「私の夢は覚めることはない。私の目は見開いている。夢を見たいなら今すぐ何もかも忘れて楽になって眠ることだ。目をつむり、願い続けることで、望む夢は見れるのだから」
私は正直、直感だけを頼りに生きています。
そして、ろくでもない生き方をしていますし、これからも破天荒な生き方を選択していくでしょう。
ちょうど二十歳を過ぎた頃、高校生の時よりも感性が鈍っており、衝撃を受けました。
「このままではいずれ第六感的な、肌身で感じて体の中に堆積する、言葉では説明できない感覚がいずれ消えてしまう」
そんな危機感を覚えました。
感覚を残せているかどうかは不明ですが、論理に頼らず、少しでも違和感を覚えれば言葉を徹底的に排除して感覚だけを覚えておくようにしています。
そして、「自分の感覚」から再度論理を構築して言葉を吐きます。
言葉を吐いた上で自分に違和感があればまた崩します。
そんな繰り返しです。
「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」
これはウィキペディアから引用したピカソの言葉です。
私自身は「子供が子供らしい絵を描くことはたやすいが、大人が子供らしい絵を描くことは困難だ」という風に覚えていました。
たまに、この言葉を思い出します。
高校生の頃、あれだけ感受性豊かだった友人たちが、どうにも閉鎖的で、しかも感覚が鈍っている。
それを感じたとき、とても驚きました。
社会に出てから、それほど変化しない環境に馴染んでから、ほんの十年以内にそれほどまでに変貌してしまう。
社会人は数多くのことを学んでいると錯覚しがちですが、「好奇心」と「創造性」のない環境では、子供よりもむしろ頑固になっている。
だからと言って社会を責めるわけではない。
無論、使われるよりも人を従える立場にまわる人もいる。
しかし、突拍子もない、子供のような感受性を受け入れる組織というのは稀な例であると見ていいでしょう。
私が伝えたいことは、
「一度自分の才能を麻痺させてしまうと、それを取り戻すことは容易なことではない」
ということです。
何を目指したいのか、何をしなければいけないのか、その上で自分の中に何を育てて何を捨ててしまってはいけないのか、それをじっくり考え、悩まなければいけません。
人と関ることは非常に難しい。
思い通りにならないし、欲を押し付けられ、また自分も押し付ける中で、自分を殺していったりしなければならない時もたくさんある。
利害関係が強く前面に出るこの社会での人間関係の中で心から「ありがとう」と言われることは少ない。
己に勝っていかなければ、甘さを見抜かれるし、自分のために動けば人は外見上「利己的な人間」だと安易に判断されるでしょう。
その上での苦しみはたくさんある。
人は無力なものです。
たった一人では非常に無力です。
自分の力を過信しすぎてはいけないし、一欠けらでも蔑んではいけない。
自らを尊重するということは、傲慢にならず、等身大の自分を偽りなく見つけていくということです。
よき人は、そんな人に惹かれていくものです。
そうすればよい人たちが、たくさんの力を与えてくれることでしょう。
人の心に触れるのが怖いのはきっと誰でも一緒です。
傷つけてしまうのではないか、不愉快にさせるのではないかという不安が行動を億劫にさせます。
あらゆる意味で「行動の勇気と覚悟」が問われることになるでしょう。
たとえそれが「相手がこのままではダメになってしまう」と思うからこその親切心を発揮しても理不尽な形で裏切られることも少なくはないでしょう。
人には、「時期」があります。
たとえ30でも40でも、年齢関係なく子供みたいな人間はいます。
一生自分の過ちに気がつかない人もいれば、ある日突然雷に打たれたように悟ったり、痛い目を見て徐々に知っていく人もいます。
そのタイミングは本人にも他人にもわからないし、理解しそうもないことを何度も念押しに言っても理解されないことがほとんどです。
それゆえに理不尽な事態になったり、「当然」と思っていることも軽々と裏切られることになるでしょう。
私はお話を書いていますが、お話の中ではなるべく他人同士が「理解しあう瞬間」や「理解しあえない理由」をあぶりだして書くようにしています。
それは、「お話なればこそ」です。
しかし、ごくごく平凡な例を、ごくごく普通に肯定して現実を書くならば、他人同士は理解しあえないということをとことん書くかもしれない。
環境も年齢も違えば大事なところで分かり合えないし、分かったふりを互いにするだけです。
だからこそ向き合ってぶつかり合わなければいけないし、時には「時期」ではない時は諦めることも必要になるかもしれません。
そして明らかによからぬ意識を持っている人間に対して、うまくかわしていく術も必要になるでしょう。
非難を加えるのではなく、あくまでかわす。
その上で自分がなすべき最低限のことはする。
その先の不徳はあちらの問題になります。
自分は確かに正しいことをしている。
そういう自負心があれば、他人の反応など問題ではないのです。
他者の反応は恐ろしく、つい過敏に察知し、その邪念を心に映し、清らかな心を持っているほうが間違っているのではないかと思わせるような大人は社会には数多くいます。
自分の親のような年齢の人間でさえ、より狡猾に立ち回り、子供よりも姑息な手段で威圧的に人の心を潰しにかかることはよくあることです。
私だって、納得のいかないものを「なぜ!?」「なぜ!?」と攻撃的にやり込めることはあります。
相手が傷ついていると知っていても。
でも、おかしいと思ったり間違っていると感じたことは曲げたくはない。
時にそれは確執を生むとわかっていてもです。
自分が媚びればよいのだろうか。
自分の気持ちは押し殺して相手を認めれば機嫌がよくなって今まで通りのやりとりができるけれど、本当にそれでいいのか。
もう関らないほうがいいのだろうか。
二度と前のように互いの価値観を交換し合って話し合うことはできないのだろうか。
どうしてこうも変わったのか、変わったのは自分か、相手か、両方か。
以前と比べてまるで別人に見える。
同じ人間だとは思えないほどの価値観の変わりよう、視野の変化。
自分のほうが悪いのか。
何かがおかしい。
でもそれをうまく言葉にできない。
伝えても伝わらない。
伝えたら逆に切れられた。
自分は間違ったことは伝えていない。
だから気がついて欲しい。
今のあなたはおかしいのに。
しかし逆に自分の思いばかりを伝えて相手の気持ちを知ろうとしていないのは自分なのではないか。
自分のやり方がいけないから相手は自分をけなすのではないか。
それよりも、もう二度と関らなければいいのではないか。
そのほうがもういいではないか。
去年の後半はそんな思いにかられることがたくさんありました。
私は人間のことを短い期間では捉えないようにしました。
それは私がろくでもない人生を歩んでいるから。
そして自分なりに少しずつ昔よりかはよくなってきているのではないかと思うから。
期限を守らない人間です。
約束を守れない人間です。
それでも、待ってくれている人がいるし、信じてくれている人がいる。
裏切った人もたくさんいるし、利用した人もたくさんいる。
小さなことをつつけば、生きていて申し訳ないような人生を過ごしている。
それでも、少しずつ変わってこれた。
そんな自分への思いがあるから、他人のことも変わるんだと信じたい。
自分への甘さから、他人への思いやりになるとは非難に値することかもしれない。
人の絆もまた、短い期間では量ることができない。
変な話、10年後にわかりあえるかもしれない。そんな可能性だってある。
他人を思い通りにすることはできない。
何も役に立ってない。ただ相手を怒らせて傷つけただけだと無力感に打ちのめされ、相手に与えられた衝撃に何もかも放棄したい悔しさにかられることだってある。
人は強くはない。
でも強くあろうとすることはできる。
傷ついても、汚れても、這ってでも前に進む勇気があれば、必ずほほ笑んでくれる人は出てくる。
苦しもう。
悲しもう。
人を救おうとすることは、本当に辛いことです。
途中で投げ出して裏切ったと言われることだってあるのです。
だから、覚悟しなければいけない。
その中で覚えていてくれる人はいる。
人の絆とは、魂の中にある。
思いをぶつけるだけではどうにもならないのは、まだ自分の身がかわいいと守りに入っているからかもしれない。
どんな綺麗事言っても、泥臭さが感じられないのは、所詮美談を脚色して語っているに過ぎない。
生身で傷つく覚悟がないと、人は救えない。
社会に出れば、ほとんどの人間は汚れます。
処世術という狡猾さと騙しあいの術を学びます。
それは悪い意味ではなく、どうしても自分の身を守るために、手段を学んでいかないといけない。
じゃなければ悪意のある人間にいとも簡単に騙されます。
金を取られたり、地位を奪われたり、手柄を奪われたり、女性の場合は犯されたりもする。
子供のような純粋さを持ち続けることは難しい。
子供のような感受性を持ち続けることは苦しい。
それでも、魂を尊く持ち続けることだけは諦めてほしくない。
一度捨ててしまえば、取り戻すことは非常に困難だからです。
生きている限り、どんなに失意の底に落ちても、未来はある。
だからこそ希望はある。
自分の可能性というものを強く信じて欲しいと願っています。
そして私も自分を信じて、私の出現を待っている人たちのために、世に出たい。
絆は、消えることはないでしょう。
望み続ける限り。
私も今は連絡していなくても待ってくれている人の存在を信じることがで。
そんな存在がたくさんできれば、人生を力強く歩んでいけると思います。
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