よく最近、意味不明の理由で人を傷つける人がいますが、その気持ちがわかる?一人です。
何か神経が毎日張り詰めすぎていて、そして未来に何も希望や発展的人生を見出せなくなって、毎日単調でピンと張った心持でいると、何かに八つ当たりしたくなります。
物でもよいのですが、「ああ、破壊してやった」と手ごたえのあるものがよいです。
破壊した後はとても気持ちのいいものです。
だいたいストレスっていうのは人からもらうもので、自己中心的な破壊衝動によりストレスを発散するのですが、たいていは重度の甘えがあります。
甘えというよりも、むしろ極度の想像力の欠如と言ったほうがいいかもしれません。
想像力というのはとても大事で、己を未知の世界に対して進ませるきっかけにもなります。
ひとつの原動力として想像力は欠かせないのですが、その想像力が貧困だということは、つまり他人に与えてもらってばかりで自分で考えたり、自分で想像したりする力が著しくないと言ってもいいかもしれません。
また、その力は張り詰めた神経ではなかなか豊かな想像性を発揮はできません。
いわゆる、心に血が通わなくなって麻痺するんですね。
そうなると、とても心が本能的になり、一方的になります。
豊かな想像性を発揮するには単純労働に慣れていては無理です。
自由に発想できてそれを組み立てられる力が出せる環境が必要になります。
だからと言って想像性豊かな人がやらないかといったらそうでもないのですが、問題はストレスの受け皿となる環境づくりができていないことが問題となってきます。
それが何のせいだというのは極力避けますが、現代都市文明はエネルギーを使っています。
それがこの地球上での最もわかりやすい「破壊のシンボル」だということは、あまり気がつく人はいません。
そして、その都市社会の動きを止めないために働く人もまた「破壊活動に加担している破壊者」となります。
なぜなら、繰り返しますが、エネルギーや資材を限りなく消費していくからです。
都市部にだけ犯罪者が出るとは限らないのですが、犯罪者は人間社会の破壊者であり、人の心のは会社でもあります。
よく、「愛情が注がれなかった人が凶悪犯罪を犯す」と言われていますが、私は愛情のない家庭で育ったわけではありません。
でも、破壊的な衝動だけはどことなく浮かび上がってきます。
物理的な暴力はダメで、精神的な暴力はよいということにはならないように、誰でも大なり小なりやっているわけですが、心が硬くなれば、硬いものが当たった時、跳ね返せるようなクッションはなく、ガキッと変な音を立てて、欠けるときがあります。
張り詰めた筋肉が何かの衝撃で切れてしまう感じです。
心が切れちゃった人が変なことやり始めるわけです。
「豊かな社会」にも「貧困の社会」にも「破壊」があふれています。
そしてどちらにも共通しているものが「循環」がありません。
自然のサイクルといいますが、ごく自然なものは「循環」します。
それがどこかで滞ってしまうと不自然な状態になります。
「破壊」したあと、「再生」するものがない。
よりよい社会ができあがるには、「循環」させるシステムを考えなければいけません。
そしてそれは人の目を背ける不都合な真実に向けられなければいけません。
想像力がなく、創造のできないものは「破壊者」です。
そして、破壊しつくしてしまうと、気が遠くなるほど時間がかかります。
誰かのせいにすることは簡単で、あらゆる自分の不都合を他人のせいにできる世の中になりました。
でも、その分自分で考えなくなりました。
自分に不都合な現象を自分で率先して解決する人が少なくなりました。
自分が嫌な人の心を無視して生きようとする人が多くなりました。
と、言ってみましたが、「心」が他人を循環しなくなると、己の中で腐り果てます。
エネルギーを使うだけで再生ができないといずれ枯渇します。
循環がないと、何もかもおかしくなります。
破壊は誰でもできます。
そしてそのターゲットは無差別に向けられてもよいのです。
どうせ、結果的には破壊なのですから。
しかし再生は無差別には無理です。
莫大な想像力と力がいります。
これをやる人も誰でもよいのです。
誰のせいでもないのです。
きっと社会が悪くなっているのは、いつの間にか創造することを忘れている人が増えているからなのではと私は思ったりします。
私は人に向かって「やりなさい」とは言わないタイプですし、それを言えるような身分でもありません。
でも、「少し、考えてみてくれませんか?」とぼやいてはおきたいです。
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