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あさかぜさんは見た

日記

06/19

Sun

2011

新しいものを作っていくということ

経済っていうのは数字の感覚が大事だっていうことはわかる。
これは普通に生活している人なら生活する金より稼ぐ金が下回ってはいけない。
それは国家でも会社でも同じことがいえる。

自分のような技術を取り扱うことをやっていると、ある程度身につくまで金も時間もかかることが切実にわかる。
芸をゼロから仕込んでものになるまで何とかするということを「事業」として捉えれば、恐ろしいほどバカな話だ。
採算度外視だし、100万人いたら1万人も残らず、そして1000人しか食えず、その上位100人ほどしか残っていけず、さらにその中の1人しか裕福になれない。
こういうバカな世界に初期投資からすると言ったら「頭でもおかしいのか」と常識的には考えるだろう。

基本的に「新しいものを作る」ことは、それだけ労力がかかるということだ。
そして事業として成功する保証がないものを積み重ねていかないといけない。

金回りが悪くなると、育てるほうに金をかけるよりも生き残るほうや生活をしていくほうに重点が置かれる。
しかし「新しいもの」を少しでも作っていくよう労力を割かないと、いずれ選択肢が限りなく少なくなり、最後には何かの拍子になくなってしまう。
確証のあるものは過去にしかないが、過去にあるものが未来の確証になるかといったらそうではない。
だから過去にだけ頼っていては未来の選択肢が少なくなる。

物を作るということは、山ほどの無駄の積み重ねでもある。
その中からようやく使えるような芽が出てきて、さらにそれを懸命に育てると、ようやく「良い」ものになる機会を得る。
物づくりは数字で見れば青ざめるほどくだらないことである。
数字的に見れば、やる「価値」すらないものである。
だから物を創ろうとする人間と、そうでない人間との間には分かり合えない絶対的な溝がある。
採算の取れないものを山ほどやるという行為に軽蔑と嘲笑のまなざしすら覚えるだろう。
それは「数字」を見ていればよくわかることだ。
そして自分で「数字」を扱えばよくわかることだ。

当然余力がなくては新しいものを作っていくことはできない。
しかし悲しいかな。
金で潤っている時ほど欲望のために使いたくなる。
欲望の代償は「ただちには」請求されない。
忘れた頃にやってくるものだ。

小説を書いていてよく思う。
状態を表すだけだったら、これほど多様な表現は必要ないだろう。
結果だけにこだわるなら、あれほど長い枚数を重ねる必要がないだろう。
しかし人は多種多様な表現の中で自分の好みのものを探し出し愛読する。
なぜなのだろうな、と考える。
それは「言葉」という「道具」が、いかに「自分の精神を満足させるか」という点に比重が置かれているからだと思う。
小説を結末だけ読む人はいない。
過程がいかなるものかを楽しんでいる。
結末だけ読むのなら、状況描写だけでいい。

同じように結果だけにこだわるのなら、その結果を生み出すものは何でもいい。
当然最短で出せてコストがかからなくて、利益の高いものがいい。
機械みたいに動いていけばいいだけの話だ。

新しいものを作っていくということは、無駄の中から経験を積み重ねるということでもある。
その経験の中から塵のような次に繋がるものを拾い上げて生かしていく。
そんな途方もないことの積み重ねだ。

ところで「無駄」とは何であろうか。
金にならないことは「無駄」なのであろうか。
役に立たないことは「無駄」なのであろうか。
だから毎年3万人もの「無駄」が、この国から排除されているのだろう。
少なくとも自分が「有益だ」と思っていたら、生き残っていると私は思うのだが。
新しいものを作るということは、未来の可能性を広げるということだ。
たとえそれが結果的に使えないものであったとしても、作ること自体はやめない。
希望があると信じているからだ。
「数字上の無駄」を指摘する人間は、そこだけにこだわっていればいい。

私は今「茹で蛙」のことを考えるよりも「茹で蛙の料理」のことを少しずつ考え出している。
小説も、そのほうが売れるだろうから。

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06/19

Sun

2011

日本人はおかしい?

テレビを見ていて首をかしげることがたくさんある。
日本人がおかしいのか、それとも私のほうがおかしいのか。

例えばJR北海道がトンネル事故を起こした。
今日やったニュースはマニュアルにしたがっていたので事故対応に遅れたのではないかと、マニュアル改善命令を出したという。
唖然とした。
あのさ、会社員ってマニュアル無視したら罰でもあるの?
そもそも煙が見えた時点で機転利かせて指示待ってないで乗客誘導すればよいだけの話じゃないのかな。
それはマニュアルを熟知とかじゃなくて正義感があればできることです。

それと原発の話も相変わらず。
原発なくしたら電力がなくなる。
経済と電力は密接な関係にあるため、単に原発反対する人間は関係がわかっていないのでは?という声がちらほら。
前にもこのことには少し触れたけれど、相変わらず「?」です。
ねえねえ、「電力」というものも「民意」に任せればいいだけの話じゃん。
つまり電力自由化して、他の電力会社の設立を法的に許し、使う側が電力の種類を選べるようにすればいいだけの話じゃないの。
いわゆる巨大な利権スクラムががっちり組まれていて崩したくないからプロパガンダを流し続けているだけでしょう。
戦中戦後から一つも変わらない情報体質で。

静岡のお茶がフランスにつき返されて「薄めれば問題ない」って言い張るのもおかしいよね。
薄める前の段階から問題があるからつき返されたんじゃない。
逆の立場だったら今までの日本人は絶対拒否していると思うけど。
まるで国全体が言葉遊びをしているみたい。
日本人の行動は言葉に準拠しなければならないの?
言葉に違反したものは社会的におかしい存在なのかな?

わからないなあ。
これはゲーム?

何度も繰り返すけど、日本人って馬鹿なの?
それともやっぱり私が変?
一部の目立つ人間に限って馬鹿が見えるだけで、適所で声を出す人は、それほど愚かだとは思わないのだけど。
そもそも発想として「与えられたものの中でしか物事を組み立てられない」というのは、未来の可能性を一切排除した愚考です。
そこには「アイディア」も「クリエーション」もないよね。
創造っていうのは「なかったものを作り出す行動力」のことを言います。
組織のトップは創造する力がもうないわけ?
だから下のものが創造することを放棄しているわけ?

それとも報道が隔たった編集をしているだけ?

私はテレビの向こう側で次々と出てくる日本のお偉いさんが、だんだん現実にいる人だとは思えなくなってきた。
まずいよね、こういう感覚って。
若者は東京離れて地方に戻って、いかにすれば中央から独立できるのか決起していけばいい。
そのくらいの覇気は未来のために欲しいところです。
だって、何度考えても私にとってはおかしい(ストレンジ)な体質なんだもの。

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06/11

Sat

2011

某経済学者の一連のツイートを見ている。
データをあげながらもっともらしいことを言っているように見えるが典型的な思考停止だと思うけれどね。
原発デモ→原発停止→電力不足→企業流出→若年雇用激減。
という図式みたいだけど、理屈では尤もらしく見えるし、その方向性で動いていく可能性は高い。
でもさ、そもそも日本人って黙ってこういう状態になるまでボケらっとしているほど馬鹿なの?
彼の考え方って「経済的影響力のないものは文字通り無力」という前提に立たないと成り立たないと思うのだけど。
そういうふざけた考え方ってあるわけ?

金がない人間はたとえ危険なものでも従属しなければ生活は危うく、人間の尊厳を主張することは経済的影響力上憚られなければいけない。
そんな侮蔑的な状態とは決別しなければいけないのではないかな。
そこまで馬鹿にされてボンヤリしているような民族なら本当に救われないよね、確かに。
だって生きていくための尊厳を主張しない民族なんて民族性の欠片すらないもの。
そこまで日本人は堕ちたのか?
この国に日本人はもういないのかい?

その前に中央がもう危うい臭いを晒しているけれど、こういう人を馬鹿にしたような人間の予想した通りになるのは酷く癪に障るよね。
人間の行動っていうのは何かを主張するだけじゃ足りないんだ。
作らないといけない。
創造するってこと。
それは大きくなくてもいい。
経済的な各国比較で落ち込んだっていい。
その小さな創造をひとつひとつ積み重ねて他人を幸福だと思わせられれば、幸福だと思える人間が増えていけば、それは国家として素晴らしいんじゃないのかい?
積みあがったものを分かち合える環境こそ素晴らしいのではないのかい?
経済力や富の数値が高くなければ人々は国家は不幸そのものになる、という考え方に、どんな創造性があるんだ。
私にはわからないな。

私は素人だからわからない。
だからひとつ聞きたいんだ。
このような経済学者の考え方は日本を幸福にしてきたと言えるのだろうか。

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06/11

Sat

2011

比較癖 勢いで書いた

「何かと比べても意味はない」

これは人のことについて当てはめられることだと言われている。
何故って、人にはそれぞれ長所と短所があって、「長所のない人間はいないし短所のない人間はいない。だから他人と比べることなく自分の長所を信じて突き進めばいいんだよ」という、当たり前のように聞こえて確実にそうではない不条理な日本社会に生きているために、このことを考えるたびに心がねじ切れそうなくらい苦しくなり、「結局人の評価がないと食えもしないじゃん」ってところに考えが落ち着いて、成果の出せぬものは社会を恨み、成果を出せるものは悠々と強者の理論を語るという、弱肉強食で殺伐としたる今日この頃を生きておられる皆様、ご機嫌いかがでございましょうか。

それにしても考えれば考えるほど気づきはしても、どうしようもない社会システムの中で今日も一人でもんどりうっているわけですが、つくづく日本社会って人を部品のように見て考えるところがあるのではないかと気付き、「評価」というシステムそのものが、「いかにシステムの中で役立つか否か」を競っているわけで「システムの中で役に立たない能力や長所」なんて、軽んじられるわけですね。

まあ今日はくどくどと僻みを並べ立てたいわけではなく、ふと「人間らしいってなんだろう」と思い立ち書いているわけですが、作家は基本的には作品上では人間性をそのまま受け入れて書き立てるのが基本です。個人的に苦手でも嫌でも冷静な目で見つめる。
その上で作品上に出てきている人の価値観から一方の人間が虐げられたりということはあるかもしれませんが、殺人者でも狂人でも、そこに何かしらの人間らしさを見つめるわけですね。

よく昔の刑事ドラマなどで出てくるセリフで「悪いのはあいつじゃない。あいつを作り出した社会なんだ」みたいな感じで夕闇のわずかな光を拾い上げるというのが本来の文学ではないかと思うのですが、なにせそんなの売れない。
現実を想起させるような生々しさよりも現実を示唆させるフィクションのほうがずっといいわけです。
つまり「誰もお前の人生そのものなんかに興味持ったり感情移入したりするやつなんかいないんだよ」という薄情極まる当然の常識感覚でお話そのものを楽しみながら間接的かつ輝ける登場人物に自分の理想や感情を重ね合わせながら心を納得させる人がほとんどなのではないでしょうか。

自分はすっかり僻み根性が身に染み付いているのか何かと比較することをやめられず集中できなくて困っております。
まあちょっとした「呪い」のようなものだなと思っているのですが、「比較の中に本当の思いやりや冷静な目なんてあるのだろうか」と考えると、たちまち自分の軸がぶっ飛びそうになり、いてもたってもいられなくなるような不安感にバイクを盗んで走り出し行き先もわからぬまま夜中に校舎の窓ガラスを叩き割りまくりたくなるという衝動にかられ、いやはや困ったものだと30過ぎても18歳のようなエターナルドリーマーなファッキン野郎をやめられないわけです。

と、まあ冗談はここまでにして、「比較論の中には人間らしいぬくもりはない」というのはわかるとして(だって他者比較は長所と短所に優劣をつけることだから)、その先の「比較をしないと不安になる心理」はどこから来るのだろうと考えたいわけです。
ダメな人間は「比較をしないと不安に成るし比較をしてもダメな自分が浮き彫りになってもっと落ち込む」という悪循環を繰り返すわけです。
私のことなんですけどね。

少なくとも何か劣っている部分を強く意識して不安を感じるということは、自分の存在が脅かされる不安を持っているということで、褒められても褒められた気がしない。
いつも馬鹿にされているような気持ちになる。
結局は他者に対する強烈な猜疑心が埋め込まれていて、振り払おうと何しようと機械のように精巧に動いていくわけです。
こういうのって環境が大きいのね。

一度ネガティブスパイラルになるといかにそこから脱するかが最優先事項となります。
なんせ何をしても楽しくない、常にイライラする、他人の幸せを喜べない、などなど様々な呪いの電波を発する物体に変貌していくので、心身ともども大変よくないことは明らかです。

昔からよく相談などをされるのですが、だいたい悩んでいる人がくれる人間環境ってとてもよくなく、周囲にはだいたい正真正銘の下衆がいたり、人を足蹴にする優越感が大好きな鬼畜がいたりするのですね。
私もなぜかその手の人と遭遇するのでよくわかります。

で、ここまできて、極端に言えば「非人間的な感覚を植えつけるやつは誰か」っていうと、この手の下衆や鬼畜が勢力をふるっているってことに気がつくわけです。
なるほど、ファッキンピーポーなだけにマザーファッカーな徒党を組んでやってくることもありますが、たいてい狡猾であるため、他人をいじめる時は「絶対に相手が逆らえない状態にしてつるし上げてサンドバックにする」というお決まりのパターンで攻めてくるサナバビッチなわけです。
まさに城門を破ると同時に怒涛のごとく全軍突撃を命令する軍師のように手を打ってくるわけですね。
そしてさらに気がつくことは当然「貶めてくる」のです。
「貶める」ってことは「比較」をしないとできないことであります。
「あっ!」と、ここについに「自分で他者比較を無意識にしてしまうのはどうしてだろう」という原因を「社会システム」や「評価」以外に見つけてしまうわけです。

このような勢力が力を持ってくると、当然社会全体が貶められることにも繋がるのではないか。
しかし勘違いしないで欲しいのは、だからといって自分で努力することが免ぜられるというわけではないということです。
「平家にあらずんば人にあらず」などという特権階級制度は日本には現在も脈々と、しかもどす黒く流れ続けているのだという現実は、だいぶ明るみに出て来てはいますが、まあ、この手の下衆はたいてい貧民です。
あれです、芥川の「蜘蛛の糸」で地獄に落ちたカンダタです。
一緒に極楽に行こうと糸を伝ってあがってくる人たちに対して、よからぬ思いを抱くというのは、たいてい悪人でございます。
金銭面で恵まれていようとなにしようと心が貧しいのです。

もし何か酷いことをいわれて落ち込んでいる人がいたのなら、そのような悪党どもの声に落ち込んで心を病ませることなどないのだ。
心を歪ませて下衆の仲間入りをすることはない、とボロボロになる前にどうか心を逃がしてやってください。

って、思ったです。

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06/09

Thu

2011

貧しい発想 ~料理と食について~

先日デミグラスソースの缶詰が3分の1ほどあまっていたので鶏がらスープの粉末一杯分と混ぜて冷蔵庫のタッパーに入っていた3膳分ぐらいのカラカラのご飯を入れて洋風おかゆみたいなものを作ってみた。
たまねぎを入れたらさぞおいしかったろうが、野菜はなし。
中に卵を入れてチーズとパセリをトッピング。
別に悪い味ではなかった。
卵の中にご飯を入れてもよかったけれど、なにせ思いつきで初めて作ってみたので味に自信が持てずやめた。

デミグラスソースは缶詰を使ったけれど、最初から作ったらどうなるのだろうと調べてみたら、最初から作ったら10時間ほどかかるらしい。
当然化学調味料系のものは一切なし。
すべて最初から作る本格的なものでした。

そこで「これなら缶詰買ったほうが安いし、楽だよね」と思った時気がついた。
鶏がらスープだって最初からきちんととろうとすると数時間かかる。
どうして料理のためにこれだけの時間かける必要があるのだろうとか、毎日やると面倒くさいとか、他にもやることがあるしとか、色々な面で「料理を作って生きていくということはどういうことか」を忘れがちである。
「腹がふくれればだいたいは一緒」ではないのだ。

「時間が」「労力が」と浮かんでしまうのは、きっと時間に追われていて、疲れていて、生活にも精神にも余裕がないからだろうと思ったのだ。
「金があるなら外食すればいいし」というのも個人の考え方としては少々貧しい。
たとえば前にこんにゃくの作り方を調べたけれど、実はとても労力がかかる。
本来はそのままでは食べられないものを食べられるようにするまでには時間も労力もかかるのだ。
昔から伝わっている料理の中にはこんにゃくのようにアクとりをしなければいけないものがたくさんある。
食べるまでに手間がかかるのだ。
本格的な料理でも日本食には手間隙かけて仕上げていく料理が多い。
出汁ひとつとるのにも、微妙な風味や味わいを大事にする。
それを出すには非常に時間がかかる。
精進料理だってわざわざゴマをすり鉢で潰してから食べる。

そもそも、なぜそれほど手のこんだ料理を編み出したのだろうか。
今の現代人の生活はスピードが要求される。
いかに素早く、いかに正確に、効率的にレベルの高いことをやるかを競っている。

「デミグラスソースは自分で作るよりも缶詰を買ったほうが時間も労力もお金もかからない」
という発想は誰でもする。
そこをあえて「時間や労力なんて食事から得られる豊かさに比べれば惜しいとも思わない」と考える人は少ない。
多くの人間は「過程の状態」ではなく「結果の状態」を重視しがちだからだ。
つまり「結果から手段を逆算して考える」ということだ。

そもそも仕事をすれば当然「拘束される時間」が発生する。
その間は「お金」に還元されるわけだ。
ここまでは当たり前だと思う。

通常「淡いもの」を巧みに使い分けるには相当の感性が必要になる。
料理だっていいものは味わいが奥深くなる。
つまり「淡さ」が含まれている。
そうでなくとも化学調味料に頼らない料理をしていれば少々の味付けで変化してくることはわかってくる。
感性が鈍ってくると、非常に大雑把になっても気にならなくなる。
日本人が文化を作り出す上で労力を惜しまない時間への感性も非常にゆったりしているのは自然が多かったせいなのではないかと思うのだが、時間と労力をお金というものに換算してしまう考え方は非常にせせこましい気持ちになってくる。
それも意識されず蝕まれていくのだから厄介だ。

いつの間にか時間を生きようとしているのではなく、時間に追われ管理されながら生きていっている。
その中でどうしても無意識に労力の代価を結果から逆算している。
生きるとは学びだ。
学びがある限りは向上心が出てくる。
しかし感性が足りなければ、向上心なんて沸いてこないだろうし、違いも気にならない。
極端な状態だと心が死んで五感が麻痺する。
過程が気にならなくなり、微妙な違いがわからなくなる。
愛情がなくなれば恋人の変化にも気がつかなくなることと一緒だ。

せせこましくなると時間に余裕をもって様々な向上心をもって学んでいこうとする気持ちが薄れるし、気づきも少なくなる。
食べることにも興味がなくなりカップラーメンとかレトルトで充分だし、とどこまでも怠惰になってくる。
「食」とは「体を作ること」である。
だから生きられる。
体を作っていくということは、学びも同然だ。
脳が日々新しく経験を経て変化していくのと同じように食べ物を食べて体を変化させていく。
時間があるし年も老いるから変化があるのは当たり前。
ゆえに「食」も大変重要な学びの要素だ。
そして料理を経験することによって外食の味だって変わってくる。
「この味を出すのにどれだけ苦労したか」と味わい深くなってきたりするものだ。

残念ながら、この「学び」はお金を払って易々と手に入れられるものではない。
感性のなせることだと思っている。
それを「労力が」とか「お金が」とか「時間が」と考えてしまうのは、既に貧しい発想なのではないかと気がついたのだ。

「食」は体と同時に「心を作るもの」でもある。
これを忘れてはいけない。
簡単お手軽料理も時間のない人には大事かもしれないが、ひとつの料理に魂を込めてみるのも、貧しい感性にならないためにも必要なことだ。
なぜなら、貧しい発想は豊かさを生まないから。
そして豊かさがないということは、幅広い創造性や、創造性から生まれる幅広い選択肢を生み出さないということだから。

さすがに10時間ほどもかかるデミグラスソースは時間を確保しないときついけれど、「食べるとは何か」についてよく考えさせられました。
時間に対して豊かさを持とうとする感性は常に磨いていなければさびれてしまうのだ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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