(2010年4月9日追記:「伝言ゲーム 例題」の検索ワードでいらっしゃった方、右側中央のカテゴリーより「伝言ゲームの例題」を選んでおすすみください。ご用意させていただきました。…遊びで☆)
ジャーリズムの日記はどうして書いたかと言うと、友達が「
きっこのブログ」に書いてある内容をどう思うかと聞いてきたので、思うところを書いた。
時事ネタに関しては、かなり疎いので、正直に言ってコメントできるほど知識がなく、裏づけも反論もできないまま「本当なのかな?」と思ってしまう。
ただ、時折、恣意的なものを感じてしまう。
このブログの書き手が、意図的に事実を改変した場合、誰がその悪意を見抜けるのだろう。
例えば言論の恐ろしさと言えば、「私は」と「私に」のように、たった一文字違いでも、受け手には正確な情報は渡せなかったということになる。
まるでこれは「伝言ゲーム」と同じ要領だ。
この友達の悪意のない投げかけによって、さび付いた脳が少しだけ、ぎこちない音を立てて動いているのだが、
茂木健一郎さんはこのブログを褒めていらっしゃった。
その中で、「ここはプライマリーなメディアだ」、と書いていらっしゃって、「はて?プライマリーって?」ってアホなこと疑問に思って調べたら、「primary」には「主要な」の他に「最初の」「初期の」「(情報などが)直接の」などとジーニアスには書いてあった。
なるほど。
この意味を考えると、「別に情報の信憑性はともかくとして」というニュアンスにもとれるわけだ。
そう、解釈するとですよ?
同じく茂木先生のブログに書いてある、
『きっこのブログ』は、そのスタンスや
内容など、すでに「マスコミ」を超えていて、
情報価値が高い。
という文章の中の「情報価値」という意味が、「情報の信憑性としての価値」という意味ではなくて、「情報の自由性がいかに高いか」「言論の自由としての多様性がいかに高いか」としての「価値」という意味にもとれるわけです。
むしろ、こちらの意味のほうが先生のブログに書いてある文面からは強く読み取れるように感じるのです。
この解釈の違いが、すでに「伝言ゲーム」になってることがおわかりでしょうか。
「きっこのブログ」の書き手には、時折主観的な意見が強く入っています。
そして、多分な推測がふんだんに含まれています。
客観的な事実にもとづく推測は、客観的な事実では断じてありえず、「推測の域から出ない」わけです。
この主観が、本来正確に読み取るべき情報を、間違って読んでいたとしたらどうします?
例題を言うとこうです。
作者はAを憎んで、Bに好意的だった。
作者はAから「Bを殺してやりたい」と直接酒の席で聞いていた。
作者は偶然Bに馬乗りになり、刃物を持っているAを見た。
作者は「AはBを殺そうとした」と客観的な事実にもとづき警察に証言した結果、Aは殺人未遂で逮捕された。
普通、読者はこれで満足なのでしょうが、さて問題は、本当の真実は「実はBがAに刃物で切りかかってきて、偶然Aが取り上げたところを作者は見かけた」のだとしたらどうでしょう。
客観的な事実から推測された証言はすべて「偽」となるわけです。
そういう疑いを誰もかけないのでしょうか。
例えば他にもテレビでよくテロップが出ますけれど、その時、カッコ付けで発言に付け足されているものを見ると思います。
カッコがなかったら、「みんな死んでしまえばいい」となるところが、前後の関係から「(凶悪犯罪者は罪の償いようがないから)みんな死んでしまえばいい」となったら、意味合いは180度転換しますね。
個人的にはこのような情報の不安定さを推測や思想としてあげるのではなく、いかにも真実として取り上げていくのが大嫌いなのですが、茂木先生の「プライマリーなメディア」という言葉を見て、「ああ、インターネットって不安定で自由勝手なのが売りなのだ」と思ってしまうわけです。
自分もこの一言に妙に納得しようとしている。
で、自分もそうしているわけだし、所詮「同じ穴のムジナ」であることは変わりがない。
でもやっぱり不思議なのは、情報を信じても裏づけをしようとする人が極端に少ないということ。
やりっぱなしの伝言ゲーム。
P.S.
さっきの例題で推理小説かなんかが書けそうね(笑)
[2回]
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