ようやく終わりのメドがつきそう。
長かった。
あと一ヶ月以内には確実に終わるでしょう。
本当に長かった。
これまで何度も(というか何十回も)太宰治の「人間失格」を読み返し、あらゆるコメントや批評を読ませてもらってきたけれど、不思議と的確にこの作品を捉えている文章は皆無に近いくらいなかった。
私はこれほどひとつの作品を読み返したことはなかったのだけれど、書くにあたって、一文一文に気を使いながらずっと書いていると、作者側の意図として、逆に作品が捉えられるようになるが、読んでいるほうはどう見てもその感想や理解力からして「読み流し」としか思えないほど的外れで、「なぜここにこの一文があるのか」とか「なぜこの行にこの言葉が入らなければいけないのか」というところまで、まったく考えておらず、ただ個人的な感情や推測や知識から、作品を等身大で捉えずに、何かと何かを並べ立てて好き勝手に論じているに過ぎなかった。
逆から考えないんだよね。
「もしここに、この一文がなかったら作品はどうなるのか」
そこに着目して鋭い論評を行っているものはない。
書いてあるものだけを個人的な思いで受け取っているに過ぎない。
そんなものなのでしょうかね?「読書」と「論評」って。
物足りない作品というのは描写が足りないのです。
ある行と行の間に入るべき描写がまったくなく、ゆえに作品の深みが損なわれるという、惜しいものは数多くあり、その描写があるがゆえにどれだけこの一文が重要な位置を占めてくるかというのは、通常の読者は意識しないようです。
これは色んなところで作品の感想を読んで、ぞっとしていることなのだけれど、つまり書いたことは100%意図してない方向へと暴走し始めるのが運命らしい。
そして、暴走したものに翻弄され、もみくちゃにされちまうのが作家の運命らしいです。
しょうがないことです。
まだ終わってないから喜ぶには早いけれど、メドがついてほっとしてます。
通常の人間なら、普通におかしくなるわ。
あんなの読み続けたら。
でも、俺のはもっと強烈だわ。
一生これを背負うのだろうなと、今から胃が痛み出してます。
うっへっへっ。
しょうがないよね。
だって人間だもの。
みちゅお。
追記
ああそうだ、大事なこと書き忘れていた。
「21g」という映画でアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督が「カタルシス」について、「目の前の悲劇に自分を重ね合わせて、そこに自分を参加させる。これこそ(この参加作用が)エンターテイメントだ」と言っていたのを印象深く今でも胸に焼き付けています。
悲劇は薬と同じように、必要ない人には必要ないのです。
健康な人が病気のときと同じように薬を飲んだりしない。
病気だから飲むのです。
これが悲劇の作用だと思うし「カタルシス」だと思う。
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