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あさかぜさんは見た

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11/25

Mon

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09/10

Thu

2009

イチロー クローズアップ現代

彼の話を聞くたびに、姿を見るたびにはっとする。

打てそうもないような球を打っている。

自分もそうあるべきなのだ。
当たりそうもないようなものを当てる技術を作る。

迷いを上回る練習をして、技術を作る。
恐怖に打ち勝って、自分を超える。

何がいいものかわからない。
どれを出せばいいのかもわからなくなる。

色々考えだけが積み重なって行動が遅くなる。
そういうのはやめにしないといけないんだ。

体を作ろう。
気持ちを作ろう。
それらを裏打ちする技術を作ろう。

人生を踊らなくちゃいけない。
踊れるように、感覚を研ぎ澄まさないといけない。

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09/01

Tue

2009

努力が足りない。
当然のことだろう。
そう言われてきた。

かたや未成年で先生と呼ばれて仕事をしている人間もいる。

そういうのを見て自分を比べると、血が冷える。
急速冷凍されたみたいに、ぞっと血の温度が土の底まで一気に滑り落ちるような感じを受ける。

迷いはある。
いつもいつも。

――自分は何をやっているのだ。

迷いが行動を遅くする。

書いて不満が残る。
こんなのではダメだ。

力みすぎて、今度は「難しいね」と言われる。

自分は自分のままでいなくてはいけないと思っていても、ぶれる。
感情がぶれて、ゆれて、きしんで、崩れかけて、また必死に立ち直ろうとする。

何度もそういうことを繰り返して、時間だけが過ぎる。
馬鹿らしいと思い、自分に呆れる。

冷たい血が駆け巡っている。
それが現状。

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08/24

Mon

2009

選挙活動に対して

ナマ鈴木宗男というのを初めて目の当たりにしました。
毎日鍛えていらっしゃるとのこと、自分よりも元気だった。
あれはきっと不断の努力のたまものなのでしょう。
ああいうバイタリティーがないと政治家なんてできないのかもね。

そして後になれば遠くから町村信孝の選挙カーの音声が聞こえてくる。

さて、演説をしていたほうは鈴木宗男さんでいらっしゃったのだが、聞くにあたり、どうにもしっくり来ない。
自分が文を書くにあたり、言葉の選び方や内容がわかると、相手の演説のこともわかるわけですが、あれは詐欺師のテクニックですね。

これはどこの政治家の街頭演説でも同じことが言えるのですが、もっともらしいことを並べ立てて、具体的な内容がまったく話されず、遠巻きに聴衆を置きながら、現在の問題を漠然と、かつあいまいに並べ立て、あたかも国民が望んでいるかのような声、声援、不満を羅列し、マスメディアでやられつくしたような問題点を言い、そして去っていくという。

正直に言って、もう政治家はこういうことはやめたほうがいいと思う。
このインターネットの時代、情報が手に入りやすくなっている。
きちんと責任を持って投票をしたいと思っている有権者たちが望んでいるのは、内部の事情を知らないものが言うようなマスメディアの上っ面をなでたような論調ではなく、問題点を暴露しきって、そこに対して具体的にどのような案を持っているのか、ということなのではないでしょうか。
投票権を持っていて、少なくとも正治に関心はなくとも、日本のことを好きだという人は、責任ある投票をしたいと望んでいるはずです。
あんなあいまいな言い方では、中身もわからず、当選してからどうしたいのかも見えてこず、投げっぱなしの投票に、当選後勝手に動いていく政治家、そういうのは勘弁して欲しいと思っている方も少なくないのではないでしょうか。

いいことばっかり言って、グラビアアイドルの宣伝とあまり変わらないのではないかと思ってしまった。

当然、内部を詳細に知れば実現不可能、困難なこともできるでしょう。
それはそれで、きちんと向かっていく姿勢さえあれば、わかってくれる方も多いはず。

私たちはどれだけ国会で法案が通されているのか理解してません。
また、その内容にも目を通す時間がないでしょう。
だからこそ、真実を伝える人は貴重で、その真実に向かって案を持ってやりたいと願う政治家は大切になってきます。

責任を持ちたくても、責任をもてない票では、やはりどうしようもない。
会社のパンフレットみたいな、いいとこしか出してないものはいらない。
もっとどろどろしててもいいと思っています。
国家機密を扱っているわけじゃない。
国民あっての国家で、国民を支えるための国家で、善良で誠実さをもつ国民に対して誠実に対処するのが良識ある国づくりだとは思うのだけれど、実際のところはそう動けないとなると、不審、不安が広がり、あれこれとよからぬうわさだけが飛び交う。
あんまりよくないと思うのですけれどね。

政治家の誠実さって、我々の職業と似ていると思いますよ。
たくさんの人に耳を傾けて、たくさんの人の気持ちを知って、たくさんの人々がよりよくなるにはどうすればいいのかの理念をたてて、そして現状の問題点を知り、仕事に打ち込んでいく。

今は内部事情を知らないから、こう書いているものの、また中身を知ったら黙り込んだり、遠巻きに言うように自分もなったりしてね。
どうしましょ。

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08/20

Thu

2009

「奥山貴宏って知ってる?」

と、聞かれて「知らない。誰?」と言うと、有名なライターで33歳で癌によりこの世を去った人だと言う。
聞いてきた人は、今私が何をやろうとしていて、どんなものを書いているのかよく知っている。

「もし、100歳まで生きれて、それまで一切小説が出ずに健康に生きられるのと、すぐ死ぬけど作品が世に出るのとどっちがいい?」

考えるまでもなく、すぐ死ぬほうを選ぶと答えた。

商業作家でもない限り、作家をやろう、作品を作ろうという気持ちの中には、使命感がある。
それは前にも書いたけれど、ある意味勘違いかもしれないし、自惚れかもしれないし、いずれにせよ、社会に対するあるメッセージを抱え、それを伝えられるのは自分しかいないのではないかという気持ちがどこかにある。
その上で作家としての名声や、金、それがあると作家活動がしやすくなる。
社会に対する鋭い疑問点や、まったく誰も見ないような側面から人間を捉えて、こういう一面もあるのではないですか?そうなった時どうするんですか?どう思いますか?
作家は常に読者に投げかけを求めていて、発信しようと試みている。
そのうえで対人でうぬぼれがあるとしたら、もう作家としての使命は果たしづらい。

そして何よりも時期がある。
この時期に考えておかなければ、次が続かない。
それは思春期のある時点であったり、10年ごとの節目であるかもしれない。
本当によい作品とは、読者と一緒に苦悩し、読者以上に自らを痛めつけている。
練磨、研磨。
よい輝きを放つには傷をつけなければいけないのは当たり前のこと。
ゆえに発信者であると同時に自己破壊者でもある。

次を書く気がない。
同じものしか作れない。
取材もしないようなやつを軽々と先生なんて祭り上げるようなこのご時勢。
ヤクザ家業みたいな出版社。
正統派を残していけないのは、本当に人間への直観力が優れている才能を文学賞で拾えないから。
いずれは国語問題にも発展していく大事なことなのにね。

よく作家のことで「人間性」を取り上げる人がいるけれど、残念ながら人と違って突出した部分のある人間ってたいていは「おかしい」と思われるタイプが多い。
人と目線が同じであるという「公共性」の感覚はとても大事だけれど、それは作品で出ていればいい。

作家をやっていくということは、ライターとは違う。
作家であるということは、破壊者でなければいけない。
使命感のないやつに金を与えたって、自分のためにしか使わないだろ。

奥山貴宏という人は、ほぼ死の直前にライターから小説家として作家デビューしたそうだ。
私がその友達に今自分が持っている作家としての価値観を言うと「その人もそう書いていた」と言った。

今生きていれば40歳くらいだそうだ。
どんなことになっても、私は最後まで書いているかもしれないなと思う。

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08/06

Thu

2009

認めたくないもの

本当に滅びて欲しくない大事な文化があるのなら、金を払うべき。
じゃなければ、いずれ自分の認めたくないものが多くはびこって、最終的には古いものは破壊されていく。

自分で作っていけるのならまだしも、それができないのなら、守るべき行動と資金源を確保して、あらゆる意味で投資していかなければいけない。

…って、思う。

アンチ携帯小説のコミュを見ているけれど、本当にああいう小説はおかしいと思うし、官能小説にフィルターがかかって、彼らの際どい、もしくは度が過ぎた内容に規制がかからないのは、正直言っておかしいし、狂ってる。
やりたい放題の下劣な御伽噺。

でも本音としてはおいしい話なんだよ?
少ない文字数で文学よりも稚拙で推敲や一文にかける労力も少なくていい。
いわば職人技術が必要だったものが、技術度外視で、片手間でできて、売れれば数百万以上が手に入る。

真面目に小説作ったり文学をするには、本当にお金がかかる。
どうしてお金がかかるか。

人生経験で書ける小説なんていうのはせいぜい生涯に二三本だと思う。
本物の小説家はジャンルも経験もしたこともないことを書けないと役に立たない。

当然、題材にする対象を取材しなければ「文学」と呼べるレベルまで描写が緻密にならない。
その取材費の中には「資料費」「滞在費」「移動費」「生活費」その他もろもろの税金など、様々な費用がかかってくる。
また意外に多くなるのが「交際費」。
これは大きい。
飲み屋で話を聞く、誰かに付き合う、現場にある程度密着したことをやるには「遊んでいる」ような金も必要になる。

話を聞くだけじゃ、空気までは描写できないよ。
必要ないと言われればそれまでだし、そこまで求めなくてもある程度話だけで小説は何とかなる部分がある。

悲しいけれど金がないとある程度本格的なものはできないよ。
その金が稼げるところに人が流れていくのは「業」だ。

文学というものから若い世代が離れているのには、教育や環境もあると思う。
それは証明ができないほど間接的な要因も含まれているだろうけれど、残念ながら責任の一端は社会を構成している我々にもある。

例えば携帯小説が嫌い。
だったら、文学がどれだけ面白いのか日夜伝えているのか。
文学が廃れないように、なんらかの行動はしているのか。
批判は大事かもしれないけれど批判だけじゃどうにもならないよ。
この世の中。
大きな流れは少数の人間じゃ止められない。

我々のような名前も売れない雑魚は「ダメなもの」に加担するしかなくなってくる。
認めたくなくても、もう現実がそこにあるじゃないか。



P.S.
現在現役女子学生の友達の携帯小説を読んでいますが、なんとなく理解できたのは、携帯小説は「読み物」として成功したのではなく、「コミュニケーションツール」として成功したのではないでしょうか。
誰もが書き手になれる。自分の都合のいい話を書いて、まさに彼女らの「したい!」「きゅんとする!」「悲しい!」そういう気持ちを共有しながら、自分が置かれている様々な環境について話し合うきっかけができる。
そういう役割が大きいように思いました。
そして直接的に自分のことを話さなくても、自分が誰にも打ち明けられない感情を何かの力を借りて誰かに間接的に言う。
このようなコミュニケーションとしてのツールとして成り立っている。
じゃあ、現在の文学について「何が危機なのか」という問いの答えが少々変わってくるように思います。
文学の力が失いつつあるひとつの原因として「人と人を繋げる力が弱くなっている」ということが、ひとつ上げられてくると思います。
当然従来言われていたように、日本語、言葉力の弱体化は言えると思いますが、上記の原因を挙げると、現在の学生は何かをきっかけにして本音の連帯感やコミュニケーションをするという安心感を得たいのだと推測でき、その裏には「孤独感」があるのではと推測できるわけです。
人を描くということは、当然人間社会が抱えている潜在的、表面的問題が自然にあぶりだされてきます。
人間らしい人間が描写されているということは、個人、社会への投げかけとほぼイコールになります。
しかし、ただの「お話」を書いてしまえば、その力は薄れます。
プロの作家でさえ、商業的で安易な話を量産するのですから、御伽噺を書いているという点においては中高生となんら変わらないわけです。
そして、携帯小説よりもコミュニケーション機能が弱いとなれば、惨敗していると言ってもよいくらいです。
人間は心理的に大きく行動が左右されます。
ちょっとしたことでも気分が変わり、行動が変わり、そしてそのちょっとした変化が大きな分岐点になることもあります。
「お話」というのは、これらの複雑多岐な可能性と要因をほとんど無視して、作者の思い通りにことを運ぶ読み物であります。
小説における作品が無限の情報を持っているということも、この幾百万あるかわからない分岐点や可能性の示唆であると思います。
ご都合主義の携帯小説に、ご都合主義の出版社。
金の流れるところに業ありき。
欲望を満たそうとする互いの感情で成り立っている側面もありますが、変えたいのなら、文句を言う前にもっと関っていかなければいけないのではと感じました。
そうでなければ、余計にひどくなるからね。
想像力のない人間は、必ず貧しい発想で人を不幸にする。
正統派では、到底生きていけない時代になってしまったのです。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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