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あさかぜさんは見た

リクエスト何かあれば「comment」に書いてください。「note」「Paboo」で小説作品読めます。

06/22

Sun

2025

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01/30

Sat

2010

文章作品にとって一番幸福であるのは「多くの人に読まれる」ということでしょう。
その上で「著作者保護期間」をいかほどにするかというのは、大きな問題になります。

昨日、酔っ払って雪道を歩きながら電話している時にバレンタインのチョコの話をしていました。
その人は自分のためにチョコを買うとのことで「ゴディバみたいな高級チョコかい」と聞くと「いやいや、この時期にしか買えないもっと高いの」と言いました。
ゴディバのチョコといえば、OKサインを作った時にできる指の輪よりも小さなトリュフチョコ一粒が500円以上もします。
それよりももっと高いチョコを買って食べて楽しむというのです。

たとえばお祭りの時、屋台のたこ焼きや焼きそばなどの売り物はどう考えても通常の2,3倍もするような割高であるにもかかわらず、気にせずみんな買っていきます。
自分も買って不思議に思っていたら前を歩いていたカップルも「どうして屋台って高いのに買いたくなるんだろうね」と話していました。

「なんで高くても買いたくなるのか」

チョコのケースは「ブランド力」と「希少価値」が値段を吊り上げています。
「品質の確実に保証されている」「この時期にしか買えない」チョコだからこそ、買うのが楽しみだと思うのです。

屋台のケースは「雰囲気」です。
お祭りの雰囲気、目の前で作っている光景は「あたたかみ」があります。
どうも目の前で作られると味を想像しながらついつい手が出てしまう。
動きのあるものに五感が刺激されます。

一方本屋では…
時代のキーワードをピックアップして即時に本を出して並べる。
ネットで支持されている「保証書」つきの(作家の)本を出して並べる。

最近私は小説や新書など、本を手にすることが少なくなりました。
書店に入っても何か似通ったものを感じてしまう。
また内容が薄っぺらく文字だけを稼いでいる本なのではないか。
そんな不安が大きく、あの縦長の新書本は目次を見ただけで読んだという気分になってしまいます。
「ああ、きっとこういうことが書いてあるのだな」と軽々と内容まで予測できてしまうし、また読んでも期待を上回ることのないことが書いてある。
多くの読者もこの傾向に大変うんざりしているのがネット上のコメントでもよくわかります。

結局これらのことをふまえて、私が一番懸念するのは「作品のデフレ化」です。
ただでさえ出版社が「金になるだけで内容のない本」ばかり出して本への信用がなくなっているというのに、これが起こってしまうと真っ当な作品が書かれなくなる恐れがあります。
つまり、資料集めのコスト、現地取材のコスト、人と接するためにかかる様々なコスト、調べる時間も含め時間を使うことと人との交流はお金がかかる。
著作権保護期間は死後に切れるようにしないと、「待てば手に入るでしょ。お金払う意味あるの?」なんて思わせたら、小説なんてもうおしまいですよ。
誰も金払わなくなる。
そんな中で誰が小説一生懸命書こうとするの?
趣味でひょうひょうとネットに流している人しか書かなくなりますよ。
それにあまりにも書店の動きが画一化されていて、宝を掘り起こしたような一品が書店に並ぶことがない。
「売れる」=「よい作品」ではないことは、もう本を買う人間からしたらわかりきっていること。
その上で本に携わるものが、自ら本の価値をおとしめるようなことはしてはいけない。

私が一番読者に期待したいのは、自分で作品を吟味し、見抜く力を養い、お金を出してこの作家に出費してよかったという満足を得てもらいたい。
また個人書店も各分野に特化した店作りと本の紹介をして欲しい。
本の金額や信頼を下げる方向にいくのではなく「お金を払ったなあ」と思うような金額でもよいと考えています。
たとえ買った作品の文章の質が少々荒くても、「この才能ならば」と期待しながら「投資をする」という価値観も養って欲しい。
最初から潜在的な才能をのびのびと発揮するような人間は本当に一握りです。
こういう職人の世界はだいたいは叩き上げに近いものがある。
誰にも見向きもされないような中、自分の作品にお金を払ってくれる人がいるという気持ちは大きな励みになります。
まあ、ただの希望ですけどね、このことは。

現実問題として大型書店ができ、小さな書店は駆逐されている。
小さな個人経営の書店は大型書店と類似している売り方が少しでもあれば潰されてしまう。
アマゾンなどのネットでの本の売れ筋が書店の売り上げを余計に圧迫している。
自分の手にとってゆっくり本を吟味するという場所は少なくなる可能性が多い。

本当の本を買う喜びというのは、アンティークとして書棚に入っていることで部屋の中の価値ある一部になる、ということではないだろうか。
自分はその本を読んで大変満足しているという証として、本棚の栄えある一部となる。
本を出す側の人間は文化の一端を担っているという意識を忘れてはいけないし、ましてや金にがめつくなったらダメでしょう。
読者の、時代における感覚や価値観は変わっても、読者が求める思いは変わらないのではないかと思う。
従来の方法でうまくいかなくなったのなら、読者の思いを導いてあげるのも本を出す人間の使命でしょう。
そしてこちらの思いも一生懸命伝える。
デジタルの時代がここまで加速しているのにアナログに固執し続けるのも愚かな話ですが、アナログが完全に消滅することはないでしょう。
だからこそ、もっと価値あるものを作って、価値があると伝えていかなければいけないのではないでしょうか。

本当に価値のあるものを、五感を刺激しながらアピールしていく。
デジタルの時代だからこそ、もっと人間の心の奥底に響いていくような情熱を伝えていかなければいけない。
またそういう作品作りをしないといけない。

小説家は職人であっても、芸術家のはしくれだと私は思っている。
だからこそ、読まれる作品ではなく、読ませる作品でなければ話にならないと思っている。
文章作品は「多くの人を読ませる」ことで作品としての真の幸福を得るのではないかと考える。

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01/28

Thu

2010

twitter ついったー やってみて思った

携帯いじりもそろそろ飽きてきたので、せっかく携帯で色々できるようになったのだからと、放置していたツイッターを半年振りに動かしてみて、どう活用できるか色々調べている。

…ということで、このブログの右側にもツイッターでのつぶやきがリアルタイムで見れるようにしておいた。
このツイッター自体は特に目新しいものではないというか、いわゆるチャット形式の変形版みたいなものだけれど、このツイッターを取り巻く周辺ツールが非常に強力で(右側のウィジェット含む)、二日間色々見回って見てもまだわからない。

…ごめん、正直に言います。
英語苦手だから英語解説のソフトとかがちょっとよくわかってないだけなの。
ツイッター活用術( http://twitter.com/goodies )の中のひとつを使って、パソコン上でもリアルタイムにつぶやきが来るようにしているけれど、もう20以上フォローしただけで喧騒になります。

情報化社会を生き抜くために一番必要なのは、ある意味情報を完全に無視することなのかもしれない。
まあ、大衆を操るには、「情報に対する連帯感」を持たせればいいだけの話しで、あとはとことん大衆から「考える力」を失わせるための社会構図を作ればいい。
今や日本の大衆のよりどころとするイデオロギーなんてないでしょう。
ちょっと調べればわかるようなことも出された情報を盲目的に信じて、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。
そして自分の囲まれた環境が正しいと思い込んでいる。
危ないよ、自分で情報に対してフィルターかけられない人は。

話がそれているようだけれど、ちょっとこれをやりながら思った危険性というのは、情報を遠隔的に操作した人たちが、大衆を制するわけでしょう?
とにかくここでは情報が流れてくる。日常生活から政治や経済や趣味のことまで。
じゃあその情報の発信源が、政府や思想家や資本家のものだったとしたらどうなるのだろうってこと。
情報の発信源だと悟らせずに、感染的に情報を戦術的に制したものが大衆における最もたる権力者になれる。

民主政治を制するには大衆が「選択権を持っている」という意識を常に与えることだ。
誰かに強要されたわけじゃなくて「自分で選んでいる」という自負心を失わせないために、「情報」が必要になるわけだ。
これは商品にも言える。
選んでいるようで自分から時間をたくさん使って情報を掘り起こす時間もないし、手っ取り早い「売れ筋」が必要になるわけだ。

ツイッターは巨大な情報コミュニケーションツールとなった。
ゆえにあらゆる用途で使える。
自分もその活用方法を模索中です。

今考えているのは、140文字の書評をしていくこと。あとは小説とか。
やっぱり「リアルタイム」ってところを活用しないと。

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01/20

Wed

2010

※酔っ払いながら書いています。

ずっと携帯電話をいじっている。
アプリやワンセグ、着歌などなど旧世代からいきなり今の携帯に躍り出た自分には、なぜか懐かしさばかりがあふれる。

例えばアプリ。
自分はちょっと違ったゲーム遍歴をたどった。

普通はファミコン、スーパーファミコンと任天堂ハードをたどるところが、ファミコン、ディスクシステム、PCエンジン、PCエンジンCDROM2とたどってきた。任天堂からNECへといった。
家庭用ハードはそれで終わる。
得に当時としてはCDから直接音楽や音声を読み込み「声が出る」というCDロムロムは自分にとって他を圧倒するものだった。
現在のプレイステーションやXボックスの能力に追いつこうと映像に力をいれ、映像に見劣りしないような音楽を作ろうとするように、なんとかスーパーファミコンよりちょっと背伸びしたようなCDロムロムはそのCD音質に合わせようと今から見たら子供だましのようなアニメやドット絵を駆使して演出をしていた。
色々な話を見た。
得に今でも印象に残っているのは「バベル」「ソードマスター」
糞ゲーと呼ばれる、面白くもないゲームと評価されていたが、自分にとっては今でも印象に残っている。

「バベル」は男と女の主人公がいた。
世界は時空の壁と呼ばれる雲のようなものに徐々に飲み込まれ、収縮し、いずれバベルの世界そのものが滅びてしまう。
人体の体にはある程度の機械が適応できるほどの文明で、腕などが機械の人間がいるが、それでも銃や戦車などの現代の主力武器があり、ラピュタに出てくるようなロボットを巨大化させたようなものを作るには突出した帝国のような国しか作れなかった。
アガメムノンという太古から存在する機械の船があり、そこへと行こうとするのだけれど、男の主人公のヒロインの機械の女の人、男の主人公と一緒に旅をする女の主人公、サブキャラを取り巻くキャラ。
みんな感情むき出しの子供のような茶番劇だけれど、「どうせ世界は滅びるんだよ!」という意識が蔓延するすべての人の憤りの中、「地球」という幻の星があり、機械の女に「私はその星のことをデータとして知っているだけ」ということを教えられ、主人公は崩れゆこうとする世界に対してあらがい、仲間が次々と犠牲になり、かつて仲間だった人間が、世界の崩壊に耐えられず、裏切りの果て死んだりする中、すべての犠牲の中アガメムノンの中で目的地を「地球」と言うと、次の瞬間、どこか違う近代の街の中にいて、「今までのは幻だったのか」と戸惑う中、とある喫茶店に迷い込むと死んだ人間も含めて登場キャラがみんないる。
「遅かったじゃないか」「ずっと待ちくたびれてたぞ」「おねえちゃーん。おにいちゃんがきたよー」
そんな声の中主人公の男に抱きつく機械だったはずの女。
上空にはアガメムノンガ浮いている。
簡単に説明するとそんな話だった。

「ソードマスター」は残虐な主人公と、プリーストの女がいて、冒険の果てに主人公は魔王を倒すのだが、主人公が魔王と人間の間に生まれた子供だとやがてばれる。
自愛に満ちたプリーストと残虐な主人公とは馬が最初は合わないが、やがて女は男のことを理解していく。
これはうろ覚えなのだが、エンディングの時に女と寝る主人公が苦労をかけた女に対して血の涙を流すのだけれど、次の朝主人公は消える。
女は主人公を探そうとするのだけれど孤児の子供にいつもどおり振舞う。
その時涙を堪えながら孤児を抱きしめると、女の名前を呼び孤児がこう言う。
「おかあちゃんの匂いがする」
そこで女は泣き崩れ、エンディングの中でかつて目の色が赤かった主人公が別の目の色で出てくる。
その孤児のセリフだけははっきりと覚えている。

「リンダキューブ」
世界が滅びることが決まっていて、動物をつがいで集めて箱舟とともに惑星を脱出するゲーム。
シナリオA
なぜかリンダの母が父の体に取り込まれていて、最後までなぜ父が狂い残虐非道な行為をしたのか明かされないとか。
シナリオB
博士が死んだ娘に執着してケンにサチコという死んだ娘を科学の力で復活させロボットにし、「サチコ!サチコ!サチコはどうだ!」と迫り、リンダの代わりにさせようとする執念とか。
青野武さんの名演技が光った。
シナリオC
AやBで死んだキャラたちが仲良くまとまっている。
当時としては画期的なゲームのシナリオだったし、敵として現れるモンスターを捕獲するために追いかり、捕獲した動物で装備などを作るなど斬新過ぎるアイディアだった。

「バスティール」ジャズがよかった。
「バスティール2」いかれてる最後の悪の元凶に「それでもこの人が好きなの」と一緒に死ぬ女が印象的だった。
だって子供だよ?
子供がジャズとか人間の狂気とか極限状態とかをシナリオで体験するわけですよ。

正直今のゲームは、ほとんど当時のアイディアの上乗せにしか感じない。
アプリも当時やっていたゲームがあって懐かしさを覚えた。
得に今のアプリゲームは当時のゲームとあまりかわりがない。

ゲームばかりの話しになったのはゲームっ子だったのでアプリをしながら色々と思い出したのだけれど、サイトの作りも10年ほど前にiモードが出てきた頃とあまり変化がない。
懐かしい掲示板サイトもまだ存在していた。
そこに出入りする年齢層が幅広くなったというのが少し変わった点だとは思うけれど、人とのつながりを求めて寂しさを抱えて人がサイトに出入りするところはまったく変わってない。

なんら、10年前と変わらない姿がそこにある。
これはずっとそうなのだろうか。
なぜなのだろうか。
結局技術が進歩しても変わってないものがある。
日本人が抱えている現実のような気もする。

そして思い出したこともある。
暗闇の中で必死に携帯電話をいじりながら「携帯依存症」にも似た感覚で妙な陶酔感と、苛立ちと、人とのつながりを求め必死に掲示板に書き込みをし、自己アピールをする自分。

思い出した。
この携帯に必死に向かう閉鎖的な感覚。
ここしかないんだという閉鎖的な思考回路。
その世界にしがみつくしかなかった自分の世界への麻痺。
無気力と諦観の狭間でぼんやりと携帯電話の画面へ向かっていた自分。
パケット代だけで五万を超えていた頃。
電話代でさらに三万。
ただ孤独とストレスに耐え切れなかった。
誰も理解してくれない感覚の中で自分の話を聞いてくれる人がいる慰め。
すべてが懐かしい。
懐かしすぎて、イライラしてきて酒を飲んでしまった。

技術は進歩しても、人間は何一つ進歩してなかった。
何も変わってはいなかった。

思わず、この文章を書きながら苦笑している自分がいる。
正直、日本人の「精神」は、この10年以上停滞したままだ。
はっきりわかったよ。

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01/15

Fri

2010

実はパケット定額ができない旧世代の携帯をずっと持っておりまして、昨日いよいよ新しい携帯に換えたわけです。
一度買い換えると普通に壊れるまで持っているほうで、大事に使っていたのですが、通話の音声が悪いと数名から指摘を受け、買い換える決心をしたわけであります。

色々と知識はあったものの、まるで自分が化石状態で、夜中に色々と携帯をいじっていたら興奮してきて眠れなくなりました。
テレビが見れただけでも少し興奮。
と言っても、見たい番組なんてほとんどないのですが。

今回はもっと長持ちしますようにと、頑丈そうなやつを仕入れました。
防水らしいです。

色々と見ていると、やっぱりPCブラウザで見るのと、ねっころがりながら見るのとでは、妙に雰囲気が違うというか、たとえば私が文章を書くにあたり、いつもはPCのキーボードでカタカタと打ち込むのですが、同じ文章でも寝る前に暗闇の中、携帯の小さなディスプレイから見える世界はとても孤独感があり、妙な切なさがあり、小さなぬくもりを求めるのに携帯のウェブサイトや文章というのは、あくまで読み手の「慰め」でなければならないような気がしてきて、小さな孤独や切なさゆえに、その暗闇の中の光は妙な陶酔感があるのかもしれないと感じたわけです。
寝る前に頭なんて働かせたくないし、これが行き帰りの電車の中やバスの中であろうと、それほど文章に神経を割く事はできない。
携帯で見る文章というのは、たとえ「小説」であっても、厳密には「小説」の形をとれないのだと、ちょっとした核心に至りました。

携帯の文章形態はあくまで「メッセージ形式」でなければならず、小説として進化できるとすれば「詩文形式」にとことん特化していくしかない。
漢文や和歌などは、現在の義務教育や一般の知識としては広く教養として身につけられているとは言いがたいので、ひとつの進化形態のヒントにはなるものの、ふさわしくはない。

よりコンパクトな情報プラットフォームとしての携帯の進化は望めるけれども、少々画面が小さく、最終的には「メッセンジャー」としての機能に特化していくのではないかと思った。
つまり、テレビでいきなり画面上部に出てくる緊急メッセージのようなものが、頻繁に携帯に集まり、もちろん詳細は見れるものの、携帯の端末を通してコンパクトPCや街の各所にあるより大きな情報端末画面で確認するなど、よりID性が高まり、情報もパーソナライズされることが加速されると今更ながら考えるわけです。
そこで出てくるのが情報の無料化と企業広告。
これは恐らく情報が階層化されて、より深く詳しい、または多くの人が必要としないようなものはランクごとに値段が変わってきて、浅い情報は広告付きで無料化される。
そんな即時性のある電子新聞が一般的になるかと思われます。
今、どんどん加速化しているけれどね。
広告もまた、記事や地域性によって完全に特化する「コンテンツマッチ型」に変化していくでしょう。
三丁目の新年近い町内会の行事の記事には近所の花屋と小料理屋の広告とかね。

しかし、まあ、情報コンテンツにおける、その先にある生産性を考えるに、情報を流すだけでは創造は行われない。
利益=創造に結びつく新しい、より技術や生活に密接した情報がこれからは求められるし、情報を元に新しい製品や産業が生まれてくるように、発信元は進化しなければいけない。
技術と生活している生の声がいかに結びつくのか。
独自の生産力を持つものが、いかに人間・生活の苦境を吸い上げ、幸福へと還元するのか。
完全に分類化され、整理された情報が利益として流動する。
そこがこれからの時代の一番のポイントになるかと思われます。
その上で新しい技術というのも創造していかなきゃいけない。

さて、それよりも私自身の問題なのですが、これからの時代における作家の役割とはなんなのかと、避けて考えることはできないのですが、ジャック・アタリ氏は日常の苦痛を忘れ去るためのヴァーチャル産業(映画なども含む)がこれからはもっと活発化していくだろうということを本に書いていた。
そんな気がするし、でももしそんなことになったら苦笑せざるをえないけれど、この考えは当たりそうな気がする。
結局は「フィクション」を与え続けるということになる。
それも、「前向きな現実へと向かわせるためのフィクション」ではなく、「ストレスの日常から解き放つために別空間へと誘うためのフィクション」、つまりは「完全なるファンタジー」に需要が…って今もそうだけど、これからなお活発になってくる。
ディズニーランドって今でも人気が衰えないものね。
楽しくないものは長続きしない。
だからといって、商業作家ならまだしも「小説家」が「人間を見つること」を忘れちゃいけない。
いや、もしかしたら自分に一番今欠落している視点は「ヴァーチャル空間で活力を得る人たちの心理」なのかも。

新しい携帯で何できるのかな。
前のと違って見れなかったサイトも見れるようになったし、しばらくは携帯四六時中いじってそう。

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01/13

Wed

2010

このようなことを書くには、まだ早すぎる年齢であることは確かだ。

世の中には「食わせてもらっている身分で」と言う人がいる。
しかし、最近は子供を殺す親、親を殺す子供がまれにニュースで取り上げられる。
赤子を捨てる親、虐待する親。
核家族化によって不透明になった家庭環境が、風に当てられない傷口のように化膿しきっている。
すべての悲劇は当然のようにひっそりと始まり、ひっそりと終わる。

私の父親は、気分屋だった。
私は思い通りにはならない息子で、それゆえに誰かに見せるのも恥ずかしい子供だった。

私の父親は暗闇が嫌いなのか、寝るときに電気スタンドをほどんど消したことがない。
密閉された空間が嫌いなのか、寝室のドアは完全に閉めることがない。
コンプレックスの塊で、トラウマがあるように見えた。
その魂を軸にして、あらゆる罵倒や嫌味が出た。
物事を表面上でしか捉えず、深く考察することがなく、ほとんどの言葉は受け売りで、小心者で器が小さかった。

私は父親の財産をほとんど食いつぶしたといっていい。
文字通りの「ごくつぶし」だ。

私の家庭は親しく付き合っている親戚も含めて芸術家、及び芸に携わって世で活躍しているものを輩出したことがない。
それだけに、社会システムを遵奉しきっている、ごくどこにでもいる、他人と深く関ることもない平凡なサラリーマンだった。
私は父親が会社を辞めてから友人と遊びにいく姿を見たことがない。
そのかわり、退職金などで旅行に出たりする。

寝起きは必ず機嫌が悪く、視界を何度も横切ると機嫌が悪くなり、口答えすると機嫌が悪くなり、気に入らないことがあるとゴミ箱の底を漁るように過去の文句を言い出す。
自分が興味のないことには絶対に理解を示さず、大衆が評価を下したものから、さも自分が見つけてきたように自慢げに話す。

興味がなければチャンネルを数秒ごとに変えて、断片的に番組を見る。

そう、まるで気分もチャンネルを次々と変えて一周していくように変わる。

私が父親から学んだものは、「心の痛み」だった。
抑圧され、苛立ちと、怒りと、いつまでも心に残る罵倒に対する悲しみだった。
それはきっと自分がどうしようもない人生を歩み、長年にわたり苛立ちと、情けなさを父親に与え続けたせいだと思っている。
食卓で心から打ち解けて会話をしたことが記憶のある限りまったくない。
談笑とは程遠く、会話の糸口さえも余計な一言で打ち切られる。
だから、ゆっくりと食事をしたことがない。
まるで流し込むようにして食べる。

逆に男性にとって父親とまるで恋人といるようにべちゃくちゃと話しているのは気持ちが悪いだろう。
もしかしたら、父親と息子という関係が、真の理解を示すのは、互いにもっと年を取って様々な経験をしないといけないのかもしれない。

しかしこれからまったく普通の社会人には理解されないような領域に私は入っていく。
小説家も「芸術家」の一種だ。
ある意味ヤクザ家業であり、自分の人生を常に「経験」のために使う。
あらゆる意味において破壊を行い、創造をしていく。
嘘をついて金を稼ぎ、言葉で人心を操る。

私はこの分野において、はっきりと自分の未来が見える。
誰も信じない、自分だけが見ている未来がある。
そこへと行き着くだろう。

それでもきっと父親は理解してくれない可能性が高い。
きっと話し合っても、私が説明をするだけで、まるで夢物語を聞かされているような顔をするに違いない。

どこかに別の可能性を期待している自分がいるけれど。

長年父親の呪縛に精神を痛めてきた。
まだそんな程度では、どうしようもない子供であることは間違いない。

飛び立たなければいけない。
もう、悩んでいる暇はなくなってきた。
私の財産は「心の痛み」だと思っている。
これがなければ、私はもっともっと思いあがっていた。
十数年も苦しんで、ようやく人の痛みがわかりはじめてきている。
あとは「世間」に出れば、勝手にそこで罵倒や中傷や悪意が投げつけられ、また痛めつけられるだろう。
もう父親からは充分だろう。

私にとって「父親はどんな人間だったか」を語るにはまだ早すぎる。
若さゆえの浅慮は愚かさなのか。
皆等身大の悩みがあり、それは比較して語るものではない。
少なくとも私にとっては辛かった。

こう記しておく愚かさを、いつか「まだ若かったな」と笑う日も来るだろう。
しかしそれでも、感じていたことを素直に記録することは、むき出しの感情を忘れ去らないための、大事な作業。

陳腐で、幼稚で、くだらない。
こんな文章しか書けない文章家が、小説を書こうとしている。
こんな気持ちしか表せない人間が、小説を書こうとしている。

まだ足りない。
まだ痛みが足りない。
殺されるほどの痛みがなければ、何も見えない。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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