文章作品にとって一番幸福であるのは「多くの人に読まれる」ということでしょう。
その上で「著作者保護期間」をいかほどにするかというのは、大きな問題になります。
昨日、酔っ払って雪道を歩きながら電話している時にバレンタインのチョコの話をしていました。
その人は自分のためにチョコを買うとのことで「ゴディバみたいな高級チョコかい」と聞くと「いやいや、この時期にしか買えないもっと高いの」と言いました。
ゴディバのチョコといえば、OKサインを作った時にできる指の輪よりも小さなトリュフチョコ一粒が500円以上もします。
それよりももっと高いチョコを買って食べて楽しむというのです。
たとえばお祭りの時、屋台のたこ焼きや焼きそばなどの売り物はどう考えても通常の2,3倍もするような割高であるにもかかわらず、気にせずみんな買っていきます。
自分も買って不思議に思っていたら前を歩いていたカップルも「どうして屋台って高いのに買いたくなるんだろうね」と話していました。
「なんで高くても買いたくなるのか」
チョコのケースは「ブランド力」と「希少価値」が値段を吊り上げています。
「品質の確実に保証されている」「この時期にしか買えない」チョコだからこそ、買うのが楽しみだと思うのです。
屋台のケースは「雰囲気」です。
お祭りの雰囲気、目の前で作っている光景は「あたたかみ」があります。
どうも目の前で作られると味を想像しながらついつい手が出てしまう。
動きのあるものに五感が刺激されます。
一方本屋では…
時代のキーワードをピックアップして即時に本を出して並べる。
ネットで支持されている「保証書」つきの(作家の)本を出して並べる。
最近私は小説や新書など、本を手にすることが少なくなりました。
書店に入っても何か似通ったものを感じてしまう。
また内容が薄っぺらく文字だけを稼いでいる本なのではないか。
そんな不安が大きく、あの縦長の新書本は目次を見ただけで読んだという気分になってしまいます。
「ああ、きっとこういうことが書いてあるのだな」と軽々と内容まで予測できてしまうし、また読んでも期待を上回ることのないことが書いてある。
多くの読者もこの傾向に大変うんざりしているのがネット上のコメントでもよくわかります。
結局これらのことをふまえて、私が一番懸念するのは「作品のデフレ化」です。
ただでさえ出版社が「金になるだけで内容のない本」ばかり出して本への信用がなくなっているというのに、これが起こってしまうと真っ当な作品が書かれなくなる恐れがあります。
つまり、資料集めのコスト、現地取材のコスト、人と接するためにかかる様々なコスト、調べる時間も含め時間を使うことと人との交流はお金がかかる。
著作権保護期間は死後に切れるようにしないと、「待てば手に入るでしょ。お金払う意味あるの?」なんて思わせたら、小説なんてもうおしまいですよ。
誰も金払わなくなる。
そんな中で誰が小説一生懸命書こうとするの?
趣味でひょうひょうとネットに流している人しか書かなくなりますよ。
それにあまりにも書店の動きが画一化されていて、宝を掘り起こしたような一品が書店に並ぶことがない。
「売れる」=「よい作品」ではないことは、もう本を買う人間からしたらわかりきっていること。
その上で本に携わるものが、自ら本の価値をおとしめるようなことはしてはいけない。
私が一番読者に期待したいのは、自分で作品を吟味し、見抜く力を養い、お金を出してこの作家に出費してよかったという満足を得てもらいたい。
また個人書店も各分野に特化した店作りと本の紹介をして欲しい。
本の金額や信頼を下げる方向にいくのではなく「お金を払ったなあ」と思うような金額でもよいと考えています。
たとえ買った作品の文章の質が少々荒くても、「この才能ならば」と期待しながら「投資をする」という価値観も養って欲しい。
最初から潜在的な才能をのびのびと発揮するような人間は本当に一握りです。
こういう職人の世界はだいたいは叩き上げに近いものがある。
誰にも見向きもされないような中、自分の作品にお金を払ってくれる人がいるという気持ちは大きな励みになります。
まあ、ただの希望ですけどね、このことは。
現実問題として大型書店ができ、小さな書店は駆逐されている。
小さな個人経営の書店は大型書店と類似している売り方が少しでもあれば潰されてしまう。
アマゾンなどのネットでの本の売れ筋が書店の売り上げを余計に圧迫している。
自分の手にとってゆっくり本を吟味するという場所は少なくなる可能性が多い。
本当の本を買う喜びというのは、アンティークとして書棚に入っていることで部屋の中の価値ある一部になる、ということではないだろうか。
自分はその本を読んで大変満足しているという証として、本棚の栄えある一部となる。
本を出す側の人間は文化の一端を担っているという意識を忘れてはいけないし、ましてや金にがめつくなったらダメでしょう。
読者の、時代における感覚や価値観は変わっても、読者が求める思いは変わらないのではないかと思う。
従来の方法でうまくいかなくなったのなら、読者の思いを導いてあげるのも本を出す人間の使命でしょう。
そしてこちらの思いも一生懸命伝える。
デジタルの時代がここまで加速しているのにアナログに固執し続けるのも愚かな話ですが、アナログが完全に消滅することはないでしょう。
だからこそ、もっと価値あるものを作って、価値があると伝えていかなければいけないのではないでしょうか。
本当に価値のあるものを、五感を刺激しながらアピールしていく。
デジタルの時代だからこそ、もっと人間の心の奥底に響いていくような情熱を伝えていかなければいけない。
またそういう作品作りをしないといけない。
小説家は職人であっても、芸術家のはしくれだと私は思っている。
だからこそ、読まれる作品ではなく、読ませる作品でなければ話にならないと思っている。
文章作品は「多くの人を読ませる」ことで作品としての真の幸福を得るのではないかと考える。
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