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あさかぜさんは見た

日記

02/21

Thu

2008

いつでも子どもたちは大人が作った罰を被る。
それは時として子どもたちに責任がなくても罰を被る。

原罪も、これから犯す罪も、みな誰かが被る。
わざと傷つけることはないのだ。
子どもだって、叩かなくたって傷ついていくさ。
こんな時代だから。
汚い物だって見せ付ける必要もない。
教えてやるだけでいい。
いずれ見るのだから。

私は人を馬鹿にして笑いを取るお笑いに対して反吐が出る思いを抱く。
人を傷つけて人気を取る。
人を貶めて金を取る。同じことだ。

私は生きて来た中で多くの命を奪ったし殺した。
そしてこれからもそうなるだろう。
そういう命たちに対して創作する段階になっても、なお不必要に傷つけようとは思わない。

命を思って、命を抱く。
そうすることで、せめてもの贖罪をと思っている。

命を抱く。
それはおもしろおかしく命を扱うこととは分けなければならない。
いつでも命に対する敬意の念を忘れてはいけない。

誰を思うのか。
「国民」「視聴者」「読者」「お客様」
そういう単語を出す人間は偽善者か嘘つきだろう。
そんなものはどこにもいやしない。
誰が嘘つきにさせたのか、誰が罪をきせているのか。

不特定多数を表す言葉の中に、思いはない。
泣いているあの子、苦しんでいるおばさん、お金に困っている人、ドラマが好きな人、弱い人しかいじめない人、誰か、もっと限定された人がそこにいる。

仏を彫って、何をしたい。
もし、彫りあがったら、誰に一番に見てほしいのか、誰に一番届けたいのか、その人の笑顔や、その人の先を考えているのか。
向き合うというのは、届けたあとの誰かの気持ちを思うことだ。

危うく見失いそうになった。
このように危うくなることが何度もある。

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02/19

Tue

2008

どうして人は価値観だけで傷つけあわなければならない。
どうして人は優先順位を刃物のようにして、それで傷つけあわなければならない。

私はそんなことはもうたくさんなのに。
己の価値観を大事にしなければ、自分は壊れてしまうということを主張するまでに、なんと勇気のいることか。
それと同時に、己の価値観を潜めるばかりに傷つくものと、己の価値観を主張するばかりに他人を傷つけるものとの、ふたつの存在に気がついた。

なぜ、人は、人類は、このような繰り返しをしなくてはならないのか。

なぜ、人は、人類は、己の価値観に縛られなければ生活できないと考えるのか。

人間一代の一生は、叡智に満ちているわけではない。
人間一代でしか学んだ基準でしか物事を図っていないから、歴史的な教訓を忘れて過ちを繰り返すのだ。

私はそれが悲しい。
己の価値観に対抗するものに対して、断固たる態度を取らなければならないのが悲しい。

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02/19

Tue

2008

歴史に耐えうるもの

自分は100年200年耐えうるものはどういうものかということを常日頃考えている。
そして、それが真の芸術だと思っている。
自分のプロの定義とは「その職に対して震えるほどの恐れを知るもの」がプロたる定義だと考えている。
だからこそ、そこに謙遜の気持ちが生まれる。
職に対する本当の恐怖を知らぬものはプロではない。

私は、今小説を書こうとしている。
「小説を書く」という行為は、「現存している過去を誰もが見えないもので切り取る行為」ではないと思っている。
真の文学作品とは常に「未来を作るもの」であると考えている。
そして、芸術とは常に「未来を作るもの」であると考えている。

現代人は「人気」や「金」に左右される。
だが、そこに芸術的価値間や、歴史に耐えうるものを作ろうという崇高な観念はなく、すべてその場しのぎである。

私はここに真っ向から反旗をひるがえすことに決めた。
文章を書くことによって、人を見つめることによって、自分ができることとは何か、商業主義に翻弄されている企業ができぬこととは何かを、考え、そして何ができるかを考え抜いてきた。

作家になるとは「貧乏になれ」と心から決めよという人間がいるが、私は真に正しいものに金が流れぬならば、死んでもいいと思っている。

司馬遼太郎が言っていた言葉をおぼろげに覚えている。
それは、「革命」の定義だ。
第一に「理念を論じてそれに死す者」そして第二に「それを継承して行動し、挫折するもの」、そして第三にそれを教訓として「継ぐもの」・・・ああ、酔っ払っているからちょっと違うかもしれないけれど(たぶん、かなり違う)、私は第一段階の人間になってもよいと考えている。
私の理念と理想を継承するものが、それを成しえようと懸命に命を使う。
私は犠牲になる立場なのだと考えている。

私は、「己が生きるために命を使っている」のではない。
私は、「己がいかに人類に警鐘を鳴らしていくか」に重きを置いている。

私の生きる道、私の生きていかなければいけない道。

私は、日本人が見失った道を、少しでも照らしたい。
そして、人類が見失った道を、少しでも照らしたい。

それが、私の生きる運命。
そしてそれが、私の芸術を作る理由。
「歴史に耐えうるもの」

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02/18

Mon

2008

異性に対する執着をなくし、去るものは追わないことにした。
そのかわり、自分のすることにも口出しはされたくない。

私の考え方は、恋人同士だろうが、結婚していようが、他の人を好きになることがある。
それはいろいろな条件が重なるとはいえ、ひとつだけ言えることは、「その人間が相手を繋ぎとめておくだけの魅力を備えていなかった」ということになる。
だから私の場合も、ふられるとしたら、たかがその理由でしかないことを己に常に言いつけてある。

男と女の間にルールはない。
互いにその心を知り合い、そして歩み寄り、掛け算や足し算のような作用を及ぼさなければ、せめてプラスマイナスゼロの関係でなければ、ただ搾取しあい、傷つけあうだけの関係になる。

そんな関係が意味をもたらすというのだろうか。

せめて、そこに救いを与えるとしたら、それは子どもの存在だ。
子どもが、将来親に対して大いなる恩恵を与えることがある。

昔から親に感謝せよと言う。
感謝もできないような人間は人でなしや鬼畜とも言っていいのかもしれない。

今の時代は、親が子どもを殺す。
子どもが親を殺す。

私はその原因は、心よりもものを重視しているせいだと考えている。

形だけを見て、心を殺す。
殺伐とした時代に、豊かで伸びやかな人間は育たない。
理屈を超えた苦痛が、そこにはある。

親子でさえ、そうなのだから、男女関係で心を無視すれば、もはや破滅しかない。
その宿命に常にさらされている。
法や道徳さえも、ここに再生を与えることはできない。
あたたかな思いのみが破滅を救う。

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02/16

Sat

2008

ふっと漠然と死にそうになる。
心が死にそうになる。
何度も心の中で轟々と否定語が渦巻き、何度も自分を責める。
親に言われたことを何度も何度も思い出す。
刷り込まれたように思い出して、「ああ、そうか。もうダメだ」そう思う。
「ダメならもう生きていることない」

そういう時、必死に思い出そうとする。
少しでも自分のことを必要としてくれている人のことを。

去年、じいちゃんが死んだとき、父親は自分の父親のことをほとんど語ろうとしなかった。
葬式のとき、ほとんど話題に出さなかった。
自分も、こうなるだろうなと、強く感じた。

親子といえど、伝え方を間違えれば、自分の父のことを好んで語ろうとしない子どもができる。
正直に言わせていただければ、それはとても不幸だと思う。

自分が父親からやられたことをまねすることはない。
でも、確実に刷り込まれていて、はっと気がついてショックを受ける。
自分もまた、ひどくなってきている、と。

そして十年近くもかけて、ネガティブなものにどっと引きずり込まれながらも、前向きに生きようとした。
これからもそうありたいと思う。
でも、時折妙な感情が沸き起こる。
「なんで、自分、生きているのだろう。価値がないなら、消えてなくなればいいんだ」
虚無といつも背中合わせで生きている。

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プロフィール

HN:
あさかぜ(光野朝風)
年齢:
46
性別:
男性
誕生日:
1979/06/25
自己紹介:
ひかりのあさかぜ(光野朝風)と読みます。
めんどくさがりやの自称作家。落ち着きなく感情的でガラスのハートを持っておるところでございます。大変遺憾でございます。

ブログは感情のメモ帳としても使っております。よく加筆修正します。

気が付いたら他人からとても褒められる娘ができまして、人生が大きく変わりました。
この小さな可能性と向き合うため頑張って生きております。

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