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(文化庁 | 文化財 | 東北地方太平洋沖地震 関連情報)
私も文化活動をしている端くれとして、何か役に立たないだろうかとあれこれ考えていた。
被災地の役に立とうと思うのなら、現地入りは必須条件だと切に考えている。
そこで何を言われようと、それが地元の人たちの心情なのだとぶたれる覚悟で入るつもりだけれど、何せ先立つものがないと入れないのも事実。
今は準備が整うまで長々と構えていくしかないというのが現状だ。
芸術とはいったい何であるのかというのを常々端くれとして考えるのだが、よく「個人的な欲求を我侭に発散させるもの」として個人の活動を捉えられがちだ。
しかしやっぱり這い上がる人っていうのは天才でもない限り「自分という主体以外のものから大きな力を取り入れて結晶化する(=簡単に言えば人を感動させられる作品を作る)」という作業は経験の中から学んでいくしかない。
失敗を何度も繰り返しながら進んでいくものだ。
叩かれてやめる程度ならその程度の覚悟しかないのだからやめたほうがいいのだが、まあとにかく、お伝えしたいことは芸術というものは日常の生活にはまったく役に立たないと思われがちで、実用的ではない目に見えない作用を及ぼすために通常は不要のものと認識されがちですが、芸術は人々の心の何かの手助けをしたり、そっとささやくような示唆を与えたりと最後の命綱のようなものであったり、心のある一領域の扉を開くための鍵であると端くれとして思うわけです。
創る立場として意図したように綱や鍵が作用しないことは確かですが、そこへ希望を込め続けることをやめてしまっては芸術は成り立たないと思い、邁進しているつもりです。
もちろん万人の感性は多々あり、必ずしも一致するものではなく反作用として劇物となる可能性もありますが、芸術というのは「祈り」をそのまま目に見える形にすることでもあるのかなと感じるところなのです。
他人はどうあるか、それは各々の芸術家の信念にも関わることなので一概にこうとは言えませんが、自然物を含める他者という存在と寄り添い続けていくのが芸術家の最後の希望と祈りにも思います。
芸術は病気を治すことはできません。
お腹をいっぱいにさせたりすることもできません。
しかし明日に繋げるための心のリレーをするためにバトンを渡すような行為だと思っております。
ひとつ、ふたつと、誰かの心の中に残っていくような作品を世界へ刻んでいけたら、芸術家としては本望でございます。
・・・ということです。
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