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あさかぜさんは見た

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03/28

Sun

2010

中国の技術力・日本の若者よ政治と勉学に関心を

中国の自動車メーカー、比亜迪汽車(BYDオート)が、金型大手オギハラ(群馬県太田市)の工場を買収することが27日明らかになった。

いわば完全な「技術流出」。
こういうことが次々と現実化していくと今度は技術力の低くなった我々が中国などの技術力の高い国の企業の元で安く働かされることになる。
たぶん10年以内には中国と日本の立場が逆転するのでは?
金属のフレームで作って「わが国もロボット開発に成功しました!」と写真つきで「ASIMO」と比べてみたら、中国のは配線がついていてすぐ後ろでリモコン操作していて笑ったという状況も逆転する可能性すら出てくる。
逆に日本人が笑われるばんだ。

中国は大学でもベンチャー企業を支援するシステムが充実しているらしい。
一方日本では支援を求めるにも「いつ結果が出るのか」「利益はどれほどでるのか」という質問が飛び交い、なかなか研究資金が集まらないという実態があることをテレビでやっていた。
「研究」なんだから、はっきり言えないに決まってるのにね。
研究さえも中国に比べて資金の提供が渋いのであれば、「技術大国」を名乗れるのもあと数年であろう。

また日本で起業するにも大変労力を必要とし、社会風潮として失敗しやすいことをあるブログであげていたのでご紹介。

どんだけマッチョじゃないと起業できないんだ、日本は
- My Life in MIT Sloan

不謹慎ながら笑ってしまったのは、見事に日本人の社会風潮を凝縮した内容になっていると感じたからだ。
内容をかいつまんで言うと
「発言小町というサイトにダミー投稿で、大学生で就職活動していたけど会社に入って働くのが馬鹿らしいと思い、この近所には老人も多いので自分で弁当屋を作って働こうかと思う。自分は作れないが料理のうまい犬の散歩仲間がいるのでその人に手伝ってもらおうかと思う」
という内容だが、全体的に「新しいアイディアを出す若者を明らかに応援しない」意見が目立っていた、ということだ。

ブログから抜粋させていただくが、

「たかが企業にも就職できない人が、起業して成功する訳がない」
「本当にそんな覚悟はあるのか?」
「起業するのはいい考えだと思うけど、すごく大変だよ?」
「逃げてる気持ちでは、起業は成功しません」

この手の意見が主を占め、「やればいいじゃないですか!自分のアイディアと若さをどんどん生かすべきです!失敗しても成功しても本にしちゃいましょう」なんて前向きな意見がまったくないというのが「保守的で頭の固い日本人らしい考え方」だなと思った。
こんなことではどんなことをやっても失敗することのほうが多くなるに決まっている。

私もアメリカに2ヶ月ほどだけだがいたことがあるので、観光とは違い日本の雰囲気とは明らかに違うことを肌で実感してきたし、異文化を持った人々と(アメリカ人じゃない移民が多かったので余計)何を大事にしなければいけないかというのがよくわかった。
それは「つべこべ言う前にやらなければいけない」という向上心だ。
私は英語があまりしゃべれないし、発音もヒアリングも苦手なので似たような人たちばかり集まっていたけれど、とにかく言葉のあまり通じないアメリカでなんとかやっていこう意気込みがあった。

「英語もしゃべれないし、働くなんてとても」というよりも、
「英語をしゃべれるようになって働いてこの国で暮らしていく」
という向上心に満ち溢れていたし、誰もその熱心さを馬鹿にはできない。
自分の国に戻るよりも、アメリカで仕事を探したほうがはるかにいいという事情を抱えているにしろ、互いに励ましあって競うように勉強していたのが印象的だった。
それは「アメリカで仕事をしようかどうかで入国を考える」よりも「入ってしまって覚悟を決めていく」という気持ちがはるかに大きいのではないだろうか。
外から見てあれこれと物を言う人間よりもよっぽど立派だと思う。

「経験者」は「経験」しなければ「経験者」にならない。
経験もさせようとしない風潮で「経験者」「独自のノウハウを持ったプロフェッショナル」は育たないし、育てられないのは当たり前の話なのだ。

新しいものに挑戦することが応援されない風潮というのは、本当に危機的な状況を徐々に招いていく。
失敗するもしないも本人しだいだというのに、「老婆心」が過ぎると思う。
また失敗したとしても、その「失敗のノウハウ」をまとめることによってより「成功」に近づいていく。
その「潜在的な競争力と成功力」も奪う日本人の保守的な考え方は国を滅ぼす元凶にもなりうる。

ブログでも書いてあるとおり、日本に圧倒的に少ないのは、
「新しいアイディアを支援するプロフェッショナルと投資家」
「ベンチャー起業家たちなどが集まって議論・意見交換しあう組織・集会」
「経験のないものに経験を与えることを促進する社会的に前向きな風潮」
だろう。

そして蛇足だが気になっているのが20代の投票率が相変わらず50%を切っているという現実だ。
君たち、政治に関心を持たず投票にも行かないということは「自分が何をされても文句は言えない状況」を作り出してしまうということだよ?
「生活とは関係ない」「政治のことはよくわからない」「現体制に不満だから行かない」などと言って放置しておくと、やがて自分たちがいきなり会社から解雇されても「法律で決まっていて文句が言えない」などの状況が自然と出来上がっていていたりする。
自分の明日のことには関係なくても、数年後の未来には大いに関係してくる。
あなたが投票に行かないことによって「自分たちに不利な法律」を作られても、もう時すでに遅し。
あなたは職を失い、数年間デモと抗議活動に時間を費やし生活費もままならないまま日雇い労働をし、外国人の上司の決定によって明日の運命が決められるという日が来ても、それは「社会のせい」ではない。
「あなたが日本国のことを真剣に考えなかったから」に他ならない。
きちんと日本の将来のことを考えよう。
「投票に行こう!」ってキャンペーンはあるけど「日本の若者の税率を半分以上アップしようと思うので投票しに来ないでください。邪魔なので」なんて天邪鬼なキャンペーンやったら効果的なんじゃないのか。
それぐらいインパクトのあることを言わないと興味を持たないのではないかと思う。

日本の若者たちよ。
きちんと「勉学」というものをしないと、他国に飲まれる。
あなたの上司は日本人でも、その上司を雇っている母体は実は外資系だということも珍しいことではなくなった。
「勉学をする」ということは「物を考える力を養う」ということだ。
機械のように「決められたマスの中に決められた答えを入れることができるようになる」ことではない。
学校の勉強を鵜呑みにするよりも、自分の中で「どうして?」の力を持ち、自分で「どうして?」を「追求していく」力が必要だ。

本当に賢い革命とは「大衆に気がつかれずに体制を固めてしまう」ことにある。
くれぐれも「騙され続ける馬鹿な大衆」に成り下がらないように、我々自身が自覚を持たなければいけない。

若者よ、大志を抱け!


追記:
これから自分でサイトを立ち上げ、作家(詩・小説・文化)活動を本格的に展開していこうかと思いますが200万円支援してくれる人いますか?って募集したら出てくるだろうか。
一年後この追記を読んでも「出世払い」はないので、気をつけてね(笑)

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03/24

Wed

2010

変態で何が悪い・問題はそこにはない

別に変態を堂々と主張しろとか変態を認めろとか言うつもりはないけれど、変態であること自体何がいけないのだろうと思う。
マゾっ気がある政治家とか、「仕事」さえきちんとしていれば「趣味」のことなんてそっとしておいてやればいいと思うのに、すべてにおいて「人格」とか「品格」とかを求めるのはあまりに潔癖症なのでは?といつも思っている。

変態は変態で一般人にはほとんど迷惑をかけない。
だって変態同士で集まるしかないし、一般の人に引かれるのわかりきってることでしょ。
まず変態の人間は相手が変態かどうかリサーチするのである。
普通の会話の中から。
相手が普通だからといって無理やりすることはない。
ハリーポッターのラドクリフさんが同性愛の理解を深めるための活動をしだしたけれど彼は「僕はゲイではない。いたってノーマルだけど、そういう人が活動をしているということが大事」と言っていた。
周囲は彼が「ゲイではないのか?」という印象を植え付けたいだけであって、別にその活動をした人間がすべて「同性愛者」ではない。
ただの「イメージの問題」だ。
それもどうしようもなく「先入観」が前面に出た「主観」でしか過ぎない。

たとえば10歳以上20歳未満の人口の刑法犯比率は実際平成15年から減少傾向にある。
しかし凶悪犯罪が増えているというのは「報道される数が増えた」からであって、決して犯罪そのものが増えているわけではない。
「報道のされ方」や「コメンテーターの意見」が非常に誘導的で悪辣だから我々は「ああ、増えているんだな」と錯覚を起こす。

これからは児童ポルノ関係、いわば「大人が子供を性的搾取対象とする」犯罪をピックアップしてやるかもしれない。
その報道方法はあたかも「このような犯罪がまかり通る中で彼らを野放しにしてはいけない」とのやり方が強まるだろうが、規制があったからといって検挙数が減少しているわけではない。
つまり「規制そのものには意味がない」。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/56/nfm/n_56_2_1_2_2_3.html
(犯罪白書)

少年よりももっと問題視しないといけないのが「高齢者による犯罪」だ。
おそらくこれから「窃盗」の類の犯罪がもっと多くなっていくと推測される。
カード会社に勤めている友達が「最近高齢者のカード入会数が物凄く増えている」「年金が15日に支給され、うちの引き落としは10日なので払えずにカードを停止せざるを得ない高齢者が増えているけれど、カードを止められたらどうやって生活していけばいいのかと泣きつかれるケースが結構ある。でも規約だからどうしようもない」と話してくれた。

これも、「規制」ですかね?
もしそうなったら「いいかげんにしろ」と言いたい。
でも増加傾向で社会的に問題にもなるのなら圧倒的に「高齢者」の方を問題視しなければいけないし、今までのやり方から言えば彼らに対する法律を作ってもっと厳しくすればいい。
さすがに彼らも暴動を起こすかもしれないけれど。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/56/nfm/n_56_2_3_4_1_0.html
(犯罪白書)

推測するに万引きや横領が増えているのは本当に生活に困ってどうしたらいいのかわからない「切羽詰った人たち」が増えたからだろう。
覚せい剤とは違って「生活」が絡むことだけに再犯率も高い。

「仮釈放者と保護観察付執行猶予者のいずれでも,増加傾向が続いていたが,平成20年における保護観察付執行猶予者は,181人であり,前年よりもやや減少した(14.6%減)。
 高齢者の仮釈放率は,最近10年間は,28~38%で推移し,出所受刑者全体の仮釈放率(50~57%)と比べて低い。これは,高齢者においては,引受人等がいない場合など,釈放後の定住先が確保できないことが多いことによると考えられる。」
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/56/nfm/n_56_2_3_4_2_3.html
(犯罪白書)

施設や介護サービスがあったとしても「お金のない高齢者」が増えれば、それらのサービスは無意味になる。
結局「無料で入れる刑務所」のほうがいいだろう。
家族の絆、地域社会のサポート、これらのまったくない追い詰められた高齢者がこれから問題になっていくことは明らかだ。

部外者は表面的なことで納得した気持ちになる。
犯罪数が増えているからといって彼らが突然悪人になってきているというわけではない。
またセンセーショナルに報道されたからといって問題が大きくなってきているわけではない。
なんで他人が持ってきた情報を鵜呑みにしてそれを社会全体で共有しなければいけないのか、もうそろそろ目を覚ますべきだと思う。

社会の問題なんてきちんと実生活で周囲に目を凝らしたり人の気持ちに耳を傾ければ浮き彫りにされてくるはずだ。
ひとりひとりが、自分の目や耳できちんと確かめることをしなければ「大きな力」に騙されたままになる。

「情報操作」は「イメージを植えつける」ことから始まる。
この「イメージを植えつけてくる」人間に我々は最も注意しなければいけない。

なぜならば、その人間はあなたを操ろうとしているから。

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03/19

Fri

2010

表現の自由・言論の自由

「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ - GIGAZINE


東京都の「青少年健全育成条例」を受けて大阪府の橋本知事も「大阪の実態を把握して規制の必要があるかどうか見極めたい」とのことだ。
その上で橋本知事は「表現の萎縮(いしゅく)を招く」として反対しているが、橋下知事は「表現の自由は絶対ではない。失われる利益が著しく大きいなら規制もある。子供を守るのが大人の責務で、表現の自由だけで議論を封鎖するのはおかしな話」との話だ。

我々は自分の利益を守るために都合のいい理屈を持ち出す。
新聞社や雑誌社の掲載内容で裁判が起こされると「言論の自由が」と言い、創作物への規制が入りだすと「表現の自由が」と言う。
当然なんでもやっていいわけではないし、節度は守るべきだ。

子供を性的な対象として下劣な犯罪が起こることは、健全な大人としては望むものではない。
当然国家の未来を育んでいく子供の将来に不穏な影やおぞましい不安を解消するために、「悪」となるものは「零」にしたい。
その気持ちは日本国民としての自覚があるものならば、誰もが考えていることで犯罪を助長したいわけではない。

しかし人は人の思い通りにはならない。
私は政治の話をしたいわけじゃない。人の心の話をしたい。
人の心には縛っても縛りきれない影がある。
当然光もある。
人が欲求というものを持ち、欲望を排除しきれない動物であるならば、規制ではなく隔離して泳がすべきだ。

「創作する」ということの根本的な欲求として「昇華」がある。
これは「言論」においても似たようなものであると思う。

「昇華」とは「社会的に実現不可能な目標・葛藤や満たす事が出来ない欲求から、別のより高度で社会に認められる目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすること。(Wikipediaより)」だ。

今に始まったことではないが新聞社の主張もひどいし、創作現場における性内容も度を越したものがあるのは事実だろう。
あれをまともに受け止めず「昇華」の一種なのではないかと考えると、今までとはちょっと違った見方ができる。
「昇華」する手段を我々が持っているから、与えられているから、ある意味(ひどく悪辣でも)安心していられるのではないだろうか。

しかし「規制」によって「昇華手段をなくした」人間たちは、どこで昇華しだすのだろうと考えるとおそらく実行手段に傾いていくと思う。
だからこそデータでも性表現の規制が厳しくなると犯罪認知件数が増え、性表現を解放すると減っていくのではないだろうか。

私はいつも思う。
そのような性表現の規制の前に、もっとクローズアップしないといけない部分があるのではないか。
それは都市社会が抱えている根本的な欠陥である「個々人の分裂化」にある。

人が多いのに寂しいと感じる。
すれ違っていても他人同士。
大都市が抱える人間の繋がりの希薄さは妙な冷たさを感じる。
東京を歩いていると変な気持ちになる。
「なにしているの?」「どうしてそんな顔しているの?」
心配になって声をかけたくなる人がいる。

「規制」の目的は「人々を健全な状態に戻す」というよりも「政治理念上、おぞましさを感じ人権を踏みにじったような下劣な創作物や、性的搾取・不健全と見られるような行為からは完全に決別しております。我々は一切認めません」という立場を明確化したいだけなのではないだろうか。

この規制は「気持ちの上」では解決される。
が、一方で「気持ちの上」では解決されない人々が生まれる。
「昇華」の手段を失った人々だ。

我々には自由がある。
当然悪辣で下劣極まりないことを言う自由もあるし、犯罪を起こす自由もある。
だがその代わりに社会的なペナルティーがある。
刑事法がある。民法がある。著しく人の気持ちを踏みにじり、実力的で排他的で暴力的な行動をする人間を人々は許容しない。
一部の人間が特権を利用し、あたかも「己と対にあるもの」の意見も気持ちも推し量らず一方的に規律をかして従わせるのは「健全な良識」を持っているとは考えがたい。

悪を認めろということではない。
しかし対にある思想も尊重してこそ、初めて健全だと言えるのではないか。
だから我々は「正しいこと」を実行できる。
我々には選択する権利が与えられているから健全な目を養える。
悪いものは常に排除されていく。
それは人々が苦痛を好まないからに他ならない。
何が苦痛なのか、それを判断するのは一部の人間の思想ではない。
この国に住まうすべての人々だ。
たかが1人の人間が100人の気持ちを背負えるはずがないのと同じように、一方的な主観から規制を行ったところで、人々の中には許容しない人間が多く出るだろう。

我々の本当の自由は「昇華」の中にあるのではないのか。
「昇華ができる環境がある」ということが、やがては尊ぶということになるのではないだろうか。
現実的な暴力行為ならまだしも、創作物や思想にまで「規制」を及ばせた場合、「昇華」はどのようになせばよいのか。
「昇華」は言わばゆくゆくは「浄化」となる。
「浄化」の機会が与えられるから、己の中の悪もなくなり「尊重」する気持ちが始めて生まれる。
衝動すらも発散させる機会を奪っては、人の心の中には腐ったものが育っていく。
だから今回の騒動の発端となった規制派の中にも、ひどく偏った、己の「正義」を信じて疑わない客観性を失った不健全さを育てていってしまったのだと私は思う。

同情はするが、私はあなたたちの意見には反対だ。

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03/16

Tue

2010

実は暴飲暴食で90キロまで増えていた。
酒を泥酔するほど飲んで、餓鬼のように食べ物を詰め込む。
そして吐く。
ストレスが溜まると過食ぎみになる。
過食症と言われるほど症状がひどくはないし、慢性的ではないので徐々にこの体重まで増えてきて「将来糖尿病で死ぬのではないか」と思うほどだった。

しかしとある精神的なショックから今度は食べることに嫌悪感を催すようになり、あまり食べたくなくなった。
物を口にすると不愉快になって気分が落ち込む。
そんなこんなで友達が送ってくれた豆乳おからクッキーを間食しながら、以前の三分の一くらいの量しか口にしなくなったのだが、10日で3キロ落ちている。
単純計算して低く見積もったとしても、この調子だと6キロは1ヶ月で減りそう。

さすがにこれだけの短期間で体重が落ちると、少々めまいがする。
痩せてきたのはよいことだし、このまま筋肉つけずに痩せるのもどうかと思うので、またビリー隊長にお世話になることにした。
無理せず2日に1度のペースでやっているが、どうせ痩せるなら70キロぐらいまで落としたい。
急激に痩せるとよくないみたいだけれど、物をあまり口にしたくないし、食べると気分も悪くなるのでちょうどいいかなと思っている。

こういう水を大量摂取する生活をしていると「塩」の大切さがわかる。
何か足りないなと思ってトマトケチャップを舐めるとちょっと落ち着くし、中華スープなどを作って飲むと「足りない感」がなくなる。
味噌汁なども塩分があるので大事。

現代では塩分や油、糖分などを多量摂取し、食物繊維が足りない食習慣が蔓延しているけれど、改めてそれらの少ない生活をすると、大切さがわかる。

胃も小さくなってきていて、お腹に入る量も少なくなってきているし、一口の量でもよく味わって食べることにしている。
よく噛むことによって甘みもわかるし、食材本来のうまみもわかる。
ちなみにスーパーで売っている野菜の「おいしさの限界」みたいなのもよくわかる。
食卓に上がる料理のほとんどは下手をすれば「調味料で味をごまかしている」のがわかる。
野菜の味が薄いのでしょうがない。
肉類も「どんどん太らせて出荷する」というのがよくわかる油の不自然な乗りよう。
脂分をあまり摂取していないと小さなハンバーグだけでも胸焼けを起こす。
フライパンの中は油を敷かなくてもミンチから出てきた油でハンバーグが埋まりそうな勢いだ。

現代人の舌は化学調味料になれきっていて、本来の薄味で食材本来のうまみを引き出す味付けはなかなか受けないらしい。
好きなものが好きなだけ食べられる食文化だし、おそらく若い世代にはずいぶんと偏食家も育ってきているように思う。
食材の季節感もまったく感じられなくなった。
命を食し、自然に感謝するという気持ちも薄れゆく世界で、今自分は別にダイエットしようと本気で思い立っているにも関わらず、精神上の理由から結果的にはダイエットをしている。

身近にありふれたものが当たり前だと思うような生活をしているし、人間の感覚は身近にありふれたものを「常識」として脳内を固めていく。
慣らされてしまった挙句、本来の感覚を失っていく。

本来食生活は「足りないものを補う」という目的があるゆえに、日本人は野菜を中心にして栄養バランスを考えてきたはず。
足りないから補うのであって、足りているものをなお補うのは少々違う。

贅肉だって本来あまり必要のないものだろうし、ほどよい脂肪分さえあれば、あとは出っ張ったお腹の脂肪なんていらないはずだ。
どれだけ飽食の中で日々の生活や日々の人々に感謝できているかといったら、一日一回しているかどうかも怪しい。

あらためてしみじみ食べ物を食べると、食べることのありがたみがわかる。
ありがたく思うからありがたく摂取できる。
こういうのは勉学だろうと人の成長だろうと同じことだと思う。

小さなころからの癖からよく味あわないで流し込むように食べる癖がついてしまったけれど、時間がなかったり精神的に落ち着いていなかったりするとそうなってしまう。
だからいまだにお腹が苦しいほどいっぱいにならないと「満腹感」というのがよくわからない体になってしまった。

正常な感覚を取り戻すのは都会生活の中では非常に難しい。
かといって、ギスギスした人間関係があればどこであろうと正常な心を持つことは難しいだろう。

小さな変化や小さなありがたみを見失った生活をしていて、改めて感じることがたくさんあった。
基本的に人間は「ほどよく飢えて」いたほうが、健全な感覚でいられるのかもしれないと思った。

さて、私の体重、どこまで減るやら。
高校の時にまで戻れたらいいなと思っている。

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03/12

Fri

2010

Anti-Rothschild Alliance<反ロスチャイルド同盟>
http://anti-rothschild.net/

ここに書いてあることがフィクションだとしても、ひとつだけすっと納得できるのが「お金を握れば人間を操ることは可能」「人間を操れれば国家を操ることも世界を操ることも可能」ということだ。
だって、お金ないと生活できない社会を完全に構築したわけだから。
事実生活に困って働くところがA社しかなくて、A社に逆らったら仕事を失うとなったら従うしか方法がなくなるからね。

でもある意味日本はこの支配からすっと脱却できるのではないかと楽天的に思っている。
なぜなら、日本は元々農耕を中心とした民族で、不思議とお金を絶対的中心にして動いてきた歴史はヨーロッパと比べてそれほど長くはないから。
問題は今の「お金」に執着するこの現代社会の人間たちが、執着心を捨てられるかということにかかっている。
贅沢の味を経験したら、なかなか難しいよね。
他人を蹴落としてでも自分が贅沢したいと思う。

たとえばお金をほぼ独占している組織があるとして、その支配下から脱却できる術があるとしたら、「隣人の幸福のために努力すること」だ。
世界のお金は共通貨幣に向けて動く可能性がある。
そのほうが「もちつもたれつ、寄られ寄りかかり」という体制が組みやすい。
そうなってくると余計に「金を独占している者」が支配者となりうるわけだけれど、「世界の理屈から反する」ことは効果的だと思う。

土に根ざした生活をし、自給自足を目指し、他人の成長のために努力し、微笑みかけられるような豊かな心を持った民族に戻って欲しいと思う。
本来の日本人の気質は、外見上貧しく見えても心の豊かさだけは失っていなかったのが最大の強みではなかっただろうか。
この従来の日本人気質と現代文明がうまく融合しないかということを考えている。

今や日本は天文学的な借金大国。
国家がなくなっても民は消えはしないが、「国民としてのアイデンティティー」を失った人間は、永遠に流民となるしかない。
まあ、他人種に迫害された屈辱の歴史がないだけに、他人種に差別的な目で見られる、あのじっとりとした嫌な感じはわからないだろう。
気概もない、民族としてのプライドもない、誇りもない、個人主義で成金主義という国家をこれから作っていってしまったらもう大変です。
というか、個人の問題なのだけどね。

欲におぼれれば何者かに付け入られる。
それが巧妙に生活とか未来とか権力とかが関わってくると、いつでも誰かに足元をすくわれることはこれから覚悟して生きていかないといけない。
人一人の力なんて限られている。
だからこそ手を取り合っていかないといけない。
利害関係のない関係。
それが案外少ないということに気がついて、気がついたら周りに誰もおらず寂しく死んでいくような無縁社会にしたつけは必ず自分に返ってくる。
現役のころが楽しければ老後のことなんてどうでもいいという人はしょうがないけれど。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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