少年たちの凶悪犯罪が取りざたされる中で、統計的な結果を論拠として、子供たちの凶悪犯罪化は今にはじまったことではない、たいした変わらないと言う人がいる。
社会というものは、
というよりも、大人というものは、目に見える結果で持って何かを論じようとする癖がつくようだ。
そして、その目に見える結果のみを強く論拠とし、論拠を示さない示唆の批判にも使われる。
その側でとある子供は「ああ、やっぱり大人ってやつは、何も理解しようとしない」と大人に対して仮面をかぶる。
今年のはじめめに、ホリエモンが逮捕された。
私は常々この人が嫌いだった。
彼が絶頂期の頃、彼のことが嫌いだと書けば、とてもめんどくさいことになるので、細々と別のところでぼやいたことがある。
そもそも、通貨とは信頼で成り立っている。
一万円と印刷された紙切れを、一万円の価値として皆が認めているのは、「信頼」があるからに他ならない。
その中に、本当にカラーコピー機で印刷された、見分けのつかないような精巧な印刷紙が混ざっていたら、「信頼」はなくなる。
「商売」、というのは利益行為だ。
生産し、「通貨をやりとり」して、売り上げを伸ばそうと様々なことを考える。
通貨をやり取りするということは、「信頼」をやりとりしているということだ。
つまり、商売の信義則とは、「信頼」をお互いやり取りしなければならないものを、彼はフジ株を買うときに、見事に「信頼」をぶち壊した。
この行為は「商売人」がすることではない、と思っていた。
「商売人」ではないのだから、彼がやっている行為も「商売」にはならない。
これは長く続くはずがないと密かに思っていた。
彼が逮捕されて社会からほぼ抹殺された状態を見て安堵している人がいるかもしれない。
だが、残念ながら私は20年後、彼のような行為を行うことが「常識」になると思っている。
よく、チャットをする。
お互い姿が見えないので、中学生や高校生とも話をすることがある。
みんながみんなそうではないとあらかじめ言っておく。
十人十色なのだが、本音の飛び交う中でちらほらと気になることがある。
特に低年齢になるにつれ、「友達だからこうすべき」とか、「ああしたらこうしなければならない」という考え方をする子供が多いことに気がつく。
これは、「お金払ったからあんたはこうすべき」という大人の理屈をそのまま受け継いでいる。
その考え方は「思いやり」とは、程遠く、似てもにつかぬものだが、子供はそうすべきことが思いやりの表現と思っている。
よく考えてみれば、都会の子供は外で遊ぶよりもインドア派だ。
テレビ画面を見ながら、生身の感覚をやり取りするのではなく、感覚をともなわない現象だけをやり取りする。
格闘ゲームなどでの痛みのともなわない暴力。
カードゲームでさえ「トレード」がある。
自分の有利なカードをもらおうと交渉する。
小さい頃に養わなかった肉体感覚は、大人になって養われることは滅多にない。
これは、「脳と体の分離」を指す。
(これがちょっと進むと、どうにも体が動かなくなったりするのだが、それはまた気が向いたら書きます)
これらの理屈だけ学んで、感覚をともなっていかないと、当然友達感覚にも「取引的なもの」が反映される。
やはり子供も何が「利益」かをよく考えて行動している。
この「利益重視」の考え方が顕著になると、「自己中心的」となる。
彼らは大人になり、社会の重心を占めるようになり、ホリエモンのような行為をし、そのちょっと上の世代から、非難を受ける。
すると彼らは言う。
「僕ら何も違法行為なんかしてません。すべて合法ですけど何がいけないのですか?」
今なら違和感のあるこの言葉が、きっと違和感がなくなる。
そして社会は疲弊する。
利益という言葉がある。
やはり大人になると利益というものは、数字で顕著に表されるものと思っているだろう。
しかし、本当の利益とは、たかが紙切れに表すことができるのだろうか。
例えば、社員をフル活動させる。
休みなしで働きづめ、バイトも使って使い捨て、結果数字だけは顕著に上がる。
が、社員の半分は精神病、またはその他の疾病で退社。
戦力が落ちて、なかなか事業が拡大できないでいる。
それを社員が働かないからだと責める。
これは、「利益」なのだろうか。
利益を無視した「利益」が社会を疲弊させる。
社会が起こした結果には、数字のようにすぐには顕著には出ない。
長い空白の時間を経て、ゆっくりと表面化していく。
それが、子供たちだ。
統計的に見れば、少ない凶悪犯罪が、前例のない事件を迎える日になり、ようやく人々は「何かおかしいのではないか」「あれが悪いこれが悪い」そう言い出す。
統計的に見れば、少ない凶悪犯罪の数例が、社会を徐々に壊していく。
ようやく人々は「このままではいけない」そう言い出す。
心がやり取りされる時代ではなく、現象がやり取りされる時代になる。
ホリエモンは心をやり取りしたのではなく、とことん現象をやり取りした先駆者だった。
そして、これから現象をやり取りすることが常識となる時代を迎える。
もうすでに、「現実感のない子供」は徐々に出来上がってきている。
それは誰のせいでもない。
「国家に住まう人間すべての責任」として、「子供」がいる。
「利益」を上げる大人たちが、徐々に皮肉な子供を作っていく。
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