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あさかぜさんは見た

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11/24

Sun

2024

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05/13

Fri

2011

この年になって比較する過去の自分が増えてきて気がつく。
自転車を走らせていると次々と過ぎ行く景色に頭が追いついていない。
前は視界に映ったものを満遍なく見渡せたのが、処理能力が落ちているせいで、集中すべきポイントを絞っている。
「ああ、これはひどい」と感じると同時に、自分がどれだけ新しい刺激にさらされていないかを思い知った。
処理能力が落ちるということは、感性が鈍るということだ。
少年のように新しいものに触れて「わあ」と感動する能力が落ちてくる。
自分の思考回路についても同じことが言える。
毎日のルーティンの中で「自分の周囲はこういうもの」という観衆を通じていつの間にか思考回路まで固まり、決まってきてしまう。
結果発想の転換ができなくなる。
疑問を持たなくなる。
アホらしいことでも平気で信じるようになってくる。
行動様式が画一化される。
つまり、感受性が死に絶え平凡なものになる。
「これは当たり前のことなのだ」といつの間にか無意識で捉えだしている。
目の前のほとんどのものを「慣れ親しんだもの」として脳内が捉えている。
しかも自分の脳が衰えている。
使ってないせいだ。
使っていると思い込んでも、毎日の繰り返しが脳内を硬化させている。
創造の枠組みも狭まり個性は消え去り落ち着くところまで落ちるだろう。

運動をしていないと筋肉は衰える。
食べ物だけ食べて体重が増えぶくぶくと脂肪だけが蓄積されて体が使い物にならなくなってくる。
少し体を動かしただけで面倒になり、すぐ筋肉が痛くなり、動くのも嫌になってくる。
そういう怠惰を突っぱねて筋肉を痛めつけ、動かし、苦痛を与え、鍛える。
そうしないとしなやかな体は作られないし、正常に動かすこともできなくなる。
最近気をつけて運動するようになっているのでよくわかるんだ。
つまり、これは「頭」のことにも置き換えられる。
脳のしなやかさも使って使って使いまくって、しかも新しいものを吸収し続けることでスマートさが保たれる。

年をとっていくということが、怠惰な枠組みの中に常に納まり続けるということではいけない。
それでは創造していく意味がないではないか。

先日400枚ミステリーを先送りにすることに決めた。
とてもではないが間に合わない。
というかあるシチュエーションに遭遇して「話全体を暗号化する」というアイディアが浮かんで構想がぶっ飛んだ。
んもー!自分が楽に書いていけるという程度の話ではとてもじゃないけど、賞なんて取れないんだよね。
自分でどんどん苦痛を与えなければ作家としての進化もない。

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05/08

Sun

2011

病室の窓には北大のポプラが見える。
農業試験場の土色の四角い区画と、牛がのどかに牧草を食べる緑色の四角い区画。
ミニチュアのような北大の建物の奥には大きな筆で横一直線に引いた砂塵のような灰色の雲が、写真を右から左へ動かしていくように、速く動いている。
下の花壇には灰色の空の下、強い風になぶられるように黄色い水仙がフルフルと震えていた。
ようやく札幌では桜の開花宣言。
近くに植えられていた桜は2日前の蕾から一気に花へとなっていた。
それでも最高気温は14度。
西日本じゃ30度にもなろうとしているのに対して、北海道はゆるやかに春を感じ出している。

「手術後は歩いて病室まで帰った」
と父親は言った。
母親と二人で行くと寝ていたが、最初は寝ていた。
少々微熱があると言っていた寝顔は少し赤かったが起きたら赤みが引いてきていた。
たいしたことを話すわけでもなく、一言二言、会話をしては途切れる。
うちの家庭はいつも会話が少なく、まず「会話」で盛り上がることがない。
そんな家庭をずっと築いてきているから、別段寂しいとも思わない。
当然の光景のように受け止めている。
水がまだ飲めないので口をゆすぐ。
ベッドで横になっている父親に母親が水を飲ませて豆のような形のプラスチックのお椀に吐き出すが、肩口にこぼれる。
「へたくそだな」
と、文句を言う。
手術後一日も経過していないのに文句のひとつも言えるようなら、まだまだ長生きできるだろうと内心笑えるようになってきた。
父親が屁をして「聞いたか?」と聞く。
私は「え?もう出るもんなの?」と思っていたが、腸を切り繋いで次の日に屁が出るようなら、おそらく良好なのだろう。
帰る時に「じゃあね」と母親と2人で片手ずつ握り、私は父親の右手を握ったが「痛い痛い」と言われてしまった。
輸血用の穴が右手にはポツっと赤くあった。
それにしても、3人が一瞬とはいえ手を繋いだのは二十数年ぶりなんじゃないだろうか。
心から3人手を繋いで、繋がなくなって、そして色々あって、二十数年も経った。
うちは3人とも典型的なB型家族で、一方的に喋っては終わっていた。
何も伝え合えず、伝わらず、何もかもが崩壊する寸前までいった。
一見何一つ問題がなさそうな、誰しもがうらやむ、よい環境の家族が、今ひとつの再生を見せようとしているのではないかと感じている。

最近面白い考えに触れて「なるほど、もしかしたらそうかも」と世界の捉え方を改めている。
少し話が長くなるので省くが、「量子論」的な考え方で、「人間個人の行いえる行動はあらゆる世界線で行われているので、善と悪の考え方はもうない」という考え方。
私たちの感性では時間や人生は一本でしかないかもしれないが、すべての根源から推測するなら、人間の感性で矛盾したものでも同時に内包しているという。
具体例を出せば、私が今殺人者として刑務所にいた可能性だって、家族なんてもうとっくの昔になくて、ひと財産築いていて、テレビにも出ているとか。
もしそんな世界に自分の人生が傾いていたら、このような日記を書くことはなかった。
そしてこの日記を書くことで「バタフライエフェクト」が発生することもなかった。

また父親の手を握ってこようと思う。
今は等身大の父親が見える。
昔は心がにごっていて何も見えなかったが、今は見える。
お互い小さな人間同士なのだなと、しみじみ感じる。
だからつまらないことが大きなひずみになったり、その逆として小さなことが大きな幸福になっていくことだってある。
私が今数分でも、無言でも、父親と接していくことは、とても大きな意味があるように思えてならない。
気恥ずかしくて、一言だって言えないけれど、文字なら書ける。
「私は、あなたの息子です」と。

ツンデレオヤジめ。

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05/04

Wed

2011

5月2日から父親が入院している。
6日にガンのできた大腸を切る手術をするのだけれど、着替えを届けに行って「また来るよ」と言うと、「もう来なくていいよ」と言う。
次の日も歯磨き粉などを母親に頼まれたので届けに行くと、なんだかんだいって嬉しそうだ。

・・・その時私はとても重大な事実に気がついた。
元々不器用な人間で人におはようもありがとうもごめんなさいも滅多に言わない。
そういう生活をしてきたからそれが当然だと思っていた。
「もう来なくていいよ」と軽く言いながらも、次の日には笑みを隠しきれない。
それにいつも私をスルーして母親の写真を撮っていたが、今日は「写真撮ってやるから、そこに座ってろ」とも。
(病院の食事や自分の顔を毎日撮っているみたい)

こ、こここここれって、「ツンデレ」ってやつ?
しかも還暦過ぎた親父が「リアルツンデレ」とは。
「べ、別に嬉しいわけじゃないんだからね」みたいなことは、漫画の中だけかと思っていた。
なんという盲点。
灯台下暗しとはこのことか。

でもこういう自分の感情を素直に言えない男の人って多いのかもね。
私は泣きもすればわめきもするし、そういう無様な自分を抑えたりはしないので、自分のことを表現したら恥ずかしいという感覚は相当昔に薄れてしまった。

最近、とても不思議な感覚を持っていて、自分がひとつの可能性世界の中で確実に運命めいた道筋を辿っているのではないかと、より実感している。
妙な表現になるが、父親がガンになってくれなければ歩みよりは一生なかったかもしれないし、こうしていることの「前置き」のようなものが、ここ半年ほどで一気に起こっている。
そして現在に至っているのだけれど、やっぱりこの時期でなければいけない何かがあったのだろう。
当然、自分の状態にしても、今ここでこうしていなければいけない理由があるのだろう。
それはきっともっと未来にわかることだろうが、今は運命のような道筋を自分なりにじっくり考えて辿っていくことが、よりよい未来を導き出せることと信じている。

言葉を真に受けるわけではないけれど、否定的なことを口走るので、病気を治してもらって長生きしてもらいたい。
最後の十数年でも家族らしい絆を取り戻して、終わらせたいと考えているからだ。
きっとそれも、できることだろうと思っている。

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05/02

Mon

2011

夢とかデジャブとか

ちょっと私は覚えておくことができず集中力が散漫でどうしても目に付くところにメモしておく必要があるのです。
メモ用紙とか日記とかは絶対どこかになくしてしまうので、ネット上とか一番使うところによくメモしておくのですが、この日記も同じような機能を果たしています。
だから思いついたことを書き留めておくのです。
一度他のことに意識がそれると、今まで考えていたことをすっと忘れたりして、思い出すのが何週間後とかざらにあります。
どうしても「入り込んだ世界」のことを考えないと、思い出すこともなくなってしまうほど記憶の層が薄くなってしまうので。

ところで、夢とかデジャブとか、昔よく見ていたのですが、あれってなんなのでしょうね。
夢から覚めて、自分の部屋だと認識するまでに何秒かかかってしまうこともたまにありました。
デジャブというのは私にとっては過去の見た時点では「予知夢」なのですが、だいたい「覚えていない」というのが特徴です。
逆に言えば「意識できるほどの夢」は実現したためしがない。
だいたい事が終わって、しばらくたって「あれ?」と気がつくのですから、何も役に立たない「予知夢」です。

しかし、よく考えてみるとこれは自分がひとつの「運命」のようなものを辿っていて、緩やかにひとつの地点に近づいているのかもしれないと思うことがあります。
私が小説家になろうとするメリットの中に「自分の人生で起こったことがすべて役に立つ」というのがあります。
これは「イベント=未来の可能性」の「可能性範囲」を狭めないということがいえます。
通常の場合、多くの人間の慣習や社会の中にありますから、そこに入ろうとすればするほど「可能性範囲」が狭まります。
この「可能性範囲」を広げるには今までの慣習や人々の思い込みを打破していく途方もない労力が必要になりますから、人間一人の力では限界があります。
現代社会は多くの選択肢を持っていますが人間が選択できる可能性もまた有限であるため「可能性範囲」には気がつきません。
つまり常に「自由」とは「無法」ではなく「人間が実行可能な行動範囲内」になるわけで、当然この「人間」は「自他」のことですから、互いに干渉しあっても自由だと感じる範囲が必要になるわけです。
それ以上は圧力がかかります。
完全な自由な範囲というのはたいがい他者と関わることで常に補償範囲外にはなるのですが、私たちはいつも「可能性範囲」を予測しながら動いています。

簡単に言えば「誰しも将来の自分」を思い描きながら人生を過ごしている、ということですね。

夢やデジャブに関しては現在では記憶の整理時に起こる錯覚のような説明をされていますが、最近「可能性範囲」をより広い意味で人間が感知しているのではないのか、とも思ったりします。
特に夢を見るときは「緊張状態」の時には絶対見ません。
見ているのでしょうが、意識できるほど強くはない。
それにだいたい体験した現実に近い夢を見たりする。

昔は夢の続きを見ようとしたら見れたし、リラックスしている状態で眠ると何かを見ていた。
これって突き詰めてしまうと人間の思考や魂が何に影響されてあるのか、という取り留めのない、かつ途方もない話になってしまうのかもしれないけれど、ひとつ話の前提として「夢と現実の区別がつかなくなったら人間は発狂する」ということを考えたことがあります。
これを応用すると人間は社会の中で物理現象や社会的な制約を精神で認識しながら「妄想と現実」を区別しているわけですよね。
そして社会の力や制約が強くなればなるほど「現実」のほうに重きを置く。
するとストレスで死んだりする人が増える。
「可能性範囲」が狭まる。
夢は見れない社会になる。

どうしてこの社会で見る実現可能かもしれない夢と寝ている時に見る夢って同じ言葉なんでしょう。
もともとは寝ている夢が近代になって将来実現可能かもしれないことを望む、というような夢の意味でも使われると書いてあるけれど、昔の人は「正夢」のようなものは見なかったのかな。
万が一、寝ている夢を正確に覚えているとしたら、人間が見る夢の中には予知的なものも含まれているのではないか。
そしてその予知ができるのは、人間が現実で体験したもの以外からも影響を受けていて脳がそれを認識しているが、あえて現実を重視するために脳が破棄している情報だとしたらどうだろう。

・・・と、妄想を繰り広げたからといって私には科学的なデータがないし、解明されるのはこれからのことだろうから、ここらでやめにします。

さて、今考えているのはこのことではないから、この日記はメモ代わり。

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04/29

Fri

2011

頭がごちゃごちゃしているのでメモ。

現在原稿用紙400枚程度のミステリー?を書いている途中。
5月末までに間に合うかどうか……。

時間線について考えていました。
シュレーディンガーの猫のことを考えていたのですが、その前にひとつの考えとして、「平常時における人間の運命や状態に関しては観測者の同意の多さによって決められている」というのが漠然と頭に。

小説のテーマとしては良いかも。

ただ、すべてのものは同時に同一に存在しているのではなく、人間という観測者がいる限り、人間の認識における順序があるのではないかと。
たとえば物理法則に関しては観測者のみでは抵抗し得ない。
しかし観測者となりえる人間に対しては影響しうる。

今は記憶や時間を平面のように考えています。
ただこれは自分の勉強不足からイメージを捉えきれていないので、間違っていると思う。
その平面が連続して連なっていて、時間線はずれた平面の重なった部分を通るために最終的には線に収束されていくというイメージ。

我々観測者たちは一寸先の未来を魔法のように変えることはできないが、未来における平面の存在をずらしていくことはできる。
そして、その未来を決めるのは「行動」だけでは足りない。
多くの人間が「信じる」、つまり観測者が未来を「決定付けて見ている」ということがなければ、未来を変化させることはできず、現在の流れを大きく変えることはできない。
マーフィーの法則や多くの自己啓発本にも書いてあるように、まず自分が信じなければならない。
その上で他人も信じさせるほどの「心の力」がないといけない。
己に「疑念」が少しでも存在すれば、信じた分と同じくらい反対の力も働き信心が相殺され、未来には何も影響しなくなる。

物理法則は観測者の同意よりも優位性がある。
言い換えれば物理法則以外のものには人間のほうが優位性がある。
人間一人が容易に未来を変えられない理由は、人間のアイデンティティや存在というものを「記憶」に頼っており、「記憶」は過去を観測できなくなることにより消え去る。
だからこそ自分を保つために過去の記憶を変えられない。
変えられない記憶の連続性よりも強い意思や力が加わらないと未来を変えることはできない。
人間一人が直接的に影響を及ぼせる人間は自分ひとりだけである。

時間の概念についてはまだまだ勉強不足。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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