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あさかぜさんは見た

日記

11/14

Sat

2020

昭和は終わった 体育会系よさようなら

飲食店にいた。
現在もいるけれど過去形でいい。
気持ちは完全に離れてしまった。

この世界はとても体育会系で、努力と根性でどうにると思い込んでいる人間が沢山いる。
今回のコロナ騒動は完全に政府の政策ミスというより、コロナによってどちら様がどのような業界に関係していてどのように資金が流れているのか素人でも容易につくような状態を炙り出した。

飲食はこれからもっと狂っていくだろう。
何故なら「みなし残業代」というものがありながらも、実質はかなりの残業を強いられているのが飲食店の社員で、とある有名なグループ企業なんて未だに遅刻したら一日の労働賃金吹っ飛ぶほどの罰金設けていますからね。
信じられます? 他の業界じゃ嘘みたいなことなんですけどね。

個々に上げていくときりがないくらい飲食店は闇が多い。
だって努力と根性があれば何とかなると思い込んでいる叩き上げが上に立っているんだもの。

さて、僕は昭和54年生まれだ。
団塊の世代の最後の世代が生んだ子供で、昭和らしい、努力しろ、精神病は心が弱いからだ、根性がないからダメなんだとか、そんなことが「常識」としてまかり通っていた時代を過ごした。
信じられないでしょう?
今でも言う人がいるけど大抵年取った人。

今回のコロナ騒動でハッキリ感じたのは、このご時世になっても「コロナ前の常識」が通じると思って経営をしている飲食店が多いってことだった。
これは、いかに古い体制で、世界は変わったのだという現実を受け入れる前に、前の状態に戻っていくのだと信じている人たちのなんと多い事か。
コロナで加速したのは体制の変化じゃない。完全な新しい時代への転換が起こったのだという事実だ。
飲食店は体育会系で叩き上げの人間が多いから、これからもっと狂っていく。
その叩き上げで築いた全てのことは、今から全部捨ててゼロから新しい時代のことへ目を向けて学び直さなければいけない。
今ならプール金もあって、縮小してでも業態を見直すチャンスがあるところも、「以前の状態に戻るまでの籠城戦」と捉えているのならば死んでいくだろう。

蛇足が多くなったけれど、自分と同じ世代や昭和の上司を持った年下を見てきて、この人たちは洗脳から早く脱して欲しいと願うばかりだ。
何故ならこれからの時代は「努力が美徳は貧困層が唱える宗教の文言」になるからだ。
まだ過去はそれで成り立っていられたけれど、もう努力や根性は時代に逆行する思想に成り下がった。
こういうひっ迫した事態になると、一人に対する期待が高くなる。
前々から思っていたけれど、もし最低賃金のやつが最高の仕事をしてしまったら、この業界は「最低賃金が完璧にできるのに、その上の賃金のやつは何をやっているのだ」という呪いのような理屈が超まかり通る。不思議。周囲も何も疑問を持たずに、より下の人間に強いる。そういう業界が飲食。チンピラの発想でしかない。
これがもっと組織的にやるとヤクザ的になるけど、これからどんどんニュースになると思うよ。
元々そういう会社多かったんだもの。

飲食だけじゃない。
上記にあげたコロナ事情で浮かび上がる政治家たちの事情を見て糾弾できないんなら、それは正常な精神を失っている。
本来なら北海道はコロナは収まっていたはずなのに、今や危機的状態。
風邪と同一視する人がいるけど医療現場の人はストレスがかなりかかっている。
僕は飲食だからかかったら労災がおりるかもわからない。
おかしい原因は必ずあるからね。
努力と根性で乗り切れは貧乏人の発想になっていく。

テクノロジーは進歩していくということ。
AIの時代は10年以内に来て人間の代わりに仕事をしてくれるということ。
コロナが示したのは新しい時代に対して過去を捨てられるか否かのふるいをかけただけで、時代が少し加速しただけのこと。

若者が読んでいたら、根性論等出した時点で古い情報を与えられているのだと意識した方がいい。
おじさんの言うことは、あまり信用できなくなってきた。
あまりにも時代の加速が凄すぎて。

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10/26

Mon

2020

ワインと日本酒と発酵食品

どうにもこうにも、世界が変わって、仕事の仕方やあり方も変わってきて、今まで通りの働き方では明暗が分かれてくる状況となって数か月。
動くところはきちんと動いていて、僕のような人間は酒の量が増えていく。

北広島という場所に移り住んで三年くらい経ったのだろうか。
今まで北海道という場所を知らなかったので、休日は遠出が当たり前になっている。
実はこの周辺・・・この周辺という言い方も北海道独特なのだけど往復100kmは(車使っているせいか)近場の感覚だ。
まだ一日で帰ってこれる。
往復300kmで遠出かな。
襟裳岬まで行って1日で500km近くの距離を走って1日まるまる使ったので、途中食事や博物館や気になる建物を眺める時間も含めれば、500kmちょいが限界だろうと思う。

最近は酒蔵や味噌醤油の蔵元を訪ねることもちょくちょくあり、醤油や味噌の味の違いも楽しんでいる。
例えば「くるるの杜」というホクレンが直営している野菜直売所には近隣で作った味噌が置いてあるし、恵庭の道の駅にも恵庭産の野菜がある。
日本酒ならば栗山町にある小林酒造(全体的に甘みを感じるものが多い)。
ワインならば三笠氏にある家族経営でやっているいくつかのワイナリー。
小樽には田中酒造という日本酒のお店(水がまろやかなので口当たりもまろやかなものが多い)、全て国産ぶどうで作っているおたるワイン。
旭川に行くと男山や高砂と評価の高い蔵元もある。

北海道はワインも含めて意外にも酒所が多いのだが、ここら辺は直売ショップでしか売っていないものもあるので、旅の一つの楽しみになるかもしれない。
酒1つとっても色んな発見がある。
日本酒なんて10年前なんて、どれもこれも似たような味、なんて思っていたけれど日本酒らしからぬ味があって楽しめるようになった。
ワインには土の質が関わってくるし、日本酒は水の力が大きい。
湧き水もここ最近は飲み比べしていて、水の味の違いも知ることができている。

そんな中、おたるワインの直売所で偶然見つけた10月前後時期しかない発酵途中のベビーワインがまるでジュースのようで本当にはまった。
前回ミュラートゥルガウという白ブドウの品種で、ジョッキで飲みたいとガバガバ飲んでいたら店員さんが通りかかった作業着の人に「あちらの方10杯ほど飲んでいらして」と話すと、その作業着の方製造部長でお礼を言われてしまった。
仕込みの時期によって変わってくるけれどケルナーが美味しい下旬ぐらいにあると思うから電話で確かめてくれと言われ、ひとまず他の用事もあって行くとケルナーがあった。
まるで完熟した洋ナシとリンゴをミックスしたような味で甘く微発砲。この微発砲がまたよくて、また飲んでしまった。
やっぱり大量に飲んでいると目立つものですね。
店員さんとの会話も弾むし、知らなかった情報も教えてくれるし、何かといいこともあるもんです。

発酵という過程で糖分が二酸化炭素とアルコールに分解されるため二酸化炭素が液体内に残りピリピリした舌触りが残る。
ビールはわざと残すため、シュワシュワと泡が立ち続ける。
安物のワインでもきちんと作っているワインなら開けた後発酵するため、少しピリピリした舌触りになることがあるが、発酵しているからだ。
だから放置して置いたら味がどんどん変わってきて最後はぼやけてしまう。

旅をして酒を飲んで色々な話を聞いて、そこに住んでいる人たちの想いに触れていく。
醤油なんてスーパーで売っている大手のものしか知らなかったけれど、醤油の味に大きな違いがあるのを知ったのもここ数年の話だ。
ピーマンが熟すとパプリカのように真っ赤になることさえ初老を過ぎてから知った。
酒に溺れて沈んで死んでいくのも別にいいと思うこともあったけれど、いい酒作るために、これだけの人たちが関わって頑張っているのだと思うと、安酒にうつつを抜かしているわけにもいかないんだろうなと感じる。

20年以上前「旅をしながら稼いで色んなところを回りたい」と親戚の人に言ったら一蹴された。
今は実現できるだけの環境が整っている。
不思議な話だ。
北海道はまだまだ魅力の埋もれている土地だと思う。

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10/07

Wed

2020

命を延長させるもの

自分のように生きることに怠惰で無気力になりがちな人間が、ダラダラと生きているのは周囲の思いもあるのだろうと感じる。
「リンゴ狩り行こうって言ってなかった?」
自分も忘れていたことを告げられて余市の果樹園でお腹いっぱいになるまでリンゴやプルーン、ぶどうを食べて持ち帰ることがあった。
プルーンはその場で食べるよりも少ししわが付いた方が美味しいとか、ジャム等でしかほとんど食べたことがなかったので知識がなかった。
ジンギスカンの匂いを嗅ぎながら果樹の香りが充満した木漏れ日散る場所で焼き肉とはいいものだと思い食べようとしたが売り切れだった。
せっかく余市まで来たのだから以前友達にプレゼントした山ぶどうのワインとピザを自分でも食べてみようと試したら、マルゲリータピザが絶品だった。
同じ道を走っているはずだが、色んな景色がある。
ぼんやり眺めながら見ている景色の半分も表現していない自分に落ち込む。
自分には文学的才能はきっとないのだろう、ともよく感じる。

仕事の休憩中にすすきのに通っていた頃よく出入りしていたバーのマスターから連絡が入り10年ほど前によく行った店の人から連絡が入る。
随分と酔っぱらって、というより泥酔と言っていい。
自分もいろいろやらかしたけど、ねちっこくてしつこくて、仕事切り上げてこっち来いとか、不愉快極まりない電話だったけれど、仕事終わってから本人がいないことを確信して行く。
電話が夜9時。仕事終わりで落ち着いたのが12時過ぎ。すすきのに辿り着いたのが深夜1時だったのだから。
9時の段階で相当酔っていたのだから、居たとしても完全に呂律が回ってないか、床に転がっているかのどちらかだろうと思っていた。
カフェイン強めの飲料を飲み、やけに眩しいすすきのの光を浴びながら、久しぶりにマスターと話した。
「準備はまだ、みたいな時って、結構いけるものなのさ」
「次のステップいこう」
話の中で出てきた言葉に、そういうものなのかとぼんやり受け止めるけれど、今この言葉が人の口から出てくるって、自分も転換期なのかなと、ひしひしと感じる。
他のスタッフからは「絶対書き続けた方がいいよ」とも。

この2つのことは期間の差はあれ、過去にやったことが因果となって結びついている。
今、何か欲しいと思っても何も得られないことが多いけれど、何かが巡り巡って返ってくることも沢山あるのだと感じた。
友達は少ないが縁はまだあるようだ。
そんな縁が、まだ自分を生かしているのだろうと寒くなってきた日々を背に思う。

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08/19

Wed

2020

三か月ほど前だろうか、知り合いに連れられてバーに行った。
初対面のマスターと少しだけ話が盛り上がったが一週間後に首つり自殺をした。
独り身で、愛犬が死んで間もなくのことだった。
知り合いはとてもショックを受けて2か月も仕事を休んでいた。
仕事をまた再会したとのことで会いに行くと元気そうだった。
「四十九日が過ぎて少し落ち着いた」
といつものように微笑んでいた。

たった1度しか会ったことがなかった、マスターの作るマティーニが美味しかった。
マティーニの美味しい店はハズレがない。
さらにはオリーブまでも美味しいお店は気が利いてる。
もう飲めなくなったのはとても残念に思った。

人にはいつか死が訪れる。
自分でケリをつけるも、自然に死ぬも、事故や病気で死ぬも、いつかは終わりが来る。
知り合いの周囲には変わった人が沢山いる。
だから僕のことも変わった仲間として気にかけてくれて時折連絡をくれる。
「あさちゃんは死なないでね」
と言われたが、気持ちはブレブレだ。

何故バーのマスターが自殺をしたのか誰も理由がわからなかった。
誰にも理由を話さずに死んでいったから、マスターを知る誰もが死を信じられなかった。
影をも見せなかったということは、自分が会った時も普通のように見えたのだろう。
フッとこの世界から消えてしまった。
例え理由があったからといって、きっと誰も死ぬことには納得しなかっただろう。
どうして何も話してくれなかったのか、という気持ちが周囲を支配していたに違いない。

僕は自殺はあまり反対しない派だ。
そういう選択肢があってもいいと思っている。
死ぬには色々な理由があるから、こうだからとは言えないけれど、他人は「生きろ」なんて言ったって何も保証しないじゃないか。
「生きていくこと」の何も保証しない。
例えば苦しみがあったとして、所詮他人事じゃないか。
挙句の果てには「甘ったれてる」とか「自分が悪い」とか個人の何かに原因を見つけて責め立てる。

それでも人は助けられたり助けたりしている。
気が付かない間にもしている。
当然傷つきもしているし、ぬくもりに触れたりもする。

人は死に向かっている。
けれど無気力という状態や、ふと生きることを諦めたりする気持ちになることもある。
深いところを覗いてしまって、暗闇の中に心を沈ませることもある。
生きることは思い通りにはならない。
それでも生きている人はいる。
だけど死ぬ人もいる。
生きている場所が違うのだとも思ったりする。

いずれは、誰もが遅かれ早かれ死を迎える。
「生」に人間は意味をつけたがるから「死」にも意味を見つけたがるのだろうと思うけれど、「死」は人にとっては意味も何もない。
ただそこにあるという現象の一つに過ぎないのだと思っている。

そう。
だからこんなにもまとまりのない文章になっている。

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08/18

Tue

2020

生きる気力がどんどんなくなっていく。
誰かに認められたことなどない。
自分が活動できる時間と、実際の時間の流れには大きな隔たりがある。
自分のような人間がどうやってこの世を生きていけばいいのか手段がわからない。
価値がない。
価値のない人間は生きていく資格がないらしい。
自分で生きられない人間は生きていてはいけないらしい。
自分は人から奪うことでしか生きていくことができない。
存在自体が今は無駄でしかない。
辛いという気持ちはない。
ただ無気力のような、力の抜けた妙な達観のような、諦めにも近い気持ちがある。
才能は世に溢れている。
何をするにも臆病になっている。
何か行動をするのが怖い。
どうせ見向きもされないか、批判的な言葉を投げかけられるだけだ。
自分がすることはほとんどそうなんだ。
だからどうせ生きていてもと思うのは、ここに理由があるのかもしれない。
虚しい。
今は少しだけ人助けができてて、それまでは頑張って生きようかなと思える。
うまく眠れない。
そういえば眠れないという理由もあって酒を飲んでたことを思い出す。
病気が治って少し健康になったら今度は眠れなくなった。
もうどうしようもなく壊れてる。
どうしたらいいのかわからない。
どうやったら普通に生きられるのかわからない。
グチャグチャになっていって、年だけとって知識も振る舞いも何もかも子供のままで成長できない。
気がついたら1ヶ月経っている。
もうダメだ。
気がついたら数年経っている。
もう死んでしまう。
所詮クズだったんだ。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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