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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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06/12

Sat

2010

バーチャル空間でのスタンドアローン

※とあるゲームをずっとやってきての感想。

※スタンドアローン (stand-alone) とは、他の機器に依存せず独立で動作する環境の事。直訳では「孤立」を意味する。

いくつか、気がついたことがある。
バーチャル空間とは、現実空間とは感覚がまったく違うということ。
そして現実を背景にバーチャル空間でスタンスを保っていたはずが、いつの間にかバーチャル空間の中で現実感覚が切り離され、独立して存在し、中で新たに生成されたものが、現実空間へ逆輸入されるように、現実感覚へと摩り替わっていくこと。
距離を置いてみて、ようやくわかったことがある。

バーチャル空間は、現実感覚から切り離された一種異常な空間であるということ。
中で生成された価値観が、勢力を持ち、さも当然のごとく振舞われるということ。
そしてこの中の出来事は最後まで「スタンドアローン」でしかないということ。

今回はバーチャル空間と現実との話しをしようと思う。
下記の話は、私の考え方こそ「古臭い」考え方になっていくことは間違いないであろう。
しかし、この先どこかで気がつき、再燃してくるであろう問題であるとも思っている。
それは私が老人になるか、もしかしたら死んだ後かもしれない。

新聞記事に、最近若い世代の間で「シェアハウス」なるものが流行っているという。
アメリカなどでは別にルームシェア型のスタイルは珍しくはないだろうが、新聞記事にはこの手のシェアハウスが流行りだしてきているのは、人と距離をおきたい、しかし孤立はしたくない精神的なニーズがあっているため流行りだしてきているのではないか、との文面があった。

例えば、我々が組織に属している場合、その組織を率いる人間にはそれ相応の責任が伴う。
個人の利益を図っては罰せられるし、部下を持っていれば組織を不注意に不利益にさらすと、部下の生活や人生そのものがかかってくるため、責任を感じる。
そして組織に属する構成員も組織に無闇に不利益をこうむらせることは当然法で罰せられるし、会社に対して損害を与えるであろう行為を立て続けに行えば会社そのものが危うくなるために会社から解雇を言い渡されるであろう。その解雇は直接自分の生活に降りかかるために当然責任を感じて自分の不利益にならないように動くであろう。
これが当然の責任感であり社会性だ。
そして健全な社会性とは現実空間の中で常に練磨されるゆえに、一方通行ではなく相互対話、相互感覚の交換を常に試みている。
だから常に練磨されるし、練磨されるゆえに生産性も出てくる。
じゃなければ独善的な世界でしか成り立ちえない。これこそ「スタンドアローン」だ。

言葉で書くと当たり前に見えるようなものでも、バーチャル空間ではこの「社会性」がないし、現実の生活あってこそバーチャル空間があるのだから、当然優先順位は「自分の人生」になる。「自分の人生=現実」を優先してこそのバーチャル空間だ。
この力点がバーチャル空間になってしまえば「自分の人生=バーチャル空間」のような錯覚を受けるが、バーチャルはあくまでバーチャル(仮想、虚像)であり、現実空間が崩壊してしまってはバーチャル空間はありえない。
この理屈がわからない人はすでに危ない。
そしてこの理屈がわからない人は「現実空間で経験している五感情報が足りない」か精神的なバランスを欠いている。

しかし、先にも書いたようにシェアハウスが流行る背景を探り、今の若者、例えば東京のような超人口密集地帯で育ち、自然がなく人工物に囲まれ、ほぼそれが人生のすべてを構成していたり、あれほど人々が密集していても孤独感すら感じ、個別の一人一人が「他人同士」でしかないとしたら、社会で働くことは多大なストレスがあり、人との摩擦に疲れる背景もあったとしたら、最後の保険として自分の都合の良い距離感で人と繋がっていようとするのは当然の感情のようにも思える。
過度に密集した人口地帯に成り立った都会こそ、現代社会での「虚飾」そのものなのだから。

味覚の世界でさえ異常さに疑問を抱かない。
つまり、野菜の味や素材の味が均一化されていたり、チェーン店において地域が違っても店名が同じなら同じ名前のメニューを頼めば同じ味の食べ物が出てくるということだ。
庶民の味は均一の味を再現して大量生産をし、コストを下げている。
これは天候の力があったとしても非常に人工的な作業によって操作されて作られる。
化学調味料なども多用されお惣菜、食卓に至るまで多用されている。
しかし、より自然のものに近づけば近づくほど、目の飛び出るような値段を出して食べるか、現地生産したものを直接生産者などから取り寄せないといけない。
このように皮肉な事実さえも現実世界にあるほどだ。

話を元に戻すと、このバーチャル空間には「社会性」が存在しない、と言った。
いつまでもそこにしがみつく必要がないし、ある意味「リセット」ができるからだ。
目の前にリアルタイムで変わる人間の表情や細かな動きがあるわけでもない。声のトーンさえも知らない。
社会性のあるものは絶対にリセットできないし、理不尽なものが続いたとしても向き合い続けなければいけない。
そしてこのバーチャル空間での個別の一人一人は「孤独」を背景にしている人が多い。
私が接してきてその人たちの人生の背景を探るに、「孤独」が強く感じられることが多かった。
このバーチャル空間での個別の一人一人は「スタンドアローン」であって、「社会性」がない代わりに「感情的な利益」で結びつき、そして「感情的利益」ゆえに、ついたり離れたりを繰り返しているのだと感じた。
「感情的利益」とは「個人各々の感情的共通項」によって増幅を見せる「享楽感情」のことを言う。
「感情的な利益」が合致し組織ができて、あたかも「共有」している感覚があるが、我々は五感情報を交換しない限りは「個別の一人一人」にしか過ぎない。
思いも寄らない、しかしどこかで期待していた反応が得られるという刺激によって自分の中の「孤独感」を埋められるし、その孤独はもしかしたら現実世界での「敗北感」「羞恥心」「悔恨」「悲痛」が混じっているかもしれない。
「社会性」がない「組織」は、ただの「我々は一緒なのだ」という錯覚を作っているに過ぎない。
つまり現実世界のように「生産性」がないし、馴れ合いでしかない。
だからどこまでいっても「バーチャル」でしかない。
ゆえに「錯覚」や「虚飾」がどこまでもまかり通るし、集団においてどれだけおかしなことをされていても感情的に秩序が保たれていれば一応の正義は保たれる。逆にその秩序を乱すものこそ悪となる。それさえも「閉鎖的」ゆえに成り立っていることなのだと気がつかない。
もっと言えば嘘をついていても別に干渉しあわなければそれで済む話だし、美談を展開して面体を保っていればその通りに見えてくるし、現実世界で交わりあえなくても好きだということをほのめかし節度を守り続ければそれなりに好意的に見えてくる。

「ゲームだから楽しめればいい」
「辛かったらやめればいい」
「ゲームでそこまで考えることない」

上記のような言葉が出るのは当然ここは「虚像」や「システム」の一種なのだからということがわかりきっているからではないのか。
本当に社会性があり、現実性があり、その上での責任があるというのなら、もっと多くのものが生み出されているし、一年でもがんばれば多くの人を巻き込んで、その人たちの人生を変えていける。
だが、ここではできない。
それが、バーチャルでの限界だし、あくまで「虚像」なのだ。
当然そうなると「楽しんだもの勝ち」の理屈が正しくなるのは当然のことだ。独善的でも楽しめればいい。極端になればそれで成り立てば、それでいいのだ。
バーチャル空間に重きを置いて、ここで心の癒しができるから、よい思い出がたくさんできるから、現実でがんばれるのだということを力説する人もいたが、逆に私は先ほどの話を戻して、それでは現実が壊れたらそれでもゲームができるのかと問いたい。
常に基点としているのはバーチャル空間ではなくて、現実空間だということを忘れてはいけないし、錯覚してもいけない。
バーチャルはその名の通り「錯覚」「仮想」させる場所であることを忘れてはいけない。
つまりバーチャルとは「現実と類似した感情的想起」を促すことによって「脳情報に現実と同じ刺激を与える」場所なのだ。
それは現実ではない。なぜなら匂いも肌の感覚もない世界だから。
だから私は「五感情報が不足している」空間だと言う。
都市社会における閉鎖的情報操作や環境でさえ「虚飾」に満ち溢れ、ほぼ信用できるものは少なくなってきている社会が現実である今、広く感覚を得ている人ではない限り、このことを理解させるのは難しい。
わからない人には、ただ「日本から一度出て暮らしてみなさい」もしくは「田舎で暮らしてみなさい」としか言いようがない。

すべての人間がというわけではないが、このバーチャル空間にのめりこみ、長く過ごしている人の中では社会性の欠如が徐々に見られていく人もいた。特殊な例ではあったが、己の精神世界、感情想起のスパイラルに陥っていき、ついには大きな精神的な壁を構築していった。どのような人生の背景を持っていらっしゃるかは伺ったことがないので量りかねるところがあるが、推測するに徐々に身体が持っている五感情報よりもバーチャル空間で培われた精神活動のほうが大きくなっていったものと現時点では仮定している。
といっても、精神はより経験の多い身体情報を頼りに「外部情報を決定」していくものだから、その人の人生においては「どのような過去を過ごしてきたか」が文字通り「人生のすべて」であり「個人の価値基準」であるため、例えここで私が危ういですよ、間違いを犯すかもしれませんよ、と言っても通じないだろう。

そして未来はより人工的なものに五感がすべて浸されていくために、私の考えは「古臭い」ものに成り下がり、いずれ「人工物で囲まれて出来上がった価値観」こそ、「社会性を内包した常識感覚」になっていくであろう。
小さな仮想空間が見事にそのモデルを形成していったと思っている。私はそれをつぶさに見た。
だがそんな仮想や虚像に近い現実世界があったとしても、そこで成り立った個別の一人一人は、五感情報を交換し、共有する訓練ができていないために、よりコミュニケーション不全となり、新しいコミュニケーション方法の中で「スタンドアローン」となる可能性は否定できない。孤立から来る孤独を埋めるために、薄っぺらい人間関係の中で成り立つ瞬間を楽しんでいる。常に繋がりやすく切れやすいという諸刃の剣のような人間関係だということを理解しつつ。
「記憶」はどうやっても「脳内の一情報」になるために、バーチャルであろうと現実であろうと脳の刺激においては類似したものが流れる。ゆえにバーチャル空間は脳さえも錯覚するように作られている。
このような錯覚を起こさせる空間では「感情的利益」で結びついているため、真実や正義よりも、集団としての感情的秩序を保ったほうが利益が出るのは当たり前の世界になる。よって、個々人は「秩序」のために感情も本音も隠す。
今の日本社会はそれとそっくりだ。
その代わりに目に見える虚飾で装飾されていくが、それにすらも限界を感じる時が来るかもしれないと考えている。

その「感覚の欠乏感」を感じて初めて私たちは他者に対して壁を取り払い、プライベートへと進入し、五感情報を交換すべく、「好奇心」を持ち始めるのではないだろうか、と考えている。
好きになれば声を聞きたくなるとか、声を聞いて耳に振動が伝わってくると肌の感覚が欲しくなり会いたくなったりとか、会ってさらに気があったらもっと恋愛したくなるとか。
真実をより見せないほうが利益があるのならば、踏み込ませないだろうし、嘘の距離感で互いが満足しあうだろう。各々の距離感の取り方は当然各々に一任される。
そして人々の脳情報の中に「虚像」と「現実」が入り乱れるたびに、混乱をきたし、現実との境目は消えていく。
これからの時代は「虚像」と「現実」の感覚のバランスを取るのに、さぞ苦労し、苦悩するであろうことと思う。

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06/11

Fri

2010

ここ2週間ばかり料理に専念していた。
とりあえず今回の目標としては「頭で考えた味を再現できるか」ということと「再現した味を他の人もおいしいと思ってくれるか」という2点において努力した。
いわゆる贅沢週間だったのですが、レシピはほとんど見ず、勘だけで作ったのだけど随分と腕が上がったような気がする。

まずポイントは出汁をとると何にでも活用できるということ。

今回は2種類の出汁が大活躍した。

1.和風出汁(昆布、鰹節、みりん、酒、塩)
2.鶏がら出汁(鳥手羽元、塩、胡椒)

2種類の出汁の塩梅は、甘みが出るくらいでちょうどいい。
入れすぎないように気をつけた。

今回一番手こずったのが、イカとナスのトマトスープだ。
これは2度ほど挑戦して、1度目は塩梅でしくじった。

ホールトマトを使うのだが、まず玉ねぎを細かく切って炒めやすいようにする。
そしてきつね色になるまで炒める。こうすることで玉ねぎの辛味が消えていき、甘さが引き立つ。
具があったらエリンギやマッシュルームを入れてもいいだろう。
キャベツでも違和感はなかった。
玉ねぎの後にナスを炒めてホールトマトを投入。
少し混ぜてから鶏がらスープ入れてローリエを入れる。
ローリエを入れないとイカの臭みが凄くて口の中に残りまくるので、なかなか大変。
最初は味が調わなくて、コンソメを使ってしまった。
こういった調味料に頼らず、味を作るという目標があったのでコンソメを入れて妥協したのが許せなかったという。
コンソメ入れたおかげで、その味に近づけるためにベーコンを入れるという知恵も生まれたわけですが。

今回2度目に成功した秘訣がジャスコのスパゲティーミートソースの元。
裏を見たら、タイム、シナモン、オレガノと書いてあった。偶然家にあったのでこの3つ投入。
バジルも入りましたが、入れたら味が整った。
イカは食べる前に火を通す程度でいいかも。
あまり煮過ぎると、どこにいったかわからないくらい小さくなった。
ちなみに白ワインも入った。赤ワインだとどうなるのだろう。
今度機会があったらまた試してみたい。

スープができてしまうと、今度はスパゲティーやリゾットにも応用できた。
イカとナスのトマトスープを使ったチーズエビリゾット。
これがめちゃうまい。小麦粉入れて混ぜてチーズと炒めたエビを乗せるだけ。

クラムチャウダーもアサリのうまみがよく出ていた。
小麦粉を最初炒めると香ばしさが出てくる。
アサリをワイン蒸しにしたものを貝殻とって煮汁とともに鍋の中に投入。
今回きのこがいっぱい入ったような気がする。
しめじとマッシュルームとエリンギ。
野菜も玉ねぎ、アスパラ、にんじんが入った。
ここでも鶏がらスープ投入。手羽元の肉も入った。
これがまたパセリを絡めたスパゲティーとかぼちゃの白ワイン煮にとてもマッチした。
めちゃうま作品でした。

それと意外に鶏がら出汁とカブがあった。
カブの甘みが自然と出てくる感じ。
もやし炒めにしてもいいし、カブとレタスの炒め物でもいいかもしれない。
ちなみに鶏がら出汁を使ったレタスとピーマンの炒め物卵とじはおいしかった。

あ、和風出汁、今回は大活躍しました。
一度取ると何にでも使える。

レンコンとほうれん草のオムレツ和風キノコあんかけ。
あんかけの中身はまいたけ、しめじ、乾燥しいたけ。
乾燥しいたけは戻した汁も使うこと。
あんかけは最初水で溶いた片栗粉を少しずつ戻しながら様子を見るとうまくいく。

鰹節と昆布を捨てるのがもったいなかったので、今回は炒めたごぼうとあえて、梅干を混ぜました。
炒めるときに和風出汁を使って炒めるのがポイント。

この出汁を取った後の昆布と鰹節はもやしと一緒に炒めてこんにゃくを混ぜてみるのもおいしいかもしれない。

肉は鶏肉がほとんど。
バジルを使った香草焼き。

極めつけは赤ワインビネガーの賞味期限切れのやつが余っていたので、半分近く使って煮詰めて酢を飛ばし、炒めた玉ねぎ、すりおろしたにんじん、そしてすりおろしたりんごの中に鶏がら出汁で薄めて入れて煮る。
塩梅は醤油を使ってやってもいいし、塩胡椒でもよい。
香辛料はシナモン少々、最後にポッカレモン少々投入して酸味を整える。ビネガーでもいいかも。
それをナツメグとタイムをふりかけて小麦粉で表面を覆った鶏肉のソテーにかける。白ワインで表面を濡らす。
甘みのある不思議な味だが苦手じゃない人は新発見をするかも。

そんな感じで色々作ってみました。
料理がおいしく仕上がって、ばあちゃんにも大好評。
いつも食べる量の2倍近く食がすすんでた。
よかった。

またチャンスがあればたくさん作ってみたいが、何せ少量を作るのが大変で、一度作ってしまうと食べる人がいない限り2日3日は同じ料理をうまく使いながらやりくりしないといけないのが辛いところ。
料理のことばかり考えておいしい料理を作れて思わず酒がすすみ、太ってしまった2週間でした。
これからは普通にダイエットのために元に戻そうかと思います。

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06/07

Mon

2010

ここ2週間のこと ワインと食べ物と孤独と

5月22日土曜日、大通りでワインフェスタのようなものをやっているのを見かけてしまい、思わず罠にはまってしまいました。
お酒飲むつもりがなかったのに、ついつい4杯飲んでしまった。
使うお金も非常に限られているはずだったが、出し惜しみしてもしょうがないと思い決断して飲んだ。
久しぶりにそれなりに贅沢な気分にさせていただきました。ジャズとワインとロウソクの火が素敵でした。

と、北海道ワインは実に日本で33%も生産している日本一の地。
その次が長野の18%ということだ。

十勝とか富良野の赤であればまだ飲めるイメージがあったけれど、どうしても白となると小樽ワインのようなあまったるーいものを想像しがちでした。
安くてデザート感覚でのめるのはよいのだけど、酒量の多い人、つまり私に限ったことなんですけど3杯とか4杯はきつい。
しかも他の酒飲んだあとの締めとして、あまったるい白がくると、必ず大惨事になったという経験が多いものですから先入観があったのですけど、あらまあ不思議。
普通に店頭で並んでいるワインとはちょっと違ったものもあり、飲みやすいものがあった。
それと同時に、ああ北海道ってこんなに広くワインの生産地分布していたのねと実感しました。
その中でも山葡萄の赤ワインがおいしかった。
非常に癖のあるワインだから、誰でもおいしく飲めるというものではないけれど、10年ぐらい置いたワインに近いようなポテンシャルを持っていた。
へー!北海道でもこんなワインが作れるんだね!と再発見。

ちなみにその時のツイート。

2006年産赤。山葡萄は余市と岩手県洋野町。酸化防止剤を1.35ppmに抑えている。年数は浅いが苦味と酸味と甘味が混じり合い新鮮な野菜をかじるような感覚の中に甘味がある。通常売っている北海道ワインとは桁違い。芳香と苦味の奥行き。感動。いいね。幸せだ。
ワイン

なんて四杯目のワインで当たりを引いた喜びようを隠しえなかったわけです。
パンフレットもらってきたのだけどまとめるのがちょっと大変なので割愛。
「えー、そこ!割愛するなよー!」
って、思った方、今は楽天などのサイトで我慢してくださいませ。

で、これが土曜日の動き。

書きたいこととかがこの数日溜まっていて、感覚が消えそうなものから先に保存しておきます。

実は5月26日、水曜日の話。
実はばあちゃんがパーキンソン病を患っていて、片足がうまく動かせない。
手も少々震えるし、生活には相当支障をきたしている。
今は前の一軒家からうちのすぐ近くに越してきたのだけれど、寝室からトイレまでわずか5mほどしかない距離に歩行機を使用し30分ほどかかるという。

前の一軒家では、近所付き合いが活発で毎日のように隣の家の人がばあちゃんのことを見に来てくれていた。
毎日会話していた。
そこからたまにしか今度は近所の人が来なくなる。
当然うちの人は見に行くけれど24時間つきっきりというわけでもない。
最近は「寂しい」とも言うようになってきた。
何かと寂しがる。ヘルパーさんや介護師の人も来てくれるが赤の他人だ。

北海道の車庫や物置は最初から積雪に耐えられるように設計してあって、冬の間雪が降り積もっても潰れたりはしない。
前は一軒家だったが庭が雪で埋まってきたり車庫の上に雪が積もってくると除雪して欲しいとよく頼まれていた。
「雪に埋もれてしまうような気がしてくる」
という理由だった。
やる必要もないのに、わざわざそうやってやるのはいわゆる「心のケア」だと思ってやっていた。

いつもは母親がばあちゃんのことを見ているが今回ヨーロッパ旅行に出かけた。
2週間の日程でその間ばあちゃんはデイケアサービスの施設に泊まりにいったりばあちゃんの次女が面倒を見たりしてカバーしている。
最初行った日、料理の材料、いない間にダメになってしまう食べ物がないか探してばあちゃんの家の冷蔵庫をあけると、二ヶ月前に賞味期限の切れた生卵、一ヶ月以上前に切れたもずく酢、プリン、3ヶ月ほどたっている保冷室にあった豚肉などがあった。あと少々芽の出だした野菜。
それで生卵は特ににおいがしなくて焼いて食べてみた。
特に味にへんな所はないが、卵も白身もべしゃりとしすぎていた。
プリンはカラメルがやや白くなりかけていたが、こちらも特に変な味もにおいもしない。
もずく酢はさすがに味がぼやけていて劣化しかかっていた。
そういうものを食べていると、少しだけ気分が悪くなったのだけど妙な気分になってきた。

新鮮なものを体に摂取できるというのは、とても幸せなことなのだ。
ということだ。
それと同時に、新鮮ではないものを体に入れると心がフッと霞がかったのがわかった。
つまり、食べ物は体はもちろんのこと心にも影響していく。
新鮮なものを当然のように買えて調理して体に摂取できるという幸せのことを考えると同時に、ばあちゃんの気持ちもなんとなくわかって、精神がトリップしてしまった。

ばあちゃんはパーキンソン病で体がうまく動かせない。
今はデイケア、ヘルパーさんなどが来てくれているし、私の母親もばあちゃんのことを見ている。
しかし、もしその人たちがいなかったらばあちゃんはマンションの一室で孤立することになる。
料理はできない。当然、新鮮な野菜やお肉や果物なども買いにいけない。
そうなった時の不安と孤独を考えると、もう世界の中でたった一人ぼっちになってしまったかのような感情になってくる。
しかも助けてくれる人がいなければ、少々痛んでいようと冷蔵庫の中のものを食べるしかない。
70まで水泳のコーチをしていたほど元気で、70代でメニエール病を発祥し、水泳ができなくなってしまった。
そこからパーキンソン病。
以前の自分と比較しながらこんなはずではないと何度も思いながらも体がうまく動かせないジレンマと、もしひとりぼっちになってしまったらという孤独と不安を抱えて生きている。
うちのばあちゃんは、みんなで見ているけれど、じゃあ誰も見てくれない人はどうなのだろう。
孤独で不安で、痛んだものでも食べなければいけなくて、世界の中で自分しかいないかのような、誰も助けてくれないかのような無力感とともに生きているのではないだろうか。
その上で痛んだ食べ物を食べてでも生きる。
痛んだ食べ物を食べた時の心の濁ったような感触。
たとえば、これが子供だったとしたら。
新鮮な食べ物で作った料理ではなく、たとえば愛情のない料理だったとしたら、やはり心が濁ってしまうのではないだろうか。
おいしいものは確かにおいしいけれど、人の感情の成長には、きちんと人のぬくもりが直に感じられる様々なものが必要で、それらを感じながら新鮮な気持ちになっていくのではないかと深々と感じたのだ。

そのようなことを考えながら、トリップした孤独と不安な世界の雰囲気から自分を抜くのに一日中かかってしまった。
人と付き合うのは難しいかもしれないけれど、人がいないことにも人は耐えられない。
新鮮なものを口にできたり、人がいるっていうこと、きちんとぬくもりを感じられることの幸せを考えた瞬間だった。

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05/31

Mon

2010

人は執着することによって心の色を変えていくという面が強い。
「執着」と一言でいっても例えば「恋愛」から「悔恨」まである。

したことのある人はわかると思うけれど、恋愛をすると相手のことばかり考えて相手のことを悪く言う意見なんて聞きたくないだろうし、後悔していたら「そんなの気にするなよ」って言われても気になるし、他人を恨んでいたら「あの人実はいい人だよ」なんて言われても逆に頭にくるだけだろう。

そんな風に人間は知らず知らずのうちに「執着」をしていて、「執着」しているうちは「自分が執着心を持っている」なんてことには絶対に気がつかない。
この「執着」というものは良い面にも悪い面にもよく現れてくる。

「良い面」というのは、
目標設定や健全なセルフイメージに使うととても効力を発揮する。
たとえば「あれを絶対したい」というイメージを持つと、目標に向かって知らず知らずのうちに行動していくようになる。
また、健全なセルフイメージとは不安や他人の誹謗中傷から自分の心を守るためによく活躍できる。
あの人は、ああしていても、私は絶対にしない。ああしたらあの人と同じだ。などのイメージを持ち続けると何かあったときに精神を落とさずにすむ。

「悪い面」というのは、
負の感情が絡んでくる。
「怒り」「悲しみ」「恨み」「侮蔑」「屈辱」「痛み」などなど体や心に受けた傷を元になんらかの「執着心」を持つ。
これが最も強く、常に気をつけていなければこの「負の執着心」に人生を狂わされる。
それはたいてい「自分の最も良い」と思っていた「イメージ」をひどく傷つけられたときに発生する。
だがしかし、この「負の面の執着心」が発生すると、ひどく心が閉鎖的になり、積み重ねるごとに精神が汚れていく。
精神が汚れていくと、よいものが心の中に流れ込んでこないし、健全な人間は当然そのような負の影響を受けないために避けるようになるため、余計に悪い影響を受けやすくなる環境ができあがる。
つまりは知らず知らずのうちに「執着心」が「入ってくる情報を選び取っていく」ようになる。
しかも、それは「負の情報」だ。
もし経験があるのならおわかりになるだろうが、人を恨んでいたとき知らず知らずのうちに相手の悪い情報を好んで選び取っていなかっただろうか。
よく胸に手を当てて思い出して欲しい。
そのような経験があるのなら、どれだけ「負の執着心」が強力なもので自らの人間性を根底からゆがめてしまうかがよくお分かりになることだろうと思う。

人は実は自ら視野を狭めている。
この「執着心」がある限りは無意識に、その視野を狭めているのだ。
そしてその「狭まった視野」で見ているものこそ、「思い込み」に過ぎないことを内省し気づくものは非常に少ない。

もしこれをお読みのあなたが「負の感情」にハッと捉われたとき、「人生が狂わされ不幸になるかもしれない局面に立たされている」と思って欲しい。
自分の精神が落ちて、落ちたところが基準になってしまえば、どこまでも人は落ちれるものなのだから。

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05/19

Wed

2010

ボーイズラブとか同人とか

ちょっと物凄い面白い会話をしたので、そのことを書こうかと。

話の始まりは雑談の中で私が、
「今ね、現役中学2年生の女の子と時々話すことがあるんだけど、自分で同人っぽいエッチな話を書いたりするんだって。それで、エロ本とか読んだことあるの?って聞いたらそうでもなく、エッチそのものの経験もない。自分ですることすらも気持ち悪いとか言う。それなのにどうやって書くの?って聞いたら、妄想しまくって書いてますって言う。ノートに書いているみたいで、共通の趣味を持った友達にも見せているらしい」
そうしたら話し相手の女性が食いついてきた。
「あー!うちらの世代はキャプテン翼だったわー。次が聖闘士星矢(セイントセイヤ)ね」
「あー、なるほど。絵的にね。なんか美少年系のを絡ませたくなると」

ちょうど彼女らの頃はジャニーズが盛り上がってきた時代で、彼女たちのちょっとしたBL(ボーイズラブ)的な楽しみを増したのが「光GENJI」の存在だったという。
今でこそ公然の秘密として扱われているジャニーさんの特殊な性癖による所属タレントとの関係性がうわさされ、それが彼女たちの間でも流行り始める。
妄想で描いていることが実際に行われているらしいという現実感がより彼女たちのBL系漫画の妄想の手助けとなったことは言うまでもないことだった。

不思議な話、どこで知ったというわけでもなく、なんとなく妄想で書いちゃうのが凄いところ。
当然セックスの快感とか、自慰すらもしないような女の子が「こうしたら気持ちがいいらしい」という妄想だけでお話を練り上げていく。
ある意味人間の創造性の力ってやつを見せ付けられる。
今のBLとか妄想系小説を書く女性たち、たとえばジャニーズ関連でも「妄想力」をいかんなく発揮している。
「こうなったらいいなぁ」「こうなって欲しいな」「こうされたいな」「こうしたいな」
なんて妄想がどんどん膨らんで勝手にお話を作り上げてしまう。
それは実際にしているからとか、肉体的に知っているってことでは全然なく、妄想につぐ妄想の積み重ねによって勝手に出来上がってくるパラレルワールドなのだ。
だからむしろその女の子たちにおけるBL、セックス系などの妄想作品群は男性のように性的な欲求を発散させるというよりも、性的な好奇心などからくる「ハラハラドキドキ感」ってやつを純粋に楽しむためにあるようなものなのだろう。

でも本当に不思議なのは特に性の知識を直接的に吸収していかなくても、なんとなく妄想だけでエッチなお話などが出来上がってしまうというところだ。
かく言う自分も確かに漫画などを読みながら綺麗な女の子とこうできたらいいなとか、たとえば最初は抱きしめられないな、キスされたいな、などなど、自分が「したい」「されたい」妄想がどんどん膨らんでいった時期があった…で、今でこそ「妄想力」をいかんなく発揮しているわけですがね。

素直なところ男性からだと「エッチな話読んでたらエッチなことしたくならない?」って単純に考え付くけれど女性の場合って「エッチな妄想」と「体の反応」っていうのは一致してないことが多い。
あくまで「妄想として楽しむ」というのが一番のポイントなのだろう。

人間って本当に理屈で筋の通ったことをしていくわけではない。
今書いたようにエロ本なんてなくても勝手に妄想だけで作り上げてしまうのだから。
例えば規制したって中学生でさえ妄想して作り上げてしまうのだから規制しても水面下にもぐるだけのように思える。
そりゃあ、極度にダメなものはダメと言わなければいけないけれどね。

妄想は妄想で勝手に暴走する。だからといって女の子たちは「現実でやりたい」とは思ってはいない。
当然当人たちだってそれが現実だと思ってないし、本当に「こうなったらいいな」っていう願望の積み重ねによってできたものだ。
当然それがあったからといって現実で起こる可能性が極端に少ないのは、最初から「現実でしたい人間」と「妄想だけで楽しむ人間」の両方いるからだろう。
それらが同じ土俵の上で同一視されていることに問題の争点があるのではないかと思う。
それでは当然、喧々囂々としたまま解決が見られないのは当然のことである。
どちらもコレクターにはなるが、質はまったく違う。
しかし傍目から見分ける手段などは存在しない。そこが問題を混同させて生理的な嫌悪感を増加させていく要因になっているのだろうと思う。
これは男性における「エロ本」とはまったく違うものなのだなと思いました。
今でこそ産業として発展しているけれど、まったくなくなったとしても完全に消滅することはまずありえないでしょうね。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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