どうしてか、人が書きそうもないものを書いていこうとすると、人の痛みに触れるようなきわどい話ばかりで、あんまり癒しなのなんなの、俺には関係ないぜ、ぐらいの勢いでやっているわけですが、人の期待に応えるのも才能のようなもので、それができない自分は、時々「一生このままなのかな?」などと思ったりもします。
ひとつ思うのは、いまだに「癒し」とか「泣ける」とか、そういう売り文句が消えず、使い捨てのように話が量産されては流されていくのですが、「癒し」や「感動」などのキーワードが消えないのは、より心に余裕がなくなってきているからなのでしょうか?
私の偏見なのでしょうか。
これだけの多くの人の中にいながら、個々人がまったく孤立化しているようにも見えます。
うわべだけの付き合い・・・に近いような、本音を隠しながらひたすらよく振舞う・・・余裕がないのも重なって自分とじっくり向き合わない。
自分と向き合う作業は思春期でおしまいだなんて考える人もいるかもしれませんが、生涯において重要な作業ができずにいる。
生活、ダイジ。
責任、ダイジ。
「調和」や「協調性」が、妙に自分勝手に解釈され、「個性」をうたいながら、それを完全に潰している。
「オンリーワン」などと言う言葉が、「自分勝手」とたいしてかわらない意味で使われている。
「オンリーワン」よりも「トゥギャザー」
個人でいるよりも分かち合うこと。
でも、相手の要求にはあまり応えられない。
人は結局欲望に純粋で、自分は相手の欲望を満たせない。
サービスは、できない。
だから偏屈なままなのかな。
ギチギチの日本人の心をもみほぐせるような文章はあまり作れません。
この世界に落ちた欠陥品たる私は、欠陥をさらけだすのです。
よく見せようとする前に、すべてのことを寛容に受け入れていきたい。
「あいつは凄い悪いやつだ」
どれだけ悪いのか。
「あれはああだからダメだ」
どれだけひどいのか。
私が日本の社会に感じる窮屈さと「常識」という違和感が、晴れやかに解決できる日はいつになることやら。
はたして、これからより高度な資本主義社会に入ろうとしているところに、はたして資本主義を保てるほどの謙虚さは持っているのだろうか。
国家を滅ぼすのは最終的には国民だ。
今日は簡単な算数もできないくらいアホだ。
たまに「どうでもいいや」とか思うけど、今日はもうどうでもいいや。
明日になればまた違うけれど。
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