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あさかぜさんは見た

日記

04/20

Tue

2010

http://d.hatena.ne.jp/tanu_ki/20100415/1271346851
「リストラなう!」というとある大手出版社に勤めている方がリストラ波を受けてその状況をつぶさにブログに書かれております。
このコメント欄には出版事業の問題点がつぶさに書かれている。
大変興味深いものでした。
私はまだ「電子」での作り手の側なので、編集し営業する「紙の事情」というものがはじめてわかりましたが、本当に「作り手を育てる」という視点でやってなかったんだなとわかりました。
どうやって売って経営をするかってところばっかり。
会社だから当然だけれどね。

アマゾンやアップルが電子書籍事業に乗り出し、印税率の高さや気軽に出版できる利点をといています。
例えば文芸の分野に関して現在携帯小説も含めて書き手が200万くらいいたとする。
その20万人くらいは売ろうとして、1万人くらいがぎりぎりも含め食えているとすると、今度は200万全員が売り手となります。
もしそうなった時「誰が買うのか」という問題があります。
兼業でしかやっていけない事情が生まれますが、誰が買うのですか。
会社の営業先の人なんて買ってくれないし、同僚も「ふぅーん」、上司なんか「そんなことやってないで仕事しろ」ってのがオチじゃないでしょうか。
当然本格的な小説を売り読者を囲おうとすると「専業」は避けられない。
ただ今まで「文学賞」が吸い上げていたけれど「文学賞」も格式が落ちている。
リスクを避けてきた代価ともいえるが、この焦りたるや出版社もハンパない。

電子書籍は結局みんなが殺到してどうにもならない状態が続いて文芸市場における電子出版のレベルは劣悪すぎて金を払う価値もないというのが落ち着く先なのではないでしょうか。
だからこそそれを制御するシステムを早急に作っておかないといけない。
個人が殺到する。
プロと素人なんて定義もくだらなくなる。
玉石混交。法も国際的なレベル、ましてや国内においても追いついてない。
こんなビックバン状態なら、もう全部崩してしまって今までの価値観なんて捨ててしまえばよいのだと考えるわけです。
そうしなきゃもうおしまいだと。
余計に「ネームバリュー」の時代が来る。
本の価値も下がって、身近になったメディアをインターネットを通して使わなければ売れなくなる。
本もまた、芸術の一種。

我々は日常における芸術の価値をあまり考えたりはしません。
機能性はないしわけがわからないし、個人の自慰でしか過ぎないんじゃないの?という人がいてもおかしくない。
しかしなくなった時に初めてわかるわけです。
砂漠の真ん中でぽつんと置かれ、毎日砂と砂嵐と砂丘しか見えなかったとしたらどうでしょう。
音楽も人工的にかたちどられたものも、道具すらもないわけです。
わりと、関わってる。芸術が。
でも相手へわからないことを伝え、相手の考えに心を向けるのが対話だ。
芸術家とか特殊だと思われていたような人間たちはその努力が足りなかった。
というか、これからはその努力をしていかなきゃいけない。
そして「しゃべり場」を作る。
話し合う。
色々な意見が出る。
認め合う。
その上で作者なり作品なり社会なりの行く先を決める。
それができる時代になってきたし、もうそうするべきだと思う。
そして小説もまた「お話を作る」小説ではなく「人間を見つめる」本来の小説に戻っていくべきだし、そうしなければ公共性は保てないように思う。
読者は馬鹿ではない。
それなりにちゃんと生きている人は機知がある。見識がある。
それを持ち寄るのが本来の健全な社会だ。
私たちは本当の健全なる社会を見つめて出版をもう一度作り直さないといけない。
文芸を人間に返さなければいけない。

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04/18

Sun

2010

幸せの輪 不幸の戒め

「最上のワインは最上の友と分かち合うもの」

こんな言葉を自分の教訓として生きています。
今ツイッター上でも「幸せをつぶやいていこう」と、幸せ伝染思想みたいなものがちらほらあります。

確かにみんなが幸せそうな雰囲気を出している時に悲しいことや不幸な話などを出すと一気に暗くなる。
天邪鬼な私は「幸せだけじゃ勘違いしていくだけだろ」みたいな考えがあり、わざわざ人が見たくないものをそっとすくい取りたくなります。

人は幸せだけでも、不幸だけでも生きていけないのではないか、という思いがあります。
本当に幸せなのは、「幸せを出しましょう」って言うのではなくて「辛い時悲しい時遠慮なく打ち明けなよ」と言われ、言えるような「安心感」なのではないのかなと思うのです。
だから不幸があったらみんなでそれがどうして不幸なのかを真正面から受け止めなければいけない。
「幸せ」というものにとらわれすぎて、「苦しみ」を出しづらくなる雰囲気を作ってしまえば逆に不幸なのではないかと思うのです。

幸せでありたいことはみんな一緒です。
しかし暗闇にいると強い明かりがまぶしすぎて逆に何も見えなくなって辛くなるときがあります。
人の心理にもこれと同じような状態が起こります。
重病の人に肉やお菓子を並べて「豪勢だろ。さあ食べろ」なんてできないのと一緒で、最初は吸収のよいおかゆなど、体へ負担のかけない食べ物で徐々に体の回復を待ちます。
よくテレビなどで「気づきで劇的に人が変わる」ことをやるので、勘違いする人が多いのですが、残念ながらあれは「珍しいからテレビでやる」ということを皆忘れています。
特に精神的にどん底にいる人は重病状態なので、「肉やお菓子」をあげるようなことは心に負担をかけるだけなので、危ないです。

不幸は必ずしも不幸ではない。
そこには転じて「不幸にならないための注意点」が隠されている。
心に心地よいものばかり集めて石につまづくくらいなら、時として足元を見るのは大事なことではないか。
「失敗は成功の元」とも言う。
「灯台下暗し」とも言う。
離れてみたり別の視点から見たりしながら不幸を不幸にしないためにみんなで考えることは大事なことだと思う。
そのためには「不幸を認め受け入れる」、そんな心の大きさも社会に求められる。
個人ではなく、社会に。
一部器の小さい人間の特権で、社会が制御されるような状況を作り出してはいけない。

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04/18

Sun

2010

http://blog.goo.ne.jp/infectionkei2
BSE&食と感染症 つぶやきブログ

鶏糞に糖蜜を混ぜた飼料を牛に食べさせているという記事も含めた、アメリカなど牛肉産業の一部の実態なのですが、「アメリカ人ならやりかねないな」などと考えていたら、ミートホープ事件も記憶から薄れないわけで、「あ、そういえば日本人もやるんだった」と。
そういえば食品業界の裏側って結構真っ黒なんだよなあと思ったりした。

ちょっと生産者と親しくなれば「本当はああやっていると思われてますけど実は…」という黒いうわさは聞けたりもするのだけれど、私は特にそっちのほうを調べて時間を費やすつもりがないので、他の人ががんばってくれればなと思う。

これを読みながらまったく別のことを考えてしまったのだけど、「金属を食べるミミズ」のことを思い出した。
ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト
自然界というのは「人間が変えた環境に適応」しようと変化しているのではないか、ということだ。
その意味でウィルスも自然界の一部として生命に何かしらの影響を与え、そして変化していっている。
このミミズがどうして生まれたのか、もしくは元からいたのかは不明だけれど、もし途中から変化してきたものなら自然界に適応する能力が生命には宿っているというわけだ。
その意味では人間は人工物を作り上げ、それに保護されて生き残っているのだから生命としては特殊な退化の仕方をしている。
清潔にしていたらすぐにウィルスに感染するし、血液での感染にも人体は対応できない。
ウィルスに少しずつ慣らしていけば、このスーパーミミズのように人間も進化するのだろうか。
科学者としてはなんらかの方法で実験していきたいテーマでもある。

「はたして人間は生命として進化するのか」

人類最後の敵はウィルスになるだろうし、もっと簡単に言えば「自然との戦い」になる。
人間は自然界を冒涜したような行為をしていけば、ゆっくりと時間をかけて人間へと返ってくる。
それがきっと我々が生きている時代ではなくて孫とかひ孫の世代に徐々に出てくるのではないかと思っている。
変な話、今まで確認できなかった未知のウィルスも、実は人間が間接的に作り上げているのではないか、という推測すらも浮かんでくる。
人が作り出したウィルスを人が退治する。
永遠に人類はそのことを繰り返しそうだけど、もっと自然と文明が共存できないものかと考えたりする朝のひと時。

しかしその前に人類が自然界に滅ぼされるとかもありそうだけど。

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04/17

Sat

2010

ついったーでのつぶやき

いろいろな人のつぶやきを見ながら、いろいろなことを考えるようになって、とても刺激を受けているけれど、自分の腕のなさや見識のなさは自分でも呆れるくらいで、つくづく低いレベルであれこれやっていた自分をとても恥ずかしいと思いながらも、「ま、やるしかないし。今更恥ずかしいも何もないし」という気持ちで押し切りながら、ここ三ヶ月ほど勉強させてもらっている。
自分がどれだけいろんなものに関心がなかったかも余計にわかって、逆に食いつくようにして色々な人の思考を追っている。
ずっとやりたかったのは、こういう人間のダイナミックな感情の流れを把握することにあった。
携帯を変えてちょっと便利になってツイッターをやり始めた程度でこれだけ意識が変わるとは思ってもいなかった。
時折はっとするような優れた言い回しなどを見ていると、悔しいと思う。
自分の非力さを逆に呪う。

「言葉で世界が変わるか」

野心のある作家ならばどこかにこの言葉は頭に浮かぶ。
そしてその野心ゆえに精神がボロボロになったり最悪の場合は死んでしまうこともある。
はたから見たら「ただの自殺」にしか過ぎないくだらない事情の中には「ゼロから有を生み出す精神活動」がある。
その中身は当然誰も知らない。
常に当事者ではない限り、作った作品や発した言葉を通じて何を感じ何を考えたのかを受け取るしか方法はない。
そしてちょっとしたことで影響を受けて精神が変化することもある。
人は自分で思っているほど自分のことは理解していないし、どのような精神活動をしているか、はっきりと追っているものはほぼいない。
だからこそ「芸術家の自殺」を簡略化して理解しようとする。
精神的な把握をする人間はだいたい芸術関係に携わっている人が多い。
音楽家や俳優や作家、陶芸家、絵師、先鋭的な建築家などなど。
こういう人たちは「余計なノイズ」を嫌う。
「余計なノイズ」とは「人」。
人から影響を受けるのは当たり前なのだが、諸刃の剣でもある。
よい影響だけ受けるわけではないし醜い感情も受けていかなきゃいけない。
当然自分の中からくるものもある。

正直、心の底の泥をすくっていく作業はハンパなく時間がかかる。
たった5秒の出来事でもあるのに、浄化するのに2時間以上とか。
当然自分から湧き出たよくない感情ではあるけれど、なぜにこうまでやっかいなのかわからない。

思ったことをつぶやけるのは便利だ。
手軽だし残せる。
とりあえずつぶやいてはいるものの、将来自分の言葉を否定するときも来るかもしれない。
それもまた楽しみではある。

人と人とが繋がり進歩していくのはとても楽しい。
新しいことやり始めないとという気持ちにさせてくれる。

人は自分の考えを肯定してくれるものだけ集めると、だんだんと排他的になる。
気をつけて自分と相反するものも観察していかないと、どこかで狂ってしまう。
よい意味でのブレインミックス。

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04/09

Fri

2010

痩せてきた2 歩くことは大事

何せずっと引きこもりで1日10時間以上もパソコンの前に張り付いて色々読んだり書いたりしている生活を続けていると当然のごとく歩く歩数がひどい時で食卓とバスルームぐらいの往復程度にしかなってない時がある。

「歩くと足の血流が良くなり血を上に押し上げる力が強くなります」

との言葉を発見し、思い出したらなるべく歩こうと今ここに書いて覚えておこうというわけです。

痩せ具合のほうは残念ながら横ばい状態。
やっぱりイラつくことがあって酒飲んだりしてしまいます。
マイナス3キロを維持している。
ビリー隊長とも仲良く無理せず付き合っている。
ビリーズブートキャンプは4巻あり、一番きついのが1巻めなのだけれど、それを1日おき、もしくは2日3日やって1日休むという具合でやっている。
ちょっとずつは長続きできるようにしているけれど、体つきもほんのちょっとだけ変わってきたっぽい。

続けられる気力というのもひとつの技術だけど、続けられるように工夫するのもひとつの技術だということがわかった。
飽き性ですぐにやめてしまう自分にとって一ヶ月続いているというのはなかなかのものです。
ちなみに黒酢を飲みながらがんばっております。
これを飲むと「めちゃくちゃ」が「ちょっと」だるいになる。
疲れづらくなるのは自分で実証済み。
酸っぱいから飲めない人はサプリがいいかも。
今は色々な味の酢があってジュースみたいで面白かったりもする。
マンゴーなのバナナなの。

カロリーをとり過ぎずに血圧などがなるべく激しく上下しないように体調管理するのも大事だけど、改めて歩くことの大事さが、引きこもりだとわかります。
30分でも歩くと寝つきがよいことに気がつきました。
目覚めもよかったりする。
さすがにストレスなどがあったりすると寝付きも寝起きも悪かったりするのですが、最近は好きな音楽をヘッドフォンで聞きながら大の字になり、全身の力を抜いて音楽の世界にトリップし、無心になるという技も身につけました。
携帯が防水のおかげで半身欲も楽しい。
全身の余計な力が抜けると、人生への余分な力みも抜けてほどよい力加減で生きていけそうな気にもなってくる。

最近は食についても色々考える。
何せカロリー取りすぎだと努力が水の泡なので減らないにしろ、絶対に増やしてはならんという意気込みでがんばっているものだから、まんべんなく栄養を取るということにも気をつけている。
栄養が偏るとやっぱり「何か欲しい」感が抜けない。
あいかわらずよく噛まない癖は直らないけれど。

だいたいアイディアっていうのは歩いているときに結構浮かんだりします。
何かの信託のようにふっと降りてくるのですね。

タモリさんが元気なうちに「世にも奇妙な物語」の映画版原案自分で作っちゃいたいなとか、早く名前が売れて有名になってニッカウィスキーにアプローチしてイギリスにまで飛んで小説の取材したいなとか、携帯版朗読小説まとめないととか、ファンタジー小説ちょっとずつ書いていかないととか、ああホラーもあったし、とにかく色々やりたいことがありすぎて逆にやる気なくす(笑)。
この辺の集中力散漫なところも直さないといけないのに。
などと思いながら歩いていると勝手に独り言が多くなり、いかにも不審者そのものであります。

寺山修司は生涯を通して「ひとつの疑問符」であり続けたけれど、自分は「示唆的」なものでありたいな。
言いたいこと言って結論まで導くのなら大学の先生にでもなっちゃって論文書けば済む話が、わざわざ小説を書くのは結論を言いたいわけではなくて、あるひとつの側面を提起するためなのだから。

電子書籍の波が襲ってきている。
大手の出版社は旧体質から抜け出せずに自分たちの利益を守るのに必死。
経営のスリム化、既存の利益の確保、相変わらずの「消費思考」。
その影で人が犠牲になっている。
というより、もういいんだよ、きっと。
会社っていう場所に固執しなくても、悪い体質だと思ったら自分で新しいアイディア出して挑戦していかないと。

ずっと座っているのだから歩かないと。
自分の体を維持するのは大事。
体重の増えすぎは長い時間をかけて体に負担を強いる。
かといって運動のしすぎは逆に体を壊す。
健康であるということは体内のバランスを維持するということだ。
体を維持させるということは、全身の筋肉をまんべんなく使い、摂取するものが隔たることのないよう気を配る。
好きなものばかりを食べない。
嫌いなものはうまく調理する方法を学ぶ。
「利益」と「消費」。
ゆるやかに循環するのはよいかもしれないけれど、体で考えるととっくの昔に壊れてもいいほどの激しさで循環している。

これからはもっと自分の体と対話しながら色んなものを考え直していこうと思った春の1日。
まずは歩き出そう。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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