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あさかぜさんは見た

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07/28

Tue

2009



面白いものを見つけた。
「俎上の鯉は二度跳ねる」は、ボーイズラブと呼ばれる、美少年同士の恋愛もの。
「1Q84」は、村上春樹の小説。

さて、何が面白いかと言うと、レビューである。

村上春樹といえば、昔から活躍していた小説家で、「春樹節」をだいたい予想して、「ああ、やっぱり春樹だ」というノスタルジックな気分に浸り、あたかも浸かりやすい温度の湯に満たされるような緩いファンタジー感を楽しみ、現代社会のギスギスした人間関係の苦しさから必死の呼吸を試みるための空気転換というのが、彼の作品の主目的なのではないかと思う。
空気転換をしたからと言って、部屋の様相が変わるわけではなく、浸かりやすい湯に浸ったからと言って、明日の運命が変わるわけではない。
村上春樹の小説は、ちょっとした逃避旅行をしながら、異世界から違う気分で何かを見つめなおすのにちょうどいい。
彼の小説たるや、人生を突き詰めていった百戦錬磨の大人が改めてテーマを捉えて考え直すようなものではなく、そこに今まで思いもつかなかった、いや、思いこそしなかった子供に、このようなことも考えなければいけないのですよ、と優しく問題の入り口へと導く入門書のようなものなのである。
逆を言うならば、忘れかけていた初歩的な問題点に立ち戻るためにも、村上春樹のファンタジー世界は重要なのかもしれない。

そのうえで、今更村上春樹小説にケチをつけるなんていうのは、「小説あまり読んだことありません」と豪語するに等しい行為であり、いちいち子供の素行にケチをつけて彼らに何も教えたがらないアダルトチルドレンと同等のレベルと見ていい。
読みなれている人は「ああ、またか」「見逃してやれよ、ハルキなんだから」と、批判している人たちを「どうしようもねえな」という気持ちで眺めているに違いない。

しかし、問題点は春樹の小説ではない。
各々のレビューにある。

「俎上の鯉は二度跳ねる」はボーイズラブという、恐らく通常の男はほとんど手に取りも興味もわきはしない、男同士の恋愛ものである。
小説ではなく、コミックなのだろうが(というか読んだことがない)、かつてこれほど熱意みなぎったレビューを読んだことがなかった。
だいたい読者は主に女性。
読んでいただければわかるのだが、この手の話にまったく興味がない私でも非常に内容が気になった。
特に読みこみ方が玄人の域に達していて、通常の書評のレベルを凌駕しきっている。
作品を何度も読み返してプロットの仕掛けまで読み込み理解し、小説ではないコミックであるにも関らず、下手な小説家よりも貫通力の高い比喩で作品をぶち抜き、そして各キャラクターが背負っているテーマすらも神を信じて疑わない命をも捧げる信奉者のごとく自らの心に宿し我が身のごとく共有し、そして何よりも語っても語りつくせない、こんな私の陳腐な言葉では足りない、この作品の至上の価値は伝えきることができないのだという切なさと、それでも断崖絶壁の向こう側の愛しき存在に必死に気持ちを届けたいのだという熱意の強烈なジレンマが感じられる。
そして作品の内容をも離れ、紙質やコマ割りにもこだわり、私はこの作品に出会うがために生きてきたのだという運命すらもレビューから感じ取れるとはいかなることか。
この作品のすべての存在こそ完璧でなければいけないのだという思い入れよう。
この作品はもはや作品ではなく、私の体の一部の痛みとして、喜びとして、愛情として、悲しみとして、そして糧として存在しているに他ならないのだとでも言わんとばかりのレビュー。
読んでいるだけで感動するではないか。

村上春樹ファンに告ぐ。
君たちはこれほどの熱意と語彙を持って、かつて春樹作品を賛美しただろうか。
いや、強烈な春樹ファンでさえ、このレベルに達することはできない。
これはそもそも作品が持っているポテンシャルのせいなのか、それとも春樹のファンすらも春樹を理解しきれていないのか。
それとも村上春樹と心中する気持ちはないのか。
恋は人を詩人にするというが、愛情すらもまた人を詩人にするようだ。

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07/14

Tue

2009

いらないつまらないと言われればそれまでだけれど、好きになってくれた人は、恋をしているにも似ている。
もっと読みたいなと、もっと一緒にいたいなと、恋人と一緒に時間を積み重ねるにも似たり。

努力のない関係はありえなくて、よりよい関係は惚れさせてやろうという意気込みと積み重ねと、惚れてよかったと思える関係に似たり。

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07/13

Mon

2009

自殺というのは、DNAが働いているのではないかと言われている

はとぽっぽ弟が発言したことらしいのですが、通常科学は実例を元に推論をたて、推論を裏付ける証拠を集めていく。

当然親や兄弟が自殺して、特にそれが思春期の場合に起こったら、人生に暗い影を落とすのは当然のことで、生涯忘れない事件としてことあるごとに思い返すことと思う。
その上で、そのような深層心理に落ちた不安要素が、人生の中でなんらかの大きな要因になることは考えられなくもないのだが、しかしそのような心理的要因で起こる自殺と、DNAを直結して考えてみるのは、推論の方法としては間違ってはいないかもしれないが、「自殺遺伝子」があると立証されるまでは単なる推論でしかなく、もし「自殺遺伝子」なるものがあれば、「遺伝子型自殺」は将来遺伝子治療によって完全に治療できることを断言したも同然である。

しかし、DNAから考えてみると、細胞を作る遺伝子があり、脳内の電気信号もこのDNAに多少左右されると考えるならば、自殺しやすい遺伝子や、うつ病になりやすい遺伝子というのがあるのではないかと推論だてるのも当然の話だ。

ということで、調べてみたら、やっぱり同じこと考えてすでにある程度推測している人たちがいた。

http://saito-therapy.org/new_finding/suicdgene.htm

http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno10/4021/21hp/M4021102.htm



まあ、自殺と一口に言っても、死ぬという決断をする行為は二次的なものであって、死にたい何かがあるから自殺するのである。
それは当たり前のこと。
科学の観点から考えれば、自殺遺伝子があっても、自殺まで決行させちゃう環境があるから死んでしまうというのも十二分に言える。

人間は生まれたときに素質は決まっているかもしれないけれど、人生まで決まっていないのは、後天的に獲得するものが、生まれた時に得ていたものよりもはるかに大きいからではないかと思うのですよ。

「なりやすい」という因果はあっても、「しなければいけない」とまではならないのは、やはり環境が大事だからなのでは?と思うわけです。



追記:
ちなみにこのようなDNA情報について昔から懸念されていたのが「保険」の問題ね。
例えば医療機関などでDNA審査ができるようになり、アルコール依存症や、疾患の危険性が高い遺伝子を持つものがいて、その情報が保険屋に流れてしまうと、保険に入れない人間が出てきたり、保険金の支払いに支障をきたしたりなどして、明らかなる差別化が生まれてくると。
この話を聞いたのはもうすでに10年以上昔。
遺伝子解読って相当な時間がかかるのね。
根気のいる作業です。

こっからはもうSFの話しになるけれど、国家がDNA情報を管理し、犯罪を起こしやすい者をナノマシンでマーキングする。
24時間体内に埋め込まれたナノマシンが国に情報を提供し、体内物質情報により、以上に興奮したりなどする時、秘密警察が監視をするとか、考えられなくもない。
結婚の際に遺伝子情報を元に、人間の優劣を決めるとかもあるだろうし。

自分が死ぬまで人類は遺伝子にどれだけ接近することができるのか興味はあるところです。

しかし、不安定要素があるから遺伝子も人間も進歩してきたんじゃないの?遺伝子的に「完全なもの」が何かもわからないのに、優劣を論じるのは、それこそ論外なのでは。
通常生活レベルでは充分に論じられるけれど、それで遺伝子までもくくって論じてしまうのはねぇ…見境がない。

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07/11

Sat

2009

無知な作家として

何か豊富な知識があるわけでもない。
自慢できる長所があるわけではない。

勘だけを頼りに、科学的な証拠を探していく。
共通点を集めて、人物像を作り上げていく。

完全オリジナルで作品を作れる作家とは、どれくらいいるのだろう。
誰しも何かから影響を受けたり、模倣を繰り返しながら自分の技術を模索していく。

模倣をしないで大物になる芸術家は皆無だ。
例えば絵画でもデッサンにデッサンを重ねて技法を会得していく。
やがてその中から自分のオリジナリティーが出てくる。

これだけたくさんの人間がいて情報を流しているのに、的確な指摘ができる人物は稀で貴重だ。
振り回されやすく、大きな虚像に飲み込まれ、どうしようもなく覆せない時もある。
人間の心理は、いったん自分の中で合理的な結論を見つけると、なかなかそこからシフトすることができないので、しょうがないことかもしれない。

間違った理屈でも、それらしければまかり通ってしまったり、あたかも正しそうな理屈でも現場では無力なことがある。
論理が正しければ、すべてが正しいわけでもないし、円滑に物事が動いていくわけではない。

芸術家に求められるのは「観察眼」だ。
「売れるものを的確に出していく」というのも、言わば観察眼のなせるわざなのかもしれない。
上記の一文には、いまだ自分でしっくりとこない部分がある。

売れるものと売れないものの差は何か。

「売れなきゃどうしようもない」

そう口々に言われる。

自分の才能を疑う時がある。
歌とか音楽とか、他者の作品に対するコメントなど触れるにあたり、他者は自分の気に入ったものに価値を与えるのは当然のことだが、「価値」とはなんだろうとか、「大事」にしてもらえる「作品」とは何かとか、「魅力」が無いから伸びないのではないかとか、様々なキーワードが浮かんでは消える。

他者の評価を気にすることほど、何かに媚びていることはない。
創作者として下劣な行為であることは確かだけれど、創作者は発信をしたいから創るわけであり、創ったものに触れてもらって、感じてもらいたいからこそ創るわけであって、自己満足のためではない。
何かを外部から感じて創作物として昇華しているのに、誰にも伝えたくないとなれば、自然礼賛・崇拝者か俗物かのどちらかだ。

「まだまだ世界観が狭すぎる」

そう指摘されたこともある。

広い世界観とはなんだろう。
豊かな表現や心理描写、貧しさの中でも様々なものを感じ取り芸術として増幅させるような、たくましい精神。

人々の生活の中には本来芸術となるべきものがすでに密着しているはずなのに、知識を得ることでそこにとらわれて無知に拍車をかけることは愚かしいことではある。

しかし人は自分の愚かさに心底気がつくことは少ない。

音楽のように素直に伝わって、素直に感動してもらって、何の疑問も持たずに周囲に伝えて喜びを共有できるような物を創っていきたい。
それにあえて反しなければいけない時もあるだろう。

いつの間にか傲慢になり、他者を見下すような理屈をこねくりまわすようになったら、もうダメだろう。

自分は今どこにいるのかもわからない。
いや、わかっていないふりをしているのかもしれない。

ねたみ、ひがみ、卑下、鎖は思ったよりも分厚く、何重にもまかれていて、相当負の感情を出すことが癖になっている。

これを断ち切らなければいけないのはわかっているのだが。

世に出るまで、どれほどの時間を費やさないといけないのだろう。
もどかしい日々は続く。

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07/06

Mon

2009

芸術は破壊だと思っている。

しかし、個人的な自由が行き過ぎると無法になるように、破壊活動も行き過ぎると、それは単なる侮辱でしかない。

中庸、バランスを考えるといつも悩む。

最初からくくりを作ると何も生まれない。

色々な情報が簡単に手に入る時代になった。

自分で「やりすぎだろ」と思っていたようなことも、何十倍の威力でぶっ飛んでやっている人間たちがいることを知れば、「まだ自分のほうがかわいげがあって、子供じみた考えだ」ということがわかる。

秩序とは、他者を見据えたものだと思っている。
破壊とは、独善でかまわない。

とてつもなく隔たっていると感じているものに出会うと、どうしても自分の中でバランスを取りたくなって、もっと多くの人と出会い、話を聞きたいと思う。
どうしても自分は、自分だけで突出できないタイプらしく、色々と気を使ったりしているようだ。

しかし、少なくとも書き手に必要なのは、ある程度の「公の感覚」であって、それを基準にして、意図的にハメをはずしたり、がちがちに規約を守ったりということを脳内でしないと、作品そのものが壊れてしまう。

情報化社会の中に生き、これだけの掴みきれない情報の中で、本当に「個性」なるものは存在するのだろうかと思う。
模倣の中から新しい物が生まれてくるのは歴史の常だけれども、「個性」とはいったい何のことを指すのかわからなくなる。
結局人間の脳も、与えられた情報で思考回路が成り立っている。
ほとんどの場合、ある程度知っていけば、思考のパターンがわかってくる。
なぜだろう。
個性がないからなのではないか?とふと思ってしまう。
意味の無い不安や、勝手な推測、思想だけの暴走、妄想の伽藍が横行し、現実を見据えたものが薄れてきている。
これは芸術が目指すべきところなのだろうか。

現体制が不安定なのではない。
現実を見失ってきているのではないか。
「人それぞれ」ではない。
人々の中にもその核となるものは存在するはず。

これだけ情報が溢れていながら、思想だけが暴走し、現実はなおざりにされている。
多様性を否定しているわけではなく、一言で言うならば「心の豊かさ」なのだが、やはり難しい言い方をすれば「多くの人間が他者との関りの中で、もっと溢れた想像力や創造力を発揮できる環境」がなくなってきているのではと感じるのだ。

その根底にあるのは人間としての核となるものであり、そして他者と共有できるものに他ならない。
自分だけの「核」ではない。
他者と共有できなければ意味が無い。

つまり、それが芸術としての秩序だと思うのだ。

模索中の思考で、文章そのものが支離滅裂だが、これはこれでメモ程度に置いておく。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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