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あさかぜさんは見た

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02/19

Wed

2020

料理とレシピ



22日にやる宴会の味の設計図。
もちろん全部オリジナルじゃなくて基本的なものを借りながら自分なりにアレンジしているけれど、現場で働いていてよくわかることがあるのが、設計図通りいかない時が多々ある。
そりゃ最前線で玉ぶち込まれてるんだから、自分のペースでとかそういうの関係ない。
戦場だ。
その前に玉の道筋を制御するという作業は必要なのだけれど、それでもイレギュラーは沢山ある。
理屈道理にいく戦場はない。
メインが用意できない時に、一体何を用意するのか。
代替って知識だけじゃなくて実戦知識における感覚の積み重ねで培われるものだから、特にメインが欠けるという状態の時(まずないけど、万が一そうなった場合)に最大限の料理を出せるのが本当の実力なのだと思った。

「料理をする」と言う時、一人でやっているならまだしも、誰かの手を借りるなら当然的確にレシピを伝える必要がある。
レシピが秘匿ならば、メニューを伝えたうえで手順を事細かく伝えて部下が必ず自分の意思通りに動くように設計図を部下にイメージさせる必要がある。
「料理をする=シェフ」のことなのだけれど、ゴールから逆算して伝えなければいけない。
今この画像には調味料などの配分がない。そして時間もない。自分の頭だけで完成している設計図だ。
つまり何をどれだけ混ぜなければいけないか、どれだけ火を入れなければいけないか、どれだけの時間を要するのか、そしてどの順番で出すのか。

「料理」をしていて最近よく考えることがある。
それを味わった人の「出口」というやつだ。
「出口」って何さ。
「食べてくれた人が、ここを出た後のシナリオ」
これは僕がやっている創作にも繋がってきて大いに意識しているところだ。
自分で主催すると特に「出口」をコントロールできる。
どのような理由でここに来てくれているのかハッキリわかるからだ。
だから来てくれている理由を汲んで最大限に尊重しながら、来てくれた人の未来をも考えて作る。
このようなことが可能になってきた。
当然全て目論見が当たるわけじゃない。
それでも「次もやりましょう」と声をかけていただいて続いている。

そして僕の試みは、さてどこでまとめようか、そしてどこまで広げようか。という調整も見つつ広がっている。
当然その先の未来が作れるように「料理」している。

ここまで可能性や現実を広げるためには「設計図」が必要で「何ができるのか」を示せて「その後何が起こるのか」の設計図を超えた自分の道筋が、まず安定的に通っていっているということだ。
声かけという、カッコイイ言い方すればプレゼンテーションもある。付き合いもある。僕が犠牲になって吹っ掛けている部分もある。
そして僕は宴会の値段が安すぎると指摘を受けて値上げをした。
こういう現象さえも起きる。最初の値段設定が本当に安すぎたのもあるけど。
人の気持ちが僕に向いてきた。

このような様々なことは現場でコツコツやってないと本当にわからないことだった。
創作という現場でも発想を変えて直で生の声が入るようにすると、もう「料理」の世界と何一つ変わらないことがわかってくる。
常に自分を生の声に晒して勝負していく。
とにかく心臓が潰れそうなほどに毎回緊張する。
この現場にいると、戦っているのか、そうじゃないのか、その人間の区別くらいはわかるようになってきた。

発信直後に反応が来る。
辛いけどわかりやすすぎるから、勉強になる。
もう、何が正しいかは僕よりも若い人たちが常に教えてくれる。
「料理」とは「美味しいもの」を出せばいい。
「美味しいもの」とは現場で戦っている人間しかわからない。

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02/19

Wed

2020

体と時間と人生と

色々やると色々わかってくるもので、本で読むと忘れるけど実践すると体が覚えているから、逆に本の内容を思い出す。

例えば体力がないから体を使ってみる。
持久力と瞬発力の筋肉は違うから、そもそも鍛え方も違うし、「働いていたら体力なんてつく」と言われたことがあるけど真っ向から否定できる。
あと体の凝り。
伸ばして緩めておかないと感覚としては「石」に近い状態になって、元に戻すのが大変だということ。
足を使う簡単な運動を覚えておくと、食事制限でストレスを与えずとも痩せるということ。
去年の8月で104kgあった体重が(飲食で働いているという点を考慮しても)現段階で95kgまで落ちている。
特に足の簡単な運動を取り入れてからは1か月2kg近いペースで落ちている。
体力は一日の活動時間を増やし体を疲れづらくさせる。
つまり活動的になるためには、どうしても筋力は増やさなければいけない。
僕のように太りすぎた人間は、まず体重を落とすこと。
ある程度の体重になってきてから少しずつ負荷を加える運動をすること。
じゃなければ関節がやられる。実際痛い。
だから今はまず体重をゆっくり落とすことにして気楽に構えている。

やっている足の運動。
Twitterで流れてきたテレビのやつ。
高橋克典さんがやっているのだそうな。
壁にやや寄りかかって両手をつき、右足を上げて内側から外側へ回すこと5回。左も同じように5回。これで1セット。
これを欠かさずやるだけでいい。
不思議なことにこれだけでも筋肉痛が来る。
慣れたら1セットずつ増やせばいい。

次は、
睡眠の質を上げなければ人生の時間を損していくということ。
心が病んでいなければ、なるべく酒や煙草や薬に頼らないストレスケアの方法を見つけて、自分を開放的にすること。解放的になること。
そのためには自分の見識を増やして意識して「偏見」というものを自分の中から取り除いていくこと。
こだわりの多い人間ほど「差別」を行っている。
自他ともに「偏見」や「差別」を持ち合わせているということ。
「偏見」や「差別」に直面した時に「執着」が生まれる。
この「執着」は「ストレス」になり、睡眠の質を落とす。
つまり解放的になるということは「執着心」から自分を解き放つことでもある。
「執着心」は「プライド」とは真逆の性質のものなのだから。

多くの人はやりかけのものを放り投げて、次新しいものをやれば上手くいくかのような錯覚に陥っている。
それは大きな間違いだ。
「やりかけのもの」とは、あくまで他人から押し付けられたものではなく「自分のやりたいこと」だ。
難しい話だが芯を決めておかなければ筋が通らない。
自分の人生に筋を通すってことが大事なんだ。
この筋が通ってない人間は、だいたい見限られるし、信用を勝ち取ることもできない。
自分の人生を生きるためには、他人にではなく、自分自身に筋を通さないといけない。
ついつい他人の言動や何かに動かされ振り回されるのが人生なのだけれどね。

人生って何だろうね。
自分に素直に生きることは難しいことだろうか。
僕は結構素直に生きているつもり。

P.S. 3.12
足を回す運動のこと。
去年の8月は104kg。
3月12日現在で94kg。
ちょっと病気になったんじゃないかってぐらいの勢いで痩せている。自分でも驚いている。
特に足を回すやつをやってからは1か月2kgで落ちている。
食生活は一切変えていないことは特筆したい。
酒も飲んでいるし炭水化物も普段通り取っているし、間食もしているし、酒を飲むついでにチーズだって食べている。カップラーメンだって食っている。
外食だって大盛りで頼んでいるし、ようは100kg越えするまでにやっていた食生活を何一つ変えていない。
なのにこれだけ体重が下がっている。
インナーマッスルが鍛えられているのか、体の反応を見るに普段使わない筋肉だから、やるごとに筋肉痛までいかなくとも、立つのがきついほどの負荷は1日たって感じている。
足とは体重を支えているからこそ、腕よりも腹部よりも多くの力で支えているのだなと感じる。
このまま行くと目標体重75kgまでは2020年以内に到達できそうな勢いだ。

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01/05

Sun

2020

泣き崩れた

元旦は泣き崩れた。
その胸にすがって泣いて「生きていてごめんなさい」と「もう生きていたくなかった」と「もう嫌だ」と、ただ無力な存在として始まった。
去年全部ダメになったら死ぬつもりだったのだから、いざ新年迎えると本当に惨めさだけが心の中にあって、生きていてはダメな存在として命長らえていた。
他の人からしたらどうでもいい命だから、消えてしまっても、それこそ気にされない存在だと。
だから死んでも誰も気にしないと思っていた。
やることは沢山ある。
でも日銭を稼ぐことに忙殺されて魂を保つのも精一杯だ。
魂を保つ。
そんな中でも創造性を保つ。
難しい問題だ。
生きてしまっている。
だから、とはならない。
気持ちを保っているだけで結構な感じで生きている。
心が崩れると手が震えだす。
どこから来るのかわからない不安感が支配しだして自分を保てなくなる。
こんな心を一生引きずるのなら無くなってもいいとさえ思っている。
だって、本当に辛い。
意図せず、突然、心が、壊れる。
ずっと手の中に水を入れて保っている感覚に似ているし、砂漠の中の井戸にずっとオアシスから手で汲み取った水を入れていく作業をしているようなものだ。
人は心だけは理解できない。
もうやりつくしてきたし、絶対的に無理だと理解した。
ただ僕は愛というものが何かを理解したし、そして愛を学びえる機会を多々得ている。
それはまだよかった。
でも僕は本当にダメなやつで、作った作品を心から満足できなければ、他人の何もかも受け付けないような心になってしまっている。
面倒だ。
でも、満足したい。
もう少し延命された。
そのもう少しの気力の中で何かを作りたい。
僕は闇から始めるよ。
僕はダメだ。
とても光を見つめられ続けられるほど、明るいところに慣れていない。
直視できないよ。
だから僕は闇を語る。
病みを語る。
自分に正直にね。

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12/08

Sun

2019

大人の目は死んでいるのか

40になって周囲を見渡すと、どうしてか同い年の目は死んでいて、若者の方がキラキラしていることに気が付く。
あと、社会に出たての若者の目も時折死んでいるけれど、社会人ってのは魂を殺すためにあるのだろうかという疑問が浮かんでくる。
社会に出たからではなく、会社に入ったからではなく、恐らく日本国の潜在的な坩堝に陥っているのだと思っている。
同調圧力という慣習でもなく、習慣でもなく、文化でもなく、宗教でもなく、教養でもない、ただ無自覚な集団意識によって若者の心を殺していっているのだ。
この年になると、なんと夢を語る人間に出会うことが少なくなることか。
40ってのは働きだしてから折り返しにも満たない地点にあるのに、もう魂も瞳の輝きも死んでいる。
なんだこいつらは。
どうして生きていられる。
死にたくならないのか。
生きていることに何の意味があるのか。
子供が生まれたりして子供のためと言う責任感のある人間もいる。
でも親の目が死んでいて、職場ではパワハラ繰り返していて、愚痴は絶えない、周囲を見下しているなんて親、子供は気が付くよ。
特に夢のない大人ほど、希望を持っていない大人ほど周囲への愚痴が山ほど多くなって、言うだけ言って自分は諦めているなんていうのが多すぎる。
うんざりするほど多いんだ。
どうした。どうしたんだよ。
昔からそんな夢も希望もない大人だったのか。
もう少し夢や希望を持っていいんじゃないのか。
ダメか。そんなことすら許されないのか。社会人ってのは。
俺は今年全部失ってマイナスもマイナス。
借金が4倍に膨れ上がったぞ。
もう死にたいよ。
正直こんな人生歩むんだったら生まれてこなかった方がよかったよ。
そんなんでも生きていて欲しいって言葉をもらって生きている。
そしてまた全部失うかもしれないけどチャレンジしたいよ。
いくつになっても夢があんだろ。
想像することぐらい簡単だ。
夢を語るよりも愚痴の方が多くなったら、そりゃもう魂が死んでいるって思った方がいい。
死んだ魂が訴えかける言葉なんぞ何の輝きもないし、腐臭しかしてこない。
よき大人になるには、指さされて笑われることを恐れるよりも、夢を語ることを恐れて周囲への偉そうな愚痴しか言わなくなることこそ恐れた方がいい。

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11/14

Thu

2019

芸術家からの影響

僕はとあるマスターのはからいで、有名な陶芸家さんと知り合った。
その方は僕に強烈な影響を与えてくださっている。
最初は相手が酔っぱらっていたのもあるが「感性が足りない」と言われ、その夜は心底悪酔いして友達に電話して悪態もついた。
出会った時、このような話をしていた。
「器を大事にしていれば、その様子を子供も見ているから子供も大事にしていく。そのような様子を見せていくのが大事」
と言う内容を仰っていた。
僕は下衆の感情を知っていたので「いや、そうはならない」ということを反論した。
「じゃあどうすればいいのですか?」
と、その時聞かれたけど納得させられるようなことは何一つ言えなかったと思う。
悪貨は良貨を駆逐する。
要は、僕の言いたかったことって「嫉妬」なのだと今思う。
嫉妬や怒りは思考回路の停止になる。
それがどれだけ素晴らしいものかは感性や知識がなければわからない。
だから、どれだけいいものが出来たとしても、見る人間が成熟していなければ怒りや嫉妬で問答無用で破壊されるのだと、伝えたかった。
でも、伝えたところで本当に「じゃあどうすればいいのですか?」になるのだ。
その答えは今わかりつつある。
自分を伝えるしかないのだ。
相手のことを考えつつ、どう、そこに対して寄り添えるか、言葉を考えて、例えて言うならば「君はこういうことがあったんだね。僕は君と同じようにこうして器を作ったんだよ」って、相手の話を聞いて、打ち明けるような、姿勢を始めて伝えるべきところで伝えるみたいな、そういうアプローチが必要で、それでこそ、ようやく苦しみの中から救われるんだろうなと。
不思議なことに僕は両極の人を知っていて、面白いもので上の人たちは下の人たちと関わることがないという現実をまざまざと見ている。
それは社長がわざわざバイトと友達になろうとしないように、知識や持っているフィールドや階級の次元によって、その下の人間とは積極的には関わろうとしないからだ。
古今東西社会や認識の断絶はこういう些細なところにあるのだけれど、多くの人はこれを意識しようとしない。
なんだか僕はこの断絶を知らない人に対して攻撃的になる傾向があった。
精神の飢餓は、どんな美的なものをも破壊する。
むしろ美を壊すことに対して快楽を得る。
でもわかるはずもない。
伝えたところで理解されるはずもない。
だが、攻略策は少し見出している。
要は「大人が精神的に貧困」なんだ。
僕が僕自身を見つめて周囲を見つめていると、やっぱり大人こそ何かに飢えている。
だから子供に対して飢えを、そっくりそのまま与えるんだ。
それじゃあいけない。
大人、馬鹿やろう。
僕は今町内会を基軸にしてそれをやろうとしている。
大人よ。
馬鹿をやって楽しもうぜ。
大人こそ馬鹿にされても自分が世界一楽しんでいる人間になろうぜ。
それでこそ、僕が今でも会って大事にしてくださっている方に対しての恩返しになると思っている。
つまりは、大人が大事にしていることを伝えることを子供に伝える、伝えるってことは子供との交流を持つ機会や場を設けるってこと。
この「場」こそ、全ての答えを詰め込める機会であって、試みのすべて試されるのだと、そう考えて小さな場から作り上げています。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
44
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みますが光野(こうや)とか朝風(=はやぶさ)でもよろしゅうございます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。自分でも困るほどの「皮肉屋」で「天邪鬼」。つまり「曲者」です。

2011年より声劇ギルド「ZeroKelvin」主催しております。
声でのドラマを通して様々な表現方法を模索しています。
生放送などもニコニコ動画でしておりますので、ご興味のある方はぜひこちらへ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2011708

自己プロファイリング:
かに座の性質を大きく受け継いでいるせいか基本は「防御型」人間。自己犠牲型。他人の役に立つことに最も生きがいを覚える。進む時は必ず後退時条件、及び補給線を確保する。ゆえに博打を打つことはまずない。占星術では2つの星の影響を強く受けている。芸術、特に文筆系分野に関する影響が強い。冗談か本気かわからない発言多し。気弱ゆえに大言壮語多し。不安の裏返し。広言して自らを追い詰めてやるタイプ。

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