秋田県のなまはげ行事で温泉街の女風呂に20代のなまはげが入り込み、女性の体を触ったらしい。
色々と教員が生徒と関係を持ったり、援助交際なり、未成年とのセックスなり、何かとニュースにセクハラは取り上げられる。
そのほか、いきなり包丁で知らない人を切りつけた、まったく面識のない人から強盗殺人、恋愛トラブルでの逆恨み、モラル崩壊と言われてだいぶ時間が過ぎたのではないかと思う。
そもそも、モラルを守ろう、モラルを守らないのは犯罪、社会の秩序が・・・という理屈はあるのだけれど、それらは公共の視点である。それに対して個人が公共意識の著しい欠如があるとき、公共の視点からの苦言や警告はなんら意味を成さなくなる。
つまり、簡単に言うと、他人なんてどうでもいい、自分の(表現は正確には間違っているが)苦しい思いや、抑圧されている感覚だけなくなればいい、自分が楽しければいい、と考えている人たちにとって、他人を含めたコミュニティーという団体で生きていかなければならないという意見は、ただの邪魔くさい説教にしか聞こえないのだろう。
じゃあ公共性というものがまったく感覚としてない人たちのことを考えるならば、問題点がいくつかあがる。
まず、
・なぜ、公共性への意識が芽生えないのか。
・なぜ、まったく知らない人(または知り合い)のことを思いやる必要性がないと考えるのか。
・満たされている欲求と、満たされていない欲求は何か。
その根底にある問題としては、シンプルに「どうしてモラル崩壊が起こるの?」ということだ。
我々は警告や非難や罰則を加える前に、嫌だろうがその人間と向き合う必要性がある。
本当にどうしようもない人もいる。
だけれど、例えば若い人がそうしてしまうのは、我々の価値観がどこか間違っているからではないのか、という気がしてならない。
弱者切捨てのこの時代の中で、社会的にあらゆる利益に貢献するのが価値のある人間で、その他は存在しなくてもよいという無意識の感情は、いずれ人の感情を危うい方向へと向けさせる。
他人事には、よく「人権」とか「人道的に」とか言う言葉を平気で使えるが、自ら理不尽にも他人の人生を背負わなくてはならなくなったとき、どこかに妙な意識が芽生えるのが人間なのではないのか。
ちょっと疑問なのだけれど、我々は本当に「コミュニティー」で生きているのだろうか。
特に都会なんて、「コミュニティー」と思っているだけで、ただ個々人バラバラに生きているだけではないのか。
それがライフスタイル?社会の常識?資本主義?少なくともコミュニティーではないと思う。
広辞苑にはコミュニティーの意味はこうある。
「一定の地域に居住し、共属感情を持つ人々の集団」
Yahooで検索すると大辞泉にはこうある。
「居住地域を同じくし、利害をともにする共同社会。町村・都市・地方など、生産・自治・風俗・習慣などで深い結びつきをもつ共同体。地域社会。」
つまり、集団としての利害意識がまったく欠如しているからモラルもないわけだ。
集団としての利害意識とは、どこで生まれるものなのでしょう。
少なくとも他人のことを大切だと思えなければ、他人に対する思いやりも愛情もないわけだ。
となると、逆にその人はきちんと愛情を受けて育ったのか、という疑問も発生する。
愛情って、「全面的な保護」じゃないからね。
我々が再生しなければならないのは、きちんとしたコミュニティー作りと、資本や貨幣を意識しない、利益を超えた関係性を作り上げることにあると思う。
なんだか何度も書いているような気がするけれど、全体的にそれをやらなければならないという意識もないのだと思う。
下は食べるので精一杯。
上は下々の無責任なことには関与しない。
結局みんなバラバラです。
たぶん、これからもっとひどくなるような気がする。
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