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あさかぜさんは見た

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05/23

Sat

2009

「私のこと、書いてるの?」

よく女性を描く時や、詩を描く時、思いもよらない人からコメントをもらったりする。
意外な人が、同じことを思っていたのだと、そのことを指摘されることに恐怖しているのだと、そこで初めて知ることも少なくない。

多くの人たちの相談に乗ってきた。
女性の場合、人生相談よりも、恋愛相談のほうが多い。
何人も何人も相談に乗っていくと、妙なことに気がついた。
ほとんどの人間が同じことで悩んでいた。

「相手の気持ちがわからない」
「相手がこうなのだけどどうしていいかわからない」

この手の相談をしてくる女性は、すべて「自分を殺して」いた。
すべて「相手が前提」で「自分の気持ちが成り立って」いた。
他者の中に、自分の居場所を一生懸命見つけようとして、相手に気に入られようと懸命の努力をしていた。
それを当然のことだと思い、「主体性」だと思っていた。

自分は、この生き方をして、大きく人生が狂った。
もう少しで取り返しのつかない大きな十字架を背負うことになっていた。
もしそうなったら、自殺していたことと思う。
そこまで、周囲が滅茶苦茶になった。
自分を思い返していくうちに、何がいけないのかを自分なりに考えた。
それは自分が右往左往しているせいで、結局周りをみだりにかき乱し、自分では何も決めずに流されて生きてきたのだと、そう考えた。
人に逆らうことはとても恐ろしくて、勇気のいることだった。
今でも、胸のそこから吐き気がするほど、気分が悪くなって動けなくなりそうなことが多々ある。

相談をしてくる女性に対しては、女性がしたいことを優先してアドバイスをする。
これが先走って説教がましいことを言ってしまったら、「なにもわからないくせになに!?」となる。
たいてい自分の気持ちを認めてほしいから相談しに来ているわけで、自分の人生の行く先や、心の変化に対してなど心配して欲しくないのだ。
今、彼にどうしたら受け入れてもらえるのか。
その答えが欲しくて相談しに来る。
たとえ今のままではおかしくなっていくことがわかっていたとしても、それは女性が求めていないアドバイスなので絶対にしゃべらない。

そんな中で、ポツリポツリと自分の中に溜まってきた鬱憤のようなものを、作品として出してみる。
すると、それを見たネット上の知り合いなどから密かにメールが来る。
思い当たるふしがあるのだろう。

小説には普遍性が求められるとよく言われる。
「普遍性」「普遍性」とは言われるが、それはいったい何のことだろう。
わかって言っているのだろうか。
私は感覚ではなんとなくわかっていても、それを言葉で説明することはできない。

しかし、おかしなものだと感じるのは、たとえばバーで女性の横に男性が座ったときに展開する話の内容。
なぜああも人が違っても同じことをしゃべるのか。
女性を少し持ち上げつつ、男の持論を展開する。
セクシャルな話にも少しずつ踏み込みながら、人ってこうだよね、ということを語る。
自分は書いている手前、「そんなのまとめてやるよ!これ一本で充分!」と書きたくなる。

書くと言われるということは、出来としてはよいのだろうか。
まったく言われないよりかは「え?自分のこと?」と思ってくれたほうが作家冥利につきるわけだが。

人のことを、ありのままに捉え、書くことはとても辛い作業でもある。
この書き方でいいのだろうか。
この言葉回しで、届くだろうか。
趣味もあるから一概に言えないが、届かなかった時点で失敗だ。
そこはまさに真剣勝負といえる。
自分が踏み込み、斬る。
失敗すれば、惨めだ。
こっちの心がやられる。
しかし斬ったからといって、自分も無事ではすまない。
人の心に触れることは、ひどく消耗する。
勝手に「同化」することもあるけれど、もう癖のようになっている。
自分を保つのも大変だ。狂いたくなる。

安易な話を書きたい。
浮ついたような、ありえないような、「わあ、楽しかった。おしまい」みたいな、どうでもいいような話。
でも今の自分が生きているのは、永遠とも思える反復、その苦しみに少しでも決着をつけたいと思っている。
そうやって繰り返しながら人は成長していくのではない。
学ぶべきものが、捨て去られてしまっているから、愚かになってきたのだと思う。

十年後二十年後誰も覚えていなくて、「ああ、そういうやつもいたっけ?」という扱いを受けて、誰も自分が作ったものは持ってなくて、「ああ、捨てちゃった」ぐらいの扱いで、生活できる程度の金は充分にあって、それで死にたいときに勝手に死ぬ。
それでいいじゃないか。

でも、自分にはできない。
悲しみや、苦しみに出会うたびに憤る。
自分ですらそれを他人に与えているというのに。
自分が生きた証を残したいわけじゃない。
自分にできることを精一杯して、人類に少しでも貢献できるのならば、と思っている。
こんなヤクザみたいな人間でも、日本人の代表として、人類に貢献できたら、これほど嬉しいことはない。

「私のこと、書いているの?」
腕が上がれば、もっときついことを言ってくる、または恨みを勝手に持つ人もたくさん出てくるかもしれない。
私は、その憎しみすらも背負わなければいけない。
そういう覚悟を持って、今を生きている。
できるだけ、長く、生きていきたい。
人を描くということは、そういうことだと思っている。

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05/20

Wed

2009

魂が抜け落ちて、どこかがらんどうになったような、とことん足りないような、そんな虚無を感じながらでも生きていかなければいけない。

こんなロクデナシでも、最後まで生きたという例を作らないといけない。
お前ら、大丈夫だ。
ロクデナシになっても、最後までロクデナシでいれるやつは少ない。
長い時間がかかっても、思いが徐々に体と気持ちを作り変えていく。
数年?十年?
お前らが考えてもいないような年月はかかるかもしれない。
先を見れば長い。
今日に精一杯しがみつけばいい。

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05/18

Mon

2009

他人を幸せにすることで自分が幸せになる

http://www.asahi.com/business/topics/katsuma/TKY200905030090.html

asahi.comの勝間 和代さんのコラム。

疑問を差し挟んでいるコメントがあるけれど、私はこれがないと未来は絶望的だと考えている。
私は「幸福の定義は人それぞれある」とは考えてはいない。

もし、独善的な考えをして与えないものがいるのならば、すでにその人は不幸だと考えている。

稼いだものを使って与えるのは当然のことじゃないのか?
なぜならば、あなたの商売は、必ずあなた一人では成り立っていない。
使っているものをよく考えて欲しい。
その上で、お金がどのように流れているのかをよく考えて欲しい。
生活一つとっても、電気ガス水道食料衣服交通遊びなど、それらがあってあなたの生活が成り立っていて、あなたはそれらの必ずどれかを使って稼いでいる。

必ずどれかを使って稼いでいる。
お互い様の精神なんじゃないのか。

あなたはそこに感謝の一つもできないのなら、もうすでに「不幸」なんじゃないのか?
不幸も幸福も結果的には自分が招いていることが多い。

前に書いたかもしれないが、本当の「職業観」とは、自分の仕事を通じて他人を幸福にすることだと考えている。
「ああ、俺っていい仕事したな」と思えることは、幸福なんじゃないのか?
大好きな友達が自分の仕事を通じて幸せになってくれたとしたら、嬉しいだろ。
嬉しくないのだとしたら、とても寂しい人間だと思う。

人類愛だとか、友愛だとか、そんなものは必要ない。
自分が身近に接する親や友達や大事な仲間が、少しでも幸せになってくれればいいなと考えるのが、一番の幸福なんじゃないのか。

前の日記で、携帯小説を書くのを断ったと書いた。
よく考えてみれば、もし自分に高校生くらいの娘がいて、「お前たちからお金とって、この飯食わせているんだぞ」なんて言えないと思った。
それを考えるだけで、気まずくなる。
飯が喉を通らないだろ。
大人の事情は、大人だけで決着をつけるべきだ。

しかし、ドライにその年齢層を「市場」として考えて稼いだものが「勝ち」なのか。
今でも相当悩んでいる。
漫画は?中学生や高校生をターゲットにしているものが多い。
お金が現在手元にない時って、なんでもしたくなるものね。
職なし、金なし、経験なし、切羽詰ってきたらコンビニでも襲ってやろうかという人間の気持ちがわかるような気がした。
携帯小説の主力層である、女子高校生。
彼女らが食いつく内容「レイプ」「妊娠」「高望みの恋愛」「破局」「暴力」「堕胎」なんでもあり。
わざわざ書くべきなのか。
切羽詰ると高校生相手でもそんな内容で書いてもいいかなと思えてくる。
自分が不幸だと感じたら(意識していなくとも)、とたんに人は誰かを不幸にしたくなる。
お金を取られたら、稼いで、取った相手から搾り取って潰したくなる。
解雇されたら、上司になってそいつの首を「役立たず」と言って、罵りながら切りたくなる。
そういうものでしょう。
彼女らは幸福だから刺激として不幸を見たいのか、不幸だから不幸を代弁してくれるストーリーが欲しいのか。
本当の幸福の意味がわかっていないのだと思う。

自分が幸福になったら、やっぱり誰かを幸福にしたくなってたまらなくなるんじゃないのか?
そういうことを教えなきゃいけないのに、「売れない=食えない」。
ふざけんな。
冗談じゃねえよ。

他人を幸せにすることは自分の心持のことで、相手に強制することじゃない。
世の中のほとんどすべてのことは、「自分がどうするか」であって、「他人がどうあるべきか」ではない。
「どうあって欲しいか」は許されるべきだし、言うべきだとも思う。

自分がどうあって、何を作って幸せにしたいのか、私は常に考えている。

そして、お金は私のところに集まるべきだと常に考えている(え?)。
ブルータス、お前もか。

おあとがよろしいようではないようで。

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05/15

Fri

2009

リストカッターの知り合いがいる。
常習犯で、下手をすれば死ぬ恐れもあるほどの激しい出血を伴う切り方をする。
何年か前から連絡を取り合っているので、事情はわかる。
私は否定する気がない。
肯定する気もない。
あるがまま、その人の気持ちを受け止めたい。

「理解してもらえない」
と嘆いていた。
「理屈で説明できない衝動を、他人に理解してもらおうとするほうがおかしい」
と俺は言った。
自分も最初の「お飾り程度」のことはやっていたから、どのような過程を経てそうなるのかがなんとなくわかる。
それが精神的な「トリガー」を持ち、「フラッシュバック」を伴い、精神の杭となり突き刺さっているのが、自分はモノを描く手前、なんとなく推測できる。
「フラッシュバック」や「トリガー」を持たない人間は、ここには一切口出しできない。
これは精神が強い弱いの問題ではない。
「トリガー」とは、何かがきっかけで引き金が引かれ、一気に混乱し精神がぶっ飛ぶ、その「きっかけ」に近いものをさす。
これは「言葉」であったり「シチュエーション」であったり、「行動」であったりする。
たいていは「言葉」の場合が多い。
他人はこの事情がわからないから、まるで腫れ物に触るような感じで接する。
冗談も言えないような息苦しさを感じながらその人物と接する。
しかし私から言わせてみれば、品性をきちんとわきまえていれば他人を傷つけることはまずない。
なぜなら、ほとんど他人に対して否定語を使うことがないからだ。
見下すような仕草もしない。
他者に対する品性とは、他者という未知の可能性に対して尊敬することだと思っている。
「生きづらい」
と言っていた。
通常は前向きに物事を考える人でそれほど多くない「笑い療法士」の資格を持っている人だ。
生きづらいことは、自分も感じている。
特にこの日本は、閉鎖的な気質が強すぎて、何かにくくられ、閉じ込められていくような息苦しさを特に感じる。
我々の意識が、他者を追い詰めている。
それは自分でもよくわかる。
「血が止まらない。吹き出ている。どうしよう」
と言っていたが、電話じゃどうしようもない。
風呂に入っていたらしく、下着すらも血で汚れるので着ることをためらっていた。
変なやつ。
「あのさ、裸で救急車で運ばれていくのがいやだったら、着るか、観念するかのどっちかにしなさい」
「裸で運ばれるのは嫌。でも着たら服が血で汚れる」
「いいから!どっちがいいのよ!裸見られるのと、服汚れるのと!」
しぶしぶ服は着たようだった。
変なやり取りだなと思いながら、話を聞く。
貧血になると息が苦しくなると言っていた。
血は酸素を運んでいるので、致死量ギリギリまで出血すればそうもなるだろうなと思った。
「あのさ、電話中に倒れられても困るんだけど。最後に話していたの俺で、警察とかから電話きても俺答えられないよ?」
と言ってやった。
当然なんだけどさ。
ちょっぴりドキドキしてた。
本当に倒れられても困る。
だって住所知らないもの。
衝動であろうとその人間が選ばされたことであり、選んだことだ。
出血多量で死んだとしても、それは本人が徐々に体に刷り込んでいったものだ。
電話を切るとき「ありがとう」と言っていた。
そういうところは、律儀だ。





わかるんだ。
この人の世を生きるには、繊細な心では生き抜けない。
汚さを身につけるしかないし、自分が汚いことにすら気がつかない人間は人生を一生幸福に過ごせる。

携帯小説を書かないかと私にとある組織から誘いが来た。
断った。
彼ら高校生たちを相手にすれば確かに金になる。
金になることを量産すればいい。
自由に金を使えるようになる。

自分は人にどれだけ大事なものを残せるかに作品への思いが宿る。
忘れ去られるような一過性のものを描いて、彼らから金を巻き上げて、どんな幸福な未来があるというのか。

以下が、コメントになる。

携帯小説は彼ら独自の文化で、私がそこに介入しなければならない理由がない。
やりたいようにやらせてあげればいいじゃないか。
大人が子どもに媚びるのは愚行だと思うし、彼らを飯の種にして金を巻き上げるのは品性がない。
我々が彼らに残してあげたり、教えてあげられることは何?
そんなものを考えもしないで、彼らの流れに反して、彼らを金づると見て、大人の理屈を振りかざしたり、彼らに取り入ろうとする?
もし先生だったとしたら、その先生教師続けていられないだろうね。
彼ら高校生は未熟で当たり前。
でも未熟なうちに祭り上げたら、本当に人間ダメになると思う。
未熟さを指摘するのもいけないし、大人が彼らの等身大に迫ることは難しい。
金を稼ぎたいだけなら、ただ彼らを騙せばそれで済む話だろ。
大人は汚いんだからさ。
彼らの世代に何か残せるものがあるのならば、一生懸命描く。
でも今は理由がない。
大義名分がない。
彼らが描く夢の世界で楽しめるのなら、それでいいじゃないか。
大人が参加してありえないおとぎ話を描く必要はない。
不幸を見せ付けるようにして描いて同情を引くこともない。
そういう話は下卑すぎている。
現実はもっと辛くてしょっぱい。
うまくいくことがむしろ少ない。
彼らもわかっているから夢を見たがる。
でも彼らの世代に必要なのは、夢を見させることじゃない。
一緒に悩んでくれる身近な大人だと思う。
おとぎ話を提供する大人じゃない。









世界はおとぎ話では成り立ってはいないのだ。

でも、希望は捨てないで欲しい。
私はそのために、作家でいたいんだ。

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05/13

Wed

2009

夢で見たことを現実で忘れようとしている。
起きた時にはどっと疲れている。
夢と現実の境目が時々わからなくなる。
夢の中では醜い自分がいる。
いじめの圧力から逃れるために弱い友達を見せしめにいじめたりしていた。
陰口を堂々と叩かれて、気にしないかのように通る。
結局は自分の性格の悪さを言われているに過ぎない。
刃物や劇物を振り回したり散らかしたりしているイカレタ人たち。
直接の知り合いではない何人かが殺されている。
とにかくめちゃくちゃだ。
夢にまで追い詰められている。
大丈夫なのか?俺。
夢に殺されるんじゃないのか?

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
45
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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