るのは当たり前の世界になる。よって、個々人は「秩序」のために感情も本音も隠す。
今の日本社会はそれとそっくりだ。
その代わりに目に見える虚飾で装飾されていくが、それにすらも限界を感じる時が来るかもしれないと考えている。

その「感覚の欠乏感」を感じて初めて私たちは他者に対して壁を取り払い、プライベートへと進入し、五感情報を交換すべく、「好奇心」を持ち始めるのではないだろうか、と考えている。
好きになれば声を聞きたくなるとか、声を聞いて耳に振動が伝わってくると肌の感覚が欲しくなり会いたくなったりとか、会ってさらに気があったらもっと恋愛したくなるとか。
真実をより見せないほうが利益があるのならば、踏み込ませないだろうし、嘘の距離感で互いが満足しあうだろう。各々の距離感の取り方は当然各々に一任される。
そして人々の脳情報の中に「虚像」と「現実」が入り乱れるたびに、混乱をきたし、現実との境目は消えていく。
これからの時代は「虚像」と「現実」の感覚のバランスを取るのに、さぞ苦労し、苦悩するであろうことと思う。

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06/11

Fri

2010

ここ2週間ばかり料理に専念していた。
とりあえず今回の目標としては「頭で考えた味を再現できるか」ということと「再現した味を他の人もおいしいと思ってくれるか」という2点において努力した。
いわゆる贅沢週間だったのですが、レシピはほとんど見ず、勘だけで作ったのだけど随分と腕が上がったような気がする。

まずポイントは出汁をとると何にでも活用できるということ。

今回は2種類の出汁が大活躍した。

1.和風出汁(昆布、鰹節、みりん、酒、塩)
2.鶏がら出汁(鳥手羽元、塩、胡椒)

2種類の出汁の塩梅は、甘みが出るくらいでちょうどいい。
入れすぎないように気をつけた。

今回一番手こずったのが、イカとナスのトマトスープだ。
これは2度ほど挑戦して、1度目は塩梅でしくじった。

ホールトマトを使うのだが、まず玉ねぎを細かく切って炒めやすいようにする。
そしてきつね色になるまで炒める。こうすることで玉ねぎの辛味が消えていき、甘さが引き立つ。
具があったらエリンギやマッシュルームを入れてもいいだろう。
キャベツでも違和感はなかった。
玉ねぎの後にナスを炒めてホールトマトを投入。
少し混ぜてから鶏がらスープ入れてローリエを入れる。
ローリエを入れないとイカの臭みが凄くて口の中に残りまくるので、なかなか大変。
最初は味が調わなくて、コンソメを使ってしまった。
こういった調味料に頼らず、味を作るという目標があったのでコンソメを入れて妥協したのが許せなかったという。
コンソメ入れたおかげで、その味に近づけるためにベーコンを入れるという知恵も生まれたわけですが。

今回2度目に成功した秘訣がジャスコのスパゲティーミートソースの元。
裏を見たら、タイム、シナモン、オレガノと書いてあった。偶然家にあったのでこの3つ投入。
バジルも入りましたが、入れたら味が整った。
イカは食べる前に火を通す程度でいいかも。
あまり煮過ぎると、どこにいったかわからないくらい小さくなった。
ちなみに白ワインも入った。赤ワインだとどうなるのだろう。
今度機会があったらまた試してみたい。

スープができてしまうと、今度はスパゲティーやリゾットにも応用できた。
イカとナスのトマトスープを使ったチーズエビリゾット。
これがめちゃうまい。小麦粉入れて混ぜてチーズと炒めたエビを乗せるだけ。

クラムチャウダーもアサリのうまみがよく出ていた。
小麦粉を最初炒めると香ばしさが出てくる。
アサリをワイン蒸しにしたものを貝殻とって煮汁とともに鍋の中に投入。
今回きのこがいっぱい入ったような気がする。
しめじとマッシュルームとエリンギ。
野菜も玉ねぎ、アスパラ、にんじんが入った。
ここでも鶏がらスープ投入。手羽元の肉も入った。
これがまたパセリを絡めたスパゲティーとかぼちゃの白ワイン煮にとてもマッチした。
めちゃうま作品でした。

それと意外に鶏がら出汁とカブがあった。
カブの甘みが自然と出てくる感じ。
もやし炒めにしてもいいし、カブとレタスの炒め物でもいいかもしれない。
ちなみに鶏がら出汁を使ったレタスとピーマンの炒め物卵とじはおいしかった。

あ、和風出汁、今回は大活躍しました。
一度取ると何にでも使える。

レンコンとほうれん草のオムレツ和風キノコあんかけ。
あんかけの中身はまいたけ、しめじ、乾燥しいたけ。
乾燥しいたけは戻した汁も使うこと。
あんかけは最初水で溶いた片栗粉を少しずつ戻しながら様子を見るとうまくいく。

鰹節と昆布を捨てるのがもったいなかったので、今回は炒めたごぼうとあえて、梅干を混ぜました。
炒めるときに和風出汁を使って炒めるのがポイント。

この出汁を取った後の昆布と鰹節はもやしと一緒に炒めてこんにゃくを混ぜてみるのもおいしいかもしれない。

肉は鶏肉がほとんど。
バジルを使った香草焼き。

極めつけは赤ワインビネガーの賞味期限切れのやつが余っていたので、半分近く使って煮詰めて酢を飛ばし、炒めた玉ねぎ、すりおろしたにんじん、そしてすりおろしたりんごの中に鶏がら出汁で薄めて入れて煮る。
塩梅は醤油を使ってやってもいいし、塩胡椒でもよい。
香辛料はシナモン少々、最後にポッカレモン少々投入して酸味を整える。ビネガーでもいいかも。
それをナツメグとタイムをふりかけて小麦粉で表面を覆った鶏肉のソテーにかける。白ワインで表面を濡らす。
甘みのある不思議な味だが苦手じゃない人は新発見をするかも。

そんな感じで色々作ってみました。
料理がおいしく仕上がって、ばあちゃんにも大好評。
いつも食べる量の2倍近く食がすすんでた。
よかった。

またチャンスがあればたくさん作ってみたいが、何せ少量を作るのが大変で、一度作ってしまうと食べる人がいない限り2日3日は同じ料理をうまく使いながらやりくりしないといけないのが辛いところ。
料理のことばかり考えておいしい料理を作れて思わず酒がすすみ、太ってしまった2週間でした。
これからは普通にダイエットのために元に戻そうかと思います。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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