クリントイーストウッド監督・出演作。
いやはや、これを作ったのが88歳という。
彼は映画界のジャイアント馬場です。
プロレス知らない人には通じないけど、映画に生き、そして映画で死ぬ。
もう撮影中に死んでしまうくらいの勢いで彼は映画を撮り続けるのだろうなと感じた。
凄みと言うか、気迫と言うか、表現できない命の迫力を当人から感じる。
何作か見ていたけれど結構イーストウッド監督作品って破滅があるものが多く、これもそうなのかなぁと思っていた。
「実話=ばれてる話=死んで暴露されたか逮捕されたか」ということは容易に想像がつくので、結末よりも何を訴えかけようとしているのかが見所になってくる。
例えば紹介でも「老いを真正面から見つめた」とか「不条理劇」とか、どれもしっくりこない。
見た後の感想としては「皮肉劇」であって、紹介ムービーでも悪事を働いていることがわかるけど、どうにも彼の行動そのものが不可逆であるにもかかわらず、そうでなければいけなかった、という映画だった。
皮肉というとネガティブな意味だけれど、ポジティブな皮肉に満ち溢れている。
家族をないがしろにしていたから家族の大事さに気が付いて必死に昔の思い出を今に繋ぎ合わせようとするけれど、その形でさえ時間がすっかり変えている。
ボケーっと見ていると、ただ単に車を走らせて運ぶものを運ぶという、つまらないロードムービーになりがちだけれど、でも見ながらでも見終わった後でも「あれ? ちょっと待てよ。これってもしこうだったらこうなったんじゃないの?」なーんて考えていくと、味わい深いものになっていく。
とにかく運び屋のじいさんが一見やりたい放題なのに、やっぱりそうじゃなきゃいけなかったって、考えれば考えるほどわかってくる。
さて、実話とのことだけれど、レオ・シャープという実在の園芸家をモチーフにして作られた映画でイーストウッドはこの人の役。
デイリリーという花を育て、インターネットと共に園芸場は廃れ、運び屋になっていく。
デイリリーってその名の通り1日しか咲かない花だけど、品種も多く蕾を沢山つけ、人気がある花みたい。
年を取ろうと何しようと、やっぱり当人の性格って変わらなくて、誰かに注目されたいとか、他人の力になりたいとか、本質的なことは何一つ変わってはいない。
だから悪事であろうとも、当人の本質的なところでメリットになっていないと動かないわけだ。
映画の中では酷い替え歌を歌ったり、人の心にすっと入っていくトーク力で難なく危機を乗り越えていくわけだけど、何故それが家族へ生かされなかったのか。
うん。時間を作らなかったんだね。
家族との時間を積極的に作らなくてイベント事をすっぽかして仕事ばかりしていて、それでお金さえ入れておけばいいみたいな感覚だったのだろうか。
だいたいどこの国でも離婚案件。家族ではなくとも異性のパートナーが逃げる。当たり前の展開ってわけだ。
だから他人に説教できることもあるわけだけど、だいたい説教って自分が出来なかったことを他人にして欲しいって願掛けに近い性質も持っているよね。
だから、そういう面から見ると、登場人物の台詞の一つ一つが違って見えてくる。
凄い悪そうなやつが、あることでホロリと心を動かされていたり。
一人一人何かを背負っていて、それがよく滲み出てくる。いい作品だと思った。
封切前に見ていた人が「ヘリのシーンがカッコイイんだ。あのカットはなかなか撮れないよ」と大絶賛していたけれど、確かに。
ヘリシーンのカメラワークと陽炎が、映画の熱量を表しているかのようだった。
登場人物がみんなスゲー人たちばかりだから、ちょっと出ているあの人もこの人もハリウッドではアカデミー賞やらなんやら取ってる実力派ばかりで、もう豪華キャストっていう表現を超えてレジェンドキャストってやつ。
ローレンス・フィッシュバーンなんて僕イーストウッド作品では刑事役で見たの2度目。
ミスティック・リバーで見ましたよ。
家族との絆うんぬんって映画ではありますけど、気が付いた時にはもう修復不可能ってことは多々あって、通常はそうならないようにしなければいけないし、僕も別れた女の人に未練タラタラで連絡取ろうとしたけれど繋がった例は一度としてありませんでした。
みなさんは頑張れば映画のように絆は復活するなどと安易に考えないでください。切れた絆は復活しません。
だから映画もちゃんとしてね、って言ってるんだと思いますよ。
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